第1章 年〜年

明治乳業:極東煉乳の設立と明治製糖の傘下入り

1917年〜静岡と札幌の練乳を糾合した極東煉乳と、資本金150万円

極東煉乳は1917年12月、資本金150万円で設立された。静岡県三島町の花島煉乳所と北海道の札幌煉乳所を合併して生まれた会社である。初代の取締役社長には馬越恭平氏が就任した。1916年10月の調査では主要な練乳業者15者のうち株式会社は3者にとどまり、残る12者は個人経営。生産量の首位は花島煉乳所の約13万斤で、札幌煉乳所も約5万3,000斤で5位に入っていた。同じ1917年には森永乳業の前身の日本煉乳も発足し、資本金100万円以上の練乳会社は房総煉乳と極東煉乳の2社となった。生産上位の個人経営を統合したのは、会社組織の新設が相次ぐなかで資金と生産規模の面で後れを取らないためだったとみられる。

  • 『明治乳業50年史』(1969)「3.わが社のおこり」
    • [1]1917年は房総煉乳・極東煉乳(資本金150万円)・日本煉乳が生まれた年で、資本金100万円以上は房総と極東の2社
    • [3]極東煉乳は1917年12月21日、資本金150万円、取締役社長馬越恭平により設立
    • [4]1916年10月調査の主要練乳業者15者のうち株式会社は3者、生産首位は花島煉乳所の約13万斤、札幌煉乳所は約5万3,000斤で5位
    • [5]1916年10月調査の主要練乳業者15者のうち株式会社は3者、生産首位は花島煉乳所の約13万斤、札幌煉乳所は約5万3,000斤で5位
    • [6]1917年は房総煉乳・極東煉乳(資本金150万円)・日本煉乳が生まれた年で、資本金100万円以上は房総と極東の2社
  • 『明治製菓四十年小史』(1958)「第2章 創業から昭和10年まで」
    • [2]極東煉乳は三島町の花島煉乳所と札幌煉乳所を合併し1917年12月に資本金150万円で創立

極東煉乳は三島と札幌の2工場で操業を始め、1918年3月には北海道の軽川牧場を買収した。工場はその後十勝・釧路・江別に広がり、東京・房州・大阪・姫路にも市乳や乳製品、缶詰の工場を設けた。房州では1922年春に石賀太蔵氏の外房製酪所を譲り受け、同年5月に南三原村で安房工場を開設した。安房工場は1922年8月にバター、1923年12月に練乳の製造を始めた。1924年6月には東京の市乳へ原乳を供給する拠点として、勝山町に工場を開設。同じ1924年には東京と大阪にも工場を設け、大消費地に生産拠点を置いた。練乳の原料は日持ちしない生乳で、酪農の盛んな産地に工場を置くほど集乳の量を確保しやすかったと考えられる。

