メキシコ子会社清算と米国持株会社株式評価減による赤字決断

見栄を捨てて赤字決算を選んだ理由——辻本憲三氏は、なぜ上場後初の最終赤字を自ら選び取ったのか

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時期 1998年1月
意思決定者 辻本憲三 社長
論点 海外事業の損失処理と財務体質の立て直し
概要
メキシコの販売子会社カプコンメキシコの清算と、米国事業を統括する持株会社カプコンU.S.A.の株式評価減で223億円の特別損失を計上したカプコンが、1998年3月期決算で上場後初の最終赤字を自ら受け入れた財務再建の決断である。
背景
『ストリートファイターII』のヒットで急成長したが、1995年9月中間期には32ビット機向けソフト開発の遅れから単独決算で設立以来初の営業赤字に転落し、米国では在庫処分損も発生していた。
内容
1998年1月23日、業績予想の下方修正を発表。ペソ急落で経営が悪化したカプコンメキシコを清算し、16ビット機ソフトの在庫処分で傷んだ米国持株会社の株式を評価減した。経常利益が厚いうちに損失を一括処理する道を選んだ。
含意
赤字転落で東京証券取引所への上場は一時遠のいたが、1999年9月の大証1部指定替え、2000年10月の東証1部上場へとつながり、財務体質を立て直したうえでの上場ステータス引き上げを実現した。
筆者の見解

見栄を捨てた決断が残したもの

「見栄を捨てて」赤字決算を選んだという辻本氏の言葉は、当時の日本の経営者の間ではむしろ珍しい部類の判断であった、とみることができる。本社を自社所有せずリースで済ませ、「身の丈経営」を掲げてきた創業者にとって、含み損を先送りせず一括処理する判断は、経営哲学の延長線上にあったといえる。監査法人の指摘を上回る範囲まで損失を認識したという逸話は、決算数字を取り繕うことより、将来の経営数字にプラスになる方を選ぶという一貫した判断の型を映している。

このとき辻本氏が語った「ソフト開発は企業の財務体質に強く左右される時代に入る」という見立ては、数百億円規模の開発投資が当たり前になった後年のRE ENGINE時代を、当時すでに予見していたようにもうかがえる。1998年の傷を財務が痛む前に処理する決断がなければ、2010年代以降の連続増益を支える財務基盤は、違った形になっていたかもしれない。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

ストIIヒット後の急成長と1995年の失速

『ストリートファイターII』のヒットを受け、カプコンは1991年3月期から1994年3月期までの3年間で売上高を3倍以上に伸ばす急成長を続けた。だが1995年9月中間期決算では、単独決算として1979年の設立以来初めての営業赤字(2億1500万円の赤字)に転落した。売上高は前年同期比46.1%減の131億円余りにとどまり、32ビット機(プレイステーション、セガサターン)向けソフトの開発の遅れが最大の要因であった。1995年上期に計画した7本のゲームソフトのうち、市場に投入できたのは4本にとどまった[1][2]

米国でも16ビット機向けソフトの供給過剰から360万本を原価割れで処分し、75億円の在庫処分損が発生、1995年3月期の連結決算では100億円を超える赤字を計上した。辻本憲三社長はこの時期、開発部隊にプロジェクト制と成果配分方式を導入し、課長・係長といった役職を廃止して米国子会社の経営陣も一新するなど、組織改革に着手した[3][4]

決断

メキシコ子会社清算と米国持株会社の株式評価減

1998年1月23日、カプコンは業績予想の下方修正を発表した。当初34億円の黒字を見込んでいた1998年3月期決算は、特別損失の計上によって135億円の赤字に転じる見通しとなった。主因はメキシコの販売子会社カプコンメキシコ(メキシコ市)の清算と、米国事業を統括する持株会社カプコンU.S.A.(カリフォルニア州サニーベール市)の株式評価減で、この2件でそれぞれ80億円を超える特別損失を計上することになり、1998年3月期には合計223億円の特別損失を一度に計上した[5][6]

カプコンメキシコは1993年、偽造ゲーム機の流通をきっかけに中南米市場の大きさを見込んで設立した販売拠点だった。レンタル用に3万台の業務用ゲーム機を投入し、投資額は約30億円に上ったが、1994年のメキシコ通貨危機でペソが急落し、業務用ゲーム機の資産価値は円換算で10分の1程度まで落ち込んだ。増資や貸付増額で支援したものの累積損失が約40億円まで膨らんだことを受け、辻本憲三社長は2月10日付でカプコンメキシコの清算を決断した[7][8]

結果

「見栄を捨てた」決断と大証1部・東証1部への道

辻本憲三社長はこの決断について「経常利益が厚いうちに、財務内容の改善に手を打つべきだと考えました」と語り、「赤字決算をすることでトップの私が笑われるのは構わないから、思いきった改善策を考えてほしい」と財務部門に指示したことを明かした。赤字転落によって、次の目標であった東京証券取引所への上場は当時遠のいたが(赤字だと3年間は上場を申請できない)、カプコンは1999年9月に大阪証券取引所市場第一部への指定替えを、2000年10月には東京証券取引所市場第一部への上場を果たした[9][10]

本文未確認。1998年3月期の実際の確定損益や子会社整理の完了時期を示す一次資料は今回未確認である。ただし辻本憲三社長は同じ取材の中で、1998年1月発売の『バイオハザード2』について、開発開始から6カ月が過ぎた時点でゼロからの作り直しを指示したことも明かしており、財務体質の強化を、ヒット作を継続的に生み出すための開発投資の原資と捉えていたことがうかがえる[11]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1995年12月18日号「辻本憲三氏[カプコン社長]軌跡 ソフト開発遅れ減収減益 成果配分制など改革急ぐ」
  • 日経ビジネス 1998年2月23日号「辻本憲三氏[カプコン社長]、兵を語る 子会社清算などで赤字転落『財務改善急ぎヒット作を』」
  • カプコン 有価証券報告書(2006年3月期・連結)【沿革】