ファミリーマート:全家便利商店による台湾進出と伊藤忠商事の筆頭株主化
1987年〜自前の方式を持って台湾と沖縄へ出る
1987年10月、ファミリーマートは沖縄の百貨店であるリウボウとの合弁で株式会社沖縄ファミリーマートを設立し、翌1988年8月には台湾に全家便利商店股份有限公司を設けた。米国から運営方式を買っていないため海外へ出るときに契約上の制約がなく、国内でも1985年4月に名古屋の株式会社綜合酒販センターと合弁で中部ファミリーマート株式会社を設立し、1993年4月には鹿児島県で株式会社南九州ファミリーマートを設立して、地元の企業と組みながら店を増やした。1988年2月末の店舗数は、中部地区のサブフランチャイズ店約60店と沖縄の開設分を含めて1,320店を超える見込みだった。全家便利商店は台湾で店を増やし続け、2002年2月に現地の店頭市場へ株式を公開した。
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻1号(沖正一郎、1987年12月22日 日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [1]1987年10月、沖縄県に㈱沖縄ファミリーマートを設立(沖縄の百貨店リウボウとの合弁)
- [5]1988年2月には店舗数1,250店超、中部地区のサブフランチャイズ店約60と沖縄の開設分を合わせ1,320店以上の見込み
- ファミリーマート 有価証券報告書【沿革】
- [2]1988年8月、台湾に全家便利商店股份有限公司を設立
- [4]1993年4月、鹿児島県に㈱南九州ファミリーマートを設立
- [6]2002年2月、全家便利商店股份有限公司が台湾店頭市場において株式を店頭公開
- 証券 1988年40巻1号(新規上場会社紹介)
- [3]1985年4月、㈱綜合酒販センターと合弁会社・中部ファミリーマート㈱を設立し中部地域での店舗開設を開始
堤清二氏のもとでセゾングループは西武百貨店から西友・パルコ・ファミリーマート・クレディセゾンへと事業を広げ、1970年代後半から1980年代前半にかけて総合生活産業と呼ばれる姿を作った。ファミリーマートはその流通部門の一角として経営理念に"協業の精神"を掲げ、グループで蓄えた運営ノウハウと情報を加盟者へ渡して共に稼ぐという考え方を取った。加盟店から毎日の売上金を預かり、仕入代金の支払いを本部が代行する仕組みも整え、その立替にかかる金利を公定歩合に1%を上乗せした水準に抑えた。商品を各店へ直接配送できない仕入先は、業務委託先である西友の流通センターへ持ち込み、そこから各店舗へ運ばれた。もっともセゾングループ自体はバブル期の事業拡大が裏目に出て、崩壊後は多額の借入金を抱えることになる。
- 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
- [7]堤清二が率いる西武百貨店(セゾングループ)は西友、パルコ、ファミリーマート、クレディセゾンと事業を開拓し、昭和50年代(1975〜1984年)に総合生活産業としての地歩を築いた
- [12]セゾンはバブル期に積極的に事業を拡大したことが裏目に出て、バブル崩壊以降は多大の借金に苦しむこととなった
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻1号(沖正一郎、1987年12月22日 日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [8]経営理念は「協業の精神」。西武のセゾン・グループとして習得したノウハウや情報をフランチャイジーに提供する
- [9]加盟店から毎日送金を受け、仕入代金の支払いはすべて本部が代行する方式
- [10]商品の納入に伴う代金の自動貸付の金利は公定歩合プラス1%(1987年12月時点で3.1%)
- 証券 1988年40巻1号(新規上場会社紹介)
- [11]店舗に直接商品を配送できない仕入先は、業務委託先である㈱西友の流通センターに商品を持ち込み、そこから各店舗へ配送される体制だった
参考文献[1]-[12]
- [1]1987年10月、沖縄県に㈱沖縄ファミリーマートを設立(沖縄の百貨店リウボウとの合弁)
- [5]1988年2月には店舗数1,250店超、中部地区のサブフランチャイズ店約60と沖縄の開設分を合わせ1,320店以上の見込み
- [8]経営理念は「協業の精神」。西武のセゾン・グループとして習得したノウハウや情報をフランチャイジーに提供する
- [9]加盟店から毎日送金を受け、仕入代金の支払いはすべて本部が代行する方式
- [10]商品の納入に伴う代金の自動貸付の金利は公定歩合プラス1%(1987年12月時点で3.1%)
- ファミリーマート 有価証券報告書【沿革】
- [2]1988年8月、台湾に全家便利商店股份有限公司を設立
