第2章 年〜年

三菱鉱業セメント:高木作太社長の多角化検討と別会社三菱セメントの設立

1950年〜高炭価問題と4,000人におよぶ人員整理

一般産業界が反動不況に沈んでいた時期にも、石炭だけは売り手市場が続いていた。そのため各社は原料炭を軸に値上げを重ね、1949年末ごろから鉄鋼業界を中心に出ていた高炭価をめぐる議論に、みずから拍車をかけた。そこへ労働側が、会社側の賃金据え置き案を拒んで大幅な賃上げを要求し、政府が緊急調整を発動するまで63日間ストライキを続けた。この争議を見た需要家は、石炭の供給に不安を抱いた。高い炭価と重なって、重油への切り替えが早まった。スト対策として緊急輸入した石炭96万トンのうち56万トンがスト後にずれ込んで入着し、以後の販売に致命的な打撃を与えた。エネルギー革命は、需要家の側から石炭産業へ押し寄せてきた。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
    • [1]一般産業界が反動不況に陥っているときも石炭は売り手市場だったため、石炭各社は原料炭を中心にさらに値上げに踏み切り高炭価問題を促進した
    • [2]1949年末ごろから鉄鋼業界から高炭価論議が出ていた
    • [3]会社側が提案した賃金据え置きに炭労が強く反対して大幅ベースアップを要求し、政府の緊急調整発動による終息まで63日にわたる長期ストが行われた
    • [4]長期ストはユーザー側に石炭供給への不安感を与え、高炭価とあわせて重油転換を急速に推進しエネルギー革命を促進した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第4節 反動不況と企業整備
    • [5]スト対策用の緊急輸入炭96万トンのうち56万トンがスト後に時期がずれて入着し、以後の石炭販売に致命的な打撃を与えた

当時九州事務所長だった大槻氏が担当したのは、三菱鉱業が1953年7月に提案した4000人規模の人員整理である。背景には、増産の構えを改め、生産を絞りながら合理化を進めるほかなくなった石炭業界の事情があった。炭砿で働く者には九州各地から来た独身者が多く、故郷に帰って農業に就けたため、大きな失業問題には発展しなかった。とはいえ独身者だけでは必要な人数に届かず、家族を持つ者にも対象を広げることになり、会社は職業部を社内に設けて大阪や名古屋へ出向き、再就職先を探した。指名解雇を選んだ三井鉱山とは違い、三菱鉱業は希望退職を募る方法をとった。業界ではこれを皮切りに、大手か中小かを問わず、希望退職の募集や解雇が広がっていった。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
    • [6]大槻文平は1952年2月に九州事務所長へ転任しており、九州地区でこの合理化を進めた
    • [7]三菱鉱業は1953年7月に4000人におよぶ人員整理を提案した
    • [8]石炭各社はこれまでの増産体制を見直し、出炭制限と合理化に取り組まざるをえなくなった
    • [9]当時の炭砿には九州各地から集まった独身者が多く、郷里に帰って農業に従事できたため深刻な失業問題にならなかった
    • [10]社内に職業部を新設して就職斡旋を行い、周辺に有力企業が乏しいため大阪・名古屋へ出張して就職を依頼した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 炭砿の相つぐ閉山
    • [11]1953年の企業整備で三井は指名解雇を実施したのに対し、他社は希望退職で対応した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第4節 反動不況と企業整備
    • [12]1953年7月の三菱鉱業の4000人におよぶ人員整理の提案を皮切りに、大手・中小を問わず希望退職募集や解雇といった人員整理が打ち出された

