第2章 年〜年

明治ホールディングス:菓子部門の赤字とホスホマイシンによる医薬事業の拡大

明治製菓の薬品集中に続く明治乳業のボーデン提携解消

1970年〜売上の拡大に伴わなかった明治乳業の利益率

1970年代の明治乳業は、売上を増やしながら利益を減らした。1977年3月期は売上高2,413億2百万円に対して経常利益43億40百万円、1980年3月期は売上高2,933億22百万円に対して経常利益32億54百万円で、3年間で売上が2割増える一方、経常利益は4分の1減った。売上高に対する経常利益の比率は1.8%から1.1%へ低下している。乳製品業界は原料が高く製品が安い状態に置かれ、とりわけ牛乳は乱売が続いていた。1980年3月期の純利益は14億55百万円にとどまり、配当は12%を据え置いた。量を積むほど一単位あたりの利幅が薄くなる構造であり、処理能力を増やしても手元に残るのは固定費と減価償却の負担だった。

  • 日本企業要覧 1980年版(明治乳業)
    • [1]1977年3月期 明治乳業の売上高2,413億2百万円・経常利益43億40百万円
    • [2]1980年3月期 明治乳業の売上高2,933億22百万円・経常利益32億54百万円
    • [4]1980年3月期 明治乳業の純利益14億55百万円
    • [5]1977年3月期から1980年3月期まで配当は12%
  • 日経ビジネス 1981年11月30日号
    • [3]乳製品業界は原料高の製品安であり牛乳は乱売が続いていた

設備の資金は増資でまかなった。1970年3月末に資本金40億円・発行済株式8,000万株だった同社は、1980年3月末に資本金95億5,083万円・1億9,101万6,594株となっている。株主数はこの間に2万6,702名から2万5,094名へわずかに減り、持ち株は法人へ寄った。1980年3月末の所有者別構成は、金融機関63名で47.30%、その他の法人194名で13.30%、一般株主2万4,784名で37.08%である。筆頭株主は第一勧業銀行の8.08%で、日本生命保険が6.24%、朝日生命保険が5.18%と続いた。同じ源流から出た明治製菓は2.80%を持つ第6位にすぎず、二社は資本の上でほとんど結ばれていなかった。

  • 日本企業要覧 1970年版(明治乳業)
    • [6]1970年3月末 明治乳業の資本金40億円・発行済株式8,000万株・株主2万6,702名
  • 日本企業要覧 1980年版(明治乳業)
    • [7]1980年3月末 明治乳業の資本金95億5,083万円・発行済株式1億9,101万6,594株
    • [8]1980年3月末 明治乳業の株主2万5,094名
    • [9]1980年3月末 所有者別は金融機関63名47.30%・その他の法人194名13.30%・一般株主2万4,784名37.08%
    • [10]1980年3月末 大株主は第一勧業銀行8.08%・日本生命保険6.24%・朝日生命保険5.18%
    • [11]1980年3月末 明治製菓は明治乳業株の2.80%を持つ第6位株主
参考文献[1]-[11]
  • 日本企業要覧 1980年版(明治乳業)
    • [1]1977年3月期 明治乳業の売上高2,413億2百万円・経常利益43億40百万円
    • [2]1980年3月期 明治乳業の売上高2,933億22百万円・経常利益32億54百万円
    • [4]1980年3月期 明治乳業の純利益14億55百万円
    • [5]1977年3月期から1980年3月期まで配当は12%
    • [7]1980年3月末 明治乳業の資本金95億5,083万円・発行済株式1億9,101万6,594株
    • [8]1980年3月末 明治乳業の株主2万5,094名
    • [9]1980年3月末 所有者別は金融機関63名47.30%・その他の法人194名13.30%・一般株主2万4,784名37.08%
    • [10]1980年3月末 大株主は第一勧業銀行8.08%・日本生命保険6.24%・朝日生命保険5.18%
    • [11]1980年3月末 明治製菓は明治乳業株の2.80%を持つ第6位株主
  • 日経ビジネス 1981年11月30日号
    • [3]乳製品業界は原料高の製品安であり牛乳は乱売が続いていた
  • 日本企業要覧 1970年版(明治乳業)
    • [6]1970年3月末 明治乳業の資本金40億円・発行済株式8,000万株・株主2万6,702名

