1858年 伊藤忠兵衛家(持下り商い)を創業

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初代伊藤忠兵衛の麻布行商(1858年)と「紅忠」(1872年大阪本町)に遡る伊藤家本流が、1920年戦後恐慌の大幅赤字を機に、二代忠兵衛により1921年3月に屋号「〇に紅」を継ぐ丸紅商店として伊藤忠商店から分離。1944年大建産業統合の後、1949年12月に再独立した。

創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?

  • 1858年、近江国犬上郡八目村(現 滋賀県豊郷町)出身の15歳の初代伊藤忠兵衛が麻布の持下り商いを始め、1872年に大阪本町二丁目で呉服太物卸の「紅忠」を開店して店舗経営に移行した。「紅忠」の屋号「紅」は伊藤本家の代表色を示す一字で、後年「〇に紅」の商標として丸紅の直接の原型となり、1883年「伊藤本店」改称・1893年「伊藤糸店」別立てを経て店舗別の系譜分業が早くから整えられた。
  • 二代伊藤忠兵衛は1914年に伊藤忠合名会社を、1918年8月に株式会社伊藤忠商店を発足させ、第一次大戦中の欧州不在を機に4支店6出張所の貿易網を築いた。1919年戦争終結後の戦後恐慌で大幅赤字に転落したのを受け、1921年3月、貿易・綿を伊藤忠商事に、絹・毛・麻・化繊の国内繊維卸を旧「紅忠」由来の「丸紅」に分離する方針で、株式会社丸紅商店が大阪市西区靱中通三丁目に資本金500万円で別法人として登記された。
  • 1941年9月、戦時経済の動員下で丸紅商店は岸本商店・伊藤忠商事と合併して三興株式会社を発足させ、1944年9月に呉羽紡績・尼崎製釘所を加えて大建産業株式会社へ商号変更した。1947年12月公布の過度経済力集中排除法の対象となった大建産業は、1949年12月1日に商事部門を承継する第二会社として丸紅株式会社(資本金150百万円・本店大阪市)を発足させ、同時に伊藤忠商事・呉羽紡績・尼崎製釘所の3社にも分割再独立した。
  • 市川忍が伊藤忠の小菅と進めた財産分け交渉では、不動産は折半、のれんは綿が伊藤忠・絹・毛・麻・化繊が丸紅で決着し、丸紅は最も収益性の高い綿を譲った条件で再出発した。1950年7月に大証・東証へ上場し、同月勃発の朝鮮動乱で一時業績を押し上げたが、1952年の動乱後綿価暴落で銀行借入のタナ上げを依頼する状況に追い込まれ、再独立直後の業績は綿外受け持ちの分割条件と市況の振幅に挟まれて出発した。
創業
上場
経営方針 何を目指していたか?

初代伊藤忠兵衛の近江商人系「三方よし」を商いの起点とし、二代忠兵衛が大戦中の組織拡張と戦後恐慌の反動を踏まえ1921年に系統別分割で丸紅商店を独立させた。1944年の大建産業統合で自律性を一度失ったのち、1949年の分割再独立では市川忍が交渉の中心に立ち、綿以外を受け持つ繊維商社として戦後の事業条件を確定させた。

1858 近江商人「三方よし」で出発
1872 「紅忠」屋号制定
1918.8 株式会社化と組織拡張
1921.3 系統別分割で丸紅商店独立
1941.9 三興合併で自律性喪失
1944.9 大建産業へ商号変更
1949.12 大建産業分割で再独立
資金調達 どう資金を工面したか?

1921年3月の丸紅商店設立時は資本金500万円で発足、戦時統合期は三興・大建産業の傘下で資本関係が組み替えられた。1949年12月の再独立時は資本金150百万円で本店を大阪市に置き、1950年7月の大証・東証上場で公開企業の資金調達基盤を整え、戦後再建期の運転資金を市場から調達する体制へ移行した。

1872 個人商店として開店
1914 伊藤忠合名会社設立
1918.8 株式会社伊藤忠商店発足
1921.3 資本金500万円で丸紅商店発足
1949.12 資本金150百万円で再独立
1950.7 大証・東証上場
製品サービス 何を作って売ったか?

1858年起源は麻布行商、1872年「紅忠」開店で呉服太物卸へ転じ、明治期に絹・毛・麻・綿の繊維別取扱を整えた。1921年の丸紅商店独立時は綿以外の絹・毛・麻・化繊を主力に置き、1949年の分割再独立でも綿のれんは伊藤忠に譲り絹・毛・麻・化繊を受け持つ構成を維持した。1955年の高島屋飯田吸収で機械・金属・羊毛を取り込み総合商社化の足掛かりを得たが、本ページの射程は再独立直後の1952年綿価暴落までである。

1858 麻布行商
1872 呉服太物卸
1893 伊藤糸店別立て
1921.3 絹・毛・麻・化繊の国内繊維卸
1949.12 綿以外のれんを承継
主要顧客 誰に売ったか?

