第4章 年〜年

秩父セメント:SF焼成法の確立と小野田セメントとの合併による秩父小野田の発足

1959年〜世界に先んじて計算機を入れた熊谷工場

第三の工場は消費地に寄せた。1959年10月、首都圏整備法により三ケ尻地区が工場団地に指定されたとして熊谷市長が秩父第一工場を訪ね、進出の意志があれば全面的に協力すると申し入れた。秩父の2工場は原料に近い代わりに輸送で制約を受けており、大消費地に近く鉄道と道路の便に恵まれた土地が求められていた。1960年1月末に214人の全地主の承諾を得て41万2,500平方メートルの敷地が確定し、同年11月3日に起工した。1962年7月8日に第1号回転窯が火入れされ、8月3日に製品を初出荷した。1961年10月25日には東京証券取引所市場第二部に株式が上場された。上場当日の株価は770円で、前後の変動はほとんどみられなかった。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第2節 熊谷工場の建設
    • [1]1959年10月、首都圏整備法に基づき熊谷市三ケ尻地区が工場団地に指定されたとして栗原熊谷市長が秩父第一工場を訪れ、進出の意志があれば工場誘致に全面的に協力すると申し入れた
    • [2]秩父第一工場と第二工場は原材料・製品の輸送量と輸送費の両面で工場が秩父地区に位置する立地上の制約を受けることが多く、新設する第三工場は大消費地に近接し鉄道・道路輸送の便に恵まれた地域を指向する構想が生まれた
    • [3]1960年1月末に214人におよぶ全地主の承諾を得て41万2,500平方メートル(12万5,000坪)の工場敷地が確定した
    • [4]熊谷工場は1960年11月3日に起工式を行った
    • [5]熊谷工場の第1号回転窯は1962年7月8日に火入れされ、8月3日に製品を初出荷した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第1節 総観
    • [6]1961年10月25日から秩父セメントの株式が東京証券取引所市場第二部に上場された
    • [7]上場当日の株価は770円で、上場前後の株価の変動はほとんど見られなかった

熊谷工場では計算機による工程制御に着手した。1960年夏に米国TRW社が秩父の両工場を予備調査し導入の利点を認めたが、建設が具体化していた熊谷工場へ先に入れる判断が下された。コンピュータRW-300の通電式は1962年10月に行われ、1963年秋に原料調合制御、1965年初にキルン制御が軌道に乗った。プロセスコントロールシステムのセメント工場への導入は当時の米国に乾式法の1例があるだけで、湿式法では前例がなく、この導入は世界に先鞭をつけるものとなった。1965年4月には自社技術陣が開発した『セメント製造工程の計算機制御方式の開発』が第11回大河内記念生産賞を受けた。1967年5月の第2期工事完成により、同社の月産能力は55万トンに達した。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第2節 熊谷工場の建設
    • [8]1960年夏に米国TRW社が秩父第一・第二工場について予備調査を行い、導入した場合のメリットが少なくないとの結論を得たが、建設が具体化していた熊谷工場へ先に導入することとなった
    • [9]コンピュータRW-300は1962年10月に熊谷工場中央管理室で通電式が行われ、1963年秋にオートロメータと連結して原料調合制御が始まり、1965年早々にキルン制御が軌道に乗った
    • [10]コンピュータによるプロセスコントロールシステムのセメント工場への導入は当時の米国に乾式法の1例があったが湿式法には例がなく、秩父セメントの導入は世界に先鞭をつけるものだった
    • [11]1965年4月、当社技術陣が開発した「セメント製造工程の計算機制御方式の開発」が第11回大河内記念生産賞を受賞した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第1節 総観
    • [12]熊谷工場の完成と秩父第一工場の設備増強により、同社の月産能力は一挙に2.6倍の55万トンとなった

