日産ディーゼル工業:日本デイゼル工業の創立とユンカース型エンジンの生産
1935年〜資本金600万円で川口に興った日本デイゼル工業と、クルップから得たユンカース型の特許
日本デイゼル工業は1935年12月、初代社長の安達堅造氏のもとで資本金600万円をもって創立された。本拠は埼玉県川口市に置き、ディーゼルエンジンを作る会社として歩みを始めた。手本としたのはドイツの2サイクルエンジンの技術で、国内に設計の蓄積を持たないまま輸入技術を軸に据えた出発だった。創業の当初から、エンジンとそれを積む大型のバス・トラックを一体で手がける方針を掲げた。1967年、常務取締役の藤波道忠氏はこの創業を『本格的なディーゼルエンジン・メーカーとしてスタートいたしました』という言葉で表した。ガソリン車の量産で先行する会社と同じ土俵に立たず、燃料費を抑えられる高速ディーゼルという専門の領域を選んだとみられる。
- 会社銀行八十年史 1955年「民生デイゼル工業」
- [1]1935年12月、初代社長安達堅造のもと日本デイゼル工業が資本金600万円で創立
- 企業の歴史 明治百年 1968年「日産ディーゼル工業」
- [2]日本ディーゼル工業は1935年末に埼玉県川口市で資本金600万円で設立
- 証券アナリストジャーナル 5(2) 1967年 藤波道忠
- [3]1935年に資本金600万円で創立し、ドイツから2サイクルエンジンの技術を導入してディーゼルエンジン・メーカーとして出発(1967年 常務取締役藤波道忠の説明)
- [5]1935年に資本金600万円で創立し、ドイツから2サイクルエンジンの技術を導入してディーゼルエンジン・メーカーとして出発(1967年 常務取締役藤波道忠の説明)
- 東邦経済 24(10) 1953年「大型自動車製造に活躍する民生デイゼル工業」
- [4]創立以来ディーゼルエンジンを搭載した大型バス・トラックの生産を続けてきた
日本デイゼル工業は1936年4月、ドイツのクルップ社からユンカース型の高速ディーゼル発動機について、特許を使う権利を得た。方式は2サイクルで、量産に要る高性能の工作機械も併せて輸入し、生産に着手した。クルップ社から技術援助も受け、発動機の国産化を目指す体制の整備。製造の対象は発動機にとどまらず、そのエンジンを積む大型自動車にも及んだ。このとき導入した2サイクル方式は改良を重ねて1967年時点でも生産が続き、特許をめぐる問題も残らなかった。特許と設備を一度に取り込む方法が、設計を一から育てるよりも量産までの時間を縮めると判断したと考えられる。
- 会社銀行八十年史 1955年「民生デイゼル工業」
- [6]1936年4月、クルップ社からユンカース型高速ディーゼル発動機の特許使用権を譲り受け、同社の技術援助のもと国産化に着手
- [8]1936年4月、クルップ社からユンカース型高速ディーゼル発動機の特許使用権を譲り受け、同社の技術援助のもと国産化に着手
- 企業の歴史 明治百年 1968年「日産ディーゼル工業」
- [7]1936年4月からクルップ・ユンカース型2サイクルディーゼルエンジンの特許権を取得し、高性能工作機械を輸入して生産を開始
- 東邦経済 24(10) 1953年「大型自動車製造に活躍する民生デイゼル工業」
- [9]1936年にクルップ社から特許を受け、ディーゼルエンジンと大型自動車の製造に着手
- 証券アナリストジャーナル 5(2) 1967年 藤波道忠
- [10]導入した2サイクルエンジンは改良を重ねて1967年時点も生産しており、特許問題はない(常務取締役藤波道忠の説明)
日本デイゼル工業は1937年4月に第二日本デイゼル工業を合併し、資本金を600万円から2,000万円へ増やした。特許の取得から約1年後の増資であり、資本は3倍強に膨らんだ。同年8月には川口に工場を建設し、輸入した技術で発動機を作る拠点を得た。この川口工場は、1950年に自動車部門を引き継ぐ第二会社でも中心の工場となる。1941年前後の業界では、東京自動車工業がディーゼル自動車の生産を一元化する条件のもとで国の許可を受け、新潟鉄工所や日本デイゼル工業もディーゼル自動車を製作していた。資本を先に厚くしてから工場を建てた順序は、国策に沿うディーゼル車の量産を見込んだ投資だったことをうかがわせる。
