秩父セメント:販売三原則の確立とセメント聯合会への条件付き入会
1926年〜業界カルテルに条件を付けて入った後発会社
秩父セメントがセメント聯合会に入ったのは1926年9月1日である。営業開始の前後から理事者による勧誘が繰り返されたが、創業早々で経営基盤も固まっていないことを理由に断り続け、営業開始から1年を経てようやく手続きを取った。それも無条件ではない。入会後1年間は生産制限・出荷制限・最低価格に関する諸協定の拘束を受けないこと、第2次拡張計画を容認することの2条件を付し、1年経過後もさらに制限免除の延長を話し合うという了解事項を添えた。他社が脱会した場合には自社の脱会を無条件で認めよという条項も出したが、聯合会成立の根本を薄弱にするという反対を受けて撤回した。1927年8月には了解事項に基づいて免除の延長を申し入れ、紛糾の末に制限率を半減して適用する条件で妥結した。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
- [1]秩父セメントがセメント聯合会に入会したのは1926年9月1日である
- [2]営業開始の前後から聯合会理事者による入会勧誘があったが、創業早々で経営基盤が確立していないことを理由に受け入れなかった
- [3]入会の条件は、入会後1年間は生産制限・出荷制限・最低価格等の諸協定の拘束を受けないこと、および第2次拡張計画を容認することの2点だった
- [4]他に脱会する会社があった場合は当社の脱会を無条件で認めるという条項も出したが、聯合会成立の根本を薄弱にするとの反対申入れで撤回した
- [5]1927年8月、入会時の了解事項に基づきさらに1か年の諸制限免除を申し入れたが容れられず、紆余曲折を経て1か年間諸制限率半減適用の条件で妥結した
距離の取り方が最も鋭く出たのが原石山紛争である。武甲山北麓の生川地区をめぐる石灰石採掘の土地使用権の争奪で、1927年10月に秩父セメントはまず敗れた。1年余の小康を経て1929年、相手会社が工場建設の着手をほのめかして紛争は再燃する。地元横瀬村の村民が両社側に分かれて対立し、石灰石採掘禁止の訴訟は大審院上告にまで至った。諸井貫一氏は後年、この争いを『秩父セメントもやむなく他社の進出を防ぐために紛争にまきこまれていった』と回想している(日本経済新聞 1960/5)。当時の井上蔵相からも人を介して自制を促され、聯合会への調停一任も満足のいく方向にならず、1929年末から1年間は聯合会への加入を留保した。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
- [6]原石山紛争は武甲山北麓の生川地区における石灰石採掘をめぐる土地使用権の争奪だった
- [7]1927年10月に秩父セメントはこの争奪戦にまず敗れ、1年余の小康状態を経て1929年に紛争が再燃した
- [8]1927年10月の敗北から1年余の小康状態を経て1929年に相手会社が工場建設着手をほのめかし紛争が再燃した
- [9]紛争は地元横瀬村の村民が両社側に分かれて対立する事態に発展し、生川地区共有者側が提出した石灰石採掘禁止の訴訟は大審院上告に至った
- [12]聯合会の調停方向が満足すべきものでなかったため、1929年末から1年間は同会への加入を留保した
- 私の履歴書 経済人5 諸井貫一(日本経済新聞 1960年5月)
- [10]諸井貫一は私の履歴書で、秩父セメントもやむなく他社の進出を防ぐために紛争にまきこまれていったと回想している
- [11]金解禁と産業合理化を説いていた井上蔵相が人を介して会社同士の紛争継続を批判した
1930年10月、紛争の当事者たちは和解協定書に署名し、以後15年間は横瀬地区に相手方が工場を設けないことを両者で取り決めた。業界の混乱を案じてこの和解を取り持ち、決着に導いたのは渋沢栄一氏である。諸井恒平氏はこの局面でも自主独立を曲げず、世話になった先輩や知友の取り持ちであっても、本意ではないまま受け入れを拒む場面があった。頑固な父に困り果てた諸井貫一氏は、渋沢氏の娘婿である阪谷芳郎氏に呼び出されて2〜3時間にわたり経緯を話し、『たとえ自分に理があっても、ほどほどにしなければならない場合もある』(日本経済新聞 1960/5)との諭しを受け、秩父セメントが聯合会へ戻ったのはその翌月である。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