1968年3月、諸井貫一氏が会長に退き、大友恒夫氏が社長に就任した。諸井貫一会長は同年5月21日に71歳7か月で逝去する。社長在任は20年に及び、この間に秩父第一工場の復興、秩父第二工場と熊谷工場の建設を完工した。大友社長が就任後まず取り上げたのは販売体制の刷新で、なかでも重点が置かれたのは生コンクリート対策だった。同社の生コン事業は1961年10月の秩父生コン浦和工場の操業に始まるが、業界の生コン転化率がすでに13%に達していた時期であり、発足は出遅れていた。1968年に積極的育成へ方針を転換すると、系列生コン工場は1967年の103工場から1972年には295工場へ増え、生コン向け販売高は290万トンを超えて全販売高の51.4%を占めた。1972年6月には本社・3工場・7営業所を結ぶ営業オンラインシステムを業界に先がけて実施した。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第2節 経営新体制
    • [13]1968年3月に諸井貫一社長が会長に退き、大友恒夫専務が社長に就任した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第1節 総観
    • [14]諸井貫一会長は1968年5月21日に東京都文京区本郷の自宅で逝去し、享年は71年7か月だった
    • [15]諸井貫一の社長在任は1948年の就任以来20年の長きにわたり、この間に秩父第一工場の復興に続いて秩父第二工場・熊谷工場の建設を相ついで完工した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第3節 販売体制の確立
    • [16]大友社長が就任後最初に取り上げたのは販売体制の刷新強化で、最も重点的な対象となったのは生コン対策だった
    • [17]秩父セメントの生コン事業の実質的な発足は1961年10月の秩父生コン浦和工場の操業開始で、当時の業界の生コン転化率はすでに13%に達しており発足は出遅れていた
    • [18]系列生コン工場は1967年の103工場から1972年には295工場に増加した
    • [19]1972年の生コン向け販売高は290万トンを超え、全販売高の51.4%を占めた
    • [20]業界に先がけて1972年6月に本社・3工場・7営業所を結ぶ営業オンラインシステムが実施された
参考文献[1]-[20]
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第2節 熊谷工場の建設
    • [1]1959年10月、首都圏整備法に基づき熊谷市三ケ尻地区が工場団地に指定されたとして栗原熊谷市長が秩父第一工場を訪れ、進出の意志があれば工場誘致に全面的に協力すると申し入れた
    • [2]秩父第一工場と第二工場は原材料・製品の輸送量と輸送費の両面で工場が秩父地区に位置する立地上の制約を受けることが多く、新設する第三工場は大消費地に近接し鉄道・道路輸送の便に恵まれた地域を指向する構想が生まれた
    • [3]1960年1月末に214人におよぶ全地主の承諾を得て41万2,500平方メートル(12万5,000坪)の工場敷地が確定した
    • [4]熊谷工場は1960年11月3日に起工式を行った
    • [5]熊谷工場の第1号回転窯は1962年7月8日に火入れされ、8月3日に製品を初出荷した
    • [8]1960年夏に米国TRW社が秩父第一・第二工場について予備調査を行い、導入した場合のメリットが少なくないとの結論を得たが、建設が具体化していた熊谷工場へ先に導入することとなった
    • [9]コンピュータRW-300は1962年10月に熊谷工場中央管理室で通電式が行われ、1963年秋にオートロメータと連結して原料調合制御が始まり、1965年早々にキルン制御が軌道に乗った
    • [10]コンピュータによるプロセスコントロールシステムのセメント工場への導入は当時の米国に乾式法の1例があったが湿式法には例がなく、秩父セメントの導入は世界に先鞭をつけるものだった
    • [11]1965年4月、当社技術陣が開発した「セメント製造工程の計算機制御方式の開発」が第11回大河内記念生産賞を受賞した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第1節 総観
    • [6]1961年10月25日から秩父セメントの株式が東京証券取引所市場第二部に上場された
    • [7]上場当日の株価は770円で、上場前後の株価の変動はほとんど見られなかった
    • [12]熊谷工場の完成と秩父第一工場の設備増強により、同社の月産能力は一挙に2.6倍の55万トンとなった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第2節 経営新体制
    • [13]1968年3月に諸井貫一社長が会長に退き、大友恒夫専務が社長に就任した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第1節 総観
    • [14]諸井貫一会長は1968年5月21日に東京都文京区本郷の自宅で逝去し、享年は71年7か月だった
    • [15]諸井貫一の社長在任は1948年の就任以来20年の長きにわたり、この間に秩父第一工場の復興に続いて秩父第二工場・熊谷工場の建設を相ついで完工した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第3節 販売体制の確立
    • [16]大友社長が就任後最初に取り上げたのは販売体制の刷新強化で、最も重点的な対象となったのは生コン対策だった
    • [17]秩父セメントの生コン事業の実質的な発足は1961年10月の秩父生コン浦和工場の操業開始で、当時の業界の生コン転化率はすでに13%に達しており発足は出遅れていた
    • [18]系列生コン工場は1967年の103工場から1972年には295工場に増加した
    • [19]1972年の生コン向け販売高は290万トンを超え、全販売高の51.4%を占めた
    • [20]業界に先がけて1972年6月に本社・3工場・7営業所を結ぶ営業オンラインシステムが実施された

