1870年 九十九商会を創業
岩崎弥太郎の九十九商会(1870年)を起点とする三菱の商事事業が、1918年4月に三菱合資会社の商事部から分離独立、資本金1500万円で旧三菱商事として発足。1947年11月のGHQ財閥解体令で約150社に解体された末、1954年7月の四社合同で「総合商社」として再結成された。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 三菱商事の事業系譜の起点は、1870年に岩崎弥太郎が土佐藩の大阪出張所「開成館大阪商会」の海運・貿易部門を引き継いで興した九十九商会である。1873年3月に三菱商会へ改称、1885年に弥太郎が没した後、弟・弥之助と長男・久弥が経営を継承し、1893年12月の三菱合資会社設立で財閥組織を整えた。
- 1918年4月、第一次世界大戦の戦時景気で取引高が急膨張した三菱合資会社商事部を、リスクを本体と分離する目的で独立株式会社化し、資本金1500万円・初代社長岩崎小弥太の体制で旧三菱商事株式会社が東京府麹町区丸ノ内に発足した。戦時下に物産取引の中核へ成長したが、1947年11月にGHQ財閥解体指令により解散、約150社の後継商社に商権が分散した。
- 1950年4月、旧三菱商事の清算事務継承の第二会社として光和実業株式会社が資本金3000万円で設立、1952年8月に三菱商事へ商号復帰、1954年6月東京証券取引所に株式を上場し、同年7月1日付で不二商事・東京貿易・東西交易の3社を吸収合併、資本金6億5000万円で総合商社として新発足した。創業者直系を欠いた集団による再起で、再発足時の三菱商事社員数は約4500名。
- 1968年10月の商品本部制導入と同年11月のブルネイLNG参画(シェル45%・三菱商事45%・ブルネイ政府10%、単体投資約421億円)で事業投資型商社モデルへの転換を本格化させた。鉄鋼・非鉄・機械を主軸とする商品構成と三菱グループの重工業・化学を反映した取引基盤が、繊維偏重の同業他社と異なる総合商社化の経路を可能にした。
1870年岩崎弥太郎が九十九商会を起こし民営海運業で出発、1893年三菱合資会社・1918年旧三菱商事と財閥組織を整えた。1947年解散後は約150社に分散した商権を1954年7月の四社合同で再集約、創業者直系を欠いた集団指導体制で再出発し、1968年の藤野忠次郎社長下で「トレーディング・アンド・ディベロップメント」を掲げ事業投資型商社への転換を本格化させた。
1870年九十九商会は岩崎弥太郎個人の私的事業として発足、1893年三菱合資会社(無限責任社員:岩崎家)、1918年旧三菱商事は資本金1500万円で株式会社化した。1950年4月の光和実業設立は資本金3000万円、1952年に三菱商事へ商号復帰、1954年6月東証上場、同年7月の3社吸収合併で資本金6億5000万円となり公開企業の資金調達基盤を本格的に整備した。
海運業(1870年九十九商会)から出発し、官営事業払下げで炭鉱・造船・銀行・倉庫を取り込み、1918年の旧三菱商事独立で物産売買・輸出入を中核とした。戦後再発足時は三菱グループの重工業・化学を反映した鉄鋼・非鉄・機械を主軸とし、繊維偏重の同業他社と異なる商品構成を初期条件とした。1968年以降は資源権益への事業投資(LNG・原料炭)が新たな収益柱として加わった。
九十九商会・三菱商会期は明治政府・陸海軍(西南戦争・台湾出兵の軍事輸送)が主要顧客となった。旧三菱商事期は三菱グループ各社と一般物産取引先が中核。1954年再発足以降は三菱グループの製造業(重工業・化学・電機)と国内大手電力・ガス会社・鉄鋼メーカーが主要販路となり、1960年代後半の海外資源権益参画では国内需要家への安定販路が権益獲得の根拠となった。
1870年九十九商会は数十名規模で発足、戦時下の旧三菱商事期に大企業化、1947年解散時の旧三菱商事は約6000名規模、退社者が約150社の後継商社に分散した。1954年7月の四社合同による再発足時は約4500名、1960年代の事業拡大と商品本部制導入で1968年時点では約8000名規模へ拡大した。
創業期の拠点は1870年大阪西長堀の九十九商会本店、1873年三菱商会改称後に東京府麹町区丸ノ内へ本社機能を移し、1918年旧三菱商事も丸ノ内本社で発足した。1950年光和実業設立時は東京千代田区、1954年7月の合同再発足時は千代田区丸の内が登記上の本店となった。1955年米国・1955年独国・1958年豪州・1973年香港・1988年英国と海外現地法人網を順次整備した。
