第1章 年〜年

東邦ホールディングス:世田谷の東邦薬品の設立と店頭公開

1948年〜世田谷区北沢の自宅で資本金30万円から興した医薬品卸と、一軒ずつ開いた得意先

松谷義範氏は1948年9月、東京都世田谷区で資本金30万円の東邦薬品を設立した。社屋には世田谷区北沢の自宅を充て、創立時の従業員は7人。それまでの松谷義範氏は、哲学と神学の研究書を著し、学生塾の収入で生計を立てた。医薬品卸を選んだのは、疎開中の留守宅を預かり戦後も同居した2人がいずれも医薬品卸に携わった経歴を持っていたためである。東京帝国大学で哲学を修めた37歳の松谷義範氏も、教え子だったほかの創立メンバーも、商売の経験を持たなかった。創業を決めた事情を、松谷義範氏は『国破れて山河はあれど、哲学の勉強どころではなかった』と振り返った。敗戦で研究を続ける余地が失われ、身近な経験者の知見に生計の手段を求めたのだろう。

  • 東邦ホールディングス 有価証券報告書 第78期【沿革】
    • [1]1948年9月、東京都世田谷区で東邦薬品株式会社を資本金30万円で設立し、病院等への医薬品卸売を開始
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
    • [2]世田谷区北沢の松谷義範の自宅を社屋に、資本金30万円・従業員7人で創業。医薬品卸を選んだのは疎開中の留守宅を預かり同居した2人が医薬品卸経験者だったため。動機は「食うため」
    • [3]世田谷区北沢の松谷義範の自宅を社屋に、資本金30万円・従業員7人で創業。医薬品卸を選んだのは疎開中の留守宅を預かり同居した2人が医薬品卸経験者だったため。動機は「食うため」
    • [4]世田谷区北沢の松谷義範の自宅を社屋に、資本金30万円・従業員7人で創業。医薬品卸を選んだのは疎開中の留守宅を預かり同居した2人が医薬品卸経験者だったため。動機は「食うため」
    • [6]世田谷区北沢の松谷義範の自宅を社屋に、資本金30万円・従業員7人で創業。医薬品卸を選んだのは疎開中の留守宅を預かり同居した2人が医薬品卸経験者だったため。動機は「食うため」
  • 政経人 29(2) 1982年「超分権的販売・管理システムの東邦薬品」
    • [5]1948年設立時の松谷義範は37歳で東大哲学科出身。仲間は家庭教師をした教え子で、2人ほどの医薬品販売経験者が商売を選ぶきっかけ

創業時の東邦薬品は仕入れ先も顧客も持たず、同業約1000社の最後発だった。松谷義範氏の後年の表現では、創業時の位置は業界1500社中の最下位にあたる。社員は開業医から中小病院、大病院までを毎日一軒ずつ訪ね、受注と配達と集金を自ら繰り返した。この積み重ねで取扱高が増え、1955年から1964年にかけて大阪と都内近郊に支店を数カ所設けた。松谷義範氏自身も創業から10年間、毎日平均4時間を伝票の差益の点検に費やした。仕入れ代金の支払いを決して遅らせず、資金繰りに追われる経営を避ける方針も創業時から貫いた。得意先を一軒ずつ増やした経験が、開拓こそ卸の成長の源泉だという後年の原則の土台になったとみられる。

