第1章 年〜年

東京応化工業:東京応化工業の設立とフォトレジスト専業路線

1940年〜川崎発の感光剤メーカーが選んだ専業の道

東京工業試験所に1920年ごろ入り応用化学に携わった向井繁正は、まだ揺籃期にあった日本の化学工業がドイツ製品の輸入に依存しているのを見て、身につけた技術で世に打って出ようと、輸入品を国内で作ることに力を注いだ技術者だった。その向井(現会長)が1936年4月に個人企業として設けた東京応化研究所が、同社の起点である。研究所の目的は、炭鉱で採掘の明かりに使う安全灯のアルカリ電池向け電解剤、つまり精製水酸化カリウム(苛性カリ)を作ることにあった。1940年10月に改組して法人となり、資本金18万円で川崎市に東京応化工業株式会社が発足した。精製苛性カリは試薬・医薬品・化粧品にも用いられた。当初は感光材料ではなく、苛性カリという基礎化学品の専業メーカーとして歩み始めた。

  • 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
    • [1]向井繁正は大正9年(1920年)ごろ東京工業試験所に入所し応用化学に携わった技術者で、ドイツ製品等の国産化を志していた
    • [5]東京応化研究所は昭和11年(1936年)、炭鉱採掘照明用安全灯のアルカリ電池用精製水酸化カリウム(苛性カリ)の生産を目的に向井繁正の個人企業として設立され、昭和15年10月に改組して東京応化工業株式会社となった
    • [6]精製苛性カリは試薬・医薬品・化粧品にも用いられた
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1940年10月に東京応化工業株式会社が設立された
    • [3]設立時の資本金は18万円(180千円)だった
    • [4]設立地は川崎市である

創業時の1940年から敗戦の1945年までの5年間、戦時計画経済のもとで精製水酸化カリウムと精製水酸化ナトリウムはアルカリ電池の電解剤として重要視され、従来の硫酸電池より高い性能で炭鉱の採掘照明を支えた。戦後は炭鉱向けの精製苛性カリ供給を強く要請されたが、原料の塩化カリが乏しく、生産に20時間を要する工程が停電のたびに頓挫する難題を抱え、GHQに特別配線を依頼するなどして対処した。同時に、耐熱絶縁材料の塩化ナフタリンも戦後まもなく生産を再開し、占領米軍が持ち込んだC4電話機用コンデンサの充てん剤として供給したことが、後の電気・電子分野との関わりを深める契機となった。

  • 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
    • [7]創業時の昭和15年(1940年)から敗戦の昭和20年(1945年)までの5年間、精製水酸化カリウム・精製水酸化ナトリウムがアルカリ電池の電解剤として重要視された
    • [8]戦後は炭鉱向け精製苛性カリの供給を要請されたが原料調達に苦労し、GHQの支援で対処した
    • [9]戦後まもなく塩化ナフタリンの生産を再開し、占領米軍のC4電話機用コンデンサ充てん剤として供給したことが電気・電子分野への関与を深める契機となった

戦後復興期には、向井が中心となって技術者を招き有機合成にも進出し、香料原料の塩化ベンジルやベンジル・アセテートとともに、後にフォトレジスト第一号の原料となる桂皮酸を開発していた。1955年5月からは、白黒テレビのブラウン管用蛍光体接着剤オーカシールの開発に成功し、ファイン・ケミカルズが直接エレクトロニクスに関与する転機となった。1964年の東京オリンピックを機にカラーテレビ需要が拡大すると、シャドウ・マスクのエッチングに使う感光剤の研究開発をNHKなど4社と進め、東京工業試験所と共同でTPR(東京応化フォトレジスト)を開発した。1967年1月には相模工場(現 TOK 技術革新センター)を新設し、量産対応と研究開発を両立する拠点を整備、創業から30年弱で感光性レジストの専業という地位を確立した。

