電源開発の完全民営化と東証一部上場——52年ぶりに「国の後ろ盾」を手放す

特殊会社が純粋な民間企業になるとは何か——中垣喜彦社長が掲げた「民営化の星」

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時期 2004年10月
意思決定者 中垣喜彦 社長
論点 完全民営化と自律経営への転換
概要
2004年10月6日、電源開発(Jパワー)が東京証券取引所第1部に上場し、政府と9電力会社が保有する株式を全量売却して52年ぶりに完全民営化した経営判断。上場時の資金吸収額は3750億円とその年最大規模で、外国人株主が25%に達した。中垣喜彦社長は「政府系企業が純粋な民間企業として自立するサンプル」と位置づけ、自己責任による自律経営への転換を進めた。
背景
電源開発は1952年、電源開発促進法に基づく特殊会社として発足し、地域独占の9電力会社が引き受けられない長期・広域の電源開発を担ってきた。しかし1997年、行政改革会議の特殊法人合理化方針のなかで5年程度の準備を置く民営化が閣議決定され、設立時の存在意義と政府出資を維持する根拠がともに薄れていた。
内容
2003年に電源開発促進法が廃止され、政府保有株を引き受けたJ-POWER民営化ファンドが上場準備を担った。2004年10月の上場で政府・9電力の持株はすべて売却された。上場に先立ち、2000年度末に約8000人だった社員を2005年度末に6000人へと25%削減し、うち1000人を新規事業へ振り向ける準備を進めた。
含意
卸電力の専門会社は、電力会社という唯一の取引先を相手にしてきた体制から、上場企業として自ら判断し結果を負う経営へと移った。国内電力需要の頭打ちを見据えて海外事業と新規事業の比重を高める一方、全発電所が電力会社との相対契約に縛られるという制約も残った。
筆者の見解

後ろ盾を失うということ

この判断の核心は、規制と支援を同時に受けてきた国策会社が、その両方を手放して自らの判断だけで立つと決めた点にある。政府と9電力という確実な後ろ盾は、安定の源であると同時に、経営の自由を縛る枠でもあった。上場によって電源開発は3750億円を市場から得て、外国人を含む世界の投資家を株主に迎えたが、その代わりに、困っても政府に駆け込めない立場を引き受けた。中垣社長が繰り返した「独立独歩」という言葉には、支援がなくなる不安と、自分で決められる高揚とが同居していたとみることができる。

もっとも、民営化は自由化の完成を意味しなかった。電源開発の発電能力の大半は依然として電力会社との相対契約に縛られ、市場へ振り向けられる余地は限られていた。卸電力の専門会社が「民営化の星」であり続けられるかどうかは、電力会社という最大の顧客との関係を保ちながら、いかに海外と新規事業で稼ぐ柱を育てられるかにかかっていた。国の後ろ盾を外した企業が、規制と市場のあいだで自らの居場所をどう定めるのか——その問いは、上場の一日ではなく、その後の経営の積み重ねのなかで答えが出るものといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

国策会社という50年

電源開発は1952年9月、電源開発促進法に基づく特殊会社として発足した。資本構成は政府が66.69%、9電力会社が残りを出資し、戦後復興期の電力不足を補う国家プロジェクトの実行主体として発足した。地域独占の9電力会社には、ダムや大型火力といった長期・広域の電源を引き受ける資本の余力がなく、その空白を埋める役回りが与えられていた。設立から半世紀のあいだに66カ所の発電所を建設し、設備能力は約1600万キロワットと東北電力に並ぶ規模で、国内シェアは7%に達していた[1]

だが、その存在意義は時代とともに薄れていった。1997年、行政改革会議の特殊法人合理化方針のなかで、電源開発を5年程度の準備期間を置いて民営化する方針が閣議決定された。9電力では引き受けられない案件の受け手という設立時の役割が果たされた以上、特殊会社のまま政府出資を維持する根拠は失われていた。折しも2000年からは大口需要家向けの電力小売り自由化が始まり、卸電力の専門会社は、自由化の進む市場でどう自律していくかという課題にも直面していた[2]

決断

国という後ろ盾を手放す

2003年、電源開発促進法が廃止され、政府保有株を引き受けたJ-POWER民営化ファンドが上場準備を担った。2004年10月6日、電源開発は東京証券取引所第1部に上場し、政府と9電力が保有する株式はすべて売却された。1952年の設立から52年、国策会社が完全民営化を達成した。上場時の資金吸収額は3750億円とその年最大規模で、外国人株主は25%に達した。中垣喜彦社長はこれを「政府系企業が資本的にも法的にも行政的にも純粋な民間企業として自立するサンプル」と受け止め、愛称も「でんぱつ」からJ-POWERへ改めた[3]

上場は突然の出来事ではなく、7年をかけた地ならしの果てにあった。中垣社長は、1997年に民営化方針が決まって以降、どんな決断も自分で下し結果を自分が受け取るという独立独歩の意識を社内に徹底してきたと語った。準備の柱は人員の圧縮で、2000年度末にグループ約8000人だった社員を2005年度末に6000人へ、25%削減する計画を進めた。自然減は半分にとどまり、残りは早期退職や転籍によるもので、労働組合も正面から協力した。残す6000人のうち1000人程度を新規ビジネスへ投入し、国内需要の頭打ちを見据えて海外事業の比重を高める構えを取った。中垣社長は「何か困ったら政府に駆け込むわけにはいかない。一線を画すことは我々のためでもある」と述べた[4]

結果

民営化の星を目指して

民間企業となった電源開発は、自律経営を始めた。株価は売り出し価格2700円を100円ほど上回る水準で滑り出し、中垣社長は落ち着いた出だしとみて、今後は経営の実態への評価で株価が決まるとして、主だった株主には決算発表のたびに直接説明する方針を示した。新規事業では、2004年10月に営業運転を始めた千葉・市原発電所が象徴的である。電源開発が60%を出資する市原パワーが、特定規模電気事業者(PPS)である新日本製鉄に電力を卸し、新日鉄がそれを小売りする——電力会社以外に電力を卸す初めての試みであった。ただし全発電所が電力会社との相対契約で供給先を定めており、取引市場への供給には電力会社の合意が絶対条件という制約は残った[5]

民営化後の成長は、原子力と海外に賭けられた。Jパワーは初の原子力発電所となる大間原発(青森県大間町)を2006年に着工し2012年の運転開始を予定して、建設費約4690億円の計画で原発運営の経験を積もうとした。国内電力需要が2020年代から減少に転じる見通しのもと、40年にわたる海外発電の実績を生かして中国など海外事業を広げ、石炭をガス化して発電効率を高める技術を将来の柱に据えた。上場後初の通期となった2006年3月期は、売上高6219億円・経常利益679億円を計上した。中垣社長は「エネルギーと環境併存」の企業理念を掲げ、ロシアが京都議定書に署名した時期と上場が重なったことに意味を見ていた[6]

出典・参考
  • 日経ビジネス 2004年11月15日号「編集長インタビュー 中垣喜彦氏[Jパワー(電源開発)社長]『民営化の星』目指す」
  • 日経ビジネス 2003年3月24日号「『電力村』に内部異変 電源開発、小売り自由化の起爆剤となるか」
  • 電源開発 有価証券報告書【沿革】
  • 電源開発 有価証券報告書(2006年3月期)