- [4]1993年4月、鹿児島県に㈱南九州ファミリーマートを設立
- [6]2002年2月、全家便利商店股份有限公司が台湾店頭市場において株式を店頭公開
- [3]1985年4月、㈱綜合酒販センターと合弁会社・中部ファミリーマート㈱を設立し中部地域での店舗開設を開始
- [11]店舗に直接商品を配送できない仕入先は、業務委託先である㈱西友の流通センターに商品を持ち込み、そこから各店舗へ配送される体制だった
- [7]堤清二が率いる西武百貨店(セゾングループ)は西友、パルコ、ファミリーマート、クレディセゾンと事業を開拓し、昭和50年代(1975〜1984年)に総合生活産業としての地歩を築いた
- [12]セゾンはバブル期に積極的に事業を拡大したことが裏目に出て、バブル崩壊以降は多大の借金に苦しむこととなった
1991年〜伊藤忠商事から送り込まれた経営者
1991年4月、伊藤忠商事で専務を務めた後藤茂氏がファミリーマートへ入社し、翌5月に副社長、1992年5月に社長へ就任した。後藤氏は1931年に京都府野田川町の丹後ちりめん問屋に生まれ、1954年に慶応義塾大学経済学部を卒業して伊藤忠商事へ入り、航空機と電子機械の分野を歩いて人工衛星や情報機器の取引を手がけた。北米総支配人と伊藤忠アメリカ社長を歴任し、海外駐在は10年に及んだ。1982年に取締役、1985年に常務、1989年に専務へ進み、電子機器に強い伊藤忠商事を作った功労者として知られていた。招かれた経緯には、前社長の沖正一郎氏が同じ伊藤忠商事の出身であったことがある。セゾングループ代表の堤清二氏と、米国法人時代にセミナーで同席した縁も重なった。
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- [13]1991年4月ファミリーマート入社、5月副社長、1992年5月社長就任(伊藤忠商事では1982年取締役、1985年常務、1986年伊藤忠アメリカ社長、1989年専務)
- [14]1931年京都府野田川町生まれ。実家は丹後ちりめん問屋。1954年慶応大学経済学部卒、同年伊藤忠商事入社
- [15]航空機・電子機械畑を歩き、人工衛星や情報機器などの取引を手掛けた
- [16]北米総支配人、伊藤忠アメリカ(現・伊藤忠インターナショナル)社長を歴任し、海外駐在は10年
- [17]伊藤忠商事で1982年に取締役、1985年に常務、1989年に専務へ就任
- [18]人工衛星や情報機器などの取引を手掛け、エレクトロニクスに強い伊藤忠をつくった功労者として知られた
- [19]ファミリーマートへ転じたのは、沖正一郎前社長が伊藤忠出身であったことによる
- [20]堤清二セゾングループ代表とは、米国法人時代に国際問題のセミナーでパネラーとして同席したことがある縁
ファミリーマートはセゾングループのなかで稼ぎ頭の一つに数えられていた。その店々には日に延べ200万人が訪れ、後藤茂氏はこれを大衆消費者と結びつく巨大な媒体と見なした。もっとも、商社で数千万円から億円単位の取引に携わってきた同氏には、店舗面積30坪で日商50万円から60万円という尺度はなじみがなく、とまどうのも無理はなかった『店舗面積30坪(約100平方メートル)で日商50万円、60万円の事業感覚にはカルチャーショックを覚えた』。社長に就くと、社会への影響力の大きさを自覚し、大企業に見合う実力と風格を備えるよう社内に繰り返し求め、競争の激化と景気の後退を挙げて気を緩めるなと締め付けた。休日には一人の消費者として競合の店を回り、自社の店との差を確かめた。すべて自分で納得しないと気が済まない性分だった。
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- [21]ファミリーマートはセゾングループで高収益を誇っていた
- [22]毎日延べ200万人が来店するコンビニチェーンは大衆消費者に接する巨大メディアであり、さまざまな商品を扱えると述べた
- [23]店舗面積30坪(約100平方メートル)で日商50万円、60万円という事業感覚に戸惑いを隠せなかった
- [24]社長就任後、社会への影響力が大きいことを自覚して大企業としての実力と風格を身につけてほしいと、ことあるごとに口にした
- [25]コンビニ業界は競争激化と景気後退で安穏としてはいられないとして社内を引き締めた
- [26]早歩きのウォーキングの途中で競合他社のコンビニ店に入り、消費者感覚で自社チェーンとの違いを点検していた
- [27]「すべて自分で納得しないとイヤな性分」と評された