  • 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
    • [10]向井を中心に技術者を招へいして有機合成に進出し、香料原料とともにフォトレジスト第一号原料の桂皮酸を開発した
    • [11]昭和30年(1955年)5月から白黒テレビのブラウン管用蛍光体接着剤オーカシールを開発した
    • [12]昭和39年(1964年)の東京オリンピックを機にカラーテレビ需要が拡大し、東京工業試験所と共同でTPR(東京応化フォトレジスト)を開発した
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1967年1月に相模工場(現 TOK 技術革新センター)を新設した
参考文献[1]-[13]
    • [1]向井繁正は大正9年(1920年)ごろ東京工業試験所に入所し応用化学に携わった技術者で、ドイツ製品等の国産化を志していた
    • [5]東京応化研究所は昭和11年(1936年)、炭鉱採掘照明用安全灯のアルカリ電池用精製水酸化カリウム(苛性カリ)の生産を目的に向井繁正の個人企業として設立され、昭和15年10月に改組して東京応化工業株式会社となった
    • [6]精製苛性カリは試薬・医薬品・化粧品にも用いられた
    • [7]創業時の昭和15年(1940年)から敗戦の昭和20年(1945年)までの5年間、精製水酸化カリウム・精製水酸化ナトリウムがアルカリ電池の電解剤として重要視された
    • [8]戦後は炭鉱向け精製苛性カリの供給を要請されたが原料調達に苦労し、GHQの支援で対処した
    • [9]戦後まもなく塩化ナフタリンの生産を再開し、占領米軍のC4電話機用コンデンサ充てん剤として供給したことが電気・電子分野への関与を深める契機となった
    • [10]向井を中心に技術者を招へいして有機合成に進出し、香料原料とともにフォトレジスト第一号原料の桂皮酸を開発した
    • [11]昭和30年(1955年)5月から白黒テレビのブラウン管用蛍光体接着剤オーカシールを開発した
    • [12]昭和39年(1964年)の東京オリンピックを機にカラーテレビ需要が拡大し、東京工業試験所と共同でTPR(東京応化フォトレジスト)を開発した
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1940年10月に東京応化工業株式会社が設立された
    • [3]設立時の資本金は18万円(180千円)だった
    • [4]設立地は川崎市である
    • [13]1967年1月に相模工場(現 TOK 技術革新センター)を新設した

1968年〜コダック一辺倒だった市場への斬り込み

フォトレジストは扱いが繊細ですぐに傷むため、輸入品は運ばれてくるまでの時間が長いぶん不具合が出やすく、回路パターンが極めて細かい半導体ではレジスト特性のほんのわずかな差が電子回路の仕上がりを大きく変えた。しかも半導体メーカーは自社の設備や仕様に合う材料を必要としていたのに、既存品には対応できる品種の幅がなかった。国産品を求める声が価格ではなくこうした材料の性質から出ていたなかで、プリント基板用で実績を積んでいた東京応化に高精度品の開発依頼が集まったのは、国内にほかの担い手がいなかったためだろう。同社は1968年3月に半導体用ネガ型フォトレジストOMR-81の製造に乗り出し、米コダック社製品が握っていた市場に食い込んだ。

  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [14]フォトレジストは品質的に非常にデリケートで劣化しやすく、輸入品は輸送に時間がかかるため不都合が生じやすかった
    • [15]半導体のパターン描線は微細な作業のため、レジストのわずかな特性の違いが電子回路の出来を大きく左右した
    • [16]従来のレジストにはユーザーを満足させるほどの品種がなく、半導体メーカーは各社の設備・仕様に適合するレジストの開発を強く望んでいた
    • [18]1968年(昭和43年)にネガ型フォトレジストOMR-81を発表し、コダック一辺倒だった市場へ参入した
  • 東京応化工業 公式サイト「沿革」
    • [17]1968年3月にOMR-81(半導体用ネガ型フォトレジスト)の製造を開始した

フォトレジストの品種は300種類を超え、ユーザーごとの製造ラインの仕様に応じて作り分ける多品種少量生産となった。これを支えたのは開発の進め方で、構想から量産までを同じ担当者が通して見届け、その過程でユーザー企業と細部まで詰めを重ねた。工場にはクリーン・ルームを設け、微細加工を損なう塵が入り込まないようにした。輸入品では得られなかった清浄度である。1972年12月には国産初の半導体用ポジ型フォトレジストOFPR-2を開発し、ネガ・ポジの双方を揃えた。顧客ごとに仕様を刻む体制を取れたのは、組織が小さいこと自体が意思決定の速さに変わったからだろう。

  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [19]生産するフォトレジストは300種類以上にのぼり、ユーザーの各製造ラインごとの仕様に従った多品種少量生産だった
    • [20]ユーザーとの綿密な打ち合わせに基づき、技術担当者が研究開発から商品化までを一貫して受け持つ体制を取っていた
    • [21]工場にクリーン・ルームを導入するなどの工夫を重ね、塵の混入を抑えて輸入品より品質の高いレジストを生産するようになった
  • 東京応化工業 公式サイト「沿革」
    • [22]1972年12月にOFPR-2(国産初の半導体用ポジ型フォトレジスト)を開発した