1980年〜菓子の欠損と牛乳の乱売という同時の成熟

1980年3月期、明治製菓の食料部門は経常損益で30億円の欠損を計上し、薬品部門は61億円の黒字でこれを補った。国内の菓子需要は7年連続で減少し、原料となる砂糖・乳製品・小麦粉の国内価格は国際価格の2〜2.5倍で高止まりしていた。中川赴社長は菓子部門の合理化と薬品部門への集中投資という二方面作戦を掲げ、退職者の不補充と薬品部門への配置転換を軸に3年間で500人の削減を計画した。同年10月に発売した大型新薬ホスホマイシンは月商10億円を超え、菓子の欠損を埋めた。中川赴社長は『菓子は生活必需品から嗜好品的の要素が強まってきました』と語った。菓子という祖業で稼げなくなった会社が、発酵という自社の技術を薬へ振り向けた判断であった。

  • 日経ビジネス 1980年8月25日号
    • [12]1980年3月期 明治製菓の食料部門 経常損益30億円の欠損
    • [13]1980年3月期 明治製菓の薬品部門 経常利益61億円
    • [14]菓子需要が7年連続で減少
    • [15]砂糖・乳製品・小麦粉の国内価格が国際価格の2〜2.5倍
    • [16]中川赴社長 菓子部門の合理化と薬品部門への集中投資という二方面作戦
    • [17]3年間で500人の人員削減計画・退職者不補充と薬品部門への配置転換
    • [18]1980年10月発売のホスホマイシンが月商10億円超

乳業の側も同じ年に成熟の圧力を受けていた。1981年9月、副社長の島村靖三氏が前社長の病気入院に伴って社長に就任した。1947年9月に北海道大学農学部畜産科を出て同年11月に明治乳業へ入り、根室・西春別・岡山の各工場長を経て1972年に本社生産部長となるまで、工場勤務が25年に及んだ人である。根室工場長の時代には、雪どけで道路が通れなくなった際に一晩でタンクを作らせ、1か月にわたって生乳の輸送をつないだこともあった。原料高と製品安が固定し、牛乳の乱売が続く局面で会社が立てたのは、販売でも財務でもなく生産の現場を長く見てきた人だった。原料高と製品安への対応策は、就任の時点では明かされなかった。

  • 日経ビジネス 1981年11月30日号
    • [19]1981年9月 島村靖三が明治乳業社長に就任・前社長の病気入院による
    • [20]島村靖三 1947年9月 北海道大学農学部畜産科卒・同年11月 明治乳業入社
    • [21]島村靖三 根室・西春別・岡山の各工場長を経て1972年に本社生産部長・工場勤務25年
    • [22]根室工場長時代 道路の不通に際し一晩でタンクを作らせ約1か月間の生乳輸送を確保
    • [23]乳製品業界は原料高の製品安で牛乳の乱売が続く厳しい時期の社長就任
    • [24]島村靖三は就任時に問題を解決する策はあるが今は言えないとして具体策を示さなかった
参考文献[12]-[24]
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号
    • [12]1980年3月期 明治製菓の食料部門 経常損益30億円の欠損
    • [13]1980年3月期 明治製菓の薬品部門 経常利益61億円
    • [14]菓子需要が7年連続で減少
    • [15]砂糖・乳製品・小麦粉の国内価格が国際価格の2〜2.5倍
    • [16]中川赴社長 菓子部門の合理化と薬品部門への集中投資という二方面作戦
    • [17]3年間で500人の人員削減計画・退職者不補充と薬品部門への配置転換
    • [18]1980年10月発売のホスホマイシンが月商10億円超
  • 日経ビジネス 1981年11月30日号
    • [19]1981年9月 島村靖三が明治乳業社長に就任・前社長の病気入院による
    • [20]島村靖三 1947年9月 北海道大学農学部畜産科卒・同年11月 明治乳業入社
    • [21]島村靖三 根室・西春別・岡山の各工場長を経て1972年に本社生産部長・工場勤務25年
    • [22]根室工場長時代 道路の不通に際し一晩でタンクを作らせ約1か月間の生乳輸送を確保
    • [23]乳製品業界は原料高の製品安で牛乳の乱売が続く厳しい時期の社長就任
    • [24]島村靖三は就任時に問題を解決する策はあるが今は言えないとして具体策を示さなかった

