秩父セメント:戦時統制からの復旧と秩父工場の若返り整備
1941年〜統制下の生産縮小と進駐軍セメントの受注
製銑試験は採算に乗らなかった。1938年10月から1941年3月までに11回行われ、出銑高はなまこ銑と屑銑を合わせて963トン、生産原価が最も安かった回でも銑鉄1トンあたり370円で、当時の公定価格1トン90円との開きは埋まらなかった。それでも試験を続けたのは、遊休設備の活用による銑鉄増産に対する政府の要請が強硬だったためである。統制はさらに進む。1940年2月に商工省の半ば命令的な慫慂でセメント共販が設立され、製造業者は自家用分を除くほぼ全量を共販会社に売り渡す義務を負った。1943年には共販会社の直売制に改められ、セメント各社は流通面から全面的に撤退して、自由経済時代に築いた販売店網を失った。1937年度に39万2,000トンだった生産高は、1945年度には8万5,000トンまで減少した。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第2節 経営多角化
- [1]バッセー法製銑試験は1938年10月の第1回から1941年3月までに前後11回行われ、出銑高はなまこ銑のほか屑銑まで合わせて963トンだった
- [2]生産原価がもっとも安かった第2回・第5回試験でも銑鉄1トン当たり370円で、当時の銑鉄の公定価格1トン90円とのひらきが大きく採算に合わなかった
- [3]セメント業の遊休施設の活用による銑鉄増産に対する政府の態度はすこぶる強硬だった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
- [4]セメント共販は1940年2月に国内のセメント需給不円滑に対処するため商工省の半ば命令的な慫慂により設立された
- [5]セメント製造業者は少量の自家用分を除いて製造にかかわるセメントのほとんどすべてを共販会社に売り渡すことが義務づけられた
- [6]1943年に製造業者の代行制をやめて共販会社の直売制に改められ、セメント各社は流通面から全面的に撤退して長年築いた販売店網を失った
- [7]1937年度のセメント生産高は創業以来最高の39万2,000トンを記録したが、終戦の1945年度は8万5,000トンにすぎなかった
回転窯2基をどうにか動かしていた当時の秩父工場では、クリンカーを月に1万から1万5,000トン焼くのが限度と見込まれていた。そこへ1946年4月、進駐軍のジープが予告もなく2度やって来た。数日後に横浜の米第八軍司令部へ呼び出された会社が受け取ったのは、米連邦規格のI型セメント3万トンを同年5月20日から出荷し、米空軍横田基地へできるだけ早く納めよとする指令書だった。しかもI型セメントを焼くには高カロリーの石炭が欠かせない。大友幸助社長の考えは揺るがなかった。指令書を履行する責任を負うのなら、それに要る条件を相手に求めるのは筋であり、条件が認められれば進んで引き受けるべきだというのである。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第3節 特需セメントの受注
- [8]当時の秩父工場はかろうじて回転窯2基運転の体制を整えたところで、クリンカー生産高は月1万から1万5,000トンが限界とみられていた
- [9]1946年4月、秩父工場は何の予告もなしに2度の進駐軍ジープの来訪を受けた
- [10]指令書の内容は米連邦規格によるI型セメント3万トンを1946年5月20日から出荷し、可及的すみやかに米空軍横田基地の建設現場に納入せよというものだった
- [11]I型セメントの生産には相当高カロリーの石炭の入手が絶対必要条件だった
- [12]大友幸助社長は、指令書内容の履行に責任を負う立場である以上その履行に必要な条件の供与を相手方に要求するのは当然であり、認められれば積極的に生産を引き受けるべきだという考えを終始一貫させた
米第八軍に申し入れた条件は3つだった。平均6,000キロカロリー毎キログラム以上の石炭の所要量確保、高級潤滑油と石灰石・石膏の確保、配車その他輸送条件の確保である。いずれも当然のこととして容認され、受注が決まった。占領軍と関わるのを避ける同業が多いなか、条件を出すことを前提に受注を申し出た秩父セメントの姿勢は、かえって米軍当局に好まれた。3万トンを納め終えたのは1946年9月初旬である。基地からの注文はその後も伸び、全出荷高のうち進駐軍特需の比率は1946年度に57%、1947年度に76%、1948年度に27%となった。品質にも納期にも厳しい条件が付いたことが、工場の生産の仕組みを整える契機となった。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第3節 特需セメントの受注
- [13]秩父セメントは米第八軍に対して指令引受けの条件として3条件を申し入れた
- [14]米第八軍に申し入れた条件は、平均6,000Kcal/kg以上の石炭の所要量確保、高級潤滑油・石灰石・石膏等の所要量確保、配車その他輸送条件の確保の3つだった
