三菱鉱業セメント:三菱合資の鉱山部・炭坑部の継承と財閥解体による2分割
1918年〜分系会社のなかで最初に株式を公開した会社
三菱鉱業は1918年4月、三菱合資が鉱山部・炭坑部および鉱業研究所の営業一切を継承する形で発足した。発起人は岩崎久彌氏・岩崎小彌太氏・荘清次郎氏ら7名で、4月10日に総株式100万株を引き受け、15日の創立総会を経て19日に設立登記を終えた。1株の金額は50円、資本金は5000万円である。三菱合資へ支払った譲渡対価は41,815,490円62銭だった。社史が別に掲げる純財産額は41,216,659円62銭で、差額には九州炭砿汽船株式の評価額などが含まれると推定されている。初代の取締役会長には、三菱合資の管事だった木村久壽彌太氏が就任した。分系会社では社長という呼称が三菱合資の岩崎小彌太社長を指したため、各社の代表者は会長と称した。
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立
- [1]三菱鉱業は1918年4月に三菱合資会社の鉱山部・炭坑部および鉱業研究所の業務一切を継承して設立された
- [2]発起人は岩崎久彌・岩崎小彌太・荘清次郎・原田鎭治・串田萬蔵・木村久壽彌太・重松養二の7名だった
- [3]1918年4月10日に発起人7名で総株式100万株(1株50円)を引き受け、15日に第1回払込を完了し創立総会を開いた
- [4]三菱鉱業の設立時の資本金は5000万円だった
- [5]営業譲渡契約書第2条の対価は41,815,490円62銭で、表28の純財産額41,216,659円62銭とは異なり、社史は差額に九州炭砿汽船株式評価額等が含まれると推定している
- [6]社史の表28に示された純財産額41,216,659円62銭は営業譲渡契約書第2条の対価41,815,490円62銭と異なり、社史は差額に九州炭砿汽船株式評価額等が含まれると推定している
- [7]初代の取締役会長には三菱合資の管事であった木村久壽彌太が選出された
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
- [8]三菱の分系会社では社長は三菱合資の岩崎小彌太社長を指すため、分系各社の代表は会長と称した
発足時の事業所は、高島・鯰田・上山田・新入・方城・美唄・大夕張など11の炭坑と、吉岡・尾去沢・佐渡・生野・明延など14の鉱山、大阪と直島の両製煉所、鉱業研究所、牧山骸炭製造所を合わせて29か所におよんだ。本店には総務・会計・調査・商務・用度・採鉱・採炭・機械・電気・土木の10課が置かれた。三菱合資の鉱山部が4課、炭坑部が3課だったことと比べると、継承と同時に組織が拡充された。1920年10月には炭砿の経営管理を強めるため鉱業所制を採り、新入・鯰田・方城・上山田の筑豊4炭坑を筑豊鉱業所にまとめた。石炭と金属という二つの鉱業を一つの会社が抱える形は、以後30年あまり続いた。
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立
- [9]設立時の事業所は炭坑が高島・鯰田・上山田・新入・方城・金田・相知・芳谷・美唄・大夕張・芦別の11か所だった
- [10]鉱山は吉岡・面谷・尾去沢・槇峯・荒川・佐渡・生野・明延など14か所だった
- [11]三菱鉱業の事業所は11炭坑・14鉱山・大阪と直島の両製煉所・鉱業研究所・牧山骸炭製造所の合計29か所におよんだ
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
- [12]本店には総務・会計・調査・商務・用度・採鉱・採炭・機械・電気・土木の10課が設置された
- [13]三菱合資の鉱山部には総務・技術・鉱石・会計の4課、炭坑部には総務・技術・会計の3課しかなかった
- [14]1920年10月に事業所の経営管理を強めるため炭砿に鉱業所制が採用され、新入・鯰田・方城・上山田の筑豊4炭坑は合併されて筑豊鉱業所となった
1920年1月、木村会長が三菱合資の総理事に就任したのに伴い、岩崎小彌太氏が第2代会長となった。同年3月の臨時株主総会で資本金を5000万円から1億円へ倍額増資し、これに合わせて三菱の分系会社としては初めて株式を公開した。三菱合資は自社が持つ旧株40万株を1株100円で縁故者へ売り出し、新株の一部は本社と分系会社の従業員へ1株12円50銭で分譲した。増資は北海道への進出に加え、朝鮮と樺太での事業拡張に必要な資金を賄うためだった。株式公開は三菱のコンツェルン化に伴う当然の帰結であり、会社事業に他人の資本を加え従業員をも参加させて経営する——岩崎小彌太会長が示した方針である。株式は翌1921年5月2日に東京株式取引所へ上場された。公開は他の分系会社へも波及するとみられたが、実際には1934年の三菱重工業株40万株の公開まで行われなかった。