- [13]紛争当事者が和解協定書に調印したのは1930年10月である
- [14]和解条件により、その後15年間は相手会社が横瀬地区に工場を建設しないことが当事者双方によって確認された
- [15]業界の深刻な混乱を憂慮した渋沢栄一の斡旋により原石山紛争は円満解決した
- [16]諸井恒平は本事件で終始会社の自主独立の線を固守して譲らず、恩義ある先輩知友の仲介に心ならずも従わないこともあった
- [19]紛争が解決した翌月の1930年11月、秩父セメントは再びセメント聯合会に入会した
- 私の履歴書 経済人5 諸井貫一(日本経済新聞 1960年5月)
- [17]諸井貫一は渋沢栄一の女婿である阪谷芳郎に呼ばれ、2〜3時間にわたって事のいきさつを説明した
- [18]阪谷芳郎は諸井貫一に、たとえ自分に理があってもほどほどにしなければならない場合もあると述べた
参考文献[1]-[19]
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
- [1]秩父セメントがセメント聯合会に入会したのは1926年9月1日である
- [2]営業開始の前後から聯合会理事者による入会勧誘があったが、創業早々で経営基盤が確立していないことを理由に受け入れなかった
- [3]入会の条件は、入会後1年間は生産制限・出荷制限・最低価格等の諸協定の拘束を受けないこと、および第2次拡張計画を容認することの2点だった
- [4]他に脱会する会社があった場合は当社の脱会を無条件で認めるという条項も出したが、聯合会成立の根本を薄弱にするとの反対申入れで撤回した
- [5]1927年8月、入会時の了解事項に基づきさらに1か年の諸制限免除を申し入れたが容れられず、紆余曲折を経て1か年間諸制限率半減適用の条件で妥結した
- [6]原石山紛争は武甲山北麓の生川地区における石灰石採掘をめぐる土地使用権の争奪だった
- [7]1927年10月に秩父セメントはこの争奪戦にまず敗れ、1年余の小康状態を経て1929年に紛争が再燃した
- [8]1927年10月の敗北から1年余の小康状態を経て1929年に相手会社が工場建設着手をほのめかし紛争が再燃した
- [9]紛争は地元横瀬村の村民が両社側に分かれて対立する事態に発展し、生川地区共有者側が提出した石灰石採掘禁止の訴訟は大審院上告に至った
- [12]聯合会の調停方向が満足すべきものでなかったため、1929年末から1年間は同会への加入を留保した
- [13]紛争当事者が和解協定書に調印したのは1930年10月である
- [14]和解条件により、その後15年間は相手会社が横瀬地区に工場を建設しないことが当事者双方によって確認された
- [15]業界の深刻な混乱を憂慮した渋沢栄一の斡旋により原石山紛争は円満解決した
- [16]諸井恒平は本事件で終始会社の自主独立の線を固守して譲らず、恩義ある先輩知友の仲介に心ならずも従わないこともあった
- [19]紛争が解決した翌月の1930年11月、秩父セメントは再びセメント聯合会に入会した
- 私の履歴書 経済人5 諸井貫一(日本経済新聞 1960年5月)
- [10]諸井貫一は私の履歴書で、秩父セメントもやむなく他社の進出を防ぐために紛争にまきこまれていったと回想している
- [11]金解禁と産業合理化を説いていた井上蔵相が人を介して会社同士の紛争継続を批判した
- [17]諸井貫一は渋沢栄一の女婿である阪谷芳郎に呼ばれ、2〜3時間にわたって事のいきさつを説明した
- [18]阪谷芳郎は諸井貫一に、たとえ自分に理があってもほどほどにしなければならない場合もあると述べた
1927年〜大手問屋を通さず中小販売店と直接取引した理由
秩父セメントが取引の相手に選んだのは大手問屋ではなく、流通の末端に近い中小の販売店であり、これと直接に取引する方法を打ち出した。販売の組み立てそのものが同業と異なっていた。業界を見渡すと、三井物産を総代理店に立てた小野田セメントと、三菱商事に任せた磐城セメントが全国一手販売制をとり、ほかの会社も地域ごとの販売を大手問屋に預けるのがおおむね通例だった。資力のある大手問屋は需要の仲立ちや信用の供与、情報集めを引き受け、二次店や小売店を傘下に置いていた。ただ、実績が積み上がるにつれて問屋はメーカーに物を言う力を増し、メーカーの決めた販売方針が末端まで通らない場面も珍しくなかった。販売店が高い密度で散らばるところから、この方式は一駅一店主義の名でも呼ばれた。手間はかかったものの、先発各社が押さえていた流通網に割り込む手段となった。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第4節 販売基盤の確立