- [15]当社が要求した諸条件は米第八軍担当官によって当然のこととして容認され、受注が決まった
- [16]業界では進駐軍との接触に消極的で折衝の場を嫌ったが、必要条件の供与を前提として積極的に受注を申し入れた態度はかえって米軍当局者の好感を買った
- [17]横田空軍基地向けセメントは総量3万トンの納入を1946年9月初旬に終えた
- [18]進駐軍特需セメント出荷高が全出荷高に占める割合は1946年度57%、1947年度76%、1948年度27%に達した
- [19]進駐軍特需の受注には品質・納期等について厳しい条件が付けられていたため、工場生産体制の整備が促された
参考文献[1]-[19]
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第2節 経営多角化
- [1]バッセー法製銑試験は1938年10月の第1回から1941年3月までに前後11回行われ、出銑高はなまこ銑のほか屑銑まで合わせて963トンだった
- [2]生産原価がもっとも安かった第2回・第5回試験でも銑鉄1トン当たり370円で、当時の銑鉄の公定価格1トン90円とのひらきが大きく採算に合わなかった
- [3]セメント業の遊休施設の活用による銑鉄増産に対する政府の態度はすこぶる強硬だった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
- [4]セメント共販は1940年2月に国内のセメント需給不円滑に対処するため商工省の半ば命令的な慫慂により設立された
- [5]セメント製造業者は少量の自家用分を除いて製造にかかわるセメントのほとんどすべてを共販会社に売り渡すことが義務づけられた
- [6]1943年に製造業者の代行制をやめて共販会社の直売制に改められ、セメント各社は流通面から全面的に撤退して長年築いた販売店網を失った
- [7]1937年度のセメント生産高は創業以来最高の39万2,000トンを記録したが、終戦の1945年度は8万5,000トンにすぎなかった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第3節 特需セメントの受注
- [8]当時の秩父工場はかろうじて回転窯2基運転の体制を整えたところで、クリンカー生産高は月1万から1万5,000トンが限界とみられていた
- [9]1946年4月、秩父工場は何の予告もなしに2度の進駐軍ジープの来訪を受けた
- [10]指令書の内容は米連邦規格によるI型セメント3万トンを1946年5月20日から出荷し、可及的すみやかに米空軍横田基地の建設現場に納入せよというものだった
- [11]I型セメントの生産には相当高カロリーの石炭の入手が絶対必要条件だった
- [12]大友幸助社長は、指令書内容の履行に責任を負う立場である以上その履行に必要な条件の供与を相手方に要求するのは当然であり、認められれば積極的に生産を引き受けるべきだという考えを終始一貫させた
- [13]秩父セメントは米第八軍に対して指令引受けの条件として3条件を申し入れた
- [14]米第八軍に申し入れた条件は、平均6,000Kcal/kg以上の石炭の所要量確保、高級潤滑油・石灰石・石膏等の所要量確保、配車その他輸送条件の確保の3つだった
- [15]当社が要求した諸条件は米第八軍担当官によって当然のこととして容認され、受注が決まった
- [16]業界では進駐軍との接触に消極的で折衝の場を嫌ったが、必要条件の供与を前提として積極的に受注を申し入れた態度はかえって米軍当局者の好感を買った
- [17]横田空軍基地向けセメントは総量3万トンの納入を1946年9月初旬に終えた
- [18]進駐軍特需セメント出荷高が全出荷高に占める割合は1946年度57%、1947年度76%、1948年度27%に達した
- [19]進駐軍特需の受注には品質・納期等について厳しい条件が付けられていたため、工場生産体制の整備が促された
1949年〜社長交代と、常務会の結論を覆した決定
経営陣の交代は続いた。創立者の諸井恒平氏は1941年2月13日に78歳9か月で逝去し、日本煉瓦製造・秩父鉄道との3社合同葬が営まれた。戦後の再建を主宰した大友幸助氏も1948年4月9日、不慮の事故で急逝する。同年6月15日の取締役会で諸井貫一氏が社長に就任し、大友恒夫氏ら4人の常務による4常務制が会社運営の基本体制となった。労働組合は1946年5月1日の復活メーデーの日に工場と本社でそれぞれ結成され、翌6月から7月にかけて労働協約が結ばれた。諸井貫一氏は日本経営者団体連盟の設立に参画して代表常任理事を長く務めており、その後の秩父セメントで労使紛争が起きたことはない。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
- [20]創立者の諸井恒平は1941年2月13日に逝去し、享年は78年9か月だった
- [21]諸井恒平の葬儀は日本煉瓦製造・秩父鉄道と協議のうえ3社合同葬として営まれた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第1節 総観