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立
- [15]1920年1月に木村久壽彌太が三菱合資の総理事に就任して三菱鉱業の会長を辞任し、岩崎小彌太が第2代会長に就任した
- [16]1920年3月3日の臨時株主総会で資本金を5000万円から1億円へ倍額増資することが決議された
- [17]増資に伴い三菱鉱業の株式が三菱の分系会社中で初めて公開された
- [18]三菱合資は所有する三菱鉱業株式(旧株)40万株を1株100円で縁故者に売り出した
- [19]三菱合資に割り当てられる新株の一部は本社および分系会社の従業員に1株12円50銭で分譲された
- [20]倍額増資は数年前からの北海道進出に加え、朝鮮・樺太への進出による事業拡張資金の調達を必要としたためだった
- [21]岩崎小彌太は株式公開を三菱のコンツェルン化に伴う当然の帰結と位置づけ、会社事業に他人の資本を加え従業員をも参加させて経営すると述べた
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第2節 自売方式への転換
- [22]1921年5月2日に三菱鉱業の株式が東京株式取引所に上場された
- [23]株式公開は小彌太会長告辞の趣旨からすれば他の分系会社にも波及すると思われたが、現実には昭和9年の三菱重工業株式40万株の公開に至るまで全く実施されなかった
参考文献[1]-[23]
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立
- [1]三菱鉱業は1918年4月に三菱合資会社の鉱山部・炭坑部および鉱業研究所の業務一切を継承して設立された
- [2]発起人は岩崎久彌・岩崎小彌太・荘清次郎・原田鎭治・串田萬蔵・木村久壽彌太・重松養二の7名だった
- [3]1918年4月10日に発起人7名で総株式100万株(1株50円)を引き受け、15日に第1回払込を完了し創立総会を開いた
- [4]三菱鉱業の設立時の資本金は5000万円だった
- [5]営業譲渡契約書第2条の対価は41,815,490円62銭で、表28の純財産額41,216,659円62銭とは異なり、社史は差額に九州炭砿汽船株式評価額等が含まれると推定している
- [6]社史の表28に示された純財産額41,216,659円62銭は営業譲渡契約書第2条の対価41,815,490円62銭と異なり、社史は差額に九州炭砿汽船株式評価額等が含まれると推定している
- [7]初代の取締役会長には三菱合資の管事であった木村久壽彌太が選出された
- [9]設立時の事業所は炭坑が高島・鯰田・上山田・新入・方城・金田・相知・芳谷・美唄・大夕張・芦別の11か所だった
- [10]鉱山は吉岡・面谷・尾去沢・槇峯・荒川・佐渡・生野・明延など14か所だった
- [11]三菱鉱業の事業所は11炭坑・14鉱山・大阪と直島の両製煉所・鉱業研究所・牧山骸炭製造所の合計29か所におよんだ
- [15]1920年1月に木村久壽彌太が三菱合資の総理事に就任して三菱鉱業の会長を辞任し、岩崎小彌太が第2代会長に就任した
- [16]1920年3月3日の臨時株主総会で資本金を5000万円から1億円へ倍額増資することが決議された
- [17]増資に伴い三菱鉱業の株式が三菱の分系会社中で初めて公開された
- [18]三菱合資は所有する三菱鉱業株式(旧株)40万株を1株100円で縁故者に売り出した
- [19]三菱合資に割り当てられる新株の一部は本社および分系会社の従業員に1株12円50銭で分譲された
- [20]倍額増資は数年前からの北海道進出に加え、朝鮮・樺太への進出による事業拡張資金の調達を必要としたためだった
- [21]岩崎小彌太は株式公開を三菱のコンツェルン化に伴う当然の帰結と位置づけ、会社事業に他人の資本を加え従業員をも参加させて経営すると述べた
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
- [8]三菱の分系会社では社長は三菱合資の岩崎小彌太社長を指すため、分系各社の代表は会長と称した
- [12]本店には総務・会計・調査・商務・用度・採鉱・採炭・機械・電気・土木の10課が設置された
- [13]三菱合資の鉱山部には総務・技術・鉱石・会計の4課、炭坑部には総務・技術・会計の3課しかなかった
- [14]1920年10月に事業所の経営管理を強めるため炭砿に鉱業所制が採用され、新入・鯰田・方城・上山田の筑豊4炭坑は合併されて筑豊鉱業所となった
