第2章 年〜年

大日本印刷:中央研究所柏研究施設と技術主導への転換

北島義俊による造注の掲示と研究開発への資源移転

1976年〜拡印刷の到達点と受注産業という体質への手当て

1876年の創業から100年を数えた時点で、大日本印刷の事業は印刷の素材を紙に限定しない広がりを持っていた。1979年の売上構成は書籍・定期刊行物が20%、商業印刷物が約40%、紙器・特殊印刷物が約40%で、創業以来の出版印刷は全体の5分の1まで比重を下げていた。住宅や家具の表面材となる木目調の建材、冷蔵庫の扉に用いる金属印刷、超高層ビルの間仕切りに採用された鉄板への直接印刷が加わり、当時はまだ製品として出ていなかった曲面印刷も技術としてはほぼ確立していた。印刷業はもともと出版社の底辺にある仕事で、社長の北島織衛氏にとって、この広がりの動機は出版依存の危うさにあった『出版だけに頼っている印刷業というものが、運命を他人に預けちゃったようなもので、だから"何か自分自身で生きていく方法を考えなくちゃいかぬな"と』。

  • 野田経済 1980年4月16日号
    • [1]1876年の創立から100年を経た時点で、印刷素材を紙に限定しない総合印刷会社となっていた
    • [3]木目調の建材表面材、冷蔵庫扉の金属印刷、超高層ビル間仕切りの鉄板直接印刷を手がけ、曲面印刷の技術もほぼ確立していた
  • 野田経済 1979年1月24日号
    • [2]1979年の売上構成は書籍・定期刊行物20%、商業印刷物約40%、特殊印刷約40%
    • [4]北島織衛は印刷業を出版社の底辺にあった仕事と述べ、出版依存からの脱却を多角化の動機とした

受注産業という業態そのものが、この会社の弱点だった。取締役の高橋平氏は、得意先が経費節減で広告宣伝費を削れば印刷物の注文が消えて機械が遊び、出版社が本の発売を中止しても設備を用意した印刷会社は文句を言えないと、印刷業の体質を説明した。大日本印刷はこれに企画部門を置いて応じ、得意先へ情報を売り込むと同時に相手の問題点を分析し、そこへ企画をぶつける営業へ組み替えた。注文を待たずに注文をつくるという意味で、この姿勢は造注と呼ばれた。実体は本社の隣に構えたクリエーティブデザインセンターで、東洋一と称した写真スタジオは年間を通じて足りないほど稼働し、1978年夏には大阪にも関西最大のスタジオを設けた。

  • 野田経済 1980年4月16日号
    • [5]受注産業である印刷業は、得意先の都合で注文が消え設備が遊ぶ体質を持つ
    • [6]高橋平は、広告宣伝費の削減や本の発売中止で印刷物がなくなり機械が遊ぶと印刷業の弱さを説明した
    • [7]受注産業からの脱皮のため企画部門を設け、得意先へ情報を売り込み問題点を分析して企画を提案した
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [8]自ら企画を売り込む姿勢を造注と名づけた
  • 野田経済 1979年1月24日号
    • [9]本社隣のクリエーティブデザインセンターは東洋一の写真スタジオを持ち通年でフル稼働、1978年夏に大阪へ関西最大のスタジオを設けた

拡印刷と造注を支えたのは、借入に頼らない財務だった。1979年5月期の売上高は3,739億円、経常利益は308億7,100万円、純利益は152億1,700万円で、自己資本比率は52.5%、会社は実質無借金の状態にあった。借入の返済を申し出ると銀行に断られるほどで、金利を稼ぐより先に返すという織衛氏の方針は崩れなかった。設備投資も年160億円程度にとどめ、この2、3年は合理化と省力化が中心だと副社長の北島義俊氏は説明している。例外は埼玉県の鶴瀬工場に建てた大グラビア工場で、日本では刷れなかった幅の広い紙に対応するイタリア製の機械を入れ、関連する設備投資は70億円に達した。