- 会社銀行八十年史 1955年「民生デイゼル工業」
- [11]1937年4月、第二日本デイゼル工業を合併して資本金2,000万円となり、同年8月に川口工場を建設
- [13]1937年4月、第二日本デイゼル工業を合併して資本金2,000万円となり、同年8月に川口工場を建設
- [14]1937年4月、第二日本デイゼル工業を合併して資本金2,000万円となり、同年8月に川口工場を建設
- 企業の歴史 明治百年 1968年「日産ディーゼル工業」
- [12]特許取得の約1年後に第二日本ディーゼルを合併し資本金2,000万円
- 日産自動車三十年史 1965年「第2節 自動車産業の統制強化」
- [15]1941年ごろ東京自動車工業は国内のディーゼル自動車生産の一元化を条件に許可会社となり、新潟鉄工所や日本デイゼル工業でもディーゼル自動車を製作
参考文献[1]-[15]
- 会社銀行八十年史 1955年「民生デイゼル工業」
- [1]1935年12月、初代社長安達堅造のもと日本デイゼル工業が資本金600万円で創立
- [6]1936年4月、クルップ社からユンカース型高速ディーゼル発動機の特許使用権を譲り受け、同社の技術援助のもと国産化に着手
- [8]1936年4月、クルップ社からユンカース型高速ディーゼル発動機の特許使用権を譲り受け、同社の技術援助のもと国産化に着手
- [11]1937年4月、第二日本デイゼル工業を合併して資本金2,000万円となり、同年8月に川口工場を建設
- [13]1937年4月、第二日本デイゼル工業を合併して資本金2,000万円となり、同年8月に川口工場を建設
- [14]1937年4月、第二日本デイゼル工業を合併して資本金2,000万円となり、同年8月に川口工場を建設
- 企業の歴史 明治百年 1968年「日産ディーゼル工業」
- [2]日本ディーゼル工業は1935年末に埼玉県川口市で資本金600万円で設立
- [7]1936年4月からクルップ・ユンカース型2サイクルディーゼルエンジンの特許権を取得し、高性能工作機械を輸入して生産を開始
- [12]特許取得の約1年後に第二日本ディーゼルを合併し資本金2,000万円
- 証券アナリストジャーナル 5(2) 1967年 藤波道忠
- [3]1935年に資本金600万円で創立し、ドイツから2サイクルエンジンの技術を導入してディーゼルエンジン・メーカーとして出発(1967年 常務取締役藤波道忠の説明)
- [5]1935年に資本金600万円で創立し、ドイツから2サイクルエンジンの技術を導入してディーゼルエンジン・メーカーとして出発(1967年 常務取締役藤波道忠の説明)
- [10]導入した2サイクルエンジンは改良を重ねて1967年時点も生産しており、特許問題はない(常務取締役藤波道忠の説明)
- 東邦経済 24(10) 1953年「大型自動車製造に活躍する民生デイゼル工業」
- [4]創立以来ディーゼルエンジンを搭載した大型バス・トラックの生産を続けてきた
- [9]1936年にクルップ社から特許を受け、ディーゼルエンジンと大型自動車の製造に着手
- 日産自動車三十年史 1965年「第2節 自動車産業の統制強化」
- [15]1941年ごろ東京自動車工業は国内のディーゼル自動車生産の一元化を条件に許可会社となり、新潟鉄工所や日本デイゼル工業でもディーゼル自動車を製作
1940年〜鐘紡系の傘下で改めた鐘淵デイゼル工業と、資本金6000万円で拡充した舶用機関・ブルドーザー