1989年〜輸入自由化に向けた明治乳業の自社開発への転換

1989年6月、常務の中山悠氏が10代目の社長に就任した。常務の末席から8人を飛び越えた人事で、島村靖三前社長より13歳若い52歳、役員のなかで最年少だった。年功序列の慣行が強い業界で若返りを選んだ背景には、乳製品の輸入自由化によって乳業が国際化の局面へ入るという判断があった。中山氏は1960年に北海道大学農学部農芸化学科を出て入社し、生産部門が長く、1970年には会社の派遣で西ドイツへ留学している。1985年に東京副支社長兼東京支店長、1987年に常務東京支社長を務め、販売も経験した。就任後はまず常務会とは別に常務以上を集めた第2常務会を設け、年齢差を置いた議論の場を作った。打ち出されたのは新しい路線ではなく、前社長の敷いた路線を引き継ぐ方針だった。

  • 日経ビジネス 1990年1月1日号
    • [25]1989年6月 中山悠が明治乳業の10代目社長に就任
    • [26]中山悠は常務の末席から8人を飛び越えて就任・前社長より13歳若い52歳・役員中最年少
    • [27]乳製品の輸入自由化により乳業界が国際化の局面へ入るとの判断
    • [28]中山悠 1960年 北海道大学農学部農芸化学科卒・同年入社/1970年 会社派遣で西ドイツへ留学
    • [29]中山悠 1985年 東京副支社長兼東京支店長・1987年 常務東京支社長
    • [30]社長就任後に常務会とは別に常務以上を集めた第2常務会を設置
    • [31]中山悠は就任にあたり新しいことをやるのではなく前社長の敷いた路線の上を走ると表明

明治乳業は1970年から20年にわたり、アイスクリーム・チーズ・マーガリンの三事業で米ボーデンと提携し、ボーデンブランドの年間売上高は250億円に達していた。1990年の乳製品輸入自由化を機にボーデン側が日本での事業拡大と主導権を求めると、中山悠社長はこれを拒み、20年続いた提携の解消を決めた。明治乳業は家庭用高級アイスクリーム市場で約60%のシェアを持つレディボーデンを手放した。福田耕作専務は『開発力のない会社に未来はない』と述べ、提携下で制約されていた競合品の開発を解いて自社ブランドの構築へ切り替えた。高級アイスクリーム"彩"が、ボーデン離脱後の自社ブランド戦略の第一弾となった。

  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [32]1970年から20年 米ボーデンとアイスクリーム・チーズ・マーガリンで提携
    • [33]ボーデンブランドの年間売上高250億円
    • [34]1990年 乳製品輸入自由化を機にボーデンが日本での事業拡大と主導権を要求
    • [35]中山悠社長 ボーデンの要求を拒否し提携解消を決断
    • [36]レディボーデンは家庭用高級アイスクリーム市場で約60%のシェア
    • [37]提携下で制約されていた競合品開発の解禁と自社ブランド構築への転換
    • [38]ボーデン離脱後の自社ブランド第一弾 高級アイスクリーム「彩」

1994年4月1日、明治乳業は中央研究所に集めていた食品分野の研究機関から技術開発研究部を切り出し、桑田有氏を所長として栄養科学研究所を開設した。栄養生理や免疫、病態代謝を扱う栄養研究部、乳児用の調製粉乳や経腸栄養剤を開発する応用技術研究部、安定性試験をGLPに準拠して行う試験分析センターの3部門で構成した。分割の理由は開発の周期の違いにあった。日持ちの短い飲用乳やヨーグルトは国内で作って間に合うが、バターと脱脂粉乳は輸入に頼らざるをえない。国内の乳業が食品の産業として残っていくには栄養を軸に据えるほかない、というのがこの読みから導かれた結論である。研究の側にも事情があった。3年に1つ商品を出す調製粉乳の研究室と、3つも4つもの案件を並行させるアイスクリームや飲料の研究室とでは、業績の評価を一つの研究所の中で揃えられなかった。