  • 野田経済 1980年4月16日号
    • [10]1979年5月期時点で実質無借金の財務だった
    • [14]埼玉県鶴瀬工場に大グラビア工場を建設、イタリア製の広幅機を導入し関連投資は70億円
  • 会社年鑑
    • [11]1979年5月期 売上高3,739億円・経常利益308億7,100万円・純利益152億1,700万円・自己資本比率52.5%
  • 野田経済 1979年1月24日号
    • [12]北島織衛は借入返済を優先し、金利稼ぎより返済という方針を取った
    • [13]1979年前後の設備投資は年160億円程度で、合理化・省力化が中心だった
参考文献[1]-[14]
  • 野田経済 1980年4月16日号
    • [1]1876年の創立から100年を経た時点で、印刷素材を紙に限定しない総合印刷会社となっていた
    • [3]木目調の建材表面材、冷蔵庫扉の金属印刷、超高層ビル間仕切りの鉄板直接印刷を手がけ、曲面印刷の技術もほぼ確立していた
    • [5]受注産業である印刷業は、得意先の都合で注文が消え設備が遊ぶ体質を持つ
    • [6]高橋平は、広告宣伝費の削減や本の発売中止で印刷物がなくなり機械が遊ぶと印刷業の弱さを説明した
    • [7]受注産業からの脱皮のため企画部門を設け、得意先へ情報を売り込み問題点を分析して企画を提案した
    • [10]1979年5月期時点で実質無借金の財務だった
    • [14]埼玉県鶴瀬工場に大グラビア工場を建設、イタリア製の広幅機を導入し関連投資は70億円
  • 野田経済 1979年1月24日号
    • [2]1979年の売上構成は書籍・定期刊行物20%、商業印刷物約40%、特殊印刷約40%
    • [4]北島織衛は印刷業を出版社の底辺にあった仕事と述べ、出版依存からの脱却を多角化の動機とした
    • [9]本社隣のクリエーティブデザインセンターは東洋一の写真スタジオを持ち通年でフル稼働、1978年夏に大阪へ関西最大のスタジオを設けた
    • [12]北島織衛は借入返済を優先し、金利稼ぎより返済という方針を取った
    • [13]1979年前後の設備投資は年160億円程度で、合理化・省力化が中心だった
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [8]自ら企画を売り込む姿勢を造注と名づけた
  • 会社年鑑
    • [11]1979年5月期 売上高3,739億円・経常利益308億7,100万円・純利益152億1,700万円・自己資本比率52.5%

1979年〜北島織衛の死去と技術主導への組み替え

北島義俊氏は1958年に慶応義塾大学経済学部を出て富士銀行に入り、支店と本店経理部を経て5年後の1963年に大日本印刷へ転じた。父と同じ会社にいれば比べられるばかりで得がないとみて、いったん外で働く道を選んだ人物である。1979年12月、その義俊氏が副社長から社長に昇り、24年間社長を務めた北島織衛氏は会長に退いた。世襲ではないかという問いには、適任と判断されたから選ばれたと答えている。織衛氏が心不全により新宿区中落合の自宅で74歳で亡くなったのは、交代から4か月後の1980年4月27日だった。戦後の労働争議を収め、紙器から特殊印刷・建材・精密電子部品へと事業の幅を広げた功績から、業界は織衛氏を中興の祖と呼んだ。

  • 日経ビジネス 1980年3月24日号
    • [15]北島義俊は1958年慶応義塾大学経済学部卒業後に富士銀行へ入行し、1963年5月に大日本印刷へ入社した
    • [16]1979年12月 北島織衛が会長へ退き、副社長の北島義俊が社長に就任(織衛の社長在任は24年)
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [17]父と同じ会社では比較されると考えて富士銀行を選び、社長就任時には自分が適任だから選ばれたと述べた
  • 政経人 1980年「北島織衛大日本印刷会長逝く」
    • [18]1980年4月27日 北島織衛が心不全のため新宿区中落合の自宅で死去、74歳
    • [19]労働争議の収拾と紙器・特殊印刷・建材・精密電子部品への多角化を進め、中興の祖と呼ばれた

義俊氏が掲げた目標は、営業の大日本という通り名を技術の大日本へ塗り替えることにあった。そのために営業・技術・企画の三本柱を総合的に育てると説いた。就任時の方針として示したのは、営業中心の体質から抜け出すことである。外部からの導入に頼ってきた従来のやり方を改め、自前の技術を築く必要があるとした。印刷技術を応用する先として名指ししたのは、半導体のマスクのようなミクロ部門、建材、繊維だった。拡印刷と造注という二つの理念は引き継ぎ、父が築いた営業力の上に技術力と企画力を積んで、三位一体の体制を掲げた。先代の路線を否定せずに人と資金の配分だけを営業から技術と企画へ移した点に、この継承の慎重さが表れている。

