1960年 大学新聞広告社(個人事業)を創業
大手銀行に門前払いされた23歳の江副浩正が、父の家屋を担保に芝信用金庫から300万円を借り、1960年3月に東京都港区で大学新聞広告社を個人創業。1962年に就職情報誌「企業への招待」を創刊し、1日12社訪問・成約率10%の足で広告主を開拓した。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 江副浩正は1960年3月に東京大学教育学部を卒業し、同月に東京都港区で大学新聞広告社を個人創業した。東大新聞会で培った大学新聞の編集・営業経験を基礎に、大学進学者数の急増と企業の学生向け広告手段の欠如という構造的空白に対し、複数の大学新聞の求人広告を一手に取り扱う代理業として23歳で起業した。
- 創業資金は大手銀行に相手にされず、父の土地・家屋を担保に芝信用金庫田村町支店から二度の交渉で引き出した300万円が出発点となった。1960年10月に㈱大学新聞広告社(後の㈱大学広告)として資本金60万円で法人化、1961年の初年度売上は450万円規模で、自己資本ではなく借入で運転資金を回す構造が創業時点から組み込まれた。
- 1962年に就職情報誌「企業への招待」を創刊し、1日12社訪問・成約率10%の積み上げで創刊号66社の掲載を実現、1960年代後半に年間発行部数17万部へ到達した。1963年4月に㈱日本リクルートメントセンター、同年8月に㈱日本リクルートセンターを設立、1971年4月西新橋本社ビル竣工、1976年1月住宅情報創刊、1980年とらばーゆ創刊、1984年4月に㈱リクルートへ改称した。
大学新聞への求人広告取次という未開拓領域を23歳の江副が東大新聞会の編集・営業経験を足場に立ち上げ、媒体発行と広告主開拓を自社で兼ねる構造を確立、1日12社訪問・成約率10%の足で稼ぐ営業文化を1960年代後半までに組織へ根づかせた。
創業時は大手銀行に相手にされず父の土地・家屋を担保に芝信用金庫田村町支店から300万円を借入、1960年10月の法人化時の資本金は60万円、自己資本ではなく借入で運転資金を回す構造が創業時点から組み込まれ、1971年4月の西新橋本社ビル取得(約11億円)へ続く土地担保借入のパターンを形成した。
1960年の大学新聞広告取次から1962年「企業への招待」創刊で冊子媒体へ発展、1976年「住宅情報」、1980年「とらばーゆ」、1984年「カーセンサー」と就職以外の生活領域へ媒体自製・広告主直開拓モデルを横展開し、創業10年で就職情報誌の年間17万部、創刊20年余で住宅情報の週刊22万部・売上150億円規模へ到達した。
大学新聞代理として旧帝大・有名私大の学生新聞と広告主企業の双方が初期顧客となり、1962年の「企業への招待」では中堅・中小企業を含む大学生求人需要を持つ200社規模の採用担当者を1日12社の訪問で開拓、1966年ダイヤモンド社「就職ガイド」の参入後も訪問件数勝負の営業で広告主接点を確保した。
1960年3月の個人創業時は江副本人を含む数名から出発、1960年10月の法人化時資本金60万円・1961年度売上450万円の体制を経て、1962年の冊子媒体化と1963年の㈱日本リクルートセンター設立を経由して採用人員の本格拡大に入り、1970年代の多角化・1971年西新橋本社竣工の段階で数百名規模の組織へ発展した。
創業地は東京都港区の借家・賃貸オフィスで実体的な設備投資は最小、1960年代は印刷・配本に外部依存し主たる費用は営業人員、1968年の IBM 1130 導入で情報処理基盤を整え、1971年4月に西新橋本社ビルを約11億円で竣工して土地を自社保有する転換点となり、1984年に日本軽金属の銀座本社ビルを取得した。
リクルートHD 創業地の主な拠点一都三県 の地理(大学新聞広告社・創業地 → グラントウキョウサウスタワー)
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1960年3月 なぜ23歳の江副浩正は1960年に大学新聞広告社を創業したのか? | 高度成長前夜の日本で大学進学者数が増えていたにもかかわらず、企業と学生を結ぶ就職情報の流通経路は教授推薦・縁故が中心で未整備だった。中堅・中小企業が学生に直接情報を届ける媒体が存在せず、大学新聞への求人広告取次を学生向け広告媒体として事業化する空白が残されていた。 江副浩正は1960年3月、東京大学教育学部を卒業した。同月、東京都港区で大学新聞広告社を個人創業し、東大新聞会で培った大学新聞の編集・営業の実務経験を事業基盤とした。 当時の採用市場は教授推薦と縁故が主流で、企業側、特に中堅・中小企業には自社の求人情報を学生に届ける手段が乏しかった。一般紙の広告は学生市場に最適化されておらず、大学新聞単体では発行部数も限られた。江副はこの構造的な情報非対称に着目し、複数の大学新聞の求人広告を一手に取り扱う代理業として事業を立ち上げた。EDINET 沿革は創業を「大学新聞に各企業の求人広告を掲載することを目的として」(リクルートHD 有価証券報告書 FY24)と記録している。 |