創業期は関西から九州に及ぶ呉服太物の小売店・問屋が主要顧客で、店舗化後は大阪船場の繊維卸ネットワークが販路の中心となった。1921年の丸紅商店独立後は国内繊維卸の取引先を主軸とし、1949年の再独立後は朝鮮動乱期の繊維特需で一時的に取引が膨らんだのち、1952年の綿価暴落で取引先紡績会社・問屋の経営難が連鎖的に丸紅へ波及した。

1858 関西〜九州の呉服商
1872 大阪船場の繊維卸ネットワーク
1921 国内紡績・繊維問屋
1950 朝鮮動乱期の繊維特需
1952.11 綿価暴落で取引先連鎖難
従業員数 誰と作っていたか?

1872年の「紅忠」開店時は店員数名から出発し、1918年の株式会社伊藤忠商店時点で広域貿易網を擁する数百名規模へ拡大した。1921年の丸紅商店独立時は伊藤忠商店からの分離で繊維卸部門の社員を承継し、1944年の大建産業合併で他社社員を含む大型商社の体制となった。1949年12月の再独立時は商事部門承継社員を中心に出発し、1950年の上場期に戦後商社としての人員規模を整えた。

1872 店員数名
1918 数百名規模
1921 繊維卸部門を承継
1944 大建産業の大型商社体制
1949.12 商事部門承継社員で再独立
設備投資 どこで作っていたか?

1872年「紅忠」開店地は大阪本町二丁目、1921年の丸紅商店設立地は大阪市西区靱中通三丁目で、戦前は大阪船場・靱地区の繊維商社街に拠点を置いた。戦時統合期は三興・大建産業の本店に集約され、1949年12月の再独立時は本店を大阪市に置いた。1951年11月に丸紅ニューヨーク会社を設立し戦後の海外拠点網の起点を作り、東京拠点は東京支社として戦後再建期に整備された。

1872 大阪本町「紅忠」
1921.3 大阪靱中通本店
1941 三興本店へ集約
1949.12 大阪本店で再発足
1951.11 丸紅ニューヨーク会社設立

丸紅 創業地の主な拠点関西6府県 の地理(初代伊藤忠兵衛 出生地・行商起点 → 丸紅株式会社本店(再発足時))

日本地図 1858年 初代伊藤忠兵衛 出生地・行商起点 滋賀県犬上郡豊郷町(旧 近江国犬上郡八目村) 創業者の出身地(持下り商いの拠点 1872年 紅忠(丸紅の屋号起源店舗) 大阪市中央区本町二丁目(旧 大阪本町二丁目) 「紅忠」開店地(呉服太物卸への業態転換) 1921年 株式会社丸紅商店本店 大阪市西区靱中通三丁目(現 大阪市西区靱本町 1921年3月の丸紅商店独立法人化登記地 1949年 丸紅株式会社本店(再発足時) 大阪市 1949年12月の大建産業分割による再独立本店

創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部

1858〜1872年 なぜ近江商人の伊藤家から「丸紅」という別の屋号が立ったのか?

1858年に15歳の初代伊藤忠兵衛が麻布の持下り商いを始め、1872年に大阪本町二丁目で「紅忠」を開いて店舗経営に移行した。「紅忠」の「紅」一字が後年「〇に紅」の商標へ昇華し、伊藤本家直系の屋号として丸紅の系譜を形作った。

初代伊藤忠兵衛は1842年に近江国犬上郡八目村(現 滋賀県豊郷町)の伊藤長兵衛家分家に生まれ、1858年に15歳で麻布の持下り商いに踏み出した。販売先は関西一円から九州にまで及び、近江商人特有の「三方よし」(売り手よし・買い手よし・世間よし)の商いを学んだ。明治維新前後の蒸気船と鉄道の発達で行商の介在余地が縮小し、忠兵衛は店舗経営への転換を模索した。

1872年、忠兵衛は大阪本町二丁目に呉服太物卸の「紅忠」を開いた。屋号の「紅」は伊藤本家の代表色を示す一字で、後年「〇に紅」の商標として登録される丸紅の直接の原型である。1883年に「伊藤本店」へ改称し、1893年に「伊藤糸店」を別立てして繊維別の店舗構成を整えた。同じ伊藤忠兵衛家から派生した複数の店舗のうち、本流の屋号「紅」を継承する系譜が後の丸紅商店、貿易と綿を担う系譜が後の伊藤忠商事へと分岐する素地が、明治期の店舗分業のなかで早くから形作られた。

1918〜1921年 なぜ二代伊藤忠兵衛は1921年に丸紅商店を別法人として独立させたのか?