大手電機メーカーがゲルマニウム半導体の量産に入ると、創業以来手がけてきた高純度苛性カリもそこで大量に消費されるようになった。感光材料と基礎化学品という二つの系統が、ともにエレクトロニクス向けの需要へつながったのである。電算機メーカー7社が1976年に活動を始めた超LSI技術研究組合では、高性能レジストの開発を素材の側から支え、それが技術を積み上げる一つの段階になった。1978年、半導体の関税を下げるようアメリカから強く迫られた日本の半導体メーカー各社は、自前の技術を固めることに総力を傾ける局面に入り、東京応化もその取り組みに加わって協力した。同じころ、別の角度から感光性樹脂版を開発し、印刷向けの柱に育てている。集積度を上げる国家的な開発計画へ材料の側から加わることは、次に要る材料の仕様を量産が始まる前に知る立場を得ることでもあった。

  • 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
    • [23]大手電機メーカーが大量生産を始めたゲルマニウム半導体に、創業以来手掛けてきた電池用の高純度苛性カリが大量に利用されるようになった
    • [25]昭和53年(1978年)にアメリカから半導体の関税引き下げを強く求められ、日本の半導体メーカー各社が国内技術の確立に全力を挙げ、東京応化も協力した
    • [26]昭和50年代に感光性樹脂版を開発し、印刷用感光性樹脂版として柱の一つに育てた
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [24]1976年(昭和51年)から活動を始めた電算機メーカー7社の超LSI技術研究組合に、素材メーカーとして高性能レジストの開発で協力した
参考文献[14]-[26]
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [14]フォトレジストは品質的に非常にデリケートで劣化しやすく、輸入品は輸送に時間がかかるため不都合が生じやすかった
    • [15]半導体のパターン描線は微細な作業のため、レジストのわずかな特性の違いが電子回路の出来を大きく左右した
    • [16]従来のレジストにはユーザーを満足させるほどの品種がなく、半導体メーカーは各社の設備・仕様に適合するレジストの開発を強く望んでいた
    • [18]1968年(昭和43年)にネガ型フォトレジストOMR-81を発表し、コダック一辺倒だった市場へ参入した
    • [19]生産するフォトレジストは300種類以上にのぼり、ユーザーの各製造ラインごとの仕様に従った多品種少量生産だった
    • [20]ユーザーとの綿密な打ち合わせに基づき、技術担当者が研究開発から商品化までを一貫して受け持つ体制を取っていた
    • [21]工場にクリーン・ルームを導入するなどの工夫を重ね、塵の混入を抑えて輸入品より品質の高いレジストを生産するようになった
    • [24]1976年(昭和51年)から活動を始めた電算機メーカー7社の超LSI技術研究組合に、素材メーカーとして高性能レジストの開発で協力した
    • [17]1968年3月にOMR-81(半導体用ネガ型フォトレジスト)の製造を開始した
    • [22]1972年12月にOFPR-2(国産初の半導体用ポジ型フォトレジスト)を開発した
    • [23]大手電機メーカーが大量生産を始めたゲルマニウム半導体に、創業以来手掛けてきた電池用の高純度苛性カリが大量に利用されるようになった
    • [25]昭和53年(1978年)にアメリカから半導体の関税引き下げを強く求められ、日本の半導体メーカー各社が国内技術の確立に全力を挙げ、東京応化も協力した
    • [26]昭和50年代に感光性樹脂版を開発し、印刷用感光性樹脂版として柱の一つに育てた

1976年〜図体に合う市場だけを手がける

技術力を買われた東京応化に、塩化ビニールへ乗り出してはどうかという話が持ち込まれたのは、戦後まもない時期である。同社はそれ以前から塩化物を扱っていたので技術の距離は近く、伸びる見込みのある分野でもあった。事業として惹かれる面はあったものの、大手が本格的に量産して原価を押し下げてくれば、同じ規模の会社では勝ち目がない。そう判断して見送った。その代わりに同社が取ったのが、自前の技術がいちばん生きる分野に絞り込み、『あくまで自分の図体に合ったものを手がける』という方針だった。フォトレジストの年間推定売上高は1984年時点で60億円程度と、市場としては大きくなかった。技術的・営業的なめどが立たないうちは大手が必死で取り組む対象になりにくく、その手前で先行できたことが首位を生んだ。