  • 日経ビジネス 1980年3月24日号
    • [20]営業・技術・企画の三本柱を育て「技術の大日本」と呼ばれるようにしたいと述べた
    • [21]北島義俊は社長就任時に営業中心からの脱皮を掲げた
    • [22]外部技術の導入から自前の技術確立へ転じるとし、半導体マスクなどミクロ部門・建材・繊維を応用先に挙げた
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [23]父の残した営業力に技術力・企画力を加えた三位一体の体制を築き、拡印刷・造注の2大理念を掲げた

宣言は研究組織の形で実行された。1975年、それまで社内唯一の研究所だった中央研究所から生産総合研究所を分離し、1979年には事業部の下で商品開発と連携する包装・建材・ビジネスフォームの3研究所を開設して、中央研究所はより基本的なテーマへ集中した。1985年7月には中央研究所の柏研究施設が完成し、研究所はその後も増えて、1992年には本社直轄の3つと事業部が管轄する6つを合わせて9つに達した。研究開発部門の社員は1982年4月の200人から4年後に410人、7年後に600人、1992年3月末には1,100人へと10年で5.5倍に膨らんだ。研究開発費も1983年5月期の32億円から1992年3月期の160億円へ伸び、売上高に対する比率は0.56%から約1.5%になった。

  • 日経ビジネス 1992年6月29日号
    • [24]1975年に中央研究所から生産総合研究所を分離し研究体制の整備を始めた
    • [25]1979年に事業部と連携する包装・建材・ビジネスフォームの3研究所を開設、中央研究所は基本的テーマへ集中した
    • [27]研究開発部門の社員は1982年4月200人、4年後410人、7年後600人、1992年3月末1,100人
    • [28]研究開発費は1983年5月期32億円(売上高比0.56%)から1992年3月期160億円(同約1.5%)へ
  • 有価証券報告書
    • [26]1985年7月 中央研究所柏研究施設を完成
参考文献[15]-[28]
  • 日経ビジネス 1980年3月24日号
    • [15]北島義俊は1958年慶応義塾大学経済学部卒業後に富士銀行へ入行し、1963年5月に大日本印刷へ入社した
    • [16]1979年12月 北島織衛が会長へ退き、副社長の北島義俊が社長に就任(織衛の社長在任は24年)
    • [20]営業・技術・企画の三本柱を育て「技術の大日本」と呼ばれるようにしたいと述べた
    • [21]北島義俊は社長就任時に営業中心からの脱皮を掲げた
    • [22]外部技術の導入から自前の技術確立へ転じるとし、半導体マスクなどミクロ部門・建材・繊維を応用先に挙げた
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [17]父と同じ会社では比較されると考えて富士銀行を選び、社長就任時には自分が適任だから選ばれたと述べた
    • [23]父の残した営業力に技術力・企画力を加えた三位一体の体制を築き、拡印刷・造注の2大理念を掲げた
  • 政経人 1980年「北島織衛大日本印刷会長逝く」
    • [18]1980年4月27日 北島織衛が心不全のため新宿区中落合の自宅で死去、74歳
    • [19]労働争議の収拾と紙器・特殊印刷・建材・精密電子部品への多角化を進め、中興の祖と呼ばれた
  • 日経ビジネス 1992年6月29日号
    • [24]1975年に中央研究所から生産総合研究所を分離し研究体制の整備を始めた
    • [25]1979年に事業部と連携する包装・建材・ビジネスフォームの3研究所を開設、中央研究所は基本的テーマへ集中した
    • [27]研究開発部門の社員は1982年4月200人、4年後410人、7年後600人、1992年3月末1,100人
    • [28]研究開発費は1983年5月期32億円(売上高比0.56%)から1992年3月期160億円(同約1.5%)へ
  • 有価証券報告書
    • [26]1985年7月 中央研究所柏研究施設を完成

1991年〜1兆円到達と液晶特許の請求が示した自主技術の不足

1991年3月期、大日本印刷の売上高は1兆円を超えた。義俊氏が社長に就任した1979年の4,200億円から12年で2.4倍であり、1949年の東京証券取引所再開時に上場して以来の連続増収増益の記録も更新中で、東証1部でこれだけ長い記録を持つのは同社だけだった。設備投資はこの3年間、毎年600億円から800億円に達し、商業印刷・特殊印刷部門の拡大とフォトマスクに代表される精密電子事業の強化に加え、電子出版や映像ビジネスといった新規事業へも配られた。大日本印刷は広い意味での情報加工産業のリーダーを目標に置き、5年後に売上高1兆5,000億円という数字を掲げた。