  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
    • [7]仕入れ先も顧客もないゼロから、同業1000社の最後発として出発。仕入れの支払いは絶対に遅らせず資金繰りで苦労する経営はしないと決意。松谷は創業以来10年間、毎日平均4時間を伝票の差益点検に費やした
    • [11]仕入れ先も顧客もないゼロから、同業1000社の最後発として出発。仕入れの支払いは絶対に遅らせず資金繰りで苦労する経営はしないと決意。松谷は創業以来10年間、毎日平均4時間を伝票の差益点検に費やした
    • [12]仕入れ先も顧客もないゼロから、同業1000社の最後発として出発。仕入れの支払いは絶対に遅らせず資金繰りで苦労する経営はしないと決意。松谷は創業以来10年間、毎日平均4時間を伝票の差益点検に費やした
  • 日経ビジネス 1979年2月12日号
    • [8]松谷義範社長によれば創業時(1948年)は業界1500社中最下位
  • 政経人 29(2) 1982年「超分権的販売・管理システムの東邦薬品」
    • [9]開業医・中小病院・大病院を毎日訪問し注文・配達・集金を繰り返し、取扱高を増やして昭和30年代に大阪のほか都内近郊に数カ所の支店を設置
    • [10]開業医・中小病院・大病院を毎日訪問し注文・配達・集金を繰り返し、取扱高を増やして昭和30年代に大阪のほか都内近郊に数カ所の支店を設置
参考文献[1]-[12]
  • 東邦ホールディングス 有価証券報告書 第78期【沿革】
    • [1]1948年9月、東京都世田谷区で東邦薬品株式会社を資本金30万円で設立し、病院等への医薬品卸売を開始
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
    • [2]世田谷区北沢の松谷義範の自宅を社屋に、資本金30万円・従業員7人で創業。医薬品卸を選んだのは疎開中の留守宅を預かり同居した2人が医薬品卸経験者だったため。動機は「食うため」
    • [3]世田谷区北沢の松谷義範の自宅を社屋に、資本金30万円・従業員7人で創業。医薬品卸を選んだのは疎開中の留守宅を預かり同居した2人が医薬品卸経験者だったため。動機は「食うため」
    • [4]世田谷区北沢の松谷義範の自宅を社屋に、資本金30万円・従業員7人で創業。医薬品卸を選んだのは疎開中の留守宅を預かり同居した2人が医薬品卸経験者だったため。動機は「食うため」
    • [6]世田谷区北沢の松谷義範の自宅を社屋に、資本金30万円・従業員7人で創業。医薬品卸を選んだのは疎開中の留守宅を預かり同居した2人が医薬品卸経験者だったため。動機は「食うため」
    • [7]仕入れ先も顧客もないゼロから、同業1000社の最後発として出発。仕入れの支払いは絶対に遅らせず資金繰りで苦労する経営はしないと決意。松谷は創業以来10年間、毎日平均4時間を伝票の差益点検に費やした
    • [11]仕入れ先も顧客もないゼロから、同業1000社の最後発として出発。仕入れの支払いは絶対に遅らせず資金繰りで苦労する経営はしないと決意。松谷は創業以来10年間、毎日平均4時間を伝票の差益点検に費やした
    • [12]仕入れ先も顧客もないゼロから、同業1000社の最後発として出発。仕入れの支払いは絶対に遅らせず資金繰りで苦労する経営はしないと決意。松谷は創業以来10年間、毎日平均4時間を伝票の差益点検に費やした
  • 政経人 29(2) 1982年「超分権的販売・管理システムの東邦薬品」
    • [5]1948年設立時の松谷義範は37歳で東大哲学科出身。仲間は家庭教師をした教え子で、2人ほどの医薬品販売経験者が商売を選ぶきっかけ
    • [9]開業医・中小病院・大病院を毎日訪問し注文・配達・集金を繰り返し、取扱高を増やして昭和30年代に大阪のほか都内近郊に数カ所の支店を設置
    • [10]開業医・中小病院・大病院を毎日訪問し注文・配達・集金を繰り返し、取扱高を増やして昭和30年代に大阪のほか都内近郊に数カ所の支店を設置
  • 日経ビジネス 1979年2月12日号
    • [8]松谷義範社長によれば創業時(1948年)は業界1500社中最下位

