アスキー:西和彦氏らのアスキー出版設立とMSX規格の提唱
1977年〜創刊した月刊アスキーと、ビル・ゲイツ氏から得たBASICの国内販売権
早大理工学部の学生だった西和彦氏は1976年11月、友人らとマイコン誌「I/O」を創刊した。ところが『ムチャクチャな金使いと並外れた行動力が祟って』、半年後に編集長と決裂する結果となった。翌1977年5月には、西和彦氏・郡司明郎氏・塚本慶一郎氏の3人でアスキー出版を設立。資本金は300万円で、拠点は都内のマンションにある8坪の一室だった。同年7月には、国内初のパソコン専門誌となる「月刊アスキー」の刊行を始めた。3人は秋葉原のマイコン店に集う愛好家の仲間で、パソコンの用途への見識では大型機を主力とするメーカーの技術者より先を行った。自前の誌面を持てば、愛好家の知見そのものを商品にできるとみたのだろう。
- 日経ビジネス 442号 1986年8月4日
- [1]西和彦氏は1976年11月に早大在学中に友人らと「I/O」を創刊し、半年後に編集長と決裂
- [2]西和彦氏は1976年11月に早大在学中に友人らと「I/O」を創刊し、半年後に編集長と決裂
- [5]1977年7月に日本初のパソコン専門誌「月刊アスキー」を創刊。創業者らは秋葉原のマイコン愛好家で見識は大手メーカー技術者を上回った
- [6]1977年7月に日本初のパソコン専門誌「月刊アスキー」を創刊。創業者らは秋葉原のマイコン愛好家で見識は大手メーカー技術者を上回った
- 日経ビジネス 1991年12月2日
- [3]1977年5月、西和彦・塚本慶一郎・郡司明郎の3人が資本金300万円でアスキー出版を8坪のマンションで設立
- [4]1977年5月、西和彦・塚本慶一郎・郡司明郎の3人が資本金300万円でアスキー出版を8坪のマンションで設立
1978年2月、西和彦氏は米マイクロソフトのビル・ゲイツ氏による簡易言語BASICの開発を知り、深夜に電話をかけた。BASICは命令を逐次機械語に訳すため、誤った箇所だけ直せば動く仕組み。西和彦氏はシアトルの本社へ飛び、国内でBASICを独占的に販売する契約をビル・ゲイツ氏と結んだ。同年10月、マイクロソフトの極東代理店となるアスキー・マイクロソフトが発足した。1979年に日本電気のPC-8000がBASICを採用すると、富士通・日立製作所との商談の成立が相次いだ。1980年9月、マイクロソフトの売上高の40%を担った西和彦氏は、マイクロソフトの副社長に迎えられた。その任は1986年まで続き、アスキーも極東の代理店であり続けた。素人にも扱える言語を押さえれば、国内各社の機種に売り込めると見込んだと推察される。
- 日経ビジネス 442号 1986年8月4日
- [7]1978年2月に西和彦氏がビル・ゲイツ氏に電話しシアトルでBASICの日本独占販売契約、10月にアスキー・マイクロソフト設立。1979年PC-8000採用、1980年9月にマイクロソフト副社長
- [8]1978年2月に西和彦氏がビル・ゲイツ氏に電話しシアトルでBASICの日本独占販売契約、10月にアスキー・マイクロソフト設立。1979年PC-8000採用、1980年9月にマイクロソフト副社長
- [9]1978年2月に西和彦氏がビル・ゲイツ氏に電話しシアトルでBASICの日本独占販売契約、10月にアスキー・マイクロソフト設立。1979年PC-8000採用、1980年9月にマイクロソフト副社長
- [10]1978年2月に西和彦氏がビル・ゲイツ氏に電話しシアトルでBASICの日本独占販売契約、10月にアスキー・マイクロソフト設立。1979年PC-8000採用、1980年9月にマイクロソフト副社長
- [11]1978年2月に西和彦氏がビル・ゲイツ氏に電話しシアトルでBASICの日本独占販売契約、10月にアスキー・マイクロソフト設立。1979年PC-8000採用、1980年9月にマイクロソフト副社長
- [12]1978年2月に西和彦氏がビル・ゲイツ氏に電話しシアトルでBASICの日本独占販売契約、10月にアスキー・マイクロソフト設立。1979年PC-8000採用、1980年9月にマイクロソフト副社長