株式の過半は西友が握り続けた。1987年2月末で西友が発行済株式の58.4%、有楽町西武が11.4%を持ち、堤清二氏個人も3.4%を保有していた。上場時の役員には、取締役会長として高丘季昭氏が、取締役相談役として堤清二氏が名を連ねている。公募増資を経て発行済株式総数は2,100万株、資本金は57億1,000万円になった。一方で社長の席は、1981年の設立時に就任した沖正一郎氏も、1992年に引き継いだ後藤茂氏も、伊藤忠商事の出身者で占められた。沖氏は社長を譲ったあとも代表取締役として残った。資本と役員の上ではセゾングループ、社長の系譜では伊藤忠商事という二重の構えが、設立から10年を超えて続いた。
- 証券 1988年40巻1号(新規上場会社紹介)
- [28]1987年2月28日現在の大株主は西友58.4%、有楽町西武11.4%
- [29]1987年2月28日現在、堤清二が600,000株(発行済株式総数の3.4%)を保有
- [30]上場時の役員は取締役会長・高丘季昭、取締役相談役・堤清二、取締役副社長・小林邦彦ほか
- [32]初代社長は伊藤忠商事出身の沖正一郎(1981年9月就任)
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻1号(沖正一郎、1987年12月22日 日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [31]上場に伴う公募増資の結果、発行済株式総数は2,100万株、資本金は57億1,000万円となった
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- [33]1992年5月に社長へ就任した後藤茂は伊藤忠商事の専務出身
- [34]1992年11月時点で沖正一郎は前社長・現代表取締役
参考文献[13]-[34]
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- [13]1991年4月ファミリーマート入社、5月副社長、1992年5月社長就任(伊藤忠商事では1982年取締役、1985年常務、1986年伊藤忠アメリカ社長、1989年専務)
- [14]1931年京都府野田川町生まれ。実家は丹後ちりめん問屋。1954年慶応大学経済学部卒、同年伊藤忠商事入社
- [15]航空機・電子機械畑を歩き、人工衛星や情報機器などの取引を手掛けた
- [16]北米総支配人、伊藤忠アメリカ(現・伊藤忠インターナショナル)社長を歴任し、海外駐在は10年
- [17]伊藤忠商事で1982年に取締役、1985年に常務、1989年に専務へ就任
- [18]人工衛星や情報機器などの取引を手掛け、エレクトロニクスに強い伊藤忠をつくった功労者として知られた
- [19]ファミリーマートへ転じたのは、沖正一郎前社長が伊藤忠出身であったことによる
- [20]堤清二セゾングループ代表とは、米国法人時代に国際問題のセミナーでパネラーとして同席したことがある縁
- [21]ファミリーマートはセゾングループで高収益を誇っていた
- [22]毎日延べ200万人が来店するコンビニチェーンは大衆消費者に接する巨大メディアであり、さまざまな商品を扱えると述べた
- [23]店舗面積30坪(約100平方メートル)で日商50万円、60万円という事業感覚に戸惑いを隠せなかった
- [24]社長就任後、社会への影響力が大きいことを自覚して大企業としての実力と風格を身につけてほしいと、ことあるごとに口にした
- [25]コンビニ業界は競争激化と景気後退で安穏としてはいられないとして社内を引き締めた
- [26]早歩きのウォーキングの途中で競合他社のコンビニ店に入り、消費者感覚で自社チェーンとの違いを点検していた
- [27]「すべて自分で納得しないとイヤな性分」と評された
- [33]1992年5月に社長へ就任した後藤茂は伊藤忠商事の専務出身
- [34]1992年11月時点で沖正一郎は前社長・現代表取締役
- [28]1987年2月28日現在の大株主は西友58.4%、有楽町西武11.4%
- [29]1987年2月28日現在、堤清二が600,000株(発行済株式総数の3.4%)を保有
- [30]上場時の役員は取締役会長・高丘季昭、取締役相談役・堤清二、取締役副社長・小林邦彦ほか
- [32]初代社長は伊藤忠商事出身の沖正一郎(1981年9月就任)
- [31]上場に伴う公募増資の結果、発行済株式総数は2,100万株、資本金は57億1,000万円となった
1995年〜出店競争のなかで落ちた日販と、親会社の交代
コンビニエンスストア業界はやがて大手に集約されていく、というのが1987年12月の講演での沖正一郎氏の見立てだった。それが別の姿で現れたのは1990年代の終わりで、出店競争の過熱にスーパーなど大型店の営業時間延長が重なり、チェーンごとの力量差がはっきりした。1999年の1日あたり平均売上高をみると、ファミリーマートが49万円で頭打ちだったのに、セブン-イレブン・ジャパンは68万円まで伸ばし続けていた。上場した1987年2月期の時点で営業総収入の61.6%は加盟店からの収入であり、本部の稼ぎは加盟店の営業総利益を分け合う形で成り立っているため、1店あたりの日販が下がれば本部の収益の伸びも削られる。店の数を積む速度と、1店が稼ぐ力は、同じ方向を向かなくなっていた。