- [20]秩父セメントは大手問屋制を採らず、流通機構の末端に近い中小販売店と直接取引する独自の方法を打ち出し、これを中小販売店主義と称した
- [21]当時の業界では小野田社が三井物産を、磐城社が三菱商事をそれぞれ総代理店として全国一手販売制を採っていた
- [22]大手問屋は需要の媒介・信用の供与・情報の収集を主要業務とし、傘下にいくつかの二次店・小売店を抱えていた
- [23]大手問屋は販売実績を積むとともにメーカーに対する発言力を強め、メーカーの販売方針の徹底を妨げることが少なくなかった
- [24]中小販売店主義は販売店の分布密度が高くなるため一駅一店主義とも呼ばれた
残る2本は現金取引主義と直売主義である。前者は販売店との取引を前金または荷為替を原則とし、事情が判明するにつれて1か月分の取引高に相当する担保か保証を差し入れさせ、その範囲内で取引するものだった。盆暮れにまとめて払う商慣行を破り、延宝年間の江戸で越後屋呉服店を開いた三井高利は現金取引を看板に掲げた。この現金取引主義はその故事を手本にしている。もう片方の柱は官公庁や大手請負業者の大口の引合を自社で直接受けることで、直売をする同業は当時もあったものの、ここまで重きを置いた会社は見当たらなかった。営業を始めて2年ほど販売を重ねたのち、諸井貫一支配人がこれらを三原則として体系に整えた。運用の担い手となったのは、1927年7月に始まった出張員制度である。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第4節 販売基盤の確立
- [25]販売基本構想は中小販売店主義・現金取引主義・直売主義の3本の柱で組み立てられていた
- [26]現金取引主義は販売店との取引で前金取引または荷為替取引を原則とし、その後の事情に応じて約1か月分の取引高に相当する担保または保証を差し入れさせる方法だった
- [27]諸井恒平は営業部長の深谷辰次郎に、三井高利が延宝年間に江戸で越後屋呉服店を開いたとき盆暮決済等の商慣行を破って現金取引主義を掲げた故知にならったと話した
- [28]直売主義の対象は官公庁・大会社・大手請負業者等の大口引合で、当時も同業他社で直売は行われていたが秩父セメントほど重点を置いた会社はなかった
- [29]販売三原則の実施構想は営業開始後約2年の販売経験を経て固められ、諸井貫一支配人によって体系づけられた
- [30]1927年7月に高崎駐在の高田庫重と前橋駐在の志賀篤が赴任し、出張員制度が発足した
この方針は昭和初期の乱売期に効いた。1929年から1930年は業界史に残る乱売が行われた時期で、とくに1930年前半は破壊的な様相を呈した。秩父セメントは"造るよりまず売る"を掲げ、有利な注文を充たす程度に生産を任意制限し、採算を無視した投げ売りを避けた。諸井貫一氏は当時の父の態度を、一時しのぎで出血覚悟の入札をしなければならないと言うと『初めから赤字とわかっている入札は背任だ』(日本経済新聞 1960/5)といってどんなに在庫があっても許さなかった、と書き残している。金融が逼迫して金策を大手問屋に頼る同業が現れ、問屋が換金を急いで売り急いだことが市価の低落に拍車をかけたなかで、中小販売店と直接結ぶ体制は赤字乱売の影響を最小限にとどめた。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
- [31]1929年から1930年は業界史に残る未曽有の乱売が行われた時期で、とくに1930年前半期は破壊的な様相を呈した
- [32]市況混迷期に秩父セメントは「造るよりまず売る」をモットーとし、有利な注文引受けを充足する程度に生産を任意制限して採算を無視した乱売を避けた
- 私の履歴書 経済人5 諸井貫一(日本経済新聞 1960年5月)
- [33]諸井恒平は初めから赤字とわかっている入札は背任だといって、どんなに在庫があっても許さなかった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第4節 販売基盤の確立
- [34]当時はセメント製造業者の金融が逼迫し、金策を大手問屋に依存する会社もあって、問屋側が換金を早めるために売り急ぎ市価の低落に拍車をかけた