三菱商事 創業地の主な拠点一都三県 の地理(三菱商会本店 → 三菱商事本社(再発足))
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1870年 なぜ岩崎弥太郎は1870年に九十九商会を始めたのか? | 土佐藩の大阪出張所「開成館大阪商会」が藩営事業として運営してきた海運・貿易部門が版籍奉還で立ち行かなくなり、長崎・大阪で藩商務を担っていた岩崎弥太郎が、廃藩を見越して藩から船舶・商権を私有名義に引き継ぐ形で民営化した。 岩崎弥太郎は1834年に土佐国安芸郡井ノ口村(現高知県安芸市)の地下浪人の家に生まれ、吉田東洋の門下で頭角を現し、土佐藩の長崎商会・大阪商会で藩物産の販売と外国商人との交易を担当した。1869年の版籍奉還で藩営事業の継続が不可能となり、廃藩置県を目前に控えた1870年、土佐藩は大阪西長堀の藩出張所「開成館大阪商会」の海運・貿易部門を岩崎個人の私有事業として切り出した。 新事業は九十九商会と称し、船舶3隻(夕顔丸・鶴丸・蒼鷹丸)と商権を引き継いで海運業を開始した。明治政府の殖産興業政策と西南戦争・台湾出兵という軍事輸送需要を捉え、1873年3月に商号を三菱商会へ改めた。三菱の社章(スリーダイヤ)はこの時期に制定された。九十九商会は岩崎個人の私的事業として出発し、藩との所有関係を法的に整理する形で日本の近代資本制経営の初期事例の一つとなった。 |
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| 1918年 なぜ三菱合資会社は1918年に商事部を分離独立させたのか? | 第一次世界大戦の戦時景気で三菱合資会社商事部の取引規模が急膨張し、市況変動による損益が合資会社本体(炭鉱・造船・金融など)に直接波及するのを避けるため、商事部を独立した株式会社として切り出し、リスクを本体と分離する組織体制が選択された。 1893年12月、三菱合資会社が設立され、岩崎弥之助(弥太郎の弟)・岩崎久弥(弥太郎長男)の体制下で本社・営業所・銀行部・造船所・炭鉱部・売炭部などを内部組織として束ねる形を取った。営業部門は1908年に「営業部」、1917年に「商事部」と改称され、戦時景気下で取引高は急膨張した。 第一次世界大戦の特需で商事部単体の売上高が三菱合資会社全体の8割超に達し、市況変動の損益が合資会社本体に直接波及する構造となった。1918年4月、商事部を独立した株式会社「三菱商事株式会社」として分離し、資本金1500万円・初代社長は岩崎弥之助の長男・岩崎小弥太の体制で発足した。本社は東京府麹町区丸ノ内(現千代田区丸の内)に置かれた。事業領域の損益リスクを別法人化する財閥組織原理が、この分離独立で日本企業に持ち込まれた。 |
| 1947年11月 なぜ1947年に旧三菱商事は約150社に解体されたのか? | GHQの過度経済力集中排除指令と1947年4月公布の独占禁止法、同年12月の過度経済力集中排除法の下で、財閥本社・三井物産・三菱商事が「持株会社」「商事独占」として指定され、解散と人員・商権の分散が命じられた。旧三菱商事の役職員は退社後に自由意志で新商社を設立する形を取り、約150社へ分散した。 1945年9月のGHQ財閥解体指令で三菱本社は持株会社として解体対象となり、1947年7月3日、連合国最高司令官は旧三菱商事と旧三井物産に対して解散指令を発した。旧三菱商事は同年11月に解散して清算手続に入った(清算結了は1987年11月)。解散時の従業員数は約6000名で、退社した役職員は商権・取引先関係を持ち寄って自由に新商社を設立することが容認された。 解散から3年の間に旧三菱商事系の元社員が設立した新会社は約150社に達したと有報沿革・社史は記録している。「三菱」商号は法令で使用禁止となり、各社は別商号で発足したため、財閥本社時代に蓄積された一元的なのれん・商権・取引網は物理的に分散した。岩崎弥太郎の九十九商会以来77年にわたる三菱の商事系譜は、創業者直系の単一法人としては一度途絶え、複数法人に分散保有される形態へ移行した。 |