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻1号(沖正一郎、1987年12月22日 日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [35]コンビニエンスストア業界では大手集中が進むと沖正一郎社長は見通していた
- 日経ビジネス 1999年11月29日号
- [36]出店競争の過熱、スーパーなど大型店の営業時間延長などにより、チェーン間の強弱が鮮明になりつつあった
- [37]1999年時点のファミリーマートの1日当たり平均売上高は49万円で伸び悩んでいた
- [38]1999年時点の1日当たり平均売上高はセブン-イレブン・ジャパンが68万円で最も高く、なお増勢を続けていた
- 証券 1988年40巻1号(新規上場会社紹介)
- [39]1987年2月期の営業総収入19,654百万円のうち加盟店よりの収入は12,102百万円(61.6%)
- [40]本部の収入は加盟店営業総利益からの分配(ロイヤリティ)である
親会社の側の体力は、この間に尽きていた。セゾングループはバブル期の事業の拡大が裏目に出て、崩壊後は多額の借入金を抱えた。西友はすでに1980年8月の中間決算で上場以来はじめての減益に沈んでおり、量販店の本業の立て直しは1980年代を通じて解けないままの課題だった。1998年、ファミリーマートは伊藤忠商事に買収された。伊藤忠商事にとっては社運をかけた買収だった。1987年12月の上場の時点で西友が発行済株式の58.4%を保有していたことに照らせば、11年での交代である。店を増やす速度を競っていた会社は、自らの資本の側で起きた事情によって帰属先を変えた。
- 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
- [41]セゾンはバブル期に積極的に事業を拡大したことが裏目に出て、バブル崩壊以降は多大の借金に苦しむこととなった
- 日経ビジネス 1980年11月3日号
- [42]1980年8月の中間決算で西友ストアーは上場以来はじめての減益となった
- 日経ビジネス 1999年11月29日号
- [43]伊藤忠商事は大手コンビニエンスストアのファミリーマートを買収した
- [44]伊藤忠商事は社運をかけてファミリーマートを買収したと評された
- 証券 1988年40巻1号(新規上場会社紹介)
- [45]1987年2月28日現在の大株主は西友58.4%、有楽町西武11.4%
1999年10月、伊藤忠商事の食品部門出身の田邉充夫氏が社長に就任した。田邉氏は1945年に東京で生まれ、1967年に国際基督教大学を卒業して伊藤忠商事へ入社し、若い頃は飼料原料を扱う部署が長かった。1982年から1984年にかけては社長秘書として2人の社長に仕え、1996年には当時最年少の51歳で取締役となった。座右の銘はチェンジ・オア・ダイで、就任後は現場を回り、自ら弁当を食べて開発の担当者へ意見を伝えた。沖正一郎氏、後藤茂氏に続く3人目の社長も、伊藤忠商事から来た人物だった。株式の名義は西友から伊藤忠商事へ移ったが、社長の出身母体は設立から一度も変わらなかった。
- 日経ビジネス 1999年11月29日号
- [46]1999年10月、伊藤忠商事の食品部門出身の田邉充夫がファミリーマート社長に就任
- [47]田邉充夫は1945年2月3日東京都生まれ。1967年3月国際基督教大学教養学部卒業、同年4月伊藤忠商事入社
- [48]若い頃は飼料原料部が長かった
- [49]1982〜1984年に社長秘書として戸崎誠喜、米倉功という2人の社長に仕えた
- [50]1996年に当時最年少の51歳で取締役食品部門長に就任
- [51]田邉充夫の座右の銘は「チェンジ・オア・ダイ(変わるか、さもなくば死か)」
- [52]現場を回るのを好み、昼食にファミリーマートの弁当を食べて開発担当者に自分の意見を伝えていた
- 証券 1988年40巻1号(新規上場会社紹介)
- [53]初代社長は伊藤忠商事出身の沖正一郎(1981年9月就任)
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- [54]1992年5月に社長へ就任した後藤茂は伊藤忠商事の専務出身
参考文献[35]-[54]
- [35]コンビニエンスストア業界では大手集中が進むと沖正一郎社長は見通していた
- 日経ビジネス 1999年11月29日号
- [36]出店競争の過熱、スーパーなど大型店の営業時間延長などにより、チェーン間の強弱が鮮明になりつつあった
