駅ナカ・生活サービス事業による鉄道外収益の柱化

直営百貨店の夢が潰えた後、JR東日本は駅という空間資産をどう鉄道外収益の柱に変えたか

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時期 1990
意思決定者 住田正二・松田昌士 東日本旅客鉄道 社長
論点 多角化と鉄道外収益の確立
概要
1990年に東京圏駅ビル開発(現アトレ)を設立して以降、JR東日本が駅という空間資産を物販・飲食・不動産へ収益化し、駅ナカ・生活サービス事業を鉄道外収益の柱に育てた面的な多角化。住田正二社長が掲げた駅空間の収益化構想から始まり、松田昌士社長による主要駅構内の店舗化、2005年のエキュート開業を経て、十数年かけて固まった多角化戦略である。
背景
1987年の国鉄分割民営化でJR東日本が自由に使える資産は、住田正二社長いわく「主要駅の上空や、高架下」に限られた。膨大な乗降客を抱える駅を「日本最大の含資産」とみて収益化する構想は早くからあったが、目玉の直営百貨店構想「フューチャー21」は社内合意を得られず空回りした。
内容
1990年に東京圏駅ビル開発(現アトレ)を設立して駅ビジネスの器を整え、1998年には松田昌士社長が乗降客3万人以上の217駅の未利用スペースを店舗化する計画を掲げた。改札内・高架下・駅ビルへ用途を広げ、駅構内の小型店舗を各駅へ広げた。
含意
2005年開業のエキュートで駅ナカが完成形を得て、2006年3月期には駅スペース活用事業3,697億円・ショッピング・オフィス事業1,819億円と、運輸業を補う収益の柱に育った。首都圏の駅資産を原資とする多角化は、本州の他JR各社が容易に真似できない差となった。
筆者の見解

含資産をどう収益に変えたか

この判断の核にあるのは、鉄道会社が最も多く抱える資産、すなわち人の集まる駅そのものを、運賃とは別の収益に変えていった点である。発足時のJR東日本は、直営百貨店という華やかな一手で駅を稼ぎ頭に変えようとして空回りした。その後に効いたのは、東京圏駅ビル開発の設立や主要駅の店舗化といった、器づくりと地道な積み上げの連なりであった。単一の大構想ではなく、駅ごとの小さな商いを面で重ねるやり方が、結果として鉄道外収益の柱を育てたとみることができる。

もっとも、この柱化を支えたのは、首都圏という他社が持ち得ない立地であった。1日数百万人が行き交う駅は、そのまま最良の商業立地でもあり、駅ナカは他のJR各社が同じ規模では再現しにくい戦略となった。裏を返せば、駅の集客に支えられた収益構造は、人が移動しなくなれば揺らぐ危うさも併せ持つ。実際にその弱さは、後年のコロナ禍で通勤需要が細ったときに表面化する。駅という含資産をどこまで鉄道から独立した稼ぎに育てられるかという問いは、Suica経済圏や2軸の経営を掲げる現在まで、なお続いているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

駅という含資産と、空回りした百貨店構想

1987年4月の国鉄分割民営化で発足したJR東日本にとって、自由裁量できる資産は限られていた。発足直後の住田正二社長は、国鉄清算事業団との関係で自社所有の土地さえ簡単には動かせず、「唯一、自由にできるのは主要駅の上空や、高架下などだろう」と語っていた。一方で同社は、あらゆる都市機能が集積した首都圏の駅を抱える強みを早くから意識していた。当時の報道は、駅そのものを改造すれば莫大な収益を生むとみて、JR東日本を「日本最大の含資産保有会社」と紹介した。膨大な乗降客が行き交う駅空間をどう収益に変えるかが、発足時からの戦略課題として置かれていた[1][2]