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第2節 自売方式への転換
- [22]1921年5月2日に三菱鉱業の株式が東京株式取引所に上場された
- [23]株式公開は小彌太会長告辞の趣旨からすれば他の分系会社にも波及すると思われたが、現実には昭和9年の三菱重工業株式40万株の公開に至るまで全く実施されなかった
1924年〜会長制のもとで外地へ広がり、敗戦で失ったもの
岩崎小彌太会長は1924年5月に退任し、三谷一二氏が第3代会長として12年間その座にあった。1936年5月には河手捨二氏が第4代会長に就任した。分系会社が一律に採ってきた会長制は、1941年2月に三菱重工業が取締役社長の制度を制定したことで崩れ、三菱鉱業も同年11月に本社の承認を得て会長の下に社長を置いた。初代社長は小村千太郎氏である。翌1942年5月、河手捨二会長の任期満了を機に会長制そのものを廃止し、小村千太郎社長が代表取締役となった。社業が多岐にわたり国内経済機構が複雑化したため代表取締役陣を強化する、というのが定時株主総会での説明だった。
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
- [24]岩崎小彌太は1924年5月に会長を辞任し、三谷一二が第3代会長に就任して12年間在任した
- [25]1936年5月に河手捨二が第4代会長に就任した
- [26]1941年2月に三菱重工業が慣習を改め、取締役会長のほかに取締役社長の制度を設置した
- [27]三菱鉱業は1941年11月に本社の承認を得て河手会長の下に取締役社長制を布き、初代社長に小村千太郎が就任した
- [28]1942年5月に河手捨二の任期満了に伴い取締役会長制を廃止し、取締役社長制へ切り替えた
- [29]社長制設置の理由は、社業が多岐多端となり国内経済機構が複雑化したため代表取締役陣を強化する必要があるというものだった
満州事変を境に外地への進出が活発になり、三菱鉱業は朝鮮・中国・満州・南方に多数の事業所を持つに至った。1940年9月には九州炭砿汽船を合併し、資本金は2億370万円に増えた。国内の炭砿・鉱山・製煉所と海外の事業場を併せ持つ、指折りの規模の会社だった。しかし1945年の敗戦により、朝鮮・中国・満州・南方に置いた海外の事業所はすべて失われた。戦前の三菱鉱業は国の興隆に貢献した大会社であり、敗戦によって数多い海外の全事業所を失った——後年の3社合併記念式典で大槻文平社長が挨拶に織り込んだ道のりである。
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
- [30]昭和6年9月に勃発した満州事変を契機とする軍需ブームを背景に三菱鉱業の外地への進出が活発化した
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第1節 占領政策と三菱鉱業の再建
- [31]三菱鉱業は1940年9月に九州炭砿汽船を合併し、資本金は2億370万円に増加した
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
- [32]戦争前の三菱鉱業は国内の炭砿・鉱山・製煉所とともに海外にも多数の事業場所を持つ指折りの大会社だった
- [33]昭和20年の敗戦により三菱鉱業は数多い海外の全事業所を失った
- [34]大槻社長は3社合併記念式典の挨拶で戦前の三菱鉱業の姿と敗戦による海外事業所の喪失に触れた
参考文献[24]-[34]
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
- [24]岩崎小彌太は1924年5月に会長を辞任し、三谷一二が第3代会長に就任して12年間在任した
- [25]1936年5月に河手捨二が第4代会長に就任した
- [26]1941年2月に三菱重工業が慣習を改め、取締役会長のほかに取締役社長の制度を設置した
- [27]三菱鉱業は1941年11月に本社の承認を得て河手会長の下に取締役社長制を布き、初代社長に小村千太郎が就任した
- [28]1942年5月に河手捨二の任期満了に伴い取締役会長制を廃止し、取締役社長制へ切り替えた
- [29]社長制設置の理由は、社業が多岐多端となり国内経済機構が複雑化したため代表取締役陣を強化する必要があるというものだった
- [30]昭和6年9月に勃発した満州事変を契機とする軍需ブームを背景に三菱鉱業の外地への進出が活発化した
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第1節 占領政策と三菱鉱業の再建
- [31]三菱鉱業は1940年9月に九州炭砿汽船を合併し、資本金は2億370万円に増加した