  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [29]1991年3月期に売上高が1兆円を突破した
    • [30]1979年の売上高4,200億円から12年で倍増し、1949年の上場以来の連続増収増益を更新中で東証1部で最長だった
    • [31]設備投資は3年間毎年600億〜800億円、商業印刷・特殊印刷の拡大とフォトマスク等の精密電子事業強化、電子出版・映像ビジネスへ配分した
    • [32]情報加工産業のリーダーを目指し、5年後に売上高1兆5,000億円の経営目標を掲げた

1991年末、大日本印刷は日本電気など30社を超える電機・OA機器メーカーに対し、液晶ディスプレーの技術に関する特許使用料の請求へ踏み切った。受注産業である印刷会社が発注元の電機メーカーへ権利を主張する行いは、当時の取引慣行のなかでは珍しかった。背景には10年以上をかけた研究開発体制の整備があり、特許と実用新案の出願は1990年に1,900件、特許庁の指導で各社が出願を絞った1991年でも1,650件に達し、保有する特許・実用新案は2,500件にのぼった。特許を交換材料ではなく権利として保有し、研究開発費の回収にも役立てるという考えが、この請求の根拠に置かれた。さらに筑波研究学園都市には8万6,000平方メートルの用地を得て、1998年完了予定の5期工事で総合開発センターを建てる計画が進んだ。

  • 日経ビジネス 1992年6月29日号
    • [33]1991年末 日本電気など30社超の電機・OA機器メーカーへ液晶ディスプレー技術の特許使用料を請求した
    • [34]受注産業の印刷会社がユーザーの電機メーカーへ権利を主張するのは当時の取引慣行では珍しかった
    • [35]特許・実用新案の出願は1990年1,900件、1991年1,650件、保有は2,500件
    • [36]特許を権利として保有し研究開発費の回収に役立てるという方針が請求の根拠だった
    • [37]筑波研究学園都市に8万6,000平方メートルの用地を取得、5期工事で1998年完了予定の総合開発センターを計画した

拡大した体制が抱えた弱点は、研究テーマの出どころだった。受注産業だった経緯から研究開発のきっかけは顧客の要望であるものが多く、自主開発の技術がまだ少ないと専務の山司康雄氏は認めている。研究開発部門の平均年齢は約30歳と全社平均より3歳若く、入社10年目で研究室長に就任する社員もいて、専門的な相談相手が社内にいないという不満も出ていた。1992年からは要求の積み上げだった予算にふるいをかけ、テーマの取捨選択を始めた。1994年10月には大利根工場を新設して生産の受け皿を足したが、連結売上高は1993年3月期から2期続けて減り、1996年3月期の1兆2,453億円は掲げた1兆5,000億円に遠く、1999年3月期は1兆2,695億円で1992年3月期の水準を下回った。研究開発への集中投資は体制の量をつくったが、それが売上の伸びへ移るまでには長い時間がかかった。

  • 日経ビジネス 1992年6月29日号
    • [38]研究開発のテーマは顧客の要望に発するものが多く、自主開発技術の少なさが課題だった
    • [39]山司康雄専務は自主開発の技術がまだ少ないことを今後の課題として挙げた
    • [40]研究開発部門の平均年齢は約30歳で全社平均より3歳若く、マネジメントを担う中堅層が不足していた
    • [41]1992年から研究開発予算をふるいにかけ、テーマの取捨選択と投資効率の検討を始めた
  • 有価証券報告書
    • [42]1994年10月 大利根工場を新設
  • 会社年鑑
    • [43]連結売上高は1992年3月期1兆2,443億円、1993年3月期1兆1,921億円、1994年3月期1兆1,455億円、1996年3月期1兆2,453億円、1999年3月期1兆2,695億円
参考文献[29]-[43]
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
    • [29]1991年3月期に売上高が1兆円を突破した
    • [30]1979年の売上高4,200億円から12年で倍増し、1949年の上場以来の連続増収増益を更新中で東証1部で最長だった
    • [31]設備投資は3年間毎年600億〜800億円、商業印刷・特殊印刷の拡大とフォトマスク等の精密電子事業強化、電子出版・映像ビジネスへ配分した
    • [32]情報加工産業のリーダーを目指し、5年後に売上高1兆5,000億円の経営目標を掲げた
  • 日経ビジネス 1992年6月29日号
    • [33]1991年末 日本電気など30社超の電機・OA機器メーカーへ液晶ディスプレー技術の特許使用料を請求した
    • [34]受注産業の印刷会社がユーザーの電機メーカーへ権利を主張するのは当時の取引慣行では珍しかった
    • [35]特許・実用新案の出願は1990年1,900件、1991年1,650件、保有は2,500件
    • [36]特許を権利として保有し研究開発費の回収に役立てるという方針が請求の根拠だった
    • [37]筑波研究学園都市に8万6,000平方メートルの用地を取得、5期工事で1998年完了予定の総合開発センターを計画した
    • [38]研究開発のテーマは顧客の要望に発するものが多く、自主開発技術の少なさが課題だった
    • [39]山司康雄専務は自主開発の技術がまだ少ないことを今後の課題として挙げた
    • [40]研究開発部門の平均年齢は約30歳で全社平均より3歳若く、マネジメントを担う中堅層が不足していた
    • [41]1992年から研究開発予算をふるいにかけ、テーマの取捨選択と投資効率の検討を始めた
  • 有価証券報告書
    • [42]1994年10月 大利根工場を新設
  • 会社年鑑
    • [43]連結売上高は1992年3月期1兆2,443億円、1993年3月期1兆1,921億円、1994年3月期1兆1,455億円、1996年3月期1兆2,453億円、1999年3月期1兆2,695億円