駅空間の収益化を掲げる一方で、その目玉に据えた直営百貨店の構想は動かなかった。住田社長は1989年に、駅を物販・飲食から行政出張所までを備えた「地域の核」へ育てると語り、いずれは直営で百貨店を手がけたいと踏み込んでいた。だが新規事業で売上の半分を稼ぐとした長期構想「フューチャー21」の目玉、上野駅の超高層百貨店・ホテルビル計画は、1989年に基本構想をまとめたきり3年たっても具体化しなかった。流通の素人集団が百貨店を担えるのかという社内の迷いもあり、地元商業者との調整も難航した。当時の報道は東日本の「迷走ぶり」を指摘した。壮大な直営小売りの夢は、早い段階で失速していた[3][4]

決断

駅ビジネスの器づくりと、主要駅の店舗化

直営百貨店という大構想が止まる一方で、駅空間の収益化はより地道な形で動き出した。1990年、JR東日本は東京圏駅ビル開発(現アトレ)を設立し、駅ビルや高架下の商業開発を担う器を整えた。前年の1989年には高架下開発を手がけるジェイアール東日本高架開発(現JR東日本都市開発)も設けており、駅の上空・高架下という限られた自由裁量領域を、子会社の形で一つずつ事業化していった。百貨店のような単一の目玉ではなく、改札内・高架下・駅ビルへ用途を広げながら、駅ごとの小型店舗を積み上げる方向へ進んだ[5][6]

面的な展開が号砲を得たのは1998年である。松田昌士社長は、乗降客が1日3万人以上ある主要駅の構内に、面積100平方メートル以上の日用品店や書店、飲食店を設ける計画を表明した。対象となる駅は217を数えたが、当時活用できていたのは3割の77駅にとどまり、残る未利用スペースを2000年度までに40駅強で店舗化し、3年で計120駅へ広げる構想である。個人消費の低迷で既存の駅ビルの売上が伸び悩むなかで、立地を生かし切れていない駅構内そのものを新たな稼ぎ口に変える発想であった。運賃に頼らない収益源づくりへ本格的に踏み込んだ[7][8]

結果

「駅ナカ」の完成形と、収益の柱化

駅構内の店舗群は2000年代に入って一つの呼び名を得た。2003年、日経MJは理髪店や書店、CDショップ、ドラッグストアまでが並ぶ駅構内の商業空間を「駅ナカ」と総称し、立地の良さから駅こそ最高の物件だと伝えた。2005年には大宮駅で駅ナカ商業施設「エキュート」が開業し、会社帰りや乗り換えの合間に立ち寄る20〜30代の女性を主な客層に据えた。エキュートの売上高は開業から右肩上がりで伸び、2007年度には100億円の大台に達した。発足直後に住田社長が描いた駅を「地域の核」とする構想は、約20年を経てエキュートという完成形にたどり着いた[9][10]

駅ナカ・生活サービスは、数字の上でも鉄道を補う柱に育った。2006年3月期の連結業績をセグメントで見ると、駅スペース活用事業の売上高は3,697億円、ショッピング・オフィス事業は1,819億円に達し、両者で運輸業1兆7,817億円の3割強に相当する規模となった。民営化から19年を迎え、当時の週刊誌はJR東日本を小売分野の主要プレーヤーとして名乗りを挙げたと書いた。首都圏に集中する膨大な駅資産を原資とするこの多角化は、地方に路線が分散する本州の他JR各社が容易に真似できない収益構造をもたらした。鉄道と生活サービスを二つの輪とする経営の一輪が、発足から20年足らずで形を得た[11][12]

出典・参考
  • 日本経済新聞(1987年7月26日)
  • 日経ビジネス 1987年6月8日号「成長の可能性秘めた膨大な「空間」資産」
  • 日経流通新聞(1989年8月31日)
  • 日経流通新聞(1992年8月18日)「東日本社内、3すくみ迷走」
  • 日本経済新聞(1998年4月7日)「JR東日本・主要40駅、構内に店舗」
  • 日経金融新聞(1998年4月14日)
  • 日経MJ(2003年6月5日)「駅ナカ」
  • 週刊東洋経済 2006年6月17日号
  • 日本経済新聞(2008年12月26日)「駅ナカを楽しめる場に」
  • 東日本旅客鉄道 有価証券報告書(2006年3月期・連結)
  • 東日本旅客鉄道 有価証券報告書【沿革】