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
- [32]戦争前の三菱鉱業は国内の炭砿・鉱山・製煉所とともに海外にも多数の事業場所を持つ指折りの大会社だった
- [33]昭和20年の敗戦により三菱鉱業は数多い海外の全事業所を失った
- [34]大槻社長は3社合併記念式典の挨拶で戦前の三菱鉱業の姿と敗戦による海外事業所の喪失に触れた
1946年〜二分割で金属を手放し、石炭だけの会社になる
三菱財閥の有力企業は、どれも持株会社の指定を受けた。その根拠となった持株整理委員会令は、敗戦翌年の1946年4月に施行されている。この委員会の役割は、財閥解体の対象とされた制限会社の中から該当する会社を持株会社と定め、解散を含む整理や分割を命じることにあった。三菱鉱業自体は同年8月、会社経理応急措置法による特別経理会社に指定された。同年12月に公職追放令の範囲が広がると、小村千太郎社長と常務4人がそろって追放され、残った役員の中から羽仁路之氏が総務部長から社長に就いた。1947年12月には過度経済力集中排除法が施行され、財閥系でない会社も含めて巨大企業の再編が進んだ。指定当時の三菱鉱業は6万9672人の従業員を抱え、石炭では全国出炭の11.8%を占めて第2位、錫では91.9%に達していた。
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 大企業の分割相つぐ
- [35]三菱財閥の有力企業はいずれも持株会社として指定され、三菱鉱業もその一つだった
- [36]1946年4月に持株整理委員会令が制定・施行され、財閥解体の対象となる制限会社から持株会社を指定して整理・分割を指令した
- [37]持株整理委員会は財閥解体の対象となった制限会社の中から該当会社を持株会社として指定し、解散を含む整理や分割など再編成を指令する機関だった
- [41]1947年12月に過度経済力集中排除法が制定・施行され、非財閥系企業を含む巨大会社の再編成が推進された
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第2節 石炭復興政策と三菱鉱業
- [38]三菱鉱業は1946年8月11日に会社経理応急措置法による特別経理会社に指定された
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
- [39]1946年12月の公職追放令の適用拡大により小村千太郎社長と4人の常務が同時に追放された
- [40]追放後に残った役員のうち総務部長だった羽仁路之が社長に就任した
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第1節 占領政策と三菱鉱業の再建
- [42]集中排除法の指定当時の三菱鉱業は資本金4億740万円・年間売上高44億1916万円・従業員6万9672人で、石炭は全国比11.8%で第2位、錫は91.9%を占めていた
三菱重工業は3分割の指令を受け、三菱商事にいたっては解散を命じられた。三菱鉱業でも分割指令を見越して社内でいくつもの案が検討され、非公式にはGHQの反トラスト課から7分割案も伝えられていた。一時は炭砿・鉱山・金属加工の3分割やむなしという方針に傾いたこともある。1949年8月24日の聴聞会では会社と従業員組合がそろって1社案を申し立てたが、4日後に指令案どおりの決定指令が通達された。最終的に決まったのは石炭と金属の二分割で、1950年4月、石炭部門を残す三菱鉱業が存続会社となり、金属部門は太平鉱業として分離した。太平鉱業は後に三菱金属鉱業と商号を変更し、1973年10月に三菱金属となる。羽仁路之社長は太平鉱業の社長へ移り、三菱鉱業の社長には資材部長だった高木作太氏が就任した。
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 大企業の分割相つぐ
- [43]三菱重工業は持株整理委員会から三分割の指令案を示され、三菱商事はGHQの覚書によって解散を命じられた
- [44]分割指令を予想して社内でいくつかの案が検討され、非公式ながらGHQの反トラスト課から7分割案が伝えられた
- [45]一時は炭砿・鉱山・金属加工の3分割もやむなしとの方針に傾いた
- [47]1950年4月に石炭部門の三菱鉱業(存続会社)と金属部門の太平鉱業の2社に分割された
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第1節 占領政策と三菱鉱業の再建
- [46]1949年8月24日の聴聞会で会社と従業員組合が1社案を申し立てたが、8月28日付で指令案どおりの決定指令が通達された