1961年〜売値と得意先を任せた班長制度と、資本蓄積1000万円を超えた班長20人

東邦薬品は部課長制度を採らず、組織の基本単位は班。班長試験に合格したセールスマンが班長となり、自ら開拓した得意先を半永久的な資産として保有した。班長は売値と回収条件を自分で決め、売上と回収のノルマは課されなかった。部下の給料などの経費は班の負担で、売掛金の残高には月2%の社内金利が班の費用として掛かる仕組みである。外を回るセールスマンを本社が監視しきれない以上、大幅な権限の譲渡で本人に責任感と誇りを生む発想だった。売値の基準となる社内原価は、全班長の8割が黒字になるよう社長の松谷義範氏が調整した。得意先を開拓者の財産と定めたことで、売値の決定まで班長に任せても規律が保たれたと考えられる。

  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
    • [13]松谷は部課長制度を採らず常務会も置かない。班長は部下の給料等の経費を自班で負担し、売値を決める
  • 政経人 29(2) 1982年「超分権的販売・管理システムの東邦薬品」
    • [14]班長試験に合格し支店長申請・社長任命で班長となる。開拓した得意先は班長の資産として半永久的に帰属し、売値と回収条件を原則自由に決め、売上・回収ノルマはない
    • [15]班長試験に合格し支店長申請・社長任命で班長となる。開拓した得意先は班長の資産として半永久的に帰属し、売値と回収条件を原則自由に決め、売上・回収ノルマはない
  • 日経ビジネス 1979年2月12日号
    • [16]セールスマンを完全にはチェックできないため権限を大幅に譲渡し責任と誇りを持たせる発想。社内原価は全班長の8割が黒字となるよう社長が調整。売掛残高に月2%の社内金利を課す
    • [17]セールスマンを完全にはチェックできないため権限を大幅に譲渡し責任と誇りを持たせる発想。社内原価は全班長の8割が黒字となるよう社長が調整。売掛残高に月2%の社内金利を課す
    • [18]セールスマンを完全にはチェックできないため権限を大幅に譲渡し責任と誇りを持たせる発想。社内原価は全班長の8割が黒字となるよう社長が調整。売掛残高に月2%の社内金利を課す

1965年から1974年にかけて、国民皆保険が確立し保険診療が充実したことで、医療用医薬品の需要が広がった。医療用医薬品は医師が使用を決め、一般向けの広告もできないため、医療機関への人的な接触が販売を左右した。少量多品種で緊急の配送も多く、地域に密着した拠点が欠かせない商品である。東邦薬品はこの時期、広域を担う卸として支店と営業所を各地に設けた。1979年2月時点の拠点は38支店と8営業所、その下に置いた班は222。東邦薬品は支店をすべて登記し、各支店長に商法上の支配人として小切手の振り出しまでの権限を与えた。浅野喜起氏(日本経営システム社長)は、独立採算の班を核とする支店連邦制を成長の最大の要因に挙げた。

  • 政経人 29(2) 1982年「超分権的販売・管理システムの東邦薬品」
    • [19]昭和40年代、国民皆保険体制の確立と保険診療の充実で医療用医薬品市場が拡大。医師が決定権を持ち一般広告ができず人的接触が鍵。少量・多品種で緊急配送が多く地域密着の拠点が必要。同社は広域卸売業者として各地に支店・営業所を設置。支店は全部登記され支店長は商法上の支配人
    • [20]昭和40年代、国民皆保険体制の確立と保険診療の充実で医療用医薬品市場が拡大。医師が決定権を持ち一般広告ができず人的接触が鍵。少量・多品種で緊急配送が多く地域密着の拠点が必要。同社は広域卸売業者として各地に支店・営業所を設置。支店は全部登記され支店長は商法上の支配人
    • [21]昭和40年代、国民皆保険体制の確立と保険診療の充実で医療用医薬品市場が拡大。医師が決定権を持ち一般広告ができず人的接触が鍵。少量・多品種で緊急配送が多く地域密着の拠点が必要。同社は広域卸売業者として各地に支店・営業所を設置。支店は全部登記され支店長は商法上の支配人
    • [22]昭和40年代、国民皆保険体制の確立と保険診療の充実で医療用医薬品市場が拡大。医師が決定権を持ち一般広告ができず人的接触が鍵。少量・多品種で緊急配送が多く地域密着の拠点が必要。同社は広域卸売業者として各地に支店・営業所を設置。支店は全部登記され支店長は商法上の支配人
    • [24]昭和40年代、国民皆保険体制の確立と保険診療の充実で医療用医薬品市場が拡大。医師が決定権を持ち一般広告ができず人的接触が鍵。少量・多品種で緊急配送が多く地域密着の拠点が必要。同社は広域卸売業者として各地に支店・営業所を設置。支店は全部登記され支店長は商法上の支配人
  • 日経ビジネス 1979年2月12日号
    • [23]1979年2月時点で38支店・8営業所などに222の班
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
    • [25]浅野喜起(日本経営システム社長)は独立採算の班を中心とする支店連邦制組織の確立を最大の成功要因と評価

