糖尿病薬ノスカールの国際展開と「第二の柱」戦略の挫折
メバロチン依存を脱するため世界初のインスリン抵抗性改善剤に賭けたが、なぜ発売初年に欧州から退いたのか
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- 概要
- 1997年、三共は自社創製の糖尿病薬トログリタゾン(商品名ノスカール)を日本・米国で同時発売し、英国でも発売した。世界初のインスリン抵抗性改善剤を、大手との合併ではなく自社創薬と海外大手への販売権供与で世界へ送り出し、主力品メバロチンに次ぐ第二の柱に育てようとした経営判断。
- 背景
- 三共は高脂血症治療薬メバロチンで高収益を築いていたが、その年商は総売上高の約4割を占め、収益の柱が一つに偏っていた。日本で2002年、欧米で2005年前後に迫る特許切れの穴を埋める次の主力品が急務であった。
- 内容
- 三共はノスカールを1997年3月に日米で同時発売し10月に英国でも発売、米国はワーナー・ランバート、欧州はグラクソ・ウェルカムに販売権を与えた。自社の創薬力と海外大手の販売網を組み合わせ、潜在患者を含め欧米各1600万人という巨大市場を狙った。
- 含意
- 発売初年に肝障害の副作用が判明し、欧州では販売が中止された。第二の柱を確立できないまま特許切れが迫り、単独では次の柱を作れないという危機感が2005年の第一製薬との経営統合につながった。
筆者見解
ノスカールの挫折は、三共が積み上げた創薬力の高さと、単独で世界市場を取りにいくことの難しさを同時に映していたといえる。世界初の作用機序を自ら生み出す力がありながら、副作用という不確実性が現れたとき、一社で欧州から米国までを支え切る体力と販売網を欠いていた。第二の柱を一つの製品に託した構造の危うさが、発売初年の副作用問題で一気に表れたとみることができる。
統合後の第一三共が掲げた自社開発・自社販売による利益増大という戦略は、ノスカールで描こうとした構図の延長線上にあったとみられる。自ら創り自ら売るほど利益は大きいが、失敗したときの痛手も一社に集中する。その振れ幅を受け止める規模を単独では持てなかったことが、旧二社を一つの持株会社へ束ねる遠因になったとみることができる。メバロチンとノスカールの経験は、第一三共がのちに抗がん剤で世界へ挑む際の教訓としても引き継がれていったとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
メバロチンという一本足の高収益
三共は自社が創製した高脂血症治療薬メバロチンで高収益を築いていた。メバロチンは血中コレステロールを下げるスタチン系の実用化で先陣を切り、その年商は1800億円と三共の総売上高の約4割を占めていた。国内の単品では唯一年商1000億円を超える大型薬であり、三共の高収益経営をほぼ一手に支えていた。ただし収益の柱が一つの製品に偏る構造は、その特許が切れる時期が近づくほど重い課題となっていた[1]。
特許切れを見据えた第二の柱
メバロチンは日本で2002年、欧米で2005年前後に特許切れを迎える見通しであった。ほかに有力な新薬がない以上、その穴を埋める次の主力品づくりが三共の将来を左右する状況にあった。三共が狙いを定めたのは糖尿病領域である。従来の糖尿病薬が膵臓を刺激してインスリンを絞り出すのに対し、三共が自社開発したトログリタゾン(商品名ノスカール)は、インスリンの働き自体を高める世界最初のインスリン抵抗性改善剤であった[2]。
ノスカールは膵臓に負担をかけず長期の安定投与が可能とされ、大きな市場が視野に入っていた。糖尿病の潜在患者を含めれば欧米で各1600万人、日本だけでも600万人といわれ、三共は同社の高脂血症薬メバロチンに次ぐ第二の柱として大きな期待をかけていた。世界初の作用機序を持つ新薬を自ら創り、これをメバロチン後の収益源へ育てるという構想であった[3]。
決断
自社創薬・自社展開による国際化への賭け
三共が選んだのは、大手との合併による規模拡大ではなく、自社が生んだ新薬を海外市場へ送り出す道であった。1997年3月、ノスカールを日本と米国で同時に発売し、10月には英国でも発売した。米国はワーナー・ランバート、欧州はグラクソ・ウェルカムに販売権を与え、自社の創薬力と海外大手の販売網を組み合わせてメバロチンに次ぐ柱を築こうとした。発売から間もなく、投与患者は日本で15万人、米国で60万人に達していた[4]。
三共はノスカールを「メバロチン後をにらんで開発した戦略製品」と位置づけていた。その年商は輸出を含め早くも300億円に達し、製品別の売り上げで第2位の座を固めた。膵臓を疲弊させない新しい作用機序は、追随する同種同効薬の登場が遅れているうちに世界標準を取りにいく好機と映っていた。画期的な新薬を自ら創り、自ら世界へ広げるという構想に、メバロチン後の高収益がかかっていた[5]。
結果
副作用と欧州からの後退
順風は長く続かなかった。発売の年の1997年10月、米FDAが全世界で35例の重篤な副作用を報告し、ノスカールに肝障害の副作用があることが明らかになった。日本では因果関係を否定できない死亡例が報告され、厚生省は12月1日付で最も重い警告文である緊急安全性情報の配布を三共に指示した。欧州では販売元のグラクソ・ウェルカムが12月に英国での販売を自主停止し、他の欧州諸国でも承認申請を取り下げた。世界同時展開の一角が発売初年に崩れた[6]。
大西洋を挟んだ明暗
三共は欧州での販売再開をめざしたが、1999年4月、英国の医薬品当局は再開申請を却下した。英国で承認を得られなければEU他国での承認も難しく、欧州市場への出遅れは決定的となった。一方、米FDAの諮問委員会は、単独投与の効果を一部疑問視しつつ、他の糖尿病薬と併用するならリスクを効用が上回ると認め、対象患者の拡大に道を開いた。同じ薬が大西洋を挟んで正反対の評価を受け、株価も乱高下した[7]。
さらに競合の登場が先行者の利を奪った。武田薬品のアクトス、英スミスクラインのアバンディアが相次いで米国で優先審査へ進み、ノスカールが切り開いた市場を追った。欧州での出遅れと競合品の登場から急成長は難しく、三共のなかでもノスカールは依然としてポスト・メバロチンには役不足と見られた。第二の柱を確立するという当初の狙いは達せられなかった[8]。
単独路線の限界と統合へ
メバロチンの特許切れが迫るなか、三共は次の柱を自力で立てられないという現実に直面した。世界の医薬品業界は2000年からの5年間で大再編に突入し、合併を重ねて売上高100億ドルを超えるメガファーマが相次いで生まれていた。国内で断トツの武田薬品でさえ世界14位という規模の差のなかで、海外で戦うには先立つ資金とそれを生み出す企業規模が要るという認識が広がった。単独での成長には限界が見えていた[9]。
自社が生んだ新薬を単独で世界へ送り出すという構想は、副作用という新薬に避けがたい不確実性の前で体力の限界を露呈した。2005年9月、三共は第一製薬と株式移転で経営統合し、共同持株会社・第一三共として再出発した。新薬開発費と販売網を単独では抱えきれないという危機感が、旧二社を一つの持株会社へ束ねる動機となった[10]。
- 週刊東洋経済 1997年12月20日号「三共 糖尿病薬副作用死の余波」
- 週刊東洋経済 1999年4月10日号「三共高収益路線に黄信号 期待の糖尿病薬、英国で販売再開ならず」
- 週刊東洋経済 2005年11月19日号「2010年の最強企業 第一三共誕生でもなお厚い世界の壁」
- 第一三共 有価証券報告書