- 日経ビジネス 1996年6月10日
- [13]西和彦氏は1980年から1986年まで米マイクロソフトの副社長を務め、アスキーは極東地域の代理店
参考文献[1]-[13]
- 日経ビジネス 442号 1986年8月4日
- [1]西和彦氏は1976年11月に早大在学中に友人らと「I/O」を創刊し、半年後に編集長と決裂
- [2]西和彦氏は1976年11月に早大在学中に友人らと「I/O」を創刊し、半年後に編集長と決裂
- [5]1977年7月に日本初のパソコン専門誌「月刊アスキー」を創刊。創業者らは秋葉原のマイコン愛好家で見識は大手メーカー技術者を上回った
- [6]1977年7月に日本初のパソコン専門誌「月刊アスキー」を創刊。創業者らは秋葉原のマイコン愛好家で見識は大手メーカー技術者を上回った
- [7]1978年2月に西和彦氏がビル・ゲイツ氏に電話しシアトルでBASICの日本独占販売契約、10月にアスキー・マイクロソフト設立。1979年PC-8000採用、1980年9月にマイクロソフト副社長
- [8]1978年2月に西和彦氏がビル・ゲイツ氏に電話しシアトルでBASICの日本独占販売契約、10月にアスキー・マイクロソフト設立。1979年PC-8000採用、1980年9月にマイクロソフト副社長
- [9]1978年2月に西和彦氏がビル・ゲイツ氏に電話しシアトルでBASICの日本独占販売契約、10月にアスキー・マイクロソフト設立。1979年PC-8000採用、1980年9月にマイクロソフト副社長
- [10]1978年2月に西和彦氏がビル・ゲイツ氏に電話しシアトルでBASICの日本独占販売契約、10月にアスキー・マイクロソフト設立。1979年PC-8000採用、1980年9月にマイクロソフト副社長
- [11]1978年2月に西和彦氏がビル・ゲイツ氏に電話しシアトルでBASICの日本独占販売契約、10月にアスキー・マイクロソフト設立。1979年PC-8000採用、1980年9月にマイクロソフト副社長
- [12]1978年2月に西和彦氏がビル・ゲイツ氏に電話しシアトルでBASICの日本独占販売契約、10月にアスキー・マイクロソフト設立。1979年PC-8000採用、1980年9月にマイクロソフト副社長
- 日経ビジネス 1991年12月2日
- [3]1977年5月、西和彦・塚本慶一郎・郡司明郎の3人が資本金300万円でアスキー出版を8坪のマンションで設立
- [4]1977年5月、西和彦・塚本慶一郎・郡司明郎の3人が資本金300万円でアスキー出版を8坪のマンションで設立
- 日経ビジネス 1996年6月10日
- [13]西和彦氏は1980年から1986年まで米マイクロソフトの副社長を務め、アスキーは極東地域の代理店
1983年〜松下電器産業など13社が集ったMSXと、マイクロソフトとの別れ
西和彦氏はマイクロソフトとともに家庭用の統一規格MSXを開発し、コンピューター各社と家電各社へ参加を働きかけた。MSXを製造する陣営は1986年8月時点で、松下電器産業・ソニーをはじめ13社に上った。1983年から1984年にかけては、ベンチャーキャピタルからの時価発行による出資を元手に従業員を大幅に増やした。1985年8月には任天堂のファミコン向けにゲームソフト2本を発売し、1カ月で11億円を売り上げた。パソコンソフト部門の月商3億〜4億円を大きく上回る数字だった。それでもMSXの盟主という立場を重くみた取引先金融機関の助言を受け、1本を追加した後に撤退した。ソフトを機種の垣根なく使える規格を育てることが、目先の収益より優先されたとみられる。
- 日経ビジネス 442号 1986年8月4日
- [14]MSXホームパソコンをマイクロソフトと共同開発しメーカーに参加を呼びかけ。1986年8月時点で松下電器産業・ソニーなど13社が製造
- [15]MSXホームパソコンをマイクロソフトと共同開発しメーカーに参加を呼びかけ。1986年8月時点で松下電器産業・ソニーなど13社が製造
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