  • 『明治製菓四十年小史』(1958)「第2章 創業から昭和10年まで」
    • [7]極東煉乳は1918年3月に北海道軽川牧場を買収し、札幌・東京・房州・大阪・姫路に工場を設けた
  • 『明治乳業50年史』(1969)「1-大日本乳製品(株)の合併」
    • [8]工場は当初三島と札幌、のち十勝・釧路・江別・東京・房州・大阪・姫路に市乳・乳製品・缶詰工場
  • 『明治乳業50年史』(1969)「3.わが社のおこり」
    • [9]石賀太蔵の外房製酪所を1922年春に譲受、同年5月10日に南三原村に安房工場、1924年6月5日に東京市乳の原乳供給拠点として勝山町に工場、安房工場は1922年8月5日バター・1923年12月15日練乳の製造開始
    • [10]石賀太蔵の外房製酪所を1922年春に譲受、同年5月10日に南三原村に安房工場、1924年6月5日に東京市乳の原乳供給拠点として勝山町に工場、安房工場は1922年8月5日バター・1923年12月15日練乳の製造開始
    • [11]石賀太蔵の外房製酪所を1922年春に譲受、同年5月10日に南三原村に安房工場、1924年6月5日に東京市乳の原乳供給拠点として勝山町に工場、安房工場は1922年8月5日バター・1923年12月15日練乳の製造開始
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「明治乳業」
    • [12]極東煉乳は1924年(大正13年)に東京および大阪に工場を設けた
参考文献[1]-[12]
  • 『明治乳業50年史』(1969)「3.わが社のおこり」
    • [1]1917年は房総煉乳・極東煉乳(資本金150万円)・日本煉乳が生まれた年で、資本金100万円以上は房総と極東の2社
    • [3]極東煉乳は1917年12月21日、資本金150万円、取締役社長馬越恭平により設立
    • [4]1916年10月調査の主要練乳業者15者のうち株式会社は3者、生産首位は花島煉乳所の約13万斤、札幌煉乳所は約5万3,000斤で5位
    • [5]1916年10月調査の主要練乳業者15者のうち株式会社は3者、生産首位は花島煉乳所の約13万斤、札幌煉乳所は約5万3,000斤で5位
    • [6]1917年は房総煉乳・極東煉乳(資本金150万円)・日本煉乳が生まれた年で、資本金100万円以上は房総と極東の2社
    • [9]石賀太蔵の外房製酪所を1922年春に譲受、同年5月10日に南三原村に安房工場、1924年6月5日に東京市乳の原乳供給拠点として勝山町に工場、安房工場は1922年8月5日バター・1923年12月15日練乳の製造開始
    • [10]石賀太蔵の外房製酪所を1922年春に譲受、同年5月10日に南三原村に安房工場、1924年6月5日に東京市乳の原乳供給拠点として勝山町に工場、安房工場は1922年8月5日バター・1923年12月15日練乳の製造開始
    • [11]石賀太蔵の外房製酪所を1922年春に譲受、同年5月10日に南三原村に安房工場、1924年6月5日に東京市乳の原乳供給拠点として勝山町に工場、安房工場は1922年8月5日バター・1923年12月15日練乳の製造開始
  • 『明治製菓四十年小史』(1958)「第2章 創業から昭和10年まで」
    • [2]極東煉乳は三島町の花島煉乳所と札幌煉乳所を合併し1917年12月に資本金150万円で創立
    • [7]極東煉乳は1918年3月に北海道軽川牧場を買収し、札幌・東京・房州・大阪・姫路に工場を設けた
  • 『明治乳業50年史』(1969)「1-大日本乳製品(株)の合併」
    • [8]工場は当初三島と札幌、のち十勝・釧路・江別・東京・房州・大阪・姫路に市乳・乳製品・缶詰工場
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「明治乳業」
    • [12]極東煉乳は1924年(大正13年)に東京および大阪に工場を設けた

1923年〜関東大震災の輸入練乳と、生乳供給を掌握した酪連

1923年9月の関東大震災の後、国内の練乳市場には輸入品が大量に流れ込んだ。救援物資として米国から届いた練乳は7万数千箱で、当時の国内生産の5分の1に当たる量である。政府は1923年9月17日から1924年3月31日まで乳製品の輸入税を免除し、業界は大きな打撃を受けた。北海道の練乳会社は製品の売り先を失い、酪農家からの牛乳の受け入れを制限した。酪農家は搾った乳を捨てるほかなく、練乳会社への不満を強めた。1925年2月には関税運動協議会が練乳30%・粉乳35%の従価税を決議し、請願書を提出した。北海道に工場を持つ極東煉乳も、在庫の積み上がりと集乳の縮小を同時に抱えたと思われる。