  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [27]戦後間もない頃、技術力を見込まれて塩化ビニールをやらないかという話が持ち込まれた
    • [28]塩化物を以前から手がけており技術的に遠くないことや成長性も分かっていたため、塩化ビニールは事業として魅力的だった
    • [29]大手メーカーが本気で大量生産しコストダウンを始めたら同社の規模では耐えられないと判断し、塩ビ市場には進出しなかった
    • [30]得意技術を最も生かせる分野に絞って深耕する方針を採り、自社の規模に合う事業だけを手がけた
    • [31]フォトレジストの年間推定売上高は60億円程度で、市場規模としてはそれほど大きくなかった
    • [32]技術的・営業的なめどが立たないうちは大手メーカーが必死で取り組む対象になりにくく、大手に先行した開発が同社をフォトレジストの首位に育てた

東京応化には研究開発費の予算制度が無く、大枠すら決められていなかった。利益を食い潰さない限り資金を出すという方針のもと、技術者が必要と判断した研究や設備には金を惜しまず、他の部門を切り詰めてでも開発部門へ資金を回した。売上高は1976年11月期の56.39億円から1983年11月期の252.31億円へと伸びたが、その裏には開発費を惜しまない姿勢があった。同社は中長期計画を持たず、ユーザーの求めが出るたびに必要な開発費を工面して応じてきた。支えにあったのは独特の技術観である。技術には目に見えない部分が多く、氷山と同じで水面下が膨らまなければ水面上も伸びないと考えていた。技術がすぐ古くなる半導体の世界では、贅沢に見えるこのやり方が、競り合いの中で落ちこぼれないための手立てにもなっていた。

  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [33]研究開発費に予算制度がなく、研究開発費の大枠さえ決められていなかった
    • [34]利益を食い潰さない限り資金を出す方針で、他の部門を切り詰めてでも開発部門へ資金を回した
    • [36]中長期計画も立てず、必要な開発費をその場その場で用立ててユーザーのニーズに追随する方針を取った
    • [37]伊藤社長は技術には「見えない」部分が多いとし、氷山のように水面下の部分が大きくならなければ上の部分は伸びないと説明した
    • [38]技術の陳腐化が早い半導体業界にあって、一見贅沢に見える研究開発体制は競争に生き残るための対応策でもあった
  • 証券 第38巻8号(1986年8月)
    • [35]売上高は1976年11月期の56.39億円から1983年11月期の252.31億円へ拡大した(単体)

1980年代に入ると、日本合成ゴム・住友化学・日立化成といった国内勢に加え、コダック、シプレイ、ハントケミカルなどの外資系も日本に工場を設け、レジストを生産するメーカーは十数社に達した。年率20〜30%と言われた成長性に引かれた参入であり、市場規模から見て競争の激化は避けられなかった。追い上げられる側の東京応化が選んだのは、品質での競争と、全国を数ブロックに分けて出来たてのレジストを各地のユーザーへ届ける生産配置であった。1981年6月の宇都宮工場、1983年12月の熊谷工場、1984年12月の阿蘇工場と、首都圏内陸から九州まで工場を立て続けに構え、売上高は1984年11月期に367.72億円、1985年11月期に430.09億円へ達した。この生産基盤の厚みが、創業50年目の株式公開を支える土台となった。