  • フードケミカル 1994年7月号「インタビュー 明治乳業(株)栄養科学研究所所長 桑田有氏」
    • [39]1994年4月1日 中央研究所から技術開発研究部を独立させ栄養科学研究所を開設・初代所長は桑田有
    • [40]栄養科学研究所は栄養研究部・応用技術研究部・試験分析センターの3部門で構成
    • [41]フレッシュな製品は国内生産で賄えるがバター・脱脂粉乳は海外依存となる見通しから「栄養」をキーワードに据えた
    • [42]調製粉乳の研究室は3年に1つの商品、アイスクリームや飲料の研究室は同時に3つ4つを並行し、研究業績の評価が噛み合わない

研究の対象も広げた。ガットウルグアイラウンドの合意で主要乳製品が段階的に自由化されると、国内の酪農と乳業は、飲用乳やヨーグルトのような日持ちのしない製品に専念するか、高付加価値・低コスト型の商品を開発して国際競争へ入るかの選択を迫られた。明治乳業が大きな市場を持つ調製粉乳では、極東や中東の市場ですでにネッスル、ミード・ジョンソン、ワイス、ロス・ラボラトリーといった欧米勢と競合していた。ただし国内の出生数が大幅に上向く見通しはなく、調製粉乳だけに拘っていては先がない。そこで糖尿病や腎疾患のように食事療法が重要な役割を果たす疾患へ向けた病態食や予防食、スポーツフードへ対象を広げ、乳児から高齢者までを射程に入れる方針を採った。提携の解消も研究所の分割も、他社の看板を借りずに値を付けられる製品を自前で作る布石であった。

  • フードケミカル 1994年7月号「インタビュー 明治乳業(株)栄養科学研究所所長 桑田有氏」
    • [43]ガットウルグアイラウンドの結果、主要乳製品も徐々に自由化され、国内の酪農・乳業はフレッシュ製品への専念か国際競争への参入かの選択を迫られた
    • [44]調製粉乳では極東・中東の市場でネッスル、ミード・ジョンソン、ワイス、ロス・ラボラトリーなど欧米勢と競合
    • [45]国内の出生数が大幅に上向く見通しはなく調製粉乳だけでは企業の先がない
    • [46]病態食・予防食・スポーツフードへ対象を広げ乳児から高齢者までを射程に入れる
参考文献[25]-[46]
  • 日経ビジネス 1990年1月1日号
    • [25]1989年6月 中山悠が明治乳業の10代目社長に就任
    • [26]中山悠は常務の末席から8人を飛び越えて就任・前社長より13歳若い52歳・役員中最年少
    • [27]乳製品の輸入自由化により乳業界が国際化の局面へ入るとの判断
    • [28]中山悠 1960年 北海道大学農学部農芸化学科卒・同年入社/1970年 会社派遣で西ドイツへ留学
    • [29]中山悠 1985年 東京副支社長兼東京支店長・1987年 常務東京支社長
    • [30]社長就任後に常務会とは別に常務以上を集めた第2常務会を設置
    • [31]中山悠は就任にあたり新しいことをやるのではなく前社長の敷いた路線の上を走ると表明
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
    • [32]1970年から20年 米ボーデンとアイスクリーム・チーズ・マーガリンで提携
    • [33]ボーデンブランドの年間売上高250億円
    • [34]1990年 乳製品輸入自由化を機にボーデンが日本での事業拡大と主導権を要求
    • [35]中山悠社長 ボーデンの要求を拒否し提携解消を決断
    • [36]レディボーデンは家庭用高級アイスクリーム市場で約60%のシェア
    • [37]提携下で制約されていた競合品開発の解禁と自社ブランド構築への転換
    • [38]ボーデン離脱後の自社ブランド第一弾 高級アイスクリーム「彩」
  • フードケミカル 1994年7月号「インタビュー 明治乳業(株)栄養科学研究所所長 桑田有氏」
    • [39]1994年4月1日 中央研究所から技術開発研究部を独立させ栄養科学研究所を開設・初代所長は桑田有
    • [40]栄養科学研究所は栄養研究部・応用技術研究部・試験分析センターの3部門で構成
    • [41]フレッシュな製品は国内生産で賄えるがバター・脱脂粉乳は海外依存となる見通しから「栄養」をキーワードに据えた
    • [42]調製粉乳の研究室は3年に1つの商品、アイスクリームや飲料の研究室は同時に3つ4つを並行し、研究業績の評価が噛み合わない
    • [43]ガットウルグアイラウンドの結果、主要乳製品も徐々に自由化され、国内の酪農・乳業はフレッシュ製品への専念か国際競争への参入かの選択を迫られた
    • [44]調製粉乳では極東・中東の市場でネッスル、ミード・ジョンソン、ワイス、ロス・ラボラトリーなど欧米勢と競合
    • [45]国内の出生数が大幅に上向く見通しはなく調製粉乳だけでは企業の先がない
    • [46]病態食・予防食・スポーツフードへ対象を広げ乳児から高齢者までを射程に入れる