  • 黒沢酉蔵「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人17』1981)
    • [13]震災の救援物資として米国から練乳7万数千箱(国内生産の5分の1)が届き、政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社は牛乳の受け入れを制限した
    • [14]震災の救援物資として米国から練乳7万数千箱(国内生産の5分の1)が届き、政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社は牛乳の受け入れを制限した
    • [16]震災の救援物資として米国から練乳7万数千箱(国内生産の5分の1)が届き、政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社は牛乳の受け入れを制限した
    • [17]震災の救援物資として米国から練乳7万数千箱(国内生産の5分の1)が届き、政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社は牛乳の受け入れを制限した
  • 『明治乳業50年史』(1969)「2.第一次世界大戦後の不況対策」
    • [15]乳製品の輸入税は1923年9月17日から1924年3月31日まで免除され業界は打撃、1925年2月12日に練乳30%・粉乳35%の従価税を決議し請願
    • [18]乳製品の輸入税は1923年9月17日から1924年3月31日まで免除され業界は打撃、1925年2月12日に練乳30%・粉乳35%の従価税を決議し請願

受け入れを制限された酪農家は1925年5月17日、産業組合法にもとづく有限責任北海道製酪販売組合を札幌で設立した。札幌酪農組合の会長の宇都宮仙太郎氏と専務理事の黒沢酉蔵氏が、石狩・空知・後志の組合に呼びかけて準備を進めた。組合員は629人で、牛乳を制限なく引き受け、バターやクリームを自ら製造して販売する処理機関を目指した。組合は1926年3月に連合会組織へ改め、これが酪連である。1931年6月以降は外資のネッスルも酪連に提携を打診しており、酪連は北海道の生乳を持つ交渉相手となった。のちに大日本乳製品と酪連の間では、原料乳の統制と製造の分業を定める協定が成立した。北海道の生乳は練乳会社だけの原料ではなくなり、極東煉乳も集乳を酪連と分け合う立場に置かれたのだろう。

  • 黒沢酉蔵「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人17』1981)
    • [19]1925年5月17日、札幌酪農組合(会長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵)の呼びかけで有限責任北海道製酪販売組合が創立、組合員629人、受け入れ制限のない処理機関を目指した
    • [20]1925年5月17日、札幌酪農組合(会長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵)の呼びかけで有限責任北海道製酪販売組合が創立、組合員629人、受け入れ制限のない処理機関を目指した
    • [21]1925年5月17日、札幌酪農組合(会長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵)の呼びかけで有限責任北海道製酪販売組合が創立、組合員629人、受け入れ制限のない処理機関を目指した
    • [22]1926年3月に連合会組織に改め酪連となった
  • 『明治乳業50年史』(1969)「1.外資対策と海外進出」
    • [23]ネッスル社は1931年6月以来、北海道製酪販売組合連合会(酪連)に交渉したが不調
  • 『明治乳業50年史』(1969)「1-大日本乳製品(株)の合併」
    • [24]大日本乳製品と北海道製酪販売組合連合会の間に原料乳の統制と製造の分業の協定が成立していた

極東煉乳は創業から大正期まで、年5〜8分の配当を続けた。昭和に入ると業績は振るわず、配当はおおむね無配となった。利益金は1924年の85,435円に対し、1927年には1,747円。1927年6月には房州の安房工場を和光堂へ譲渡し、1928年には大阪と姫路の工場を売却した。創業の地の三島工場と北海道の江別工場の譲渡先は、森永である。森永は日本煉乳の時代の1918年から三島に自社工場を持ち、同じ地域で練乳を製造していた。工場を減らした後も、極東煉乳は森永・明治系と並ぶ国内三大乳業会社の一つに数えられた。製品の販売は三井物産の一手販売に依存しており、極東煉乳には工場を減らして収支の均衡を図るほかに手立てが乏しかったと読める。