- [22]大友幸助社長は1948年4月9日に不慮の事故で急逝した
- [23]1948年6月15日開催の取締役会で互選の結果、諸井貫一常務が取締役社長に就任した
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第2節 再出発
- [24]諸井貫一社長の就任時に大友恒夫・堀口信・山内冨之助・吉井勝哉の4取締役が常務に選任され、4常務制が会社運営の基本体制として確立した
- [25]秩父セメント工場労働組合と本社従業員組合は1946年5月1日の戦後復活メーデーの日に結成された
- [26]諸井貫一は日本経営者団体連盟の設立に参画して代表常任理事を長く務め、同社では労使間に紛争事件が発生したことはない
1949年上期、戦後の復旧がようやく回転窯3基の運転にこぎつけた段階で、次の設備をどうするかが常務会に諮られた。当時の工場は回転窯5基に対しボイラーが小型6缶しかなく、実質3基分の容量を共通煙道の操作でやりくりしていた。これ以上の増産には新設に等しい大改造が要る。大改造か新工場建設かで議論は割れ、最後は山内常務が提案した新工場建設案に4常務が賛成して結論は出たものとみられた。ところが翌日、諸井貫一社長が前日の結論への反対を唱えた。骨は折れても大改造を先にやるべきで、新工場は後回しにすべきだという主張である。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画(社報特集号 1968年6月)
- [27]1949年上期は戦後の荒廃した工場の復旧を始めて回転窯3基程度の運転が可能となった状態だった
- [28]当時の工場は回転窯5基に対しボイラーが小型6缶(実質3基分)しかなく、共通煙道の操作によって運転を続けていた
- [29]ほとんど新設に等しい大改造を行わなければこれ以上の増産は不可能という状態にあった
- [30]常務会の議論は最後に山内常務が提案した新工場建設案に傾き、少なくとも4常務がこれに賛成して結論が出たものとみられた
- [31]翌日になると諸井貫一社長から前日の結論への反対論が出され、骨が折れても大改造をやるべきで新工場は後回しにすべきだと諄々と説かれた
- [32]諸井貫一社長は、只今の状態では骨が折れても大改造をやるべきで新工場は後まわしにすべきだと説いた
新工場にいま取りかかれば旧工場を立て直す機会はもう巡ってこないというのが、社長の明快な理屈の出発点だった。先に旧設備を若返らせれば生産能力は確実に倍になり、そのあとで新工場に移れば資金の面でも技術の面でも十分に準備を整えて臨める、という順序である。この考えを大友恒夫氏はのちに『重大なデシジョンの瞬間』(社報特集号 1968/6)という題で書き残した。改造の中心は第8期にあたる第1・2号ボイラを取り壊して新しくすることにあり、社内での呼び名は⑧工事だった。1950年6月に朝鮮動乱が起きると同業は相次いで回転窯を増やしたが、秩父セメントは既定の方針どおり改造を続けた。所要資金は多額に上ったが、若返り効果が途中から現れ、すべてを社内に留保した利益でまかなったうえ多額の償却も進めた。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画
- [33]諸井貫一社長の基本的な考えは、ここで新工場の建設にとりかかれば旧工場の再建整備の機を永久に逸すること、いま若返り整備補強策を講ずれば生産能力は明らかに倍増し、そのうえで新工場の建設にかかれば資金的にも技術的にも十分の準備と余裕をもって当たれることにあった
- [34]いま旧工場の若返り整備補強策を講ずればその生産能力は明らかに倍増し、そのうえで新工場の建設にかかれば資金的にも技術的にも十分の準備と余裕をもって当たれるという判断だった
- [36]若返り整備計画は第1期から第15期工事に分かれ、核心的工事であった第1・2号ボイラの解体ならびに新設工事が第8期工事だったため、社内では若返り整備工事全体を⑧工事と呼ぶようになった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画(社報特集号 1968年6月)
- [35]大友恒夫は社報特集号でこの決定を「重大なデシジョンの瞬間」と題して回想した
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第1節 総観
- [37]1950年6月の朝鮮動乱ブームを迎えて同業各社は回転窯の増設による即効的な生産増強を企図したが、秩父セメントは既定方針を堅持した
- [38]計画工事の遂行に要する莫大な資金のすべてを社内留保でまかない、その間に多額の償却を続けて工事を完了した
参考文献[20]-[38]
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
- [20]創立者の諸井恒平は1941年2月13日に逝去し、享年は78年9か月だった