筆者考察

北島義俊が父から受け継いだのは、拡印刷という言葉と、それを支える営業力だった。1979年5月期の大日本印刷は売上高3,739億円・自己資本比率52.5%の実質無借金で、設備投資を年160億円に抑えたまま増収増益が続く会社である。ただし紙以外へ広げても、印刷物の中身を決めるのは依然として得意先で、広告宣伝費が削られれば注文は消え、機械は遊ぶ。義俊が営業の大日本を技術の大日本へ言い換えたのは、注文の出どころに続いて、注文の中身を決める側へ回ろうとしたからだった。

研究員を200人から1,100人へ、研究開発費を32億円から160億円へ積んだのは、その宣言に見合う数を揃える作業である。数が形になったのが1991年末の液晶特許の請求で、発注元の電機メーカーへ印刷会社が権利を主張するという逆転が起きた。だがその翌年の時点でも、自主開発の技術はまだ少なかった。研究のきっかけは顧客の要望であり、テーマの出どころは受注時代のままだった。掲げた1兆5,000億円が1996年3月期の1兆2,453億円で止まったのは、体制の量を揃えるのに10年、それを売上へ移すのにさらに歳月が要ったからだろう。

研究開発部門の社員数 1982年4月〜1992年3月(人)

200 82.4 410 86 600 89 1,100 92.3
  • 1991年度からソフト開発の人員を含む。
  • 出所は日経ビジネス 1992年6月29日号「大日本印刷 脱・受注産業へ集中投資」。

1976年〜1999年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1976年05月期 単体 2,685 n/a n/a 233 111 4.1% n/a
1977年05月期 単体 3,096 +15.3% n/a 258 125 4.1% n/a
1978年05月期 単体 3,378 +9.1% n/a 276 132 3.9% n/a
1979年05月期 単体 3,739 +10.7% 292 308 152 4.1% n/a
1980年05月期 単体 4,239 +13.4% 355 375 182 4.3% n/a
1981年05月期 単体 4,814 +13.6% n/a 410 202 4.2% n/a
1982年05月期 単体 5,217 +8.4% n/a 437 213 4.1% n/a
1983年05月期 単体 5,693 +9.1% n/a 453 221 3.9% n/a
1984年05月期 単体 6,173 +8.4% n/a 492 229 3.7% n/a
1985年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 連結 12,443 n/a n/a n/a 437 3.5% n/a
1993年03月期 連結 11,921 ▲4.2% n/a n/a 422 3.5% n/a
1994年03月期 連結 11,455 ▲3.9% n/a n/a 408 3.6% n/a
1995年03月期 連結 11,928 +4.1% n/a n/a 492 4.1% n/a
1996年03月期 連結 12,453 +4.4% n/a n/a 529 4.2% n/a
1997年03月期 連結 13,101 +5.2% n/a n/a 561 4.3% n/a
1998年03月期 連結 13,366 +2.0% n/a n/a 565 4.2% n/a
1999年03月期 連結 12,695 ▲5.0% n/a n/a 304 2.4% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

8件
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1980年3月24日号
  • 日経ビジネス 1991年5月27日号
  • 日経ビジネス 1992年6月29日号
  • 野田経済 1979年1月24日号
  • 野田経済 1980年4月16日号
  • 政経人 1980年「北島織衛大日本印刷会長逝く」

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