日本デイゼル工業は1940年11月、鐘紡系の鐘淵実業の傘下に入った。発端は同年秋に理研アルマイト工業から鐘紡へ寄せられた援助の申し入れで、鐘紡はディーゼル発動機を作る日本デイゼル工業の経営を引き受けた。社長には鐘紡副社長の城戸季吉氏が就任した。鐘紡でも戦時統制のもとで羊毛工業が企業整備の対象となり、工場の閉鎖や他社への貸与・譲渡が相次いでいた。1941年8月には梅田機械と株式交換で提携し、1943年12月には鐘淵機械工業を設立して、機械工業への進出を重ねた。繊維の設備を機械の生産へ振り向けたい鐘紡と、資金の援け手を求めた発動機の会社の思惑が重なったと推察される。
- 企業の歴史 明治百年 1968年「日産ディーゼル工業」
- [16]1940年11月、鐘淵実業の傘下に入った
- 鐘紡百年史 1988年「八章 綿業を主体とする再編成」
- [17]1940年秋、理研アルマイト工業から援助の申し入れがあり、鐘紡がディーゼル発動機を製造する日本デイゼル工業を経営することになり、副社長城戸季吉を社長に就任させた
- [18]1940年秋、理研アルマイト工業から援助の申し入れがあり、鐘紡がディーゼル発動機を製造する日本デイゼル工業を経営することになり、副社長城戸季吉を社長に就任させた
- [20]戦局の進展で羊毛工業が企業整備の対象となり、1941〜1944年に羊毛工場の閉鎖・貸与・譲渡が続いた
- [21]戦局の進展で羊毛工業が企業整備の対象となり、1941〜1944年に羊毛工場の閉鎖・貸与・譲渡が続いた
- 会社銀行八十年史 1955年「民生デイゼル工業」
- [19]1940年11月、鐘紡系資本の傘下に入り社長に城戸季吉を迎えた
日本デイゼル工業は1942年12月に社名を鐘淵デイゼル工業へ改め、資本金を6,000万円とした。1943年には鐘紡から東京工場の一部と神根工場を譲り受けと貸与によって受け入れ、綿紡と羊毛の工場を機械の生産へ転換させた。新たに隅田工場と神根工場を設け、舶用機関・ブルドーザー・トラクターの製作を始めた。舶用機関では戦時標準船用のエンジンを手がけ、鐘紡系の造船計画とも結びついた。ディーゼルトラックの生産も続け、工場設備の増強に努めた。鐘紡の繊維設備を取り込んだことで、発動機の専業から舶用と建設機械を兼ねる機械会社へ姿を変えたことになる。
- 会社銀行八十年史 1955年「民生デイゼル工業」
- [22]1942年12月に鐘淵デイゼル工業と改称して資本金6,000万円、1943年に鐘紡から東京工場と神根工場の一部を譲り受けて舶用機関・ブルドーザー・トラクターの製作を開始
- [23]1942年12月に鐘淵デイゼル工業と改称して資本金6,000万円、1943年に鐘紡から東京工場と神根工場の一部を譲り受けて舶用機関・ブルドーザー・トラクターの製作を開始
- 鐘紡百年史 1988年「八章 綿業を主体とする再編成」
- [24]1943年に神根工場を鐘淵デイゼル工業へ貸与し、東京工場の一部(綿紡)と神根工場(羊毛)を転換参加させた
- [26]鐘淵デイゼルは戦時標準船用エンジンを生産し、鐘淵実業は1943年5月の海軍指令でボルネオに合板船建造工場の計画を進めた
- 東邦経済 24(10) 1953年「大型自動車製造に活躍する民生デイゼル工業」
- [25]1942年12月に鐘淵デイゼル工業と改称し、隅田工場・神根工場を設けて舶用機関・ブルドーザー・トラクターの製作を開始
- 企業の歴史 明治百年 1968年「日産ディーゼル工業」
- [27]鐘淵ディーゼル工業はディーゼルトラックのほかブルドーザーや舶用機関を生産し、工場設備の増強に努めた
鐘淵デイゼル工業は戦時の需要に合わせ、工場を東京城東と市川へ広げた。市川の工場は昭和内燃機製作を買収して得た拠点で、小型ディーゼルエンジンと部品の製作を受け持った。舶用では戦時標準船用のエンジンを生産した。同じころ鐘淵実業は、1943年5月の海軍の指令を受け、ボルネオのサマリンダに合板船を大量に建造する工場の計画を進めていた。拡張を重ねた鐘淵デイゼル工業は、1944年に軍需会社の指定を受けた。舶用機関を担った隅田工場は、戦後の1950年に自動車部門と切り離されることになる。軍需に合わせて膨らんだ工場群は、終戦で需要が消えたときに重荷へ転じる危うさも抱えていたと推測される。