東邦薬品は、社員が社内で上げた成果をできるだけ長く本人の持分として残すことを原則とした。班の成果は当月を含む過去6カ月の移動平均利益で測り、その4分の1から班長の月給を差し引いた額が余剰利益である。余剰利益は資本蓄積として恒久的に累計され、半年ごとに累計額の3%が通常の賞与とは別に支払われた。1966年に資本蓄積が100万円を超えた班長は15人だった。1978年には1000万円を超える班長が20人に増え、5000万円に達した社員も出た。松谷義範氏は社員から給与体系の公開を求められると、働いた実績に応じて賃金を払うとする十原則を公表した。過去の蓄積を配分の基準に据えたことで、得意先を長く育てる動機が班長に生まれたと思われる。

  • 政経人 29(2) 1982年「超分権的販売・管理システムの東邦薬品」
    • [26]成果は本人の財産権として保持する原則。6カ月移動平均利益の4分の1から班長の当月給料を引いた残りを余剰利益とし資本蓄積に累計。1966年に資本蓄積100万円超の班長15人、1978年に1000万円超が20人、5000万円に達する社員も
    • [27]成果は本人の財産権として保持する原則。6カ月移動平均利益の4分の1から班長の当月給料を引いた残りを余剰利益とし資本蓄積に累計。1966年に資本蓄積100万円超の班長15人、1978年に1000万円超が20人、5000万円に達する社員も
    • [29]成果は本人の財産権として保持する原則。6カ月移動平均利益の4分の1から班長の当月給料を引いた残りを余剰利益とし資本蓄積に累計。1966年に資本蓄積100万円超の班長15人、1978年に1000万円超が20人、5000万円に達する社員も
    • [30]成果は本人の財産権として保持する原則。6カ月移動平均利益の4分の1から班長の当月給料を引いた残りを余剰利益とし資本蓄積に累計。1966年に資本蓄積100万円超の班長15人、1978年に1000万円超が20人、5000万円に達する社員も
  • 日経ビジネス 1979年2月12日号
    • [28]資本蓄積の累積額の3%が6カ月ごとに特別報奨金として通常の賞与のほかに支払われる
  • 仏教経済研究 24 1995年「松谷義範と東邦薬品株式会社」木村節夫
    • [31]社員からの給与体系の公開要求に対し、松谷が「給与体系の十原則」(賃金は労働の実績に対して支払う等)を公表
参考文献[13]-[31]
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
    • [13]松谷は部課長制度を採らず常務会も置かない。班長は部下の給料等の経費を自班で負担し、売値を決める
    • [25]浅野喜起(日本経営システム社長)は独立採算の班を中心とする支店連邦制組織の確立を最大の成功要因と評価
  • 政経人 29(2) 1982年「超分権的販売・管理システムの東邦薬品」
    • [14]班長試験に合格し支店長申請・社長任命で班長となる。開拓した得意先は班長の資産として半永久的に帰属し、売値と回収条件を原則自由に決め、売上・回収ノルマはない
    • [15]班長試験に合格し支店長申請・社長任命で班長となる。開拓した得意先は班長の資産として半永久的に帰属し、売値と回収条件を原則自由に決め、売上・回収ノルマはない
    • [19]昭和40年代、国民皆保険体制の確立と保険診療の充実で医療用医薬品市場が拡大。医師が決定権を持ち一般広告ができず人的接触が鍵。少量・多品種で緊急配送が多く地域密着の拠点が必要。同社は広域卸売業者として各地に支店・営業所を設置。支店は全部登記され支店長は商法上の支配人
