米ビクターの日本法人としての創業と四度に及ぶ資本の変遷
高率関税を避ける国産化拠点として生まれた外資系会社は、なぜ資本の主を次々と替えていったか
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- 概要
- 1927年、米ビクタートーキングマシン社が高率の輸入関税を避ける国産化拠点として、資本金200万円を全額出資して横浜に日本ビクター蓄音器を設立した創業の判断。レコードと蓄音器の製造販売から出発し、「音に生きるビクター」の伝統がここに始まった。
- 背景
- 当時、舶来品には1割の輸入税が課され、米ビクター製品の日本での拡販には限界があった。国産化して関税を回避する必要が、日本法人の設立をうながした。
- 内容
- 外資系の現地法人として発足したのち、資本の主体は次々に入れ替わった。1929年に三菱合資・住友合資が資本参加して日米合弁となり、1937年に東京芝浦電気が資本参加、1938年に米RCAが資本を撤収、戦時下の1943年には軍管理工場として日本音響へ改称した。戦後の1954年に松下電器産業の資本参加を受けた。
- 含意
- 米ビクター、国内財閥、東芝、そして松下へと資本主体を渡り歩いた出自は、独立して上場を保ちながらも親会社に事業の帰属を左右される、同社の生涯にわたる性格を早くに形づくった。
出自が定めた性格
日本ビクターの創業は、自前の技術や資本から会社を起こす通常の起業とは性格が異なる。関税を避けるための国産化拠点として外国企業が全額を出資し、その資本がやがて撤収したあとは、国内の財閥や電機メーカーが代わる代わる株主の座を占めた。会社の顔である蓄音器とレコードは一貫していたが、資本の帰属は落ち着かなかった。強い技術と製品を持ちながら、資本の主体を自ら選べない構造が、創業の時点で刻まれていたとみることができる。
この出自は、同社の歴史を通じて二つの顔をのぞかせた。ひとつは、松下という後ろ盾を得て赤字続きの会社を優良企業へ立て直し、親会社の量産・販売力を借りてVHSの世界標準化を成し遂げた強みの側面である。もうひとつは、業績が傾いたときに親会社の売却判断に自らの帰属を委ねざるをえない弱さの側面であった。独立性を持たない名門という言い方が当たるとすれば、その性格は経営の巧拙よりも、1927年という創業の設計そのものに根を持っていたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
音の国産化拠点として生まれた外資系会社
日本ビクターは、米国のレコード・蓄音器メーカーであるビクタートーキングマシン社の日本法人として生まれた。1927年9月、同社が資本金200万円を全額出資し、横浜市南区中村町に日本ビクター蓄音器が設立された。社名が示すとおり、当初はレコードと蓄音器の製造販売を担う会社であり、のちに同社の代名詞となる「音に生きるビクター」の伝統は、この創業に始まっている。初代社長には米国から派遣されたB・ガードナー氏が就いた[1]。
米ビクターが日本に現地法人を置いた理由は、関税にあった。当時、舶来品には1割の輸入税が課され、輸入に頼るかぎり米ビクター製品の日本での拡販には限界があった。関税を避けて日本国内で生産する必要が、日本ビクターの設立をうながした大きな要因となった。設立後は横浜工場を建設し、1930年には蓄音器レコード工場として東洋一と称された新鋭設備の工場を完成させ、赤盤と親しまれた洋楽レコードや邦楽盤、劇場用の再生装置などを世に送り出していった[2]。
決断
資本の主体が次々に渡った出自
外資系の現地法人として出発した日本ビクターは、以後、資本の主体を短い間隔で入れ替えていった。1929年1月に三菱合資と住友合資が資本参加して日米合弁の体裁を整え、1937年12月には東京芝浦電気が資本参加した。翌1938年2月には米RCAが資本を撤収し、創業の親であった米国資本は経営から退いた。外国資本の全額出資に始まりながら、国内の財閥資本と電機資本が代わる代わる株主に加わる構図であった[3]。
太平洋戦争下では、外来語を冠した社名や外資との縁が経営の重荷となった。1943年4月、同社は軍管理工場として日本音響へ商号を変え、終戦後の1945年12月に日本ビクターへ改称して再出発した。創業から20年に満たない間に、米ビクター、国内財閥、東芝、戦時管理へと資本と経営の主体は渡り歩き、戦後の再建は資本の裏付けを欠いたまま始まった。この不安定な出自が、次の親会社を求める展開へとつながっていく[4]。
結果
松下傘下での再建と「独立性なき名門」
戦後の経営難のなかで、日本ビクターは新たな資本の支えを松下電器産業に求めた。1954年2月に松下電器産業の資本参加を受け、初代の社長には元海軍大将の野村吉三郎氏が就いた。松下の傘下に入ったことで再建は軌道に乗り、終戦以来ほとんど赤字続きであった業績は、1954年3月期以降、毎期2割の安定配当を行う優良会社へと転じた。電気蓄音器ではビクターの独走が続き、全国生産の6割超を占めた時期もあった[5]。
米ビクターに始まり、国内財閥、東芝、そして松下へと資本主体を渡り歩いた経緯は、日本の電機メーカーのなかでも類例が少ない。同社は独立した上場会社でありながら、規格や事業の重要な選択で親会社の意向と無縁ではいられない立場に置かれ続けた。1976年のVHS方式では親会社である松下の採用を勝ち取ったことが標準化の決め手となり、2007年からの経営再建では松下がビクターを手放す判断を下した。半世紀を超えて続いた松下との関係は、創業時に定まった「資本の主を持つ会社」という出自の延長線上にあったとみることができる[6]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- マネジメント(1955年10月号)
- 日本ビクター 有価証券報告書【沿革】