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)資料編 年表
- [48]太平鉱業はのちに三菱金属鉱業となり、1973年10月に三菱金属へ商号変更した
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
- [49]羽仁路之は金属部門の太平鉱業の社長となり、石炭部門だけとなった三菱鉱業の社長には資材部長だった高木作太常務が就任した
戦前からの歩みを振り返ると、石炭は10年ごとに訪れる戦争のたびに一時的な利益を生んでも長くは続かず、会社の収益を下支えしてきたのは金属のほうだった。分割でその金属部門を手放した三菱鉱業は大きな痛手を負い、石炭の穴を埋める事業を持たないかぎり経営を安定させる見込みは立たなかった。分離に際して太平鉱業へ移籍した職員は、6825人中1650人にのぼる。1950年6月に朝鮮戦争が始まると特需で石炭ブームが起き、1951年度の全国出炭量は戦後最高の4650万トンに達した。当時のヤマの暮らしは他産業に比べて恵まれており、賃金水準は高く、社宅の家賃は安く、学校も病院も備わっていた。しかしブームは長続きせず反動不況が訪れ、石炭は以後の長い斜陽の時代に入った。
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
- [50]戦前からの三菱鉱業の歴史では石炭は10年ごとの戦争で一儲けはしても長続きせず、経営はむしろ金属によって支えられていた
- [51]金属部門が分割された以上、それに代わるものがない限り経営の安定はおぼつかなかった
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第4章第2節 戦後の職員人事管理
- [52]会社分離時の職員総数6825人のうち1650人が太平鉱業へ移籍した
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
- [53]1950年6月に勃発した朝鮮戦争の特需により石炭ブームが訪れ、1951年度の出炭量は4650万トンと戦後最高を記録した
- [54]当時のヤマの生活は他に比べ恵まれており、賃金水準は高く社宅の家賃はきわめて安く、学校も病院も完備していた
- [55]石炭ブームは長続きせずすぐに反動不況が訪れ、それが石炭斜陽時代の幕開けとなった
参考文献[35]-[55]
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 大企業の分割相つぐ
- [35]三菱財閥の有力企業はいずれも持株会社として指定され、三菱鉱業もその一つだった
- [36]1946年4月に持株整理委員会令が制定・施行され、財閥解体の対象となる制限会社から持株会社を指定して整理・分割を指令した
- [37]持株整理委員会は財閥解体の対象となった制限会社の中から該当会社を持株会社として指定し、解散を含む整理や分割など再編成を指令する機関だった
- [41]1947年12月に過度経済力集中排除法が制定・施行され、非財閥系企業を含む巨大会社の再編成が推進された
- [43]三菱重工業は持株整理委員会から三分割の指令案を示され、三菱商事はGHQの覚書によって解散を命じられた
- [44]分割指令を予想して社内でいくつかの案が検討され、非公式ながらGHQの反トラスト課から7分割案が伝えられた
- [45]一時は炭砿・鉱山・金属加工の3分割もやむなしとの方針に傾いた
- [47]1950年4月に石炭部門の三菱鉱業(存続会社)と金属部門の太平鉱業の2社に分割された
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第2節 石炭復興政策と三菱鉱業
- [38]三菱鉱業は1946年8月11日に会社経理応急措置法による特別経理会社に指定された
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
- [39]1946年12月の公職追放令の適用拡大により小村千太郎社長と4人の常務が同時に追放された
- [40]追放後に残った役員のうち総務部長だった羽仁路之が社長に就任した
- [49]羽仁路之は金属部門の太平鉱業の社長となり、石炭部門だけとなった三菱鉱業の社長には資材部長だった高木作太常務が就任した
- [53]1950年6月に勃発した朝鮮戦争の特需により石炭ブームが訪れ、1951年度の出炭量は4650万トンと戦後最高を記録した
- [54]当時のヤマの生活は他に比べ恵まれており、賃金水準は高く社宅の家賃はきわめて安く、学校も病院も完備していた