- 会社銀行八十年史 1955年「民生デイゼル工業」
- [28]東京城東・市川に工場を拡張し、1944年に軍需会社に指定
- [32]東京城東・市川に工場を拡張し、1944年に軍需会社に指定
- 東邦経済 24(10) 1953年「大型自動車製造に活躍する民生デイゼル工業」
- [29]昭和内燃機製作を買収し、市川工場として小型ディーゼルエンジンと部品を製作
- 鐘紡百年史 1988年「八章 綿業を主体とする再編成」
- [30]鐘淵デイゼルは戦時標準船用エンジンを生産、鐘淵実業は1943年5月17日付の海軍指令でボルネオ・サマリンダに合板船建造工場を計画
- [31]鐘淵デイゼルは戦時標準船用エンジンを生産、鐘淵実業は1943年5月17日付の海軍指令でボルネオ・サマリンダに合板船建造工場を計画
- 日産自動車三十年史 1965年「第2節 ドッジラインと企業の合理化」
- [33]民生産業は1950年5月1日、川口工場主体の自動車部門と隅田工場主体の舶用エンジン部門を分離
参考文献[16]-[33]
- 企業の歴史 明治百年 1968年「日産ディーゼル工業」
- [16]1940年11月、鐘淵実業の傘下に入った
- [27]鐘淵ディーゼル工業はディーゼルトラックのほかブルドーザーや舶用機関を生産し、工場設備の増強に努めた
- 鐘紡百年史 1988年「八章 綿業を主体とする再編成」
- [17]1940年秋、理研アルマイト工業から援助の申し入れがあり、鐘紡がディーゼル発動機を製造する日本デイゼル工業を経営することになり、副社長城戸季吉を社長に就任させた
- [18]1940年秋、理研アルマイト工業から援助の申し入れがあり、鐘紡がディーゼル発動機を製造する日本デイゼル工業を経営することになり、副社長城戸季吉を社長に就任させた
- [20]戦局の進展で羊毛工業が企業整備の対象となり、1941〜1944年に羊毛工場の閉鎖・貸与・譲渡が続いた
- [21]戦局の進展で羊毛工業が企業整備の対象となり、1941〜1944年に羊毛工場の閉鎖・貸与・譲渡が続いた
- [24]1943年に神根工場を鐘淵デイゼル工業へ貸与し、東京工場の一部(綿紡)と神根工場(羊毛)を転換参加させた
- [26]鐘淵デイゼルは戦時標準船用エンジンを生産し、鐘淵実業は1943年5月の海軍指令でボルネオに合板船建造工場の計画を進めた
- [30]鐘淵デイゼルは戦時標準船用エンジンを生産、鐘淵実業は1943年5月17日付の海軍指令でボルネオ・サマリンダに合板船建造工場を計画
- [31]鐘淵デイゼルは戦時標準船用エンジンを生産、鐘淵実業は1943年5月17日付の海軍指令でボルネオ・サマリンダに合板船建造工場を計画
- 会社銀行八十年史 1955年「民生デイゼル工業」
- [19]1940年11月、鐘紡系資本の傘下に入り社長に城戸季吉を迎えた
- [22]1942年12月に鐘淵デイゼル工業と改称して資本金6,000万円、1943年に鐘紡から東京工場と神根工場の一部を譲り受けて舶用機関・ブルドーザー・トラクターの製作を開始
- [23]1942年12月に鐘淵デイゼル工業と改称して資本金6,000万円、1943年に鐘紡から東京工場と神根工場の一部を譲り受けて舶用機関・ブルドーザー・トラクターの製作を開始
- [28]東京城東・市川に工場を拡張し、1944年に軍需会社に指定
- [32]東京城東・市川に工場を拡張し、1944年に軍需会社に指定
- 東邦経済 24(10) 1953年「大型自動車製造に活躍する民生デイゼル工業」
- [25]1942年12月に鐘淵デイゼル工業と改称し、隅田工場・神根工場を設けて舶用機関・ブルドーザー・トラクターの製作を開始
- [29]昭和内燃機製作を買収し、市川工場として小型ディーゼルエンジンと部品を製作