1918年8月の株式会社伊藤忠商店発足と1919年戦時好況のもとで組織を拡張した結果、1920年戦後恐慌で大幅な赤字に転落した。事業の延命策として貿易・綿の伊藤忠商事と国内繊維卸の丸紅商店を分離し、1921年3月に丸紅商店が別法人として登記された。

二代伊藤忠兵衛は1886年生まれ、欧米留学を経て1914年に28歳で家業の代表に就いた。同年に伊藤忠合名会社を設立し家業を法人化、1918年8月に株式会社伊藤忠商店へ改組して経営の近代化を進めた。第一次世界大戦中の欧州不在を好機として東京・神戸・上海・マニラの4支店と横浜・漢口・天津・青島・カルカッタ・ニューヨークの6出張所を展開し、当時の日本企業として類例の少ない広域貿易網を築いた。

1919年の戦争終結で戦時好況は終わり、1920年の戦後恐慌が伊藤忠商店を大幅な赤字に追い込んだ。二代忠兵衛は組織の延命策として事業の系統別分割に踏み切り、貿易・綿の機能を伊藤忠商事(後の伊藤忠商事株式会社)に、絹・毛・麻・化繊を含む国内繊維卸を旧「紅忠」由来の屋号「丸紅」へ集約する方針を採った。1921年3月、株式会社丸紅商店が大阪市西区靱中通三丁目に資本金500万円で別法人として登記され、本店の屋号「〇に紅」を継承する形で丸紅の系譜が独立した。

1941〜1944年 なぜ1944年に丸紅商店は大建産業に統合されたのか?

1941年9月、戦時経済の動員下で繊維商社の集約が国策となり、丸紅商店は岸本商店・伊藤忠商事と合併して三興株式会社を発足させた。1944年9月には呉羽紡績・尼崎製釘所を加えて大建産業株式会社に商号を変更し、繊維商社の自律性は商号の連続性から切り離された。

日中戦争の長期化と太平洋戦争への突入のなかで、政府は1941年9月に丸紅商店・岸本商店・伊藤忠商事の3社合同を指導し、三興株式会社を発足させた。共通の出自を持つ伊藤忠商事と丸紅商店が一度ひとつにまとまる構図は、1921年の分離から20年で逆方向の動きが起きた格好となった。三興は繊維商社としての自律性を戦時統制に明け渡し、軍需動員の要請に応じて取扱品目を組み替えた。

1944年9月、三興は呉羽紡績・尼崎製釘所を加えた合併で大建産業株式会社へ商号変更し、戦時下の大型商社として再編された。大建産業の事業範囲は繊維・建材・機械・金属に及び、戦時経済の動員機関として機能した。企業の連続性は商号の連続性から切り離され、丸紅商店という屋号は1944年9月以降の戦時統制期にいったん消滅した。戦時統合期の輪郭は、戦後の過度経済力集中排除法による分割対象を定義する枠組みとなり、再独立交渉の出発点を規定した。

1949年 なぜ1949年の大建産業分割で丸紅株式会社が再独立できたのか?

1947年12月公布の過度経済力集中排除法の対象となった大建産業は、企業再建整備計画に基づき1949年12月に商事部門を承継する第二会社として丸紅株式会社(資本金150百万円・大阪市)を発足させた。同時に伊藤忠商事・呉羽紡績・尼崎製釘所の3社にも分割され、1921年に分かれた家業がもう一度同じ形で分けられた。

1947年12月18日に過度経済力集中排除法が公布され、大建産業は分割対象に指定された。同社の企業再建整備計画は、商事部門を継承する第二会社の設立を骨子とし、1949年12月1日に丸紅株式会社が大阪市・資本金150百万円で発足した。同時に伊藤忠商事・呉羽紡績・尼崎製釘所も別法人として独立し、戦時統合された大建産業は4社へ再分割された。

分割交渉の現場は、当時の市川忍(後の社長)の述懐に残る。市川は「私と伊藤忠の小菅氏とは商事部門の財産分けについて直接交渉のテーブルにつくことになった。なんといっても最大の焦点は不動産の分割だった」(日本経済新聞「私の履歴書」 1970/1)と振り返り、「結局、ほぼ半分ずつ分け合うことになった」と書いた。のれん分けは「綿ののれんは伊藤忠、その他の絹、毛、麻、化繊は丸紅ということに落ち着いた」(同前)と決着し、綿が繊維商材で最も収益性の高かった時代に、丸紅は綿以外を受け持つ条件で再出発した。1921年に分かれた家業が一度ひとつにまとまり、もう一度分けられる往復構造のなかで、丸紅の戦後の事業条件が定まった。

1950〜1952年 なぜ1950年7月の上場直後に綿価暴落が直撃したのか?