石炭離れは需要の側から進んでいた。貯炭は膨らみ、三菱鉱業では1952年3月末に11万9000トンだったものが同年9月には21万トンとなった。業界全体の業者・市場貯炭も1953年3月末に524万トンと年初より150万トン増え、5月末には750万トンまで積み上がった。生産を絞ったぶん原価はかさんだのに、需給が崩れて炭価はかえって下がり、現金を得るための投売りも出て、収支は悪くなる一方だった。1952年7月に重油の販売統制が撤廃され、公定価格も数量割当もなくなると、発生炉用炭の需要はそっくり重油へ移った。方城炭・新入炭・美唄炭といった優良炭を抱える分野だったが、全国の需要は1951年の266万トンから1955年には117万トンに落ち込んだ。国もようやく根本からの対策に乗り出し、1955年7月、従来の石炭合理化政策をひとつにまとめた石炭鉱業合理化臨時措置法を制定した。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第4節 反動不況と企業整備
    • [13]三菱鉱業の貯炭は1952年3月末の11万9000トンから同年9月には21万トンへ増大した
    • [14]1953年3月末の業者・市場貯炭は524万トンで年初に比べ150万トン増、5月末には750万トンに達した
    • [15]生産制限によるコスト高とは逆に、需給の不均衡から炭価が値下がりし換金の投売りが行われて収支は悪化の一途をたどった
    • [16]1952年7月に重油の販売統制が解かれて公定価格と数量割当てが廃止され、原重油輸入外貨も十分に割り当てられた
    • [17]三菱鉱業が擁した方城炭・新入炭・美唄炭は発生炉用炭として完全に重油へ代替され、1951年に266万トンだった全国需要は1955年に117万トンへ減少した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 企業整備に追われる
    • [18]政府は高炭価問題の解決のためそれまでの石炭合理化政策を集大成した総合石炭対策の立法化を進め、1955年7月に石炭鉱業合理化臨時措置法を制定した
参考文献[1]-[18]
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
    • [1]一般産業界が反動不況に陥っているときも石炭は売り手市場だったため、石炭各社は原料炭を中心にさらに値上げに踏み切り高炭価問題を促進した
    • [2]1949年末ごろから鉄鋼業界から高炭価論議が出ていた
    • [3]会社側が提案した賃金据え置きに炭労が強く反対して大幅ベースアップを要求し、政府の緊急調整発動による終息まで63日にわたる長期ストが行われた
    • [4]長期ストはユーザー側に石炭供給への不安感を与え、高炭価とあわせて重油転換を急速に推進しエネルギー革命を促進した
    • [6]大槻文平は1952年2月に九州事務所長へ転任しており、九州地区でこの合理化を進めた
    • [7]三菱鉱業は1953年7月に4000人におよぶ人員整理を提案した
    • [8]石炭各社はこれまでの増産体制を見直し、出炭制限と合理化に取り組まざるをえなくなった
    • [9]当時の炭砿には九州各地から集まった独身者が多く、郷里に帰って農業に従事できたため深刻な失業問題にならなかった
    • [10]社内に職業部を新設して就職斡旋を行い、周辺に有力企業が乏しいため大阪・名古屋へ出張して就職を依頼した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第4節 反動不況と企業整備
    • [5]スト対策用の緊急輸入炭96万トンのうち56万トンがスト後に時期がずれて入着し、以後の石炭販売に致命的な打撃を与えた
    • [12]1953年7月の三菱鉱業の4000人におよぶ人員整理の提案を皮切りに、大手・中小を問わず希望退職募集や解雇といった人員整理が打ち出された
    • [13]三菱鉱業の貯炭は1952年3月末の11万9000トンから同年9月には21万トンへ増大した
    • [14]1953年3月末の業者・市場貯炭は524万トンで年初に比べ150万トン増、5月末には750万トンに達した
    • [15]生産制限によるコスト高とは逆に、需給の不均衡から炭価が値下がりし換金の投売りが行われて収支は悪化の一途をたどった
    • [16]1952年7月に重油の販売統制が解かれて公定価格と数量割当てが廃止され、原重油輸入外貨も十分に割り当てられた
    • [17]三菱鉱業が擁した方城炭・新入炭・美唄炭は発生炉用炭として完全に重油へ代替され、1951年に266万トンだった全国需要は1955年に117万トンへ減少した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 炭砿の相つぐ閉山
    • [11]1953年の企業整備で三井は指名解雇を実施したのに対し、他社は希望退職で対応した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 企業整備に追われる
    • [18]政府は高炭価問題の解決のためそれまでの石炭合理化政策を集大成した総合石炭対策の立法化を進め、1955年7月に石炭鉱業合理化臨時措置法を制定した

