三浦工業:松山での三浦製作所の創業と精麦・精米機の製造
1927年〜米屋の廃業から松山で興した精米・精麦機の三浦製作所と、終戦後に5人で継いだ工場
三浦製作所は1927年12月、愛媛県松山市で精麦機と精米機の製造と販売を始めた。創業者は三浦保氏の父で、それまで一家は松山の町で米屋を営んでいた。昭和初めの不況のなかで米屋の商いが行き詰まり、父は米の小売をやめ、麦や米を精白する機械の製造へ業種を替えた。1959年5月に株式会社三浦製作所として法人化した際も、事業目的には各種ボイラと並んで精麦・精米機の製造が残っていた。三浦保氏は1928年に松山で生まれ、1994年に三浦工業の会長として父の代の転業の経緯を振り返った。米の精白に何が要るかを家業で知っていたことが、最初の製品に精麦・精米機を選ばせたのだろう。
- 三浦工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1927年12月、精麦・精米機の製造販売のため松山市で三浦製作所を創業。1959年5月の法人化時の目的は各種ボイラ・精麦・精米機の製造
- [4]1927年12月、精麦・精米機の製造販売のため松山市で三浦製作所を創業。1959年5月の法人化時の目的は各種ボイラ・精麦・精米機の製造
- 日経ビジネス 1994年2月14日号(三浦保)
- [2]三浦保は1928年松山生まれ。不況で家業の米屋がつぶれ、父は精米・精麦機械の製造に転業した(1994年の会長談話)
- [3]三浦保は1928年松山生まれ。不況で家業の米屋がつぶれ、父は精米・精麦機械の製造に転業した(1994年の会長談話)
- [5]三浦保は1928年松山生まれ。不況で家業の米屋がつぶれ、父は精米・精麦機械の製造に転業した(1994年の会長談話)
三浦保氏は学校を卒業して大手の機械メーカーに入社し、終戦を機に父の三浦製作所を継いだ。再出発時の陣容は、三浦保氏の妻を含めて5人。個人経営のまま終戦から約14年を過ごした工場は、1959年5月に資本金2百万円の株式会社三浦製作所となり、三浦保氏が代表取締役社長に就任した。同じ年に三浦保氏は自動制御の小型ボイラの開発に成功し、後年これを事業の転機と振り返った。大手機械メーカーで身につけた技術の素地が、継いだ工場を精麦・精米機からボイラへ転じる足場になったと推察される。
- 日経ビジネス 1994年2月14日号(三浦保)
- [6]三浦保は学校卒業後に大手機械メーカーへ就職、終戦とともに父の会社を継ぎ妻を含む5人で出発。1959年に自動制御の小型ボイラー開発に成功し転機とした
- [7]三浦保は学校卒業後に大手機械メーカーへ就職、終戦とともに父の会社を継ぎ妻を含む5人で出発。1959年に自動制御の小型ボイラー開発に成功し転機とした
- [9]三浦保は学校卒業後に大手機械メーカーへ就職、終戦とともに父の会社を継ぎ妻を含む5人で出発。1959年に自動制御の小型ボイラー開発に成功し転機とした
- 三浦工業 有価証券報告書【沿革】
- [8]1959年5月、松山市宮田町に株式会社三浦製作所を設立(資本金2百万円、代表取締役社長 三浦保)
参考文献[1]-[9]
- 三浦工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1927年12月、精麦・精米機の製造販売のため松山市で三浦製作所を創業。1959年5月の法人化時の目的は各種ボイラ・精麦・精米機の製造
- [4]1927年12月、精麦・精米機の製造販売のため松山市で三浦製作所を創業。1959年5月の法人化時の目的は各種ボイラ・精麦・精米機の製造
- [8]1959年5月、松山市宮田町に株式会社三浦製作所を設立(資本金2百万円、代表取締役社長 三浦保)
- 日経ビジネス 1994年2月14日号(三浦保)
- [2]三浦保は1928年松山生まれ。不況で家業の米屋がつぶれ、父は精米・精麦機械の製造に転業した(1994年の会長談話)
- [3]三浦保は1928年松山生まれ。不況で家業の米屋がつぶれ、父は精米・精麦機械の製造に転業した(1994年の会長談話)
- [5]三浦保は1928年松山生まれ。不況で家業の米屋がつぶれ、父は精米・精麦機械の製造に転業した(1994年の会長談話)
- [6]三浦保は学校卒業後に大手機械メーカーへ就職、終戦とともに父の会社を継ぎ妻を含む5人で出発。1959年に自動制御の小型ボイラー開発に成功し転機とした
- [7]三浦保は学校卒業後に大手機械メーカーへ就職、終戦とともに父の会社を継ぎ妻を含む5人で出発。1959年に自動制御の小型ボイラー開発に成功し転機とした
- [9]三浦保は学校卒業後に大手機械メーカーへ就職、終戦とともに父の会社を継ぎ妻を含む5人で出発。1959年に自動制御の小型ボイラー開発に成功し転機とした
出典・参考
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- 三浦工業 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1994年2月14日号(三浦保)