1950年6月勃発の朝鮮動乱で綿糸相場が急騰し、丸紅は再独立直後の業績を一時押し上げた。しかし1952年に動乱後の反動で世界的綿花相場が暴落し、五綿八社の繊維商社群が一斉に屋台骨を揺るがされ、丸紅も銀行借入のタナ上げを依頼する状況に追い込まれた。

1949年12月1日の再発足から半年後、1950年7月に丸紅は大阪証券取引所・東京証券取引所へ株式を上場し、公開企業としての資金調達基盤を整えた。同月勃発の朝鮮動乱は繊維特需を生み、再独立直後の業績を一時押し上げた。1951年11月には丸紅ニューヨーク会社を設立し、戦後の海外拠点網の再構築に着手した。

1952年に入ると環境は一変した。読売新聞は「世界的綿花相場の暴落をうつして繊維市況はついに恐慌状態に陥り、21日も寄付きから大量の投げ物が殺到して商内は前日に引き続いての大混乱」(読売新聞 1952/11/21)と書き、五綿八社の屋台骨は揺れた。市川忍は「丸紅も例外ではない。大ピンチだった。私は銀行、紡績会社をかけずり回り、借金をタナ上げしてもらうよう頼み込んだ」(日本経済新聞「私の履歴書」 1970/1)と記している。綿のれんを伊藤忠に譲って絹・毛・麻・化繊を受け持った分割条件は、皮肉にも綿価暴落の直撃を相対的に軽くする方向に作用した。

歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について

市川忍

1949年の大建産業分割交渉で、丸紅と伊藤忠の財産分けにおける不動産評価の難しさを振り返った述懐

「私と伊藤忠の小菅氏とは商事部門の財産分けについて直接交渉のテーブルにつくことになった。なんといっても最大の焦点は不動産の分割だった。将来にわたる見通しや価格の変動を考えると不動産の評価は非常に難しい。物価の値上がりが激しいときだけに、話し合いの最中にも不動産は急激な勢いで上昇する始末」
市川忍

1949年の大建産業分割でのれん(商権)を綿と非綿で分けた決着過程の述懐、丸紅が綿以外を受け持つ条件で再出発した経緯

「綿ののれんは伊藤忠、その他の絹、毛、麻、化繊は丸紅ということに落ち着いた。綿だけで他の全部の扱い高より多かった時代だし、絹、化繊は綿に比べるともうけの薄い商品でもあった。だが、この分け方はそれまでの両者の実績からいえばやむおえないことだった」
市川忍

1952年の朝鮮動乱後綿価暴落で再独立直後の丸紅が銀行借入のタナ上げを依頼する状況に追い込まれた局面の述懐

「丸紅も例外ではない。大ピンチだった。私は銀行、紡績会社をかけずり回り、借金をタナ上げしてもらうよう頼み込んだ。これからのことを考えると眠れない日も続いた。社員の中にも"もうだめか"と不安ムードがつのるばかりである」
読売新聞

1952年11月の動乱後綿価暴落の同時代報道、五綿八社の繊維商社群が屋台骨を揺るがされた局面の記録

「世界的綿花相場の暴落をうつして繊維市況はついに恐慌状態に陥り、21日も寄付きから大量の投げ物が殺到して商内は前日に引き続いての大混乱、立会い時間も40分以上遅延する騒ぎとなった」
読売新聞

1953年の旧三菱商事系合同を受け、戦後再独立直後の五綿(日綿・東棉・伊藤忠・丸紅・江商)が再編圧力に直面していた業界状況の記録

「とくに旧三井物産は商事と両雄をなしていただけに、これに刺激を受けて合併機運が促進されるものとみられ、その他いわゆる五綿と称される日綿、東棉、伊藤忠、丸紅、江商もなんらかの強化策を取らざるをえないであろう」

参考文献

  • 有価証券報告書
  • 丸紅・社史
  • 日本経済新聞「私の履歴書」 1970/1(市川忍)
  • 読売新聞 1952/11/21
  • 読売新聞 1953/12/10
  • 日本経済新聞「私の履歴書」 1970/1