1952年〜調査部が並べた候補のなかからセメントを選ぶ

三菱鉱業の首脳部は、金属部門の分離によって経営体質が戦前より弱くなったことを、石炭好況のさなかでも認識していた。石炭と金属の相互補完によって景気変動への抵抗力を備えていた会社が、石炭専業となって経営規模を半分に縮めたからである。高木作太社長は1952年1月4日の本店年始交歓会で調査・企画部門の新設を提唱し、本店の関係各部がただちに具体化の手続を進めた。同月31日の取締役会で2月1日付の調査部設置が決まり、社業に関連する国内の新規事業と海外の事業の調査・企画を分掌させることとされた。調査部は国内を受け持つ第一課と海外を受け持つ第二課の2課制を採り、部長には九州事務所長だった山中正夫氏が起用された。多角化は年頭の辞から組織の形へ移された。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第3節 多角化戦略の始動
    • [19]三菱鉱業の首脳部は金属部門分離の結果として経営体質が戦前に比べ弱体化した事実を石炭好況のなかでも十分認識していた
    • [20]戦前は石炭部門と金属部門の相互補完により景気変動への強い抵抗力を持っていたが、金属部門の分離で経営規模が半分に縮小し抵抗力も乏しくなった
    • [22]1952年1月31日の取締役会で2月1日付の調査部設置と、社業に関連のある国内の新規事業ならびに海外事業の調査・企画に関する事項の分掌が決定された
    • [23]調査部は国内新規事業を担う第一課と海外事業を担う第二課の2課制を採り、調査部長には九州事務所長の山中正夫が起用された
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [21]1952年1月4日の本店年始交歓会で高木作太社長が調査・企画部門の新設を提唱した

候補をふるい分ける基準には、本業の石炭事業とどれだけ関わるか、石炭をどの程度使うか、三菱系各社の既存事業とぶつからないかが据えられた。肥料、海運、ガス、コークス、セメントといった新事業について、見込みと優劣を比べたのは新たに設けられた調査部である。最初に狙ったのは景気がよく石炭を大量に使う肥料で、東北肥料を買い取って一挙に参入する構想もあったが、三菱化成工業とぶつかると見て、1952年5月ごろ手持ちの株式を太平鉱業に譲渡し、撤退した。ボルネオをはじめ東南アジアでも資源を調べたが、政情が不安定で賠償問題も片づいていないことから進出は見送った。同じ年の5月中旬には、日本アルミニウムから黒崎工場をうまく生かす方法を相談したいと持ちかけられ、調査部は工場の調査と視察に応じることにした。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第3節 多角化戦略の始動
    • [24]調査部は石炭事業との関連性、石炭使用の程度、三菱系各社の既存事業との競合関係を基準として成長産業と目される事業を取り上げ調査した
    • [26]石炭の大口需要者で好況下にあった肥料に注目して東北肥料の買収を計画したが、三菱化成工業との競合になるとの判断により1952年5月ごろ取得済みの株式を太平鉱業に譲渡して手を引いた
    • [27]海外事業では東南アジアのボルネオその他で資源調査を行ったが、政情の不安定・賠償問題の未解決・経済情勢を理由に進出を見合わせた
    • [28]1952年5月中旬ごろ日本アルミニウムから黒崎工場の有利活用方法について打合せたいとの申入れがあり、同工場の調査・視察について合意が成立した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [25]新設された調査部を中心に肥料・海運・ガス・コークス・セメントなど新規事業の可能性と優劣が検討された