- [35]誠実・勤勉な中小販売店の自主的育成と健全取引の徹底により、当時業界を風靡した赤字乱売の影響を最小限にとどめることができた
参考文献[20]-[35]
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第4節 販売基盤の確立
- [20]秩父セメントは大手問屋制を採らず、流通機構の末端に近い中小販売店と直接取引する独自の方法を打ち出し、これを中小販売店主義と称した
- [21]当時の業界では小野田社が三井物産を、磐城社が三菱商事をそれぞれ総代理店として全国一手販売制を採っていた
- [22]大手問屋は需要の媒介・信用の供与・情報の収集を主要業務とし、傘下にいくつかの二次店・小売店を抱えていた
- [23]大手問屋は販売実績を積むとともにメーカーに対する発言力を強め、メーカーの販売方針の徹底を妨げることが少なくなかった
- [24]中小販売店主義は販売店の分布密度が高くなるため一駅一店主義とも呼ばれた
- [25]販売基本構想は中小販売店主義・現金取引主義・直売主義の3本の柱で組み立てられていた
- [26]現金取引主義は販売店との取引で前金取引または荷為替取引を原則とし、その後の事情に応じて約1か月分の取引高に相当する担保または保証を差し入れさせる方法だった
- [27]諸井恒平は営業部長の深谷辰次郎に、三井高利が延宝年間に江戸で越後屋呉服店を開いたとき盆暮決済等の商慣行を破って現金取引主義を掲げた故知にならったと話した
- [28]直売主義の対象は官公庁・大会社・大手請負業者等の大口引合で、当時も同業他社で直売は行われていたが秩父セメントほど重点を置いた会社はなかった
- [29]販売三原則の実施構想は営業開始後約2年の販売経験を経て固められ、諸井貫一支配人によって体系づけられた
- [30]1927年7月に高崎駐在の高田庫重と前橋駐在の志賀篤が赴任し、出張員制度が発足した
- [34]当時はセメント製造業者の金融が逼迫し、金策を大手問屋に依存する会社もあって、問屋側が換金を早めるために売り急ぎ市価の低落に拍車をかけた
- [35]誠実・勤勉な中小販売店の自主的育成と健全取引の徹底により、当時業界を風靡した赤字乱売の影響を最小限にとどめることができた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
- [31]1929年から1930年は業界史に残る未曽有の乱売が行われた時期で、とくに1930年前半期は破壊的な様相を呈した
- [32]市況混迷期に秩父セメントは「造るよりまず売る」をモットーとし、有利な注文引受けを充足する程度に生産を任意制限して採算を無視した乱売を避けた
- 私の履歴書 経済人5 諸井貫一(日本経済新聞 1960年5月)
- [33]諸井恒平は初めから赤字とわかっている入札は背任だといって、どんなに在庫があっても許さなかった
1928年〜不況下の増設と、特殊セメントから二次製品へ
不況下でも設備は増やした。1927年に決めた第2次増設計画は回転窯3基を軸とするもので、途中で消極案に傾いた時期もあったが、不況期こそ増設の好機だという判断で当初予算を上回る積極案に決まった。所要資金は未払込株金の徴収によらず、1927年11月に第二秩父セメントを設立して調達し、翌1928年3月にこれを合併して資本金を1,200万円、株主を451人から800人に増やした。1929年10月に第3・4号回転窯、1930年2月に第5号回転窯が完成し、月産能力は4万トンを超えた。生産能力は一挙に4倍を超えたが、投下資本は2倍に達せず、従業員の増加は20%にとどまった。1934年6月に完成した第3次増設で回転窯は6基、月産能力は7万トンとなった。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第3節 設備増強と技術の充実
- [36]第2次増設計画は回転窯3基を中心とするもので、不況にかんがみ消極案に転じた時期もあったが、不況期こそ増設の好機であるとの長期的判断により当初予算を上回る積極案に決まった
- [39]1929年10月に第3・4号回転窯が完成し、第5号回転窯は1930年2月に完成した
- [40]第2次計画の完成により生産能力は一挙に4倍を超えたが、この間の投下資本は2倍を出ず、従業員の増加は20%に過ぎなかった
- [41]1934年6月に完成した第3次増設計画により保有回転窯は6基、月産能力は7万トンとなった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