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| 1960年 なぜ大手銀行に門前払いされた江副が芝信用金庫から300万円を引き出せたのか? | 創業当初の江副には信用も実績もなく大手銀行に相手にされなかったが、芝信用金庫田村町支店に父の土地・家屋を担保として差し入れ二度交渉を重ね、窓口担当者の個人的な賛同を得て300万円の融資が承認された。自己資本ではなく借入で運転資金を確保する構造が創業時点で組み込まれた。 江副は事業資金を確保するため大手銀行を回ったが、創業間もない23歳の若者が持ち込む大学新聞広告取次という新業態には信用が付かず、相手にされなかった。江副は港区の芝信用金庫田村町支店へ直接足を運び、父が他人に貸していた土地と家屋を担保に差し入れ、二度目の交渉で300万円の融資承認を取り付けた。 江副は後年「窓口の人の理解がありまして『担保能力はないし、支店長は心配していたけど、私は、あなたのやろうとしている仕事は絶対に間違いない。あなたなら間違いない、と確信して頑張ったんですよ』と、2回目のお願いで300万円の融資を了承してもらった」(月刊カレント 1987/5)と回想している。この300万円は1960年10月の㈱大学新聞広告社設立時の資本金60万円を上回る規模で、創業初期から借入主導の財務構造が形を取った。 |
| 1962〜1960年代後半 なぜ「企業への招待」は1日12社訪問・成約率10%の営業で広告主を開拓したのか? | 大学新聞の単体広告から冊子媒体「企業への招待」へ事業を発展させたが、無名媒体に広告主を集める手段は足で稼ぐしかなく、創刊号66社の掲載は1日12社の訪問と10%の成約率を積み上げて実現した。訪問件数勝負の営業文化が組織の背骨となり、1966年にダイヤモンド社が同種媒体で参入した後も競争力の源泉として残った。 1962年に就職情報誌「企業への招待」を創刊した。学生向けにダイレクトメールで希望者を募り、当初から1000名以上へ配布する体制を整え、掲載企業からの広告料を収益源とする冊子モデルへ大学新聞広告事業を発展させた。創刊号は66社の掲載で立ち上がったが、その内訳は1日12〜13社を都内で訪問し、商談に進むのは6〜7社、最終成約は10社に1社という打率の積み上げだった。 江副は「200社ばかりの企業を訪ね、採用担当者に直接、意見を聞いて回った。『配本の対象大学はどこに』『事務系と技術系は分けた方がいいか』あるいは『掲載量はいくらぐらいなら参画してもらえるか』と言ったことである。ツカ見本を作って、紙質の良否まで、見込み客に聞いて回った」(Decide 1987/3)と述べている。1966年にダイヤモンド社が「就職ガイド」で参入し売上規模で一時上回ったが、訪問件数で勝負する営業体質が1960年代後半までに組織へ根づき、年間発行部数17万部規模に到達した。 |
| 1963年4月〜8月 なぜ大学新聞広告社は1963年に「日本リクルートセンター」へ社名変更したのか? | 1962年の「企業への招待」創刊で事業の主軸が大学新聞代理業から就職情報誌発行へ移ったため、媒体名を冠する「大学新聞広告社」「大学広告」では業容を表現しきれなくなった。1963年4月にいったん「日本リクルートメントセンター」へ社名変更し、同年8月には現社名の前身となる「日本リクルートセンター」として法人を設立し直した。 1960年10月に法人化された㈱大学新聞広告社、後の㈱大学広告は、大学新聞複数紙の広告を一手に取り扱う代理業として出発した。しかし1962年に就職情報誌「企業への招待」を創刊し、媒体発行と広告主開拓を自社内で兼ねる事業構造に転じたため、社名の「大学新聞」「大学広告」が業容を狭く規定する状況になっていた。 1963年4月に「㈱日本リクルートメントセンター」へ社名変更し、同年8月には新たに「㈱日本リクルートセンター」として当社が設立された。EDINET 沿革は同年8月の設立を「当社」の発足点として記録している(リクルートHD 有価証券報告書 FY24)。媒体名から離れたコーポレートブランドへ移行する判断は、後の住宅情報・カーセンサー・とらばーゆ等の多角化を社名の制約なく展開できる土台になった。 |