石炭費が製造原価の40%を占めるセメントでは、2大主要原料の石炭と石灰石をともに持つ会社こそ進出の条件を十分に満たしている——首脳部に上げた具申の文面で、調査部はこう論じた。需給の見込み、技術、石炭事業とのつながりのいずれから見ても、三菱鉱業が手がけるべきはセメントだと、調査部は1952年8月ごろには固く信じるようになっていた。有望と見た根拠は4点に整理される。三菱グループの各社と競合しない、手持ちの技術を応用できる、需要の伸びが今後見込める、そして石炭の安定した売り先になる、という点である。石灰石については1952年4月に方城鉱業所へ福岡県田川地区の、6月には大分県津久見地区の鉱区調査を指示していた。平尾台南東斜面の福岡県京都郡諫山村地区に膨大な埋蔵量の石灰山があり買収も可能との情報が得られ、同年8月以降の現地調査で鉱量・品位ともに十分な経済価値を持つことが確かめられた。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第3節 多角化戦略の始動
    • [29]調査部の具申書はセメント工業の製造原価中で石炭費の占める割合が40%に達すること、2大主要原料である石炭と石灰石をともに所有する三菱鉱業は進出の条件を十分備えていることを挙げた
    • [30]1952年8月ごろ調査部は、セメント事業が需給見通し・技術・石炭事業との関連性・国家的意義から見て三菱鉱業に最もふさわしいとの確信を抱くに至った
    • [32]調査部は1952年4月に方城鉱業所へ福岡県田川地区の石灰石鉱区調査を、6月に大分県津久見地区の石灰石鉱区調査を指示していた
    • [33]津久見地区は大手各社と地元資本が入り乱れて稼行しており見通し困難とされた一方、平尾台南東斜面の福岡県京都郡諫山村地区には膨大な埋蔵量の石灰山があり買収も可能との情報が得られた
    • [34]1952年8月以降の現地調査と地表調査・サンプル分析により、諫山地区の石灰山が鉱量・品位ともに十分な経済価値を有することが明らかになった
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [31]セメントが最も有望とされた理由は、三菱グループ各社と競合しないこと、保有技術が応用できること、将来の需要増が見込めること、石炭の安定需要先となることの4点だった
参考文献[19]-[34]
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第3節 多角化戦略の始動
    • [19]三菱鉱業の首脳部は金属部門分離の結果として経営体質が戦前に比べ弱体化した事実を石炭好況のなかでも十分認識していた
    • [20]戦前は石炭部門と金属部門の相互補完により景気変動への強い抵抗力を持っていたが、金属部門の分離で経営規模が半分に縮小し抵抗力も乏しくなった
    • [22]1952年1月31日の取締役会で2月1日付の調査部設置と、社業に関連のある国内の新規事業ならびに海外事業の調査・企画に関する事項の分掌が決定された
    • [23]調査部は国内新規事業を担う第一課と海外事業を担う第二課の2課制を採り、調査部長には九州事務所長の山中正夫が起用された
    • [24]調査部は石炭事業との関連性、石炭使用の程度、三菱系各社の既存事業との競合関係を基準として成長産業と目される事業を取り上げ調査した
    • [26]石炭の大口需要者で好況下にあった肥料に注目して東北肥料の買収を計画したが、三菱化成工業との競合になるとの判断により1952年5月ごろ取得済みの株式を太平鉱業に譲渡して手を引いた
    • [27]海外事業では東南アジアのボルネオその他で資源調査を行ったが、政情の不安定・賠償問題の未解決・経済情勢を理由に進出を見合わせた
    • [28]1952年5月中旬ごろ日本アルミニウムから黒崎工場の有利活用方法について打合せたいとの申入れがあり、同工場の調査・視察について合意が成立した
    • [29]調査部の具申書はセメント工業の製造原価中で石炭費の占める割合が40%に達すること、2大主要原料である石炭と石灰石をともに所有する三菱鉱業は進出の条件を十分備えていることを挙げた
    • [30]1952年8月ごろ調査部は、セメント事業が需給見通し・技術・石炭事業との関連性・国家的意義から見て三菱鉱業に最もふさわしいとの確信を抱くに至った
    • [32]調査部は1952年4月に方城鉱業所へ福岡県田川地区の石灰石鉱区調査を、6月に大分県津久見地区の石灰石鉱区調査を指示していた
    • [33]津久見地区は大手各社と地元資本が入り乱れて稼行しており見通し困難とされた一方、平尾台南東斜面の福岡県京都郡諫山村地区には膨大な埋蔵量の石灰山があり買収も可能との情報が得られた
    • [34]1952年8月以降の現地調査と地表調査・サンプル分析により、諫山地区の石灰山が鉱量・品位ともに十分な経済価値を有することが明らかになった
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [21]1952年1月4日の本店年始交歓会で高木作太社長が調査・企画部門の新設を提唱した
    • [25]新設された調査部を中心に肥料・海運・ガス・コークス・セメントなど新規事業の可能性と優劣が検討された
    • [31]セメントが最も有望とされた理由は、三菱グループ各社と競合しないこと、保有技術が応用できること、将来の需要増が見込めること、石炭の安定需要先となることの4点だった