| 1954年7月1日 なぜ1954年7月に四社合同で再結成できたのか? | 1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効と財閥商号制限の解除を機に、旧三菱商事の清算事務継承を担う第二会社として1950年4月に設立されていた光和実業が、1952年8月に商号を三菱商事へ復帰、1954年7月1日付で代表的後継3社(不二商事・東京貿易・東西交易)を吸収合併し、総合商社として新発足した。 1950年4月1日、旧三菱商事が発起人となり、清算事務継承と第二会社の機能を担う「光和実業株式会社」が資本金3000万円で設立された。事業目的は不動産賃貸・倉庫・運送取扱・保険代理に限定され、商号は財閥名の使用禁止下で中立的な漢字2字が選ばれた。1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効に伴い財閥商号制限令が緩和され、同年8月に光和実業は三菱商事株式会社へ商号を変更した。 1954年6月東京証券取引所に株式を上場、同年7月1日付で旧三菱商事系の後継商社のうち代表的な3社——不二商事・東京貿易・東西交易——を吸収合併し、資本金6億5000万円・事業目的に各種物品の売買業・輸出入業等を追加して、総合商社として新発足した。約150社に分散した三菱系商社の主要勢力を1法人に再集約する経路を取った。三村庸平元会長は後年「文字通りゼロからのスタートだった」(日経ビジネス 1988/01/04)と語り、創業者個人を欠いた集団による再起であった性格を述べている。 |
| 1968年10〜11月 なぜ1968年に商品本部制とブルネイLNGで「事業投資型商社」へ転換できたのか? | 1960年代の高度成長と資源需要拡大を受け、藤野忠次郎社長が「トレーディング・アンド・ディベロップメント」の経営理念を掲げ、1968年10月に営業部門を商品本部制へ再編、同年11月にブルネイLNG開発へシェル・ブルネイ政府との45:45:10の権益比率で参画した。国内ガス・電力会社への販路が権益確保の根拠となった。 1954年再発足時の三菱商事は、財閥系商社が戦前から続けてきた繊維取引中心の同業他社と異なり、三菱グループの重工業・化学を反映した鉄鋼・非鉄・機械を主軸とする商品構成を初期条件として保有していた。1960年代の高度成長期に粗鋼生産・電力需要が急拡大すると、原料調達と完成品輸出の両側で取引規模が膨張した。 1968年10月、藤野忠次郎社長は営業部門を商品別の「商品本部制」へ再編し、本部単位の損益管理と権限委譲を進めた。同年11月、取締役会はブルネイLNG開発への参画を決定し、シェル45%・三菱商事45%・ブルネイ政府10%という出資比率で開発会社を設立、単体投資額は約421億円に達した。同月、豪州にMITSUBISHI DEVELOPMENT PTY LTDを設立して金属資源権益事業を本格化させた。トレーディング中心から事業投資中心へのモデル転換が、戦後三菱商事の中核戦略として定着した。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
1954年7月の四社合同による三菱商事再発足を、創業者直系を欠いた集団による再起として後年振り返った発言
「文字通りゼロからのスタートだった」
旧三菱商事の独立から解散までの法人格の経過を有報沿革が記録した記述
「(旧)三菱商事㈱は、1918年、三菱合資会社の営業部門が分離して発足したが、1947年7月連合国最高司令官により解散の指令を受け、同年11月解散し清算手続に入った」
1954年7月の総合商社再発足の経緯を、有報沿革が約150社に分散した後継商社のうち代表3社の合同として記述した部分
「(旧)三菱商事㈱の解散後、同社を退社した役職員が設立した多数の新会社が合併・統合を繰り返したが、代表的なものとして発展した不二商事㈱、東京貿易㈱及び東西交易㈱の3社を吸収合併し、総合商社として新発足」
1950年4月の第二会社設立時、財閥商号制限下で別商号と限定的事業目的での出発を余儀なくされた経過の記述
「光和実業株式会社の商号で設立(資本金3千万円、事業目的は不動産の賃貸業、倉庫業、運送取扱業、保険代理業)」
1985年Kプラン策定時、1968年以降の海外資源投資の配当依存が経営の根本課題として診断された発言(参考:戦後三菱商事が事業投資型商社モデルに転換した1968年の起点を後年検証した文脈)
「従来取引からの収益だけではコストが賄えず、過去に成功した海外投資からの配当で会社業績を支えるような収益構造になっていた」
参考文献
- 三菱商事社史
- 有価証券報告書
- 岩崎弥太郎伝(東洋経済新報社)
- 有価証券報告書(沿革)
- 日経ビジネス 1988/01/04
- 証券アナリストジャーナル 1969年10月