    • [20]昭和40年代、国民皆保険体制の確立と保険診療の充実で医療用医薬品市場が拡大。医師が決定権を持ち一般広告ができず人的接触が鍵。少量・多品種で緊急配送が多く地域密着の拠点が必要。同社は広域卸売業者として各地に支店・営業所を設置。支店は全部登記され支店長は商法上の支配人
    • [21]昭和40年代、国民皆保険体制の確立と保険診療の充実で医療用医薬品市場が拡大。医師が決定権を持ち一般広告ができず人的接触が鍵。少量・多品種で緊急配送が多く地域密着の拠点が必要。同社は広域卸売業者として各地に支店・営業所を設置。支店は全部登記され支店長は商法上の支配人
    • [22]昭和40年代、国民皆保険体制の確立と保険診療の充実で医療用医薬品市場が拡大。医師が決定権を持ち一般広告ができず人的接触が鍵。少量・多品種で緊急配送が多く地域密着の拠点が必要。同社は広域卸売業者として各地に支店・営業所を設置。支店は全部登記され支店長は商法上の支配人
    • [24]昭和40年代、国民皆保険体制の確立と保険診療の充実で医療用医薬品市場が拡大。医師が決定権を持ち一般広告ができず人的接触が鍵。少量・多品種で緊急配送が多く地域密着の拠点が必要。同社は広域卸売業者として各地に支店・営業所を設置。支店は全部登記され支店長は商法上の支配人
    • [26]成果は本人の財産権として保持する原則。6カ月移動平均利益の4分の1から班長の当月給料を引いた残りを余剰利益とし資本蓄積に累計。1966年に資本蓄積100万円超の班長15人、1978年に1000万円超が20人、5000万円に達する社員も
    • [27]成果は本人の財産権として保持する原則。6カ月移動平均利益の4分の1から班長の当月給料を引いた残りを余剰利益とし資本蓄積に累計。1966年に資本蓄積100万円超の班長15人、1978年に1000万円超が20人、5000万円に達する社員も
    • [29]成果は本人の財産権として保持する原則。6カ月移動平均利益の4分の1から班長の当月給料を引いた残りを余剰利益とし資本蓄積に累計。1966年に資本蓄積100万円超の班長15人、1978年に1000万円超が20人、5000万円に達する社員も
    • [30]成果は本人の財産権として保持する原則。6カ月移動平均利益の4分の1から班長の当月給料を引いた残りを余剰利益とし資本蓄積に累計。1966年に資本蓄積100万円超の班長15人、1978年に1000万円超が20人、5000万円に達する社員も
  • 日経ビジネス 1979年2月12日号
    • [16]セールスマンを完全にはチェックできないため権限を大幅に譲渡し責任と誇りを持たせる発想。社内原価は全班長の8割が黒字となるよう社長が調整。売掛残高に月2%の社内金利を課す
    • [17]セールスマンを完全にはチェックできないため権限を大幅に譲渡し責任と誇りを持たせる発想。社内原価は全班長の8割が黒字となるよう社長が調整。売掛残高に月2%の社内金利を課す
    • [18]セールスマンを完全にはチェックできないため権限を大幅に譲渡し責任と誇りを持たせる発想。社内原価は全班長の8割が黒字となるよう社長が調整。売掛残高に月2%の社内金利を課す
    • [23]1979年2月時点で38支店・8営業所などに222の班
    • [28]資本蓄積の累積額の3%が6カ月ごとに特別報奨金として通常の賞与のほかに支払われる
  • 仏教経済研究 24 1995年「松谷義範と東邦薬品株式会社」木村節夫
    • [31]社員からの給与体系の公開要求に対し、松谷が「給与体系の十原則」(賃金は労働の実績に対して支払う等)を公表