- [37]1999年時点のファミリーマートの1日当たり平均売上高は49万円で伸び悩んでいた
- [38]1999年時点の1日当たり平均売上高はセブン-イレブン・ジャパンが68万円で最も高く、なお増勢を続けていた
- [43]伊藤忠商事は大手コンビニエンスストアのファミリーマートを買収した
- [44]伊藤忠商事は社運をかけてファミリーマートを買収したと評された
- [46]1999年10月、伊藤忠商事の食品部門出身の田邉充夫がファミリーマート社長に就任
- [47]田邉充夫は1945年2月3日東京都生まれ。1967年3月国際基督教大学教養学部卒業、同年4月伊藤忠商事入社
- [48]若い頃は飼料原料部が長かった
- [49]1982〜1984年に社長秘書として戸崎誠喜、米倉功という2人の社長に仕えた
- [50]1996年に当時最年少の51歳で取締役食品部門長に就任
- [51]田邉充夫の座右の銘は「チェンジ・オア・ダイ(変わるか、さもなくば死か)」
- [52]現場を回るのを好み、昼食にファミリーマートの弁当を食べて開発担当者に自分の意見を伝えていた
- [39]1987年2月期の営業総収入19,654百万円のうち加盟店よりの収入は12,102百万円(61.6%)
- [40]本部の収入は加盟店営業総利益からの分配(ロイヤリティ)である
- [45]1987年2月28日現在の大株主は西友58.4%、有楽町西武11.4%
- [53]初代社長は伊藤忠商事出身の沖正一郎(1981年9月就任)
- [41]セゾンはバブル期に積極的に事業を拡大したことが裏目に出て、バブル崩壊以降は多大の借金に苦しむこととなった
- 日経ビジネス 1980年11月3日号
- [42]1980年8月の中間決算で西友ストアーは上場以来はじめての減益となった
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- [54]1992年5月に社長へ就任した後藤茂は伊藤忠商事の専務出身
筆者考察
1990年代の後半に起きたのは、その二重の構えが株主の側から崩れたことである。セゾングループはバブル期の事業拡大が裏目に出て多額の借入金を抱え、1998年にファミリーマートの株式は伊藤忠商事へ移った。一方でファミリーマート自身も、出店の競争が過熱するなかで1店の稼ぐ力を落としていた。1999年の1日あたり平均売上高は、セブン-イレブン・ジャパンの68万円に対して49万円である。店の数を積む速度と、1店が稼ぐ力は、この時期に逆を向いた。名義が伊藤忠商事へ替わっても、社長の出身母体は1981年の設立時から一度も替わっていない。
1987年〜1999年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1987年02月期 | 単体 | 197 | n/a | 30 | 12 | 6.1% | n/a |
| 1988年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1993年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1994年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1995年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1996年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1997年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1998年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1999年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:証券 1988年40巻1号「株式会社ファミリーマート」新規上場会社紹介
出典・参考
7件
- ファミリーマート 有価証券報告書【沿革】
- 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「流通-コンビニエンスストアの台頭」
- 日経ビジネス 1980年11月3日号
- 証券アナリストジャーナル 1988年26巻1号(沖正一郎、1987年12月22日 日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- 証券 1988年40巻1号(新規上場会社紹介)
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- 日経ビジネス 1999年11月29日号