1953年〜別会社方式による三菱セメントの設立

検討は、セメントの専門家への委嘱と、施設・経理・営業・資材など社内各部門による調査部案の洗い直しという二手で進んだ。その出発点は、首脳部が調査部の計画を承認し、セメント進出を本格的に詰めることを会社の方針に据えたことにある。最終的な結論と具体的な実施計画を固めるため、1953年2月には本店に工場建設審議会が設けられた。会長を小堀音治副社長が務め、本店各部の部長が委員に名を連ねた。審議会は約2か月をかけて、日本アルミニウム黒崎工場の敷地と設備を利用してセメント工場を建設する実施計画をまとめ、きわめて有利な事業であるとの結論を首脳部へ上げた。ただし役員会では、石田三朝取締役が日本セメントに勤める親戚から同事業は有望でないと聞いていたとして慎重論を唱えた。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第3節 多角化戦略の始動
    • [35]検討はセメントの専門家に委嘱して黒崎工場の転換の技術的な容易さと転換後の操業可能性を厳密に検める方法と、施設・経理・営業・資材など社内各部門の協力を求めて調査部案に再検討を加える方法の2つで進められた
    • [36]首脳部は協議の結果、調査部の計画を承認しセメント事業進出について本格的な検討を進めるとの会社方針を決定した
    • [37]1953年2月に本店へ工場建設審議会が設置され、小堀音治副社長を会長、本店各部の部長を委員として構成された
    • [38]工場建設審議会は約2か月の検討を経て日本アルミニウム黒崎工場の敷地・設備を利用してセメント工場を建設する実施計画をまとめ、非常に有利な事業であるとの結論で首脳部の最終決定を仰いだ
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [39]石田三朝取締役は日本セメントに勤める親戚がセメント事業は決して有望ではないと語っていたとして役員会で慎重論を唱えた

8月10日、役目を終えた調査部が廃止され、代わりに具体的な計画の立案と実施を受け持つ企画部が設けられた。これに先立つ1953年7月、三菱鉱業は取締役会で再び検討を重ねたうえで、セメント進出を正式な社の方針とした。石炭不況のただなかで、有望な事業でも一歩踏み外せば会社の命運に響きかねないと首脳部は見ていたからである。形態の点では、三菱鉱業単独でやるか、別会社を立てて三菱グループ各社に共同で出資してもらうかが残っていた。工場建設には当初だけで十数億円がかかり、同じころ4000人の人員整理を持ち出していた会社に自力で賄える額ではなかった。別会社なら資金の手当てがつき、危険も分けられる。社内の一部門にすれば、ストライキを繰り返していた炭労傘下の組合が新事業にもできてしまう。労務の事情からも、別会社の道が選ばれた。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第3節 多角化戦略の始動
    • [40]1953年8月10日に調査部が使命を終えて廃止され、代わってセメント事業進出の具体的な計画の立案と実施を担当する企画部が新設された
    • [41]石炭不況の苦境のなかで首脳部はセメント事業が有望としても一歩誤れば社運に影響するとの配慮から取締役会で再度検討を行い、1953年7月にセメント事業進出の会社方針を正式に決定した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [42]セメント事業を三菱鉱業単独で行うか別会社として三菱グループ各社の共同出資にするかで意見が分かれた
    • [43]当初十数億円の資金調達は石炭不況下の三菱鉱業には独力では困難であり、別会社方式にすれば資金調達も楽にでき危険分散にもなるとされた
    • [44]三菱鉱業の一事業とすると頻繁にストライキを行っていた炭労傘下の組合が生まれることも別会社方式が選ばれた理由だった