- 日産自動車三十年史 1965年「第2節 ドッジラインと企業の合理化」
- [33]民生産業は1950年5月1日、川口工場主体の自動車部門と隅田工場主体の舶用エンジン部門を分離
1945年〜民需へ切り替えて名乗った民生産業と、自社で完成させたリアエンジンバス
終戦の翌月、鐘淵デイゼル工業は川口工場をはじめ各工場を民需の機械製作へ切り替え、バス・トラックに加えてブルドーザーとトラクターの生産も再開した。その間の1945年11月には制限会社令が公布された。1946年3月には社名を民生産業へ改めた。民需生産への転換を受けた改称で、以後は大型のトラックとバスが生産の中心となった。1967年の会社の説明でも、終戦後いち早く民生部門へ移ったことが社名の「民生」に結びつけられている。軍需と鐘紡系の色を薄め、民需の自動車会社として出直す意思を社名で示したと思われる。
- 会社銀行八十年史 1955年「民生デイゼル工業」
- [34]戦後、川口工場ほか各工場は民需機械製作に転換し、終戦の翌月トラック・バス・ブルドーザー・トラクター等の生産を再開
- 日産自動車三十年史 1965年「資料篇」
- [35]1945年11月24日に制限会社令公布、1946年3月に鐘淵デイゼル工業(旧日本デイゼル工業)が社名を民生産業に改称
- [36]1945年11月24日に制限会社令公布、1946年3月に鐘淵デイゼル工業(旧日本デイゼル工業)が社名を民生産業に改称
- 企業の歴史 明治百年 1968年「日産ディーゼル工業」
- [37]終戦後ただちに民需生産に転換し、1946年3月にこれにより民生産業と改め、大型トラックやバスの生産を開始
- 証券アナリストジャーナル 5(2) 1967年 藤波道忠
- [38]終戦後いち早く民生部門への転換を図り、1946年に社名も民生産業と改めた(1967年 常務取締役藤波道忠の説明)
1949年前後にディーゼルのトラックやバスを生産した会社は、いすゞ自動車・三菱重工業・民生産業・日野ヂーゼル工業・池貝自動車製造・金剛製作所に限られた。普通車シャシーに占めるディーゼル車は、1946年の14,176台中114台から1949年には19,782台中2,800台へ増えた。富士産業伊勢崎工場が1949年8月に完成させたフレームレスのリアエンジンバス「ふじ号」には、民生産業のKD2型エンジンが積まれた。KD2型はユンカース型の上下対向2サイクル機関で、戦前に導入した方式を受け継ぐ。日産自動車も同年10月からKD2型を少数購入し、ニッサンJディーゼル車として自社のトラックシャシーに載せた。エンジンを他社の車へ売れたことが、翌年の日産自動車との提携の糸口になったのだろう。
- 日産自動車三十年史 1965年「第2節 ドッジラインと企業の合理化」
- [39]1949年前後のディーゼルトラック・バスのメーカーはいすゞ・三菱重工業・民生産業・日野ヂーゼル・池貝・金剛製作所。普通車シャシー中のディーゼル車は1946年14,176台中114台、1949年19,782台中2,800台。日産は1949年10月から民生産業のKD2型を少数購入しニッサンJディーゼル車を製造
- [40]1949年前後のディーゼルトラック・バスのメーカーはいすゞ・三菱重工業・民生産業・日野ヂーゼル・池貝・金剛製作所。普通車シャシー中のディーゼル車は1946年14,176台中114台、1949年19,782台中2,800台。日産は1949年10月から民生産業のKD2型を少数購入しニッサンJディーゼル車を製造
- [43]1949年前後のディーゼルトラック・バスのメーカーはいすゞ・三菱重工業・民生産業・日野ヂーゼル・池貝・金剛製作所。普通車シャシー中のディーゼル車は1946年14,176台中114台、1949年19,782台中2,800台。日産は1949年10月から民生産業のKD2型を少数購入しニッサンJディーゼル車を製造
- 富士重工業三十年史 1984年「4章 バス事業部門」