- [16]1983〜1984年にベンチャーキャピタルの時価発行投資の資金で従業員を急増
- 日経ビジネス 1985年10月28日
- [17]1985年8月にファミコン用ソフト2本を発売し1カ月で11億円。パソコンソフト部門は月3億〜4億円。MSX盟主の立場から金融機関の助言で1本追加後に撤退
- [18]1985年8月にファミコン用ソフト2本を発売し1カ月で11億円。パソコンソフト部門は月3億〜4億円。MSX盟主の立場から金融機関の助言で1本追加後に撤退
- [19]1985年8月にファミコン用ソフト2本を発売し1カ月で11億円。パソコンソフト部門は月3億〜4億円。MSX盟主の立場から金融機関の助言で1本追加後に撤退
1985年、アスキーは国内初のパソコン通信網として「アスキーネット」を始めた。同年4月の電気通信の開放をにらみ、郵政省はパソコン通信の標準方式を決めた。一方で家庭用パソコンは、用途がゲームとワープロに偏って販売が頭打ちとなった。出版局電子出版部門長の宮崎秀規氏によれば、『キャプテン(双方向文字図形情報システム)をやってみて、これではとても普及しないとわかった』ことも開始の理由だった。アスキーネットの会員は1985年10月時点で4000人を超え、翌春をめどに有料サービスへ移る準備を進めた。アスキーは通信網を、電子メディアで情報を届ける新しい出版の形と位置づけた。雑誌で培った読者との接点を、紙以外の媒体へ広げる試みだったと思われる。
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
- [20]1985年に日本最初のパソコン通信ネットワーク「アスキーネット」を開始し、電子メディアによる新しい「出版」と位置づけ
- [25]1985年に日本最初のパソコン通信ネットワーク「アスキーネット」を開始し、電子メディアによる新しい「出版」と位置づけ
- 日経ビジネス 1985年10月28日
- [21]1985年4月の電気通信開放をにらみ郵政省が標準方式を決定。家庭用パソコンは用途がゲームとワープロで伸び悩み。アスキーのネットは会員4000人超で翌春有料化を準備、キャプテンの経験が理由
- [22]1985年4月の電気通信開放をにらみ郵政省が標準方式を決定。家庭用パソコンは用途がゲームとワープロで伸び悩み。アスキーのネットは会員4000人超で翌春有料化を準備、キャプテンの経験が理由
- [23]1985年4月の電気通信開放をにらみ郵政省が標準方式を決定。家庭用パソコンは用途がゲームとワープロで伸び悩み。アスキーのネットは会員4000人超で翌春有料化を準備、キャプテンの経験が理由
- [24]1985年4月の電気通信開放をにらみ郵政省が標準方式を決定。家庭用パソコンは用途がゲームとワープロで伸び悩み。アスキーのネットは会員4000人超で翌春有料化を準備、キャプテンの経験が理由
アスキーは1986年2月17日、1978年から8年間続いたマイクロソフトとの提携の解消を通告された。発端はマイクロソフトによる100%子会社化の要求と、アスキー側の拒否。マイクロソフトは米国での上場申請にあたり、極東地区に100%子会社を置くことを条件に盛り込んだ。アスキー側は、独自に開発した応用ソフトがマイクロソフト製品と競合したことを理由に挙げた。ビル・ゲイツ氏は、MSXへ利益を注ぎ続ける西和彦氏の経営姿勢にも不満を募らせた。1986年4月にマイクロソフトが全額出資で設けた日本マイクロソフトが、BASICとMS-DOSの販売を引き継いだ。アスキーは新たな収益源として、LSIの機能の構想を半導体各社へ示し、ライセンス料を受け取る事業を据え、日本楽器製造・東芝と契約を結んだ。
- 日経ビジネス 442号 1986年8月4日
- [26]1986年2月17日にマイクロソフトから提携解消を通告。発端は100%子会社化要求の拒否で、米国上場申請の条件。アスキーは自社アプリが競合と説明。販売は4月設立の日本マイクロソフトへ。カスタムLSIで日本楽器製造・東芝とライセンス契約