- [21]諸井恒平の葬儀は日本煉瓦製造・秩父鉄道と協議のうえ3社合同葬として営まれた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第1節 総観
- [22]大友幸助社長は1948年4月9日に不慮の事故で急逝した
- [23]1948年6月15日開催の取締役会で互選の結果、諸井貫一常務が取締役社長に就任した
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第2節 再出発
- [24]諸井貫一社長の就任時に大友恒夫・堀口信・山内冨之助・吉井勝哉の4取締役が常務に選任され、4常務制が会社運営の基本体制として確立した
- [25]秩父セメント工場労働組合と本社従業員組合は1946年5月1日の戦後復活メーデーの日に結成された
- [26]諸井貫一は日本経営者団体連盟の設立に参画して代表常任理事を長く務め、同社では労使間に紛争事件が発生したことはない
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画(社報特集号 1968年6月)
- [27]1949年上期は戦後の荒廃した工場の復旧を始めて回転窯3基程度の運転が可能となった状態だった
- [28]当時の工場は回転窯5基に対しボイラーが小型6缶(実質3基分)しかなく、共通煙道の操作によって運転を続けていた
- [29]ほとんど新設に等しい大改造を行わなければこれ以上の増産は不可能という状態にあった
- [30]常務会の議論は最後に山内常務が提案した新工場建設案に傾き、少なくとも4常務がこれに賛成して結論が出たものとみられた
- [31]翌日になると諸井貫一社長から前日の結論への反対論が出され、骨が折れても大改造をやるべきで新工場は後回しにすべきだと諄々と説かれた
- [32]諸井貫一社長は、只今の状態では骨が折れても大改造をやるべきで新工場は後まわしにすべきだと説いた
- [35]大友恒夫は社報特集号でこの決定を「重大なデシジョンの瞬間」と題して回想した
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画
- [33]諸井貫一社長の基本的な考えは、ここで新工場の建設にとりかかれば旧工場の再建整備の機を永久に逸すること、いま若返り整備補強策を講ずれば生産能力は明らかに倍増し、そのうえで新工場の建設にかかれば資金的にも技術的にも十分の準備と余裕をもって当たれることにあった
- [34]いま旧工場の若返り整備補強策を講ずればその生産能力は明らかに倍増し、そのうえで新工場の建設にかかれば資金的にも技術的にも十分の準備と余裕をもって当たれるという判断だった
- [36]若返り整備計画は第1期から第15期工事に分かれ、核心的工事であった第1・2号ボイラの解体ならびに新設工事が第8期工事だったため、社内では若返り整備工事全体を⑧工事と呼ぶようになった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第1節 総観
- [37]1950年6月の朝鮮動乱ブームを迎えて同業各社は回転窯の増設による即効的な生産増強を企図したが、秩父セメントは既定方針を堅持した
- [38]計画工事の遂行に要する莫大な資金のすべてを社内留保でまかない、その間に多額の償却を続けて工事を完了した
1952年〜若返りの成果と建築家を迎えた秩父第二工場
結果は数字に出た。工事の主目標は回転窯の機能強化と並列運転体制の実現にあり、第1〜4号回転窯の胴体延長と、第1〜5号回転窯へのエアクエンチングクーラの取付けが行われた。採用したスミス社のフォーラックスクーラはわが国で初めて使われ、急冷性と熱回収性で焼成能率を高めた。1952年秋には回転窯5基の並列運転が実現し、1954年5月には7万2,000トンの生産実績を上げて月産能力7万トンの国内最大工場となった。回転窯の新設を伴わないため生産高の伸びは同業他社をやや下回ったが、1950年から1954年の生産高は年平均約23%増え、1954年度には70万トンを超えた。工事の完工は1955年上期である。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画
- [39]若返り整備計画の主要目標は回転窯の機能強化と並列運転体制の実現に必要な付帯設備の抜本的整備にあり、第1〜4号回転窯の胴体延長と第1〜5号回転窯へのエアクエンチングクーラ取付けが行われた
- [40]採用したエアクエンチングクーラはスミス社のフォーラックスクーラでわが国で初めて使用され、効率の高い急冷性と熱回収性で焼成能率の向上に寄与した
- [41]1952年秋に回転窯5基の並列運転が実現した
- [42]1954年5月には7万2,000トンの生産実績を上げ、月産能力7万トンを擁する本邦最大の工場になった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第1節 総観