三菱の名を社名に入れることには、岩崎家が難色を示した。それでも三菱電機と三菱地所のトップに共同出資の会社として軌道に乗せたいと訴え、社長会の金曜会から承認を取り付けた。こうして1954年2月1日、三菱系20社が出資する資本金6億円の三菱セメントが発足した。出資の割合は三菱鉱業51.8%、明治生命10%、三菱化成工業と旭硝子がそれぞれ8%で、社長の座には三菱鉱業副社長の小堀音治氏が就いた。工場の用地には、製品の輸出にも原材料の調達にも都合のよい八幡市黒崎の、三菱化成工場に隣り合う8万坪が選ばれた。デンマークのスミス社製の湿式ロングキルンを備え、第1号キルンに火が入ったのは1955年4月である。原価の3〜4割を占める石炭は三菱鉱業から低品位炭を有効に使う形で融通を受け、旭硝子や三菱化成が出す石灰マッドや焚灰も廃物のまま原料に回した。

  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [45]三菱の社名を冠することに岩崎家が難色を示したが、共同出資会社として成功させたいと考えて三菱電機の高杉社長と三菱地所の石黒社長に依頼し、社長会である金曜会で承認を得た
    • [47]三菱セメントの出資比率は三菱鉱業51.8%、明治生命10%、三菱化成工業と旭硝子が各8%であった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 26_セメント「三菱セメント」
    • [46]三菱セメントは1954年2月1日に三菱鉱業を中心とする三菱系20社の協同出資により資本金6億円をもって設立された
    • [48]三菱セメントの初代社長には三菱鉱業副社長の小堀音治が就任した
    • [49]工場は製品輸出・原材料入手に交通至便な八幡市黒崎の三菱化成工場に隣接する8万坪の地域に建設され、デンマークスミス社製の湿式ロングキルンを中心とする設備で1955年4月に第1号キルンの火入れを行った
    • [50]セメント原価の3〜4割を占める石炭について三菱鉱業から低品位炭有効利用の便を与えられ、旭硝子と三菱化成の石灰マッドや焚灰を廃物利用できる点が三菱セメントの特色とされた
参考文献[35]-[50]
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第3節 多角化戦略の始動
    • [35]検討はセメントの専門家に委嘱して黒崎工場の転換の技術的な容易さと転換後の操業可能性を厳密に検める方法と、施設・経理・営業・資材など社内各部門の協力を求めて調査部案に再検討を加える方法の2つで進められた
    • [36]首脳部は協議の結果、調査部の計画を承認しセメント事業進出について本格的な検討を進めるとの会社方針を決定した
    • [37]1953年2月に本店へ工場建設審議会が設置され、小堀音治副社長を会長、本店各部の部長を委員として構成された
    • [38]工場建設審議会は約2か月の検討を経て日本アルミニウム黒崎工場の敷地・設備を利用してセメント工場を建設する実施計画をまとめ、非常に有利な事業であるとの結論で首脳部の最終決定を仰いだ
    • [40]1953年8月10日に調査部が使命を終えて廃止され、代わってセメント事業進出の具体的な計画の立案と実施を担当する企画部が新設された
    • [41]石炭不況の苦境のなかで首脳部はセメント事業が有望としても一歩誤れば社運に影響するとの配慮から取締役会で再度検討を行い、1953年7月にセメント事業進出の会社方針を正式に決定した
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
    • [39]石田三朝取締役は日本セメントに勤める親戚がセメント事業は決して有望ではないと語っていたとして役員会で慎重論を唱えた
    • [42]セメント事業を三菱鉱業単独で行うか別会社として三菱グループ各社の共同出資にするかで意見が分かれた
    • [43]当初十数億円の資金調達は石炭不況下の三菱鉱業には独力では困難であり、別会社方式にすれば資金調達も楽にでき危険分散にもなるとされた
    • [44]三菱鉱業の一事業とすると頻繁にストライキを行っていた炭労傘下の組合が生まれることも別会社方式が選ばれた理由だった
    • [45]三菱の社名を冠することに岩崎家が難色を示したが、共同出資会社として成功させたいと考えて三菱電機の高杉社長と三菱地所の石黒社長に依頼し、社長会である金曜会で承認を得た
    • [47]三菱セメントの出資比率は三菱鉱業51.8%、明治生命10%、三菱化成工業と旭硝子が各8%であった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 26_セメント「三菱セメント」
    • [46]三菱セメントは1954年2月1日に三菱鉱業を中心とする三菱系20社の協同出資により資本金6億円をもって設立された
    • [48]三菱セメントの初代社長には三菱鉱業副社長の小堀音治が就任した
    • [49]工場は製品輸出・原材料入手に交通至便な八幡市黒崎の三菱化成工場に隣接する8万坪の地域に建設され、デンマークスミス社製の湿式ロングキルンを中心とする設備で1955年4月に第1号キルンの火入れを行った
    • [50]セメント原価の3〜4割を占める石炭について三菱鉱業から低品位炭有効利用の便を与えられ、旭硝子と三菱化成の石灰マッドや焚灰を廃物利用できる点が三菱セメントの特色とされた