- [37]増設所要資金の調達のため1927年11月17日に第二秩父セメントが設立された
- [38]1928年3月1日に第二秩父セメントを合併し、資本金は1,200万円、株主数は合併前の451人から800人に増加した
増設と並行して製品を分けた。早強セメントは第2次増設でデンマークのエフ・エル・スミス社製の湿式ユナックスキルンを組み込んだときからの念願で、1931年5月に試製へ着手し、1933年2月に"秩父高級セメント"の名で市場に出た。売出し後まもなく京浜電気鉄道品川駅の改造工事に使われ、新製品の評価を高めた。1935年6月に発売した"秩父硅酸セメント"は、セメントの水和で生じる水酸化石灰とシリカ分が結びつくポゾラニック作用を利用したもので、長期強度が大きく水密性に富み、水和熱が低い。1938年末に竣工した東京日比谷の第一生命館は皇居の内堀を隔てた立地で水の浸透が懸念されたが、30数年を経ても浸透はみられなかった。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第3節 設備増強と技術の充実
- [42]早強セメントの製造は念願であり、第2次増設計画の新設回転窯3基のうち1基にデンマークのエフ・エル・スミス社製の湿式ユナックスキルンを含めたのはこのためだった
- [43]早強セメントの試製着手は1931年5月で、市場への出荷は1933年2月、商品名は「秩父高級セメント」だった
- [44]早強セメントは売出し後まもなく京浜電気鉄道品川駅の改造工事に使用され、新製品の評価を高めた
- [45]シリカセメントを初めて市場に出荷したのは1935年6月で、商品名は「秩父硅酸セメント」だった
- [46]シリカセメントはセメントの水和作用で生成する水酸化石灰とシリカ質混合材中のシリカ分が結合するポゾラニック作用を利用し、長期強度が大きく水密性に富み水和熱が低い
- [47]1938年末に竣工した東京日比谷の第一生命館はシリカセメントが大量に使われた代表的構築物で、皇居の内堀を隔てた立地から水の浸透が懸念されたが30数年を経ても浸透はみられなかった
1934年の第3次計画完了を境に、増設から多角化へ方針を切り替えた。1936年8月に本社へスレート部を置いて波形スレートの製造を始め、発足から1年数か月後には抄造機6台・従業員185人、月10万枚を超える生産に達した。1939年8月には石綿パイプ工場が完成し"チチブパイプ"の名で出荷を始めた。1937年6月には定款の事業目的を『各種セメント及セメント加工品の製造販売並に工事の請負』と改め、同時に会長制を新設して諸井恒平氏が会長、大友幸助氏が社長、諸井貫一氏が常務に就任した。恒平氏はこの年75歳で、健康を害して重役会を欠くことも多かった。1938年10月からは日本製鉄との共同で回転窯を用いたバッセー法製銑の試験も引き受けた。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第1節 総観
- [48]第3次計画の完工をもって従来の増設方針を転換し、以後は経営多角化の方向が打ち出された
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第2節 経営多角化
- [49]1936年8月に本社にスレート部が設けられ波形スレートの製造が始まった
- [50]波形スレートは発足後1年数か月を経た1938年初めには抄造機6台・従業員185人に達し、生産能力は月10万枚を超えた
- [51]1939年8月に石綿パイプ工場が完成し、商品名は「チチブパイプ」と決定された
- [55]1938年10月から日本製鉄との共同でセメント回転窯を用いたバッセー法製銑の試験が開始された
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
- [52]1937年6月に定款を改正し、事業目的を「各種セメント及セメント加工品の製造販売並に工事の請負」と改めた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
- [53]1937年6月の第29回定時株主総会で会長制新設の定款変更が決議され、取締役会長に諸井恒平、取締役社長に大友幸助、常務取締役に諸井貫一が就任した
- [54]諸井恒平は1937年に満75歳を数え、それまでにも健康を害して重役会等を欠席することが多かった