- [27]1986年2月17日にマイクロソフトから提携解消を通告。発端は100%子会社化要求の拒否で、米国上場申請の条件。アスキーは自社アプリが競合と説明。販売は4月設立の日本マイクロソフトへ。カスタムLSIで日本楽器製造・東芝とライセンス契約
- [28]1986年2月17日にマイクロソフトから提携解消を通告。発端は100%子会社化要求の拒否で、米国上場申請の条件。アスキーは自社アプリが競合と説明。販売は4月設立の日本マイクロソフトへ。カスタムLSIで日本楽器製造・東芝とライセンス契約
- [29]1986年2月17日にマイクロソフトから提携解消を通告。発端は100%子会社化要求の拒否で、米国上場申請の条件。アスキーは自社アプリが競合と説明。販売は4月設立の日本マイクロソフトへ。カスタムLSIで日本楽器製造・東芝とライセンス契約
- [31]1986年2月17日にマイクロソフトから提携解消を通告。発端は100%子会社化要求の拒否で、米国上場申請の条件。アスキーは自社アプリが競合と説明。販売は4月設立の日本マイクロソフトへ。カスタムLSIで日本楽器製造・東芝とライセンス契約
- [32]1986年2月17日にマイクロソフトから提携解消を通告。発端は100%子会社化要求の拒否で、米国上場申請の条件。アスキーは自社アプリが競合と説明。販売は4月設立の日本マイクロソフトへ。カスタムLSIで日本楽器製造・東芝とライセンス契約
- 日経ビジネス 1996年6月10日
- [30]MSXへ利益を注ぎ続ける西和彦氏の経営姿勢にビル・ゲイツ氏があきれ、100%出資の日本法人に販売権を移した
参考文献[14]-[32]
- 日経ビジネス 442号 1986年8月4日
- [14]MSXホームパソコンをマイクロソフトと共同開発しメーカーに参加を呼びかけ。1986年8月時点で松下電器産業・ソニーなど13社が製造
- [15]MSXホームパソコンをマイクロソフトと共同開発しメーカーに参加を呼びかけ。1986年8月時点で松下電器産業・ソニーなど13社が製造
- [26]1986年2月17日にマイクロソフトから提携解消を通告。発端は100%子会社化要求の拒否で、米国上場申請の条件。アスキーは自社アプリが競合と説明。販売は4月設立の日本マイクロソフトへ。カスタムLSIで日本楽器製造・東芝とライセンス契約
- [27]1986年2月17日にマイクロソフトから提携解消を通告。発端は100%子会社化要求の拒否で、米国上場申請の条件。アスキーは自社アプリが競合と説明。販売は4月設立の日本マイクロソフトへ。カスタムLSIで日本楽器製造・東芝とライセンス契約
- [28]1986年2月17日にマイクロソフトから提携解消を通告。発端は100%子会社化要求の拒否で、米国上場申請の条件。アスキーは自社アプリが競合と説明。販売は4月設立の日本マイクロソフトへ。カスタムLSIで日本楽器製造・東芝とライセンス契約
- [29]1986年2月17日にマイクロソフトから提携解消を通告。発端は100%子会社化要求の拒否で、米国上場申請の条件。アスキーは自社アプリが競合と説明。販売は4月設立の日本マイクロソフトへ。カスタムLSIで日本楽器製造・東芝とライセンス契約
- [31]1986年2月17日にマイクロソフトから提携解消を通告。発端は100%子会社化要求の拒否で、米国上場申請の条件。アスキーは自社アプリが競合と説明。販売は4月設立の日本マイクロソフトへ。カスタムLSIで日本楽器製造・東芝とライセンス契約
- [32]1986年2月17日にマイクロソフトから提携解消を通告。発端は100%子会社化要求の拒否で、米国上場申請の条件。アスキーは自社アプリが競合と説明。販売は4月設立の日本マイクロソフトへ。カスタムLSIで日本楽器製造・東芝とライセンス契約
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
- [16]1983〜1984年にベンチャーキャピタルの時価発行投資の資金で従業員を急増
- [20]1985年に日本最初のパソコン通信ネットワーク「アスキーネット」を開始し、電子メディアによる新しい「出版」と位置づけ