| 1971〜1976年 なぜ1976年の住宅情報創刊が情報誌帝国の横展開モデルを確立したのか? | 1971年の西新橋本社ビル竣工で土地保有による信用補完を進めた延長線上で、就職情報で培った「媒体を自社で持ち広告主を自ら開拓する」モデルを別領域へ転用する判断が形を取った。1976年1月の住宅情報創刊は、就職以外の生活領域へリクルート型情報誌を横展開する出発点になり、創刊11ヶ月の赤字を経て後に売上150億円へ到達した。 1971年4月に西新橋へ本社ビルを竣工し、約11億円の投資で土地を取得した。情報を扱う企業が有形資産を自社保有する判断は、信用補完と財務基盤の強化を同時に狙ったもので、後年の不動産傾斜の出発点にもなった。同時期、1968年には日本企業として初めて IBM 1130 を導入し、テスト事業等で情報処理基盤を整備している。 1970年代に分譲住宅需要が拡大し新聞・テレビの不動産広告比率が上昇するなか、江副は「広告は氾濫する一方で供給者と需要者を体系的に結びつける媒体が存在しない」点を機会と捉え、就職情報で確立した媒体自製・広告主直開拓のモデルを不動産領域へ転用した。1976年1月に首都圏向け月刊誌「住宅情報」を創刊、創刊12号目に黒字化を達成し、1982年には週刊化・発行部数22万部・売上150億円規模へ到達した。リクルート型情報誌の横展開は、1980年の「とらばーゆ」、1984年の「カーセンサー」へと続いた。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
1960年の創業時、大手銀行に相手にされず芝信用金庫田村町支店から父の土地・家屋を担保に300万円の融資を取り付けた経緯の回想
「創業当初で信用力はないし、大手の銀行は相手にしてくれない。ということで、芝信用金庫の田村町支店にお願いに行きまして、「これだけの一流企業がこの仕事の必要性を認めているんです。ぜひ面倒を見てください」と頼み込みましてね。もちろん、父が人に貸していた土地、家屋を担保にしての借入だったが、窓口の人の理解がありまして「担保能力はないし、支店長は心配していたけど、私は、あなたのやろうとしている仕事は絶対に間違いない。あなたなら間違いない、と確信して頑張ったんですよ」と、2回目のお願いで300万円の融資を了承してもらった。あの時の言葉は一生、耳にこびりついて離れないでしょうね。」
「企業への招待」(後のリクルートブック系譜)創刊時、見込み顧客の採用担当者へ誌面構成をヒアリングして媒体を組み立てた営業手法の回想
「我々がこの仕事を始めた時、持っていたものといえば、わずかな広告営業の経験と印刷知識だけで、ゼロからのスタートに等しかった。(略)「リクルートブック」を創刊するときにも、どうすれば良いか何もわからなかったので、当然のことながら、「わからないことはお客様に聞く」という方法をとった。大学新聞で取引のあった会社を中心に、200社ばかりの企業を訪ね、採用担当者に直接、意見を聞いて回った。「配本の対象大学はどこに」「事務系と技術系は分けた方がいいか」あるいは「掲載量はいくらぐらいなら参画してもらえるか」と言ったことである。ツカ見本を作って、紙質の良否まで、見込み客に聞いて回った。」
EDINET 提出書類における当社の創業記録、創業年月・所在地・前身社名・事業目的を確定する一次情報
「当社は1960年3月、東京都港区において大学新聞に各企業の求人広告を掲載することを目的として、現在の㈱リクルートホールディングスの前身である「大学新聞広告社」を創業しました。」
創業後の冊子媒体化と法人格の再編経緯、媒体名を冠する社名から「リクルート」コーポレートブランドへの移行記録
「1962年、「企業への招待」を創刊しました。1963年4月、㈱日本リクルートメントセンターに社名を変更しました。同年8月、㈱日本リクルートセンターとして当社を設立しました。」
参考文献
- リクルートHD 有価証券報告書 FY24 沿革
- 月刊カレント 1987/5 江副浩正インタビュー
- リクルートHD 04-decision データ
- 月刊カレント 1987/5
- リクルートHD 04-decision データ(1960年項:資本金60万円・初年度売上450万円)
- Decide 1987/3 江副浩正インタビュー
- リクルートHD 04-decision データ(1962年項・1971年項)
- Decide 1987/3
- 有価証券報告書 FY24(EDINET 沿革)