参考文献[36]-[55]
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第3節 設備増強と技術の充実
- [36]第2次増設計画は回転窯3基を中心とするもので、不況にかんがみ消極案に転じた時期もあったが、不況期こそ増設の好機であるとの長期的判断により当初予算を上回る積極案に決まった
- [39]1929年10月に第3・4号回転窯が完成し、第5号回転窯は1930年2月に完成した
- [40]第2次計画の完成により生産能力は一挙に4倍を超えたが、この間の投下資本は2倍を出ず、従業員の増加は20%に過ぎなかった
- [41]1934年6月に完成した第3次増設計画により保有回転窯は6基、月産能力は7万トンとなった
- [42]早強セメントの製造は念願であり、第2次増設計画の新設回転窯3基のうち1基にデンマークのエフ・エル・スミス社製の湿式ユナックスキルンを含めたのはこのためだった
- [43]早強セメントの試製着手は1931年5月で、市場への出荷は1933年2月、商品名は「秩父高級セメント」だった
- [44]早強セメントは売出し後まもなく京浜電気鉄道品川駅の改造工事に使用され、新製品の評価を高めた
- [45]シリカセメントを初めて市場に出荷したのは1935年6月で、商品名は「秩父硅酸セメント」だった
- [46]シリカセメントはセメントの水和作用で生成する水酸化石灰とシリカ質混合材中のシリカ分が結合するポゾラニック作用を利用し、長期強度が大きく水密性に富み水和熱が低い
- [47]1938年末に竣工した東京日比谷の第一生命館はシリカセメントが大量に使われた代表的構築物で、皇居の内堀を隔てた立地から水の浸透が懸念されたが30数年を経ても浸透はみられなかった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
- [37]増設所要資金の調達のため1927年11月17日に第二秩父セメントが設立された
- [38]1928年3月1日に第二秩父セメントを合併し、資本金は1,200万円、株主数は合併前の451人から800人に増加した
- [53]1937年6月の第29回定時株主総会で会長制新設の定款変更が決議され、取締役会長に諸井恒平、取締役社長に大友幸助、常務取締役に諸井貫一が就任した
- [54]諸井恒平は1937年に満75歳を数え、それまでにも健康を害して重役会等を欠席することが多かった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第1節 総観
- [48]第3次計画の完工をもって従来の増設方針を転換し、以後は経営多角化の方向が打ち出された
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第2節 経営多角化
- [49]1936年8月に本社にスレート部が設けられ波形スレートの製造が始まった
- [50]波形スレートは発足後1年数か月を経た1938年初めには抄造機6台・従業員185人に達し、生産能力は月10万枚を超えた
- [51]1939年8月に石綿パイプ工場が完成し、商品名は「チチブパイプ」と決定された
- [55]1938年10月から日本製鉄との共同でセメント回転窯を用いたバッセー法製銑の試験が開始された
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
- [52]1937年6月に定款を改正し、事業目的を「各種セメント及セメント加工品の製造販売並に工事の請負」と改めた
出典・参考
7件
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第4節 販売基盤の確立
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第3節 設備増強と技術の充実
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第1節 総観
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第2節 経営多角化
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
- 私の履歴書 経済人5 諸井貫一(日本経済新聞 1960年5月)