  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [39]日本合成ゴム・住友化学・日立化成などの国内勢に加え、コダック・シプレイ・ハントケミカル等の外資系も日本に工場を作り、レジストを生産するメーカーは十数社にのぼった
    • [40]年率20〜30%と言われる高い成長性に引かれた参入で、市場規模から見て今後の競争激化は必至だった
    • [41]レジスト工場を全国に分散し、全国を数ブロックに分けてブロックごとに生産拠点を設け、出来たてのレジストで地域の需要をおさえる計画を進めた
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1981年6月に宇都宮工場、1983年12月に熊谷工場、1984年12月に阿蘇工場を新設した
  • 証券 第38巻8号(1986年8月)
    • [43]売上高は1984年11月期に367.72億円、1985年11月期に430.09億円だった(単体)
参考文献[27]-[43]
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
    • [27]戦後間もない頃、技術力を見込まれて塩化ビニールをやらないかという話が持ち込まれた
    • [28]塩化物を以前から手がけており技術的に遠くないことや成長性も分かっていたため、塩化ビニールは事業として魅力的だった
    • [29]大手メーカーが本気で大量生産しコストダウンを始めたら同社の規模では耐えられないと判断し、塩ビ市場には進出しなかった
    • [30]得意技術を最も生かせる分野に絞って深耕する方針を採り、自社の規模に合う事業だけを手がけた
    • [31]フォトレジストの年間推定売上高は60億円程度で、市場規模としてはそれほど大きくなかった
    • [32]技術的・営業的なめどが立たないうちは大手メーカーが必死で取り組む対象になりにくく、大手に先行した開発が同社をフォトレジストの首位に育てた
    • [33]研究開発費に予算制度がなく、研究開発費の大枠さえ決められていなかった
    • [34]利益を食い潰さない限り資金を出す方針で、他の部門を切り詰めてでも開発部門へ資金を回した
    • [36]中長期計画も立てず、必要な開発費をその場その場で用立ててユーザーのニーズに追随する方針を取った
    • [37]伊藤社長は技術には「見えない」部分が多いとし、氷山のように水面下の部分が大きくならなければ上の部分は伸びないと説明した
    • [38]技術の陳腐化が早い半導体業界にあって、一見贅沢に見える研究開発体制は競争に生き残るための対応策でもあった
    • [39]日本合成ゴム・住友化学・日立化成などの国内勢に加え、コダック・シプレイ・ハントケミカル等の外資系も日本に工場を作り、レジストを生産するメーカーは十数社にのぼった
    • [40]年率20〜30%と言われる高い成長性に引かれた参入で、市場規模から見て今後の競争激化は必至だった
    • [41]レジスト工場を全国に分散し、全国を数ブロックに分けてブロックごとに生産拠点を設け、出来たてのレジストで地域の需要をおさえる計画を進めた
  • 証券 第38巻8号(1986年8月)
    • [35]売上高は1976年11月期の56.39億円から1983年11月期の252.31億円へ拡大した(単体)
    • [43]売上高は1984年11月期に367.72億円、1985年11月期に430.09億円だった(単体)
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1981年6月に宇都宮工場、1983年12月に熊谷工場、1984年12月に阿蘇工場を新設した

筆者考察

東京応化工業の第一期は、大きい市場を選ばなかったことで成立している。戦後まもなく持ちかけられた塩化ビニールは、技術的にも成長性の面でも手の届く事業だったが、大手が量産と原価低減に本腰を入れれば、資本金5億円規模の会社は価格で競争劣位に落ちる。伊藤毅雄社長が繰り返した、自分の図体に合うものだけを手がけるという言い方は、謙遜ではなく参入可否の判定基準だった。フォトレジストの市場は1984年でも年間60億円程度しかなく、技術的・営業的なめどが立つまで大手は本気にならない。コダックの製品が占めていた市場へ1968年に国産のネガ型で割って入れたのも、そこが小さかったからである。この空白の年数が、東京応化にとっての参入余地であった。

もっとも、狭い市場を選んだだけでは首位にならない。決め手は、劣化しやすく仕様が顧客ごとに違うというフォトレジストの扱いにくさを、弱点ではなく参入の壁として扱ったことにある。300種類以上を作り分ける多品種少量生産も、予算の枠を置かない研究開発も、規模の経済とは逆を向いた投資である。だが半導体メーカーが品質以外の理由で材料を選べば歩留まりに即座に表れる市場では、価格だけの競争は成り立たない。1976年11月期に56億円だった売上高は1985年11月期に430億円へ届いた。東京応化は宇都宮・熊谷・阿蘇と工場を継ぎ足し、この出来たてを近くで渡す配置を、のちに北米へ持ち出すことになる。

売上高の推移 1976年11月期〜1985年11月期(単体)(億円)

56.39 1976 64.84 1977 70.22 1978 84.52 1979 110.55 1980 144.93 1981 192.44 1982 252.31 1983 367.72 1984 430.09 1985
  • 各期は11月決算の単体。
  • 出所は証券 第38巻8号(1986年8月)。

1940年〜1985年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1972年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1973年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1974年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年11月期 単体 56 n/a 2 3.9% 0 n/a
1977年11月期 単体 64 +15.0% 2 4.5% 1 n/a
1978年11月期 単体 70 +8.3% 5 8.5% 1 n/a
1979年11月期 単体 84 +20.4% 7 9.1% 2 n/a
1980年11月期 単体 110 +30.8% 9 8.6% 4 n/a
1981年11月期 単体 144 +31.1% 17 12.4% 5 n/a
1982年11月期 単体 192 +32.8% 29 15.2% 9 n/a
1983年11月期 単体 252 +31.1% 49 19.5% 29 n/a
1984年11月期 単体 367 +45.7% 92 25.1% 40 n/a
1985年11月期 単体 430 +17.0% 115 26.9% 54 n/a

出所:証券 38(8)

出典・参考

5件
出典・参考
  • 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号
  • 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
  • 証券 第38巻8号(1986年8月)
  • 東京応化工業 公式サイト「沿革」

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