1971年〜SF焼成法の共同開発と、財界で発言する経営者

石川島播磨重工業と組んだ研究は、1971年5月に秩父第一工場の第7号回転窯を舞台に始まった。技術面で同社が踏み込んだのは焼成法そのものだった。気流炉を使ってセメントを焼く方法を探ったこの研究は実を結び、1972年7月、両社によるSF式セメント焼成法の開発に至った。仕組みはサスペンションプレヒータ付きキルンを改良したもので、回転窯とプレヒータのあいだに独自の熱源を持つ仮焼装置を挟むことで、回転窯にかかる熱の負担を減らし生産量を引き上げる。国内ではほぼ同じ時期に似た方式の新しい焼成法が3件開発され、一括してNSP方式と称されるようになったが、同社はこの方法をすぐに大型の窯で実用化する道を選び、1972年11月には熊谷工場第6号回転窯をSF化する工事に取りかかった。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第1節 総観
    • [21]1971年5月から秩父第一工場第7号回転窯による秩父セメントと石川島播磨重工業との共同研究が開始され、気流炉によるセメント焼成法の研究を目的としていた
    • [22]共同研究は成功し、1972年7月に画期的なSFセメント焼成法の共同開発をもたらした
    • [23]SF式セメント焼成法はSP方式に改良を加えたもので、SPと回転窯との間に別個の熱源による仮焼装置を組み込むことで回転窯の熱負荷を軽減し生産高を飛躍的に高める
    • [24]SF式焼成法とほとんど時を同じくしてわが国では類似の新焼成法3件が開発され、これらを一括してNSP方式と呼称されるようになった
    • [25]秩父セメントは新焼成法を直ちに大型機に具現することとし、1972年11月に熊谷工場第6号回転窯のSF化工事に着手した

1976年に社長となり1986年から会長を務めた諸井虔氏は、社外での発言で知られた。1928年4月に東京で生まれ、1953年に東京大学経済学部を卒業して日本興業銀行に入行し、調査役まで務めたのち1967年に秩父セメントへ移って社長秘書を務めた。1985年4月から1988年12月まで経済同友会の副代表幹事を務め、農業近代化を考える委員会の委員長として、コメの生産コストを5年以内に半減できないかと提言した。中核農家へ農地を集約するには税制が壁になるとして、農地として保有すれば固定資産税も相続税も有利になる仕組みを見直すよう求め、『550万ヘクタールを確保していくという現在の農地法の基本的な考え方』(日経ビジネス 1989/10/16)そのものの再検討まで着手した。

  • 日経ビジネス 1989年10月16日号増刊号 p57 諸井虔・秩父セメント会長 農地法を見直せ
    • [26]諸井虔は1976年に秩父セメント社長に就任し、1986年から会長を務めた
    • [27]諸井虔は1928年4月に東京都で生まれ、1953年に東京大学経済学部を卒業して日本興業銀行に入行した
    • [29]諸井虔は1985年4月から1988年12月まで経済同友会の副代表幹事を務めた
    • [30]諸井虔が農業委員長を務めた経済同友会は、コメの生産コストを5年以内に現在の半分にできないかと提言した
    • [31]諸井虔は農地として保有すれば固定資産税も相続税も有利になる現行制度が農地の集約化を妨げていると指摘し、550万ヘクタールを確保するという農地法の基本的な考え方を見直すべきだと主張した
  • 日経ビジネス 1991年7月8日号 p82 21世紀へ 諸井虔[秩父セメント会長]
    • [28]諸井虔は日本興業銀行で調査役まで勤めたのち1967年に秩父セメントに入社し、まず社長秘書を務めた

一方、本業の数字は縮んでいた。単体売上高は1981年5月期の862億円を頂点に3年続けて減り、1984年5月期は717億円まで減少した。同期の売上構成はセメントが694億円で97%を占め、その他は22億円にすぎない。同じ年鑑に載る他の5社の依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、日本セメント80%、住友セメント93%であり、秩父セメントは6社のうち最も規模が小さく、最もセメントに寄りかかっていた。1991年6月には栗原隆専務が社長に就任した。1932年に東京で生まれ、1956年に横浜国立大学経済学部を卒業して入社し、1979年からは経営不振に陥った系列の敦賀セメントに社長室長として出向した経歴を持つ。