1980年〜社員持株制度の先に得た店頭登録と、関東の大手卸4社への仲間入り

東邦薬品が東京の店頭市場に株式を登録し、公開したのは1980年11月である。松谷義範氏は従業員持ち株制度を導入した際、社員への経済的な還元を優先して自身の持ち株を1割まで減らした。東邦薬品は店頭登録を果たした一方で、市場第二部への上場は実現しなかった。持ち株制度は、部課長制度を置かず後継者を役員会の討議で選ぶ定めと並ぶ、民主的な経営の試みの一つにあたる。資本の小さい会社で社長の持ち株が1割では買収への備えが乏しく、この持株構成が上場の障害になった。松谷義範氏はこの帰結を『少し理想に走りすぎた』と認めた。社員の間に株主が広がり、持ち株を売買できる場を用意する必要が店頭公開の背景にあったと推察される。

  • 東邦ホールディングス 有価証券報告書 第78期【沿革】
    • [32]1980年11月、東京店頭登録銘柄として株式を公開
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
    • [33]部課長制度を採らず後継者を役員会の討議で選ぶなど民主的経営の試みの一つとして従業員持ち株制度を導入。導入時に松谷は持ち株を1割に減らし、店頭登録は果たしたが二部上場は果たせなかった。乗っ取りへの備えを欠くことが致命的障害となり、松谷は「少し理想に走りすぎた」と述懐
    • [34]部課長制度を採らず後継者を役員会の討議で選ぶなど民主的経営の試みの一つとして従業員持ち株制度を導入。導入時に松谷は持ち株を1割に減らし、店頭登録は果たしたが二部上場は果たせなかった。乗っ取りへの備えを欠くことが致命的障害となり、松谷は「少し理想に走りすぎた」と述懐
    • [35]部課長制度を採らず後継者を役員会の討議で選ぶなど民主的経営の試みの一つとして従業員持ち株制度を導入。導入時に松谷は持ち株を1割に減らし、店頭登録は果たしたが二部上場は果たせなかった。乗っ取りへの備えを欠くことが致命的障害となり、松谷は「少し理想に走りすぎた」と述懐
    • [36]部課長制度を採らず後継者を役員会の討議で選ぶなど民主的経営の試みの一つとして従業員持ち株制度を導入。導入時に松谷は持ち株を1割に減らし、店頭登録は果たしたが二部上場は果たせなかった。乗っ取りへの備えを欠くことが致命的障害となり、松谷は「少し理想に走りすぎた」と述懐
    • [37]部課長制度を採らず後継者を役員会の討議で選ぶなど民主的経営の試みの一つとして従業員持ち株制度を導入。導入時に松谷は持ち株を1割に減らし、店頭登録は果たしたが二部上場は果たせなかった。乗っ取りへの備えを欠くことが致命的障害となり、松谷は「少し理想に走りすぎた」と述懐

1977年度の東邦薬品は売上高414億円で業界6位、純利益4億4000万円で3位につけ、利益率では首位を争った。1982年時点では売上高と利益額のいずれでも上位に入り、医薬品卸のトップグループに数えられた。東邦薬品本体だけで班の数は220余りに達し、各班が支店内の利益単位として動いた。当時の医薬品卸は、年商1200億円を超えるスズケンから地方の二次問屋まで1000社を超えていた。1983年には松谷義範氏が10億円の資本を欧州預託証券の発行で取り入れた。1984年にはポリスター社の日本総代理店となり、交渉は松谷義範氏が通訳を付けずに欧米へ出向いて進めた。店頭公開で株式市場との接点を得たことが、海外での資本の取り入れに道を付けたとうかがえる。