- [25]1985年に日本最初のパソコン通信ネットワーク「アスキーネット」を開始し、電子メディアによる新しい「出版」と位置づけ
- 日経ビジネス 1985年10月28日
- [17]1985年8月にファミコン用ソフト2本を発売し1カ月で11億円。パソコンソフト部門は月3億〜4億円。MSX盟主の立場から金融機関の助言で1本追加後に撤退
- [18]1985年8月にファミコン用ソフト2本を発売し1カ月で11億円。パソコンソフト部門は月3億〜4億円。MSX盟主の立場から金融機関の助言で1本追加後に撤退
- [19]1985年8月にファミコン用ソフト2本を発売し1カ月で11億円。パソコンソフト部門は月3億〜4億円。MSX盟主の立場から金融機関の助言で1本追加後に撤退
- [21]1985年4月の電気通信開放をにらみ郵政省が標準方式を決定。家庭用パソコンは用途がゲームとワープロで伸び悩み。アスキーのネットは会員4000人超で翌春有料化を準備、キャプテンの経験が理由
- [22]1985年4月の電気通信開放をにらみ郵政省が標準方式を決定。家庭用パソコンは用途がゲームとワープロで伸び悩み。アスキーのネットは会員4000人超で翌春有料化を準備、キャプテンの経験が理由
- [23]1985年4月の電気通信開放をにらみ郵政省が標準方式を決定。家庭用パソコンは用途がゲームとワープロで伸び悩み。アスキーのネットは会員4000人超で翌春有料化を準備、キャプテンの経験が理由
- [24]1985年4月の電気通信開放をにらみ郵政省が標準方式を決定。家庭用パソコンは用途がゲームとワープロで伸び悩み。アスキーのネットは会員4000人超で翌春有料化を準備、キャプテンの経験が理由
- 日経ビジネス 1996年6月10日
- [30]MSXへ利益を注ぎ続ける西和彦氏の経営姿勢にビル・ゲイツ氏があきれ、100%出資の日本法人に販売権を移した
1977年〜1986年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1977年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 0 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 1 | +255.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 3 | +148.6% | n/a | n/a | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 8 | +136.5% | n/a | n/a | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 16 | +95.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 42 | +157.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 50 | +20.2% | n/a | n/a | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 77 | +53.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | 138 | +79.0% | 6 | 4.7% | n/a |
出所:山崎泰央「パソコン黎明期のベンチャー、ビジネス」法政大学IMRC WP No.24(2006)表2
出典・参考
5件
- 日経ビジネス 1985年10月28日
- 日経ビジネス 442号 1986年8月4日
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1989年10月9日講演要旨)
- 日経ビジネス 1991年12月2日
- 日経ビジネス 1996年6月10日