- [41]富士産業伊勢崎工場は1949年8月に日本初のフレームレス・リアエンジンバスを完成し、民生産業のKD2型(ユンカース型上下対向2サイクル)エンジンを搭載、「ふじ号」として東京都交通局に納入
- [42]富士産業伊勢崎工場は1949年8月に日本初のフレームレス・リアエンジンバスを完成し、民生産業のKD2型(ユンカース型上下対向2サイクル)エンジンを搭載、「ふじ号」として東京都交通局に納入
民生産業は制限会社と特別経理会社の指定を受け、極度の経営難に陥った。1949年11月には企業合理化を掲げて神根と市川の工場を閉じ、機械設備を川口へ集約した。同年12月には自社のリアエンジンバスが完成。リアエンジンバスは1953年時点でも民生デイゼル工業が国内の生産を独占する製品となった。民生産業は1950年5月に企業再建整備法に基づき清算に入り、自動車部門は資本金1億円の第二会社へ移った。隅田工場の設備と事業は、鐘紡系の第二会社として再び設立された鐘淵デイゼル工業が受け継いだ。工場を川口に集めてバスの新型を持ったことが、自動車部門だけを切り出して再出発する前提を整えたと言えよう。
- 会社銀行八十年史 1955年「民生デイゼル工業」
- [44]制限会社・特別経理会社の指定で極度の経営難となり、1949年11月に神根・市川工場を閉鎖し設備を川口工場へ移設、1950年5月に清算に入り自動車部門を資本金1億円の第二会社が継承
- [45]制限会社・特別経理会社の指定で極度の経営難となり、1949年11月に神根・市川工場を閉鎖し設備を川口工場へ移設、1950年5月に清算に入り自動車部門を資本金1億円の第二会社が継承
- [49]制限会社・特別経理会社の指定で極度の経営難となり、1949年11月に神根・市川工場を閉鎖し設備を川口工場へ移設、1950年5月に清算に入り自動車部門を資本金1億円の第二会社が継承
- 東邦経済 24(10) 1953年「大型自動車製造に活躍する民生デイゼル工業」
- [46]1949年に企業合理化のため市川・神根工場を閉鎖して設備を川口工場に移設、1949年末からリアエンジンバスを作り始め、1953年時点で国内のリアエンジンバスを独占
- [48]1949年に企業合理化のため市川・神根工場を閉鎖して設備を川口工場に移設、1949年末からリアエンジンバスを作り始め、1953年時点で国内のリアエンジンバスを独占
- トヨタ自動車30年史 1967年「年表」
- [47]1949年12月、民生産業がリヤエンジンバスを完成
- 鐘紡百年史 1988年「八章 綿業を主体とする再編成」
- [50]民生産業は企業再建整備により1950年に解散し、第二会社として隅田工場の設備と業務を継承した鐘淵デイゼル工業が設立された
参考文献[34]-[50]
- 会社銀行八十年史 1955年「民生デイゼル工業」
- [34]戦後、川口工場ほか各工場は民需機械製作に転換し、終戦の翌月トラック・バス・ブルドーザー・トラクター等の生産を再開
- [44]制限会社・特別経理会社の指定で極度の経営難となり、1949年11月に神根・市川工場を閉鎖し設備を川口工場へ移設、1950年5月に清算に入り自動車部門を資本金1億円の第二会社が継承
- [45]制限会社・特別経理会社の指定で極度の経営難となり、1949年11月に神根・市川工場を閉鎖し設備を川口工場へ移設、1950年5月に清算に入り自動車部門を資本金1億円の第二会社が継承
- [49]制限会社・特別経理会社の指定で極度の経営難となり、1949年11月に神根・市川工場を閉鎖し設備を川口工場へ移設、1950年5月に清算に入り自動車部門を資本金1億円の第二会社が継承
- 日産自動車三十年史 1965年「資料篇」
- [35]1945年11月24日に制限会社令公布、1946年3月に鐘淵デイゼル工業(旧日本デイゼル工業)が社名を民生産業に改称