筆者考察

石炭に代わる事業を探すという課題に、三菱鉱業が出した答えは二段構えだった。何を選ぶかと、それをどこに置くかである。1952年2月に設けた調査部が並べた候補は肥料・海運・ガス・コークス・石灰・セメントで、選別の基準は石炭事業との関連性と三菱系各社との競合関係の二つに絞られていた。肥料は三菱化成工業と競合するとの判断で東北肥料の買収を取り下げ、海外の資源開発は政情を理由に見送る。残ったセメントは、製造原価の40%を石炭費が占める産業である。石炭の売り先を自分で作りながら新しい収益源を持てるという一点で、この候補だけは性格が違った。

進出が成り立ったのは、黒崎という場所が三菱の内側にあったからである。工場用地は解散する日本アルミニウムの黒崎工場跡で、隣は三菱化成の工場、燃料の石炭は三菱鉱業の低品位炭、原料には旭硝子と三菱化成が出す石灰マッドや焚灰が回された。石灰石は平尾台南東斜面の鉱区を先に押さえてある。新規参入の会社が最も苦しむ原料と燃料の手当てを、系列の内側だけで組み上げたことになる。資本金6億円のうち三菱鉱業が51.8%、明治生命が10%、三菱化成工業と旭硝子が各8%という出資の形は、単なる資金の調達方法ではなく、この原料と燃料の絵をそのまま株主構成に写したものだった。

発生炉用炭の全国需要 重油への代替が進んだ1951年から1955年まで(万トン)

266 51年 117 55年

1950年〜1955年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 265 n/a 9 0 0.1% n/a
1955年03月期 単体 224 ▲15.6% 1 ▲5 ▲2.4% n/a

出所:上場会社総覧 1956年版

出典・参考

7件
出典・参考
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第4節 反動不況と企業整備
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第1章第3節 多角化戦略の始動
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 26_セメント「三菱セメント」
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 炭砿の相つぐ閉山
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 企業整備に追われる
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出

免責事項およびポリシー