筆者考察

同じ源流を持つ二つの会社が、1980年前後に同じ形の問題へ突き当たった。明治製菓では菓子の需要が7年続けて減り、明治乳業では牛乳の乱売が止まらなかった。どちらも売る量が消えたわけではない。薄くなったのは、一単位に乗せられる利幅のほうである。明治乳業の売上高は1977年3月期の2,413億円から1980年3月期の2,933億円へ伸びたのに、経常利益は43億円から32億円へ減った。国内の市場が成熟し、原料も製品も他社と同じ土俵で値が決まる領域では、工場を増やしても答えにならない。

二社が出した答えは、市場を替えることではなく、扱う品の値決めを自分の側へ取り戻すことだった。明治製菓は菓子の人員を薬品へ移し、ホスホマイシンのような自社の新薬で利益を作った。明治乳業は20年続いた米ボーデンとの提携を解き、レディボーデンの6割のシェアを手放してまで自社ブランドへ戻り、1994年には栄養科学研究所を割って病態食や経腸栄養剤へ研究の的を移した。輸入自由化で他社の製品が同じ棚に並ぶなら、借りた看板ではなく自分で値を付けられる製品が要る。統合の8年前、二社はすでに同じ方向を向いていた。

明治乳業の経常利益 売上が2割増えた3年間で経常利益は4分の1減った(百万円)

4,340 1977/3期 3,320 1978/3期 5,174 1979/3期 3,254 1980/3期
  • 同じ4期の売上高は2,413億2百万円、2,620億2百万円、2,837億86百万円、2,933億22百万円。
  • 出所は日本企業要覧 1980年版の明治乳業の項。

1970年〜2005年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1970年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1972年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1973年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1974年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1977年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1978年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1979年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1980年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1981年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1982年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1983年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1984年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1985年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1993年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1994年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1995年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1996年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1997年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1998年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1999年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
2000年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
2001年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
2002年03月期 連結 3,619 n/a 131 3.6% 59 n/a
2003年03月期 連結 3,535 ▲2.3% 61 1.7% 27 n/a
2004年03月期 連結 3,689 +4.4% 82 2.2% 3 n/a
2005年03月期 連結 3,640 ▲1.3% 85 2.3% ▲82 n/a

出典・参考

7件
出典・参考
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号
  • 日経ビジネス 1981年11月30日号
  • 日経ビジネス 1990年1月1日号
  • 日経ビジネス 1990年11月19日号
  • フードケミカル 1994年7月号「インタビュー 明治乳業(株)栄養科学研究所所長 桑田有氏」
  • 日本企業要覧 1970年版(明治乳業)
  • 日本企業要覧 1980年版(明治乳業)

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