- [55]石炭ブームは長続きせずすぐに反動不況が訪れ、それが石炭斜陽時代の幕開けとなった
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第1節 占領政策と三菱鉱業の再建
- [42]集中排除法の指定当時の三菱鉱業は資本金4億740万円・年間売上高44億1916万円・従業員6万9672人で、石炭は全国比11.8%で第2位、錫は91.9%を占めていた
- [46]1949年8月24日の聴聞会で会社と従業員組合が1社案を申し立てたが、8月28日付で指令案どおりの決定指令が通達された
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)資料編 年表
- [48]太平鉱業はのちに三菱金属鉱業となり、1973年10月に三菱金属へ商号変更した
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
- [50]戦前からの三菱鉱業の歴史では石炭は10年ごとの戦争で一儲けはしても長続きせず、経営はむしろ金属によって支えられていた
- [51]金属部門が分割された以上、それに代わるものがない限り経営の安定はおぼつかなかった
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第4章第2節 戦後の職員人事管理
- [52]会社分離時の職員総数6825人のうち1650人が太平鉱業へ移籍した
筆者考察
三菱鉱業は、石炭と金属という二つの鉱業を一つの会社に抱えたことで、32年のあいだ景気の波を吸収してきた会社である。1918年に三菱合資の鉱山部と炭坑部を引き継いだとき、11の炭坑と14の鉱山、大阪と直島の両製煉所を含む29か所の事業所が一度に移った。石炭は10年ごとの戦争で一時の利益を上げては沈み、その谷を金属が埋める。この相互補完は誰かが設計したものではなく、三菱合資の事業をそのまま受け取った結果そこにあった構造である。1920年に分系会社として初めて株式を公開し、資本金を5000万円から1億円へ倍額増資できたのも、二つの鉱業を並べた会社の厚みがあってのことだった。
その構造は、財閥解体と過度経済力集中排除法によって外から解かれた。1950年4月、三菱鉱業は石炭部門を残す存続会社となり、金属部門は太平鉱業として切り離される。職員6825人のうち1650人が移り、会社の規模はおよそ半分になった。失ったのは売上や資産ではなく、景気変動を吸収する仕組みそのものである。朝鮮戦争の特需で1951年度の全国出炭量が4650万トンと戦後最高を記録したことは、その喪失を一時的に見えなくしただけだった。ブームが去れば、石炭一本の会社には次の谷を埋めるものが残っていない。三菱鉱業が石炭に代わる事業を探し始めたのは、この欠落を首脳部が正確に認めたからである。
出典・参考
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- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第1節 三菱鉱業株式会社の設立
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第2章第9節 設立より終戦までの概況
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第1章第2節 自売方式への転換
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第1節 占領政策と三菱鉱業の再建
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第6章第2節 三菱鉱業、三菱セメント、豊国セメントの合併
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2編第3章第2節 石炭復興政策と三菱鉱業
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)資料編 年表
- 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第4章第2節 戦後の職員人事管理
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 大企業の分割相つぐ
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 二社分割後、私は取締役に
- 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出