  • 日経ビジネス 1979年2月12日号
    • [38]1977年度(昭和52年度)の売上高414億円で業界6位、純利益4億4000万円で3位、利益率は1、2位を争う
  • 政経人 29(2) 1982年「超分権的販売・管理システムの東邦薬品」
    • [39]1982年時点で売上高・利益額とも上位でトップグループ。東邦薬品本体で220余りの班が支店内のプロフィットセンター。医薬品卸は年商1200億円超のスズケンから地方二次問屋まで1000社超
    • [40]1982年時点で売上高・利益額とも上位でトップグループ。東邦薬品本体で220余りの班が支店内のプロフィットセンター。医薬品卸は年商1200億円超のスズケンから地方二次問屋まで1000社超
    • [41]1982年時点で売上高・利益額とも上位でトップグループ。東邦薬品本体で220余りの班が支店内のプロフィットセンター。医薬品卸は年商1200億円超のスズケンから地方二次問屋まで1000社超
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
    • [42]1983年にEDR(欧州預託証券)を発行し10億円の資本導入に成功、1984年にポリスター社の日本総代理店となる。通訳を付けず松谷が欧米へ出向いた
    • [43]1983年にEDR(欧州預託証券)を発行し10億円の資本導入に成功、1984年にポリスター社の日本総代理店となる。通訳を付けず松谷が欧米へ出向いた

東邦薬品は1988年9月に創立40周年を迎えた。1988年3月期の売上高は1232億円、経常利益は32億円だった。1988年11月時点の従業員は1798人で、支店45、営業所51、物流センター1を持ち、資本金は20億円を超えた。1979年2月時点の38支店と比べると、7支店の増加にあたる。1977年度の売上高は414億円であり、10年余りで売上高はおよそ3倍になった。1982年の時点で、医薬品業界の高い成長は1977年半ばで終わったとされ、飽和期の市場に向けた新たな戦略が課題に挙がった。支店ごとに決算を組む分権の仕組みは、拠点が100近くに増えると集計と管理の負担を本社に積み上げたと解される。