  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5236 秩父セメント
    • [32]秩父セメントの単体売上高は1981年5月期の862億4,300万円を頂点に3年続けて減少し、1984年5月期は716億8,100万円だった
    • [33]1984年5月期の売上構成はセメント694億5,000万円で97%を占め、その他は22億3,000万円だった
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5231 日本セメント・5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5238 三菱鉱業セメント
    • [34]同じ会社年鑑に載る直近期のセメント依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、日本セメント80%、住友セメント93%だった
  • 日経ビジネス 1991年8月5日・12日号 p106 栗原氏[秩父セメント]登場
    • [35]1991年6月に栗原隆専務が秩父セメント社長に就任した
    • [36]栗原隆は1932年に東京都で生まれ、1956年に横浜国立大学経済学部を卒業して同年秩父セメントに入社した
    • [37]栗原隆は1977年の第1次石油ショック後に経営不振に陥った系列の敦賀セメントへ社長室長として出向し、1979年に同社取締役となった
参考文献[21]-[37]
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第1節 総観
    • [21]1971年5月から秩父第一工場第7号回転窯による秩父セメントと石川島播磨重工業との共同研究が開始され、気流炉によるセメント焼成法の研究を目的としていた
    • [22]共同研究は成功し、1972年7月に画期的なSFセメント焼成法の共同開発をもたらした
    • [23]SF式セメント焼成法はSP方式に改良を加えたもので、SPと回転窯との間に別個の熱源による仮焼装置を組み込むことで回転窯の熱負荷を軽減し生産高を飛躍的に高める
    • [24]SF式焼成法とほとんど時を同じくしてわが国では類似の新焼成法3件が開発され、これらを一括してNSP方式と呼称されるようになった
    • [25]秩父セメントは新焼成法を直ちに大型機に具現することとし、1972年11月に熊谷工場第6号回転窯のSF化工事に着手した
  • 日経ビジネス 1989年10月16日号増刊号 p57 諸井虔・秩父セメント会長 農地法を見直せ
    • [26]諸井虔は1976年に秩父セメント社長に就任し、1986年から会長を務めた
    • [27]諸井虔は1928年4月に東京都で生まれ、1953年に東京大学経済学部を卒業して日本興業銀行に入行した
    • [29]諸井虔は1985年4月から1988年12月まで経済同友会の副代表幹事を務めた
    • [30]諸井虔が農業委員長を務めた経済同友会は、コメの生産コストを5年以内に現在の半分にできないかと提言した
    • [31]諸井虔は農地として保有すれば固定資産税も相続税も有利になる現行制度が農地の集約化を妨げていると指摘し、550万ヘクタールを確保するという農地法の基本的な考え方を見直すべきだと主張した
  • 日経ビジネス 1991年7月8日号 p82 21世紀へ 諸井虔[秩父セメント会長]
    • [28]諸井虔は日本興業銀行で調査役まで勤めたのち1967年に秩父セメントに入社し、まず社長秘書を務めた
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5236 秩父セメント
    • [32]秩父セメントの単体売上高は1981年5月期の862億4,300万円を頂点に3年続けて減少し、1984年5月期は716億8,100万円だった
    • [33]1984年5月期の売上構成はセメント694億5,000万円で97%を占め、その他は22億3,000万円だった
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5231 日本セメント・5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5238 三菱鉱業セメント
    • [34]同じ会社年鑑に載る直近期のセメント依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、日本セメント80%、住友セメント93%だった
  • 日経ビジネス 1991年8月5日・12日号 p106 栗原氏[秩父セメント]登場
    • [35]1991年6月に栗原隆専務が秩父セメント社長に就任した
    • [36]栗原隆は1932年に東京都で生まれ、1956年に横浜国立大学経済学部を卒業して同年秩父セメントに入社した
    • [37]栗原隆は1977年の第1次石油ショック後に経営不振に陥った系列の敦賀セメントへ社長室長として出向し、1979年に同社取締役となった

1958年〜1994年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1958年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1972年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1973年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1974年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年05月期 単体 509 n/a 13 2.7% 4 n/a
1977年05月期 単体 574 +12.8% 19 3.4% 8 n/a
1978年05月期 単体 608 +5.9% 47 7.9% 24 n/a
1979年05月期 単体 666 +9.6% 74 11.1% 37 n/a
1980年05月期 単体 749 +12.5% 16 2.2% 10 n/a
1981年05月期 単体 862 +15.0% 55 6.4% 22 n/a
1982年05月期 単体 833 ▲3.4% 46 5.6% 28 n/a
1983年05月期 単体 778 ▲6.6% 13 1.8% 12 n/a
1984年05月期 単体 716 ▲7.9% 28 4.0% 24 n/a
1985年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1993年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1994年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

10件
出典・参考
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第2節 熊谷工場の建設
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第1節 総観
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第2節 経営新体制
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第1節 総観
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第3節 販売体制の確立
  • 日経ビジネス 1989年10月16日号増刊号 p57 諸井虔・秩父セメント会長 農地法を見直せ
  • 日経ビジネス 1991年7月8日号 p82 21世紀へ 諸井虔[秩父セメント会長]
  • 日経ビジネス 1991年8月5日・12日号 p106 栗原氏[秩父セメント]登場
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5236 秩父セメント
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5231 日本セメント・5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5238 三菱鉱業セメント

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