- [43]1950年から1954年の生産高は年平均約23%の増伸を続け、1954年度には70万トンを超えた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第3節 生産態勢充実
- [44]若返り整備工事は1955年上期に完工した
新工場の意図が公にされたのは1953年5月9日、創立30周年記念式典の式辞である。1954年11月に起工した秩父第二工場では、東京工業大学の二見秀雄・谷口吉郎・加藤六美の3教授を委員に加えた第二工場建設委員会が設けられ、最終回までに53回を数えた。工場の設計を手がけた谷口教授は、この仕事で1956年度の日本建築学会作品賞を受けている。用地は28万500平方メートルに及び、それまでのセメント工場では考えられない広さだった。配置は回転窯を4基以上据えることを前提に決めた。主要な機械と基本設計は、デンマークのエフ・エル・スミス社に一括して任せた。1956年4月から5月の間に、第1・2号回転窯が相次いで火入れを迎えた。直径3.75メートル、長さ170メートルのこの湿式ロングキルンは、国内では当時もっとも新しく、もっとも大きかった。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第4節 創立30周年
- [45]諸井貫一社長が新工場建設の意図を初めて表明したのは1953年5月9日の創立30周年記念式典の式辞である
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第2節 秩父第二工場の建設
- [46]第二工場建設委員会には東京工業大学の二見秀雄・谷口吉郎・加藤六美の3教授が委員として加わり、委員会は1956年3月の最終回までに53回を数えた
- [47]谷口吉郎教授は設計・意匠の面での力作『秩父セメント第二工場』により1956年度の日本建築学会作品賞を受賞した
- [48]秩父第二工場の敷地総面積は約28万500平方メートル(8万5,000坪)で従来のセメント工場の常識を破る広大なものだった
- [49]委員会で決定された基本事項の第一は、工場のレイアウトを回転窯4基以上の備付けを前提とすることだった
- [50]回転窯をはじめ原料粉末機・冷却機・仕上粉末機等の主要機械はすべてデンマークのエフ・エル・スミス社製が採用され、工場基本設計も同社に依頼された
- [51]1956年4月から5月にかけて秩父第二工場の第1・2号回転窯が相ついで火入れされた
- [52]秩父第二工場の回転窯は直径3.75メートルおよび3.45メートル、長さ170メートルの湿式ロングキルンで、当時のわが国では最新鋭・最大のものだった
第二工場が持ち込んだもう一つの新しさは制御である。わが国で初めてセメント工場にオートメーションを採り入れ、必要な計器類をすべてパネルに組み込むグラフィックパネル方式の中央管理を実現した。勘に頼って運転していた回転窯が計器の指示で動くようになり、以後この会社は業界におけるオートメーションのペースメーカーになる。1958年6月には第2期工事が完成して回転窯4基・月産能力10万トンとなり、翌年からは中庸熱セメントと高炉セメントの販売も始めた。1958年11月に納入を開始した建設省二瀬ダム向け高炉セメント8万4,000トンは創業以来の大口成約で、工場一次出荷における初のバラトラック大量輸送でもあった。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第2節 秩父第二工場の建設
- [53]秩父第二工場でわが国で初めてセメント工場のオートメーションが採り入れられ、焼成部門ではわが国初のグラフィックパネルによる中央管理方式が採用された
- [54]従来は勘に頼って運転していたキルンが計器の指示によって運転されるようになり、秩父セメントは業界におけるオートメーションのペースメーカーとなった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第1節 総観
- [55]1958年6月に秩父第二工場の第2期工事が完成し、回転窯4基・月産能力10万トンの新鋭工場となった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第5節 販売体制の進展
- [56]1958年11月に納入を開始した建設省関東地方建設局二瀬ダム向け高炉セメント8万4,000トンは創業以来の大口成約であり、工場一次出荷における初のバラトラックによる大量出荷でもあった
参考文献[39]-[56]
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画
- [39]若返り整備計画の主要目標は回転窯の機能強化と並列運転体制の実現に必要な付帯設備の抜本的整備にあり、第1〜4号回転窯の胴体延長と第1〜5号回転窯へのエアクエンチングクーラ取付けが行われた
- [40]採用したエアクエンチングクーラはスミス社のフォーラックスクーラでわが国で初めて使用され、効率の高い急冷性と熱回収性で焼成能率の向上に寄与した