- [36]1945年11月24日に制限会社令公布、1946年3月に鐘淵デイゼル工業(旧日本デイゼル工業)が社名を民生産業に改称
- 企業の歴史 明治百年 1968年「日産ディーゼル工業」
- [37]終戦後ただちに民需生産に転換し、1946年3月にこれにより民生産業と改め、大型トラックやバスの生産を開始
- 証券アナリストジャーナル 5(2) 1967年 藤波道忠
- [38]終戦後いち早く民生部門への転換を図り、1946年に社名も民生産業と改めた(1967年 常務取締役藤波道忠の説明)
- 日産自動車三十年史 1965年「第2節 ドッジラインと企業の合理化」
- [39]1949年前後のディーゼルトラック・バスのメーカーはいすゞ・三菱重工業・民生産業・日野ヂーゼル・池貝・金剛製作所。普通車シャシー中のディーゼル車は1946年14,176台中114台、1949年19,782台中2,800台。日産は1949年10月から民生産業のKD2型を少数購入しニッサンJディーゼル車を製造
- [40]1949年前後のディーゼルトラック・バスのメーカーはいすゞ・三菱重工業・民生産業・日野ヂーゼル・池貝・金剛製作所。普通車シャシー中のディーゼル車は1946年14,176台中114台、1949年19,782台中2,800台。日産は1949年10月から民生産業のKD2型を少数購入しニッサンJディーゼル車を製造
- [43]1949年前後のディーゼルトラック・バスのメーカーはいすゞ・三菱重工業・民生産業・日野ヂーゼル・池貝・金剛製作所。普通車シャシー中のディーゼル車は1946年14,176台中114台、1949年19,782台中2,800台。日産は1949年10月から民生産業のKD2型を少数購入しニッサンJディーゼル車を製造
- 富士重工業三十年史 1984年「4章 バス事業部門」
- [41]富士産業伊勢崎工場は1949年8月に日本初のフレームレス・リアエンジンバスを完成し、民生産業のKD2型(ユンカース型上下対向2サイクル)エンジンを搭載、「ふじ号」として東京都交通局に納入
- [42]富士産業伊勢崎工場は1949年8月に日本初のフレームレス・リアエンジンバスを完成し、民生産業のKD2型(ユンカース型上下対向2サイクル)エンジンを搭載、「ふじ号」として東京都交通局に納入
- 東邦経済 24(10) 1953年「大型自動車製造に活躍する民生デイゼル工業」
- [46]1949年に企業合理化のため市川・神根工場を閉鎖して設備を川口工場に移設、1949年末からリアエンジンバスを作り始め、1953年時点で国内のリアエンジンバスを独占
- [48]1949年に企業合理化のため市川・神根工場を閉鎖して設備を川口工場に移設、1949年末からリアエンジンバスを作り始め、1953年時点で国内のリアエンジンバスを独占
- トヨタ自動車30年史 1967年「年表」
- [47]1949年12月、民生産業がリヤエンジンバスを完成
- 鐘紡百年史 1988年「八章 綿業を主体とする再編成」
- [50]民生産業は企業再建整備により1950年に解散し、第二会社として隅田工場の設備と業務を継承した鐘淵デイゼル工業が設立された
出典・参考
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- 日産自動車三十年史 1965年「第2節 自動車産業の統制強化」
- 日産自動車三十年史 1965年「第2節 ドッジラインと企業の合理化」
- 日産自動車三十年史 1965年「資料篇」
- トヨタ自動車30年史 1967年「年表」
- 富士重工業三十年史 1984年「4章 バス事業部門」
- 鐘紡百年史 1988年「八章 綿業を主体とする再編成」
- 会社銀行八十年史 1955年「民生デイゼル工業」
- 企業の歴史 明治百年 1968年「日産ディーゼル工業」
- 証券アナリストジャーナル 5(2) 1967年 藤波道忠
- 東邦経済 24(10) 1953年「大型自動車製造に活躍する民生デイゼル工業」