  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
    • [44]1988年9月に創立40周年。1988年3月期売上高1232億円・経常利益32億円。1988年11月時点で従業員1798人、支店45、営業所51、物流センター1、資本金20億円超
    • [45]1988年9月に創立40周年。1988年3月期売上高1232億円・経常利益32億円。1988年11月時点で従業員1798人、支店45、営業所51、物流センター1、資本金20億円超
    • [46]1988年9月に創立40周年。1988年3月期売上高1232億円・経常利益32億円。1988年11月時点で従業員1798人、支店45、営業所51、物流センター1、資本金20億円超
  • 日経ビジネス 1979年2月12日号
    • [47]1977年度(昭和52年度)の売上高414億円。1979年2月時点で38支店・8営業所
    • [48]1977年度(昭和52年度)の売上高414億円。1979年2月時点で38支店・8営業所
  • 政経人 29(2) 1982年「超分権的販売・管理システムの東邦薬品」
    • [49]医薬品業界の高度成長は昭和52年半ばで終わり、飽和期の市場で新たな企業戦略の展開を迫られるとの見通し。支店ごとに決算・貸借対照表・損益計算書を作成
参考文献[32]-[49]
  • 東邦ホールディングス 有価証券報告書 第78期【沿革】
    • [32]1980年11月、東京店頭登録銘柄として株式を公開
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
    • [33]部課長制度を採らず後継者を役員会の討議で選ぶなど民主的経営の試みの一つとして従業員持ち株制度を導入。導入時に松谷は持ち株を1割に減らし、店頭登録は果たしたが二部上場は果たせなかった。乗っ取りへの備えを欠くことが致命的障害となり、松谷は「少し理想に走りすぎた」と述懐
    • [34]部課長制度を採らず後継者を役員会の討議で選ぶなど民主的経営の試みの一つとして従業員持ち株制度を導入。導入時に松谷は持ち株を1割に減らし、店頭登録は果たしたが二部上場は果たせなかった。乗っ取りへの備えを欠くことが致命的障害となり、松谷は「少し理想に走りすぎた」と述懐
    • [35]部課長制度を採らず後継者を役員会の討議で選ぶなど民主的経営の試みの一つとして従業員持ち株制度を導入。導入時に松谷は持ち株を1割に減らし、店頭登録は果たしたが二部上場は果たせなかった。乗っ取りへの備えを欠くことが致命的障害となり、松谷は「少し理想に走りすぎた」と述懐
    • [36]部課長制度を採らず後継者を役員会の討議で選ぶなど民主的経営の試みの一つとして従業員持ち株制度を導入。導入時に松谷は持ち株を1割に減らし、店頭登録は果たしたが二部上場は果たせなかった。乗っ取りへの備えを欠くことが致命的障害となり、松谷は「少し理想に走りすぎた」と述懐
    • [37]部課長制度を採らず後継者を役員会の討議で選ぶなど民主的経営の試みの一つとして従業員持ち株制度を導入。導入時に松谷は持ち株を1割に減らし、店頭登録は果たしたが二部上場は果たせなかった。乗っ取りへの備えを欠くことが致命的障害となり、松谷は「少し理想に走りすぎた」と述懐
    • [42]1983年にEDR(欧州預託証券)を発行し10億円の資本導入に成功、1984年にポリスター社の日本総代理店となる。通訳を付けず松谷が欧米へ出向いた
    • [43]1983年にEDR(欧州預託証券)を発行し10億円の資本導入に成功、1984年にポリスター社の日本総代理店となる。通訳を付けず松谷が欧米へ出向いた
    • [44]1988年9月に創立40周年。1988年3月期売上高1232億円・経常利益32億円。1988年11月時点で従業員1798人、支店45、営業所51、物流センター1、資本金20億円超
    • [45]1988年9月に創立40周年。1988年3月期売上高1232億円・経常利益32億円。1988年11月時点で従業員1798人、支店45、営業所51、物流センター1、資本金20億円超
    • [46]1988年9月に創立40周年。1988年3月期売上高1232億円・経常利益32億円。1988年11月時点で従業員1798人、支店45、営業所51、物流センター1、資本金20億円超
  • 日経ビジネス 1979年2月12日号
    • [38]1977年度(昭和52年度)の売上高414億円で業界6位、純利益4億4000万円で3位、利益率は1、2位を争う
    • [47]1977年度(昭和52年度)の売上高414億円。1979年2月時点で38支店・8営業所
    • [48]1977年度(昭和52年度)の売上高414億円。1979年2月時点で38支店・8営業所
  • 政経人 29(2) 1982年「超分権的販売・管理システムの東邦薬品」
    • [39]1982年時点で売上高・利益額とも上位でトップグループ。東邦薬品本体で220余りの班が支店内のプロフィットセンター。医薬品卸は年商1200億円超のスズケンから地方二次問屋まで1000社超
    • [40]1982年時点で売上高・利益額とも上位でトップグループ。東邦薬品本体で220余りの班が支店内のプロフィットセンター。医薬品卸は年商1200億円超のスズケンから地方二次問屋まで1000社超
    • [41]1982年時点で売上高・利益額とも上位でトップグループ。東邦薬品本体で220余りの班が支店内のプロフィットセンター。医薬品卸は年商1200億円超のスズケンから地方二次問屋まで1000社超
    • [49]医薬品業界の高度成長は昭和52年半ばで終わり、飽和期の市場で新たな企業戦略の展開を迫られるとの見通し。支店ごとに決算・貸借対照表・損益計算書を作成

出典・参考

5件
出典・参考
  • 東邦ホールディングス 有価証券報告書 第78期【沿革】
  • 日経ビジネス 1979年2月12日号
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号
  • 政経人 29(2) 1982年「超分権的販売・管理システムの東邦薬品」
  • 仏教経済研究 24 1995年「松谷義範と東邦薬品株式会社」木村節夫

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