- [41]1952年秋に回転窯5基の並列運転が実現した
- [42]1954年5月には7万2,000トンの生産実績を上げ、月産能力7万トンを擁する本邦最大の工場になった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第1節 総観
- [43]1950年から1954年の生産高は年平均約23%の増伸を続け、1954年度には70万トンを超えた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第3節 生産態勢充実
- [44]若返り整備工事は1955年上期に完工した
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第4節 創立30周年
- [45]諸井貫一社長が新工場建設の意図を初めて表明したのは1953年5月9日の創立30周年記念式典の式辞である
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第2節 秩父第二工場の建設
- [46]第二工場建設委員会には東京工業大学の二見秀雄・谷口吉郎・加藤六美の3教授が委員として加わり、委員会は1956年3月の最終回までに53回を数えた
- [47]谷口吉郎教授は設計・意匠の面での力作『秩父セメント第二工場』により1956年度の日本建築学会作品賞を受賞した
- [48]秩父第二工場の敷地総面積は約28万500平方メートル(8万5,000坪)で従来のセメント工場の常識を破る広大なものだった
- [49]委員会で決定された基本事項の第一は、工場のレイアウトを回転窯4基以上の備付けを前提とすることだった
- [50]回転窯をはじめ原料粉末機・冷却機・仕上粉末機等の主要機械はすべてデンマークのエフ・エル・スミス社製が採用され、工場基本設計も同社に依頼された
- [51]1956年4月から5月にかけて秩父第二工場の第1・2号回転窯が相ついで火入れされた
- [52]秩父第二工場の回転窯は直径3.75メートルおよび3.45メートル、長さ170メートルの湿式ロングキルンで、当時のわが国では最新鋭・最大のものだった
- [53]秩父第二工場でわが国で初めてセメント工場のオートメーションが採り入れられ、焼成部門ではわが国初のグラフィックパネルによる中央管理方式が採用された
- [54]従来は勘に頼って運転していたキルンが計器の指示によって運転されるようになり、秩父セメントは業界におけるオートメーションのペースメーカーとなった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第1節 総観
- [55]1958年6月に秩父第二工場の第2期工事が完成し、回転窯4基・月産能力10万トンの新鋭工場となった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第5節 販売体制の進展
- [56]1958年11月に納入を開始した建設省関東地方建設局二瀬ダム向け高炉セメント8万4,000トンは創業以来の大口成約であり、工場一次出荷における初のバラトラックによる大量出荷でもあった
出典・参考
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- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第2節 経営多角化
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第3節 特需セメントの受注
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第1節 総観
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第2節 再出発
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画(社報特集号 1968年6月)
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第1節 総観
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第3節 生産態勢充実
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第4節 創立30周年
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第2節 秩父第二工場の建設
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第1節 総観
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第5節 販売体制の進展