  • 『明治乳業50年史』(1969)「1-大日本乳製品(株)の合併」
    • [25]創業から大正期は年5〜8分配当、昭和に入り不振でおおむね無配、三島・江別工場は森永へ譲渡、製品は三井物産が一手販売
    • [26]創業から大正期は年5〜8分配当、昭和に入り不振でおおむね無配、三島・江別工場は森永へ譲渡、製品は三井物産が一手販売
    • [27]利益金は1924年85,435円、1927年1,747円
    • [29]創業から大正期は年5〜8分配当、昭和に入り不振でおおむね無配、三島・江別工場は森永へ譲渡、製品は三井物産が一手販売
  • 『明治乳業50年史』(1969)「3.わが社のおこり」
    • [28]1927年6月1日に安房工場を和光堂へ譲渡
  • 大野勇「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人20』1986)
    • [30]森永系の日本煉乳は静岡県三島に工場を新設し1918年に操業開始、極東煉乳も育児用ミルクを製造
  • 『明治製菓四十年小史』(1958)「第2章 創業から昭和10年まで」
    • [31]極東煉乳は三井物産を販売の後ろ盾に持ち、森永・明治とともに当時の三大乳業会社の一つ
参考文献[13]-[31]
  • 黒沢酉蔵「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人17』1981)
    • [13]震災の救援物資として米国から練乳7万数千箱(国内生産の5分の1)が届き、政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社は牛乳の受け入れを制限した
    • [14]震災の救援物資として米国から練乳7万数千箱(国内生産の5分の1)が届き、政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社は牛乳の受け入れを制限した
    • [16]震災の救援物資として米国から練乳7万数千箱(国内生産の5分の1)が届き、政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社は牛乳の受け入れを制限した
    • [17]震災の救援物資として米国から練乳7万数千箱(国内生産の5分の1)が届き、政府は輸入関税を撤廃、北海道の練乳会社は牛乳の受け入れを制限した
    • [19]1925年5月17日、札幌酪農組合(会長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵)の呼びかけで有限責任北海道製酪販売組合が創立、組合員629人、受け入れ制限のない処理機関を目指した
    • [20]1925年5月17日、札幌酪農組合(会長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵)の呼びかけで有限責任北海道製酪販売組合が創立、組合員629人、受け入れ制限のない処理機関を目指した
    • [21]1925年5月17日、札幌酪農組合(会長宇都宮仙太郎・専務理事黒沢酉蔵)の呼びかけで有限責任北海道製酪販売組合が創立、組合員629人、受け入れ制限のない処理機関を目指した
    • [22]1926年3月に連合会組織に改め酪連となった
  • 『明治乳業50年史』(1969)「2.第一次世界大戦後の不況対策」
    • [15]乳製品の輸入税は1923年9月17日から1924年3月31日まで免除され業界は打撃、1925年2月12日に練乳30%・粉乳35%の従価税を決議し請願
    • [18]乳製品の輸入税は1923年9月17日から1924年3月31日まで免除され業界は打撃、1925年2月12日に練乳30%・粉乳35%の従価税を決議し請願
  • 『明治乳業50年史』(1969)「1.外資対策と海外進出」
    • [23]ネッスル社は1931年6月以来、北海道製酪販売組合連合会(酪連)に交渉したが不調
  • 『明治乳業50年史』(1969)「1-大日本乳製品(株)の合併」
    • [24]大日本乳製品と北海道製酪販売組合連合会の間に原料乳の統制と製造の分業の協定が成立していた
    • [25]創業から大正期は年5〜8分配当、昭和に入り不振でおおむね無配、三島・江別工場は森永へ譲渡、製品は三井物産が一手販売
    • [26]創業から大正期は年5〜8分配当、昭和に入り不振でおおむね無配、三島・江別工場は森永へ譲渡、製品は三井物産が一手販売
    • [27]利益金は1924年85,435円、1927年1,747円
    • [29]創業から大正期は年5〜8分配当、昭和に入り不振でおおむね無配、三島・江別工場は森永へ譲渡、製品は三井物産が一手販売
  • 『明治乳業50年史』(1969)「3.わが社のおこり」
    • [28]1927年6月1日に安房工場を和光堂へ譲渡
  • 大野勇「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人20』1986)
    • [30]森永系の日本煉乳は静岡県三島に工場を新設し1918年に操業開始、極東煉乳も育児用ミルクを製造
  • 『明治製菓四十年小史』(1958)「第2章 創業から昭和10年まで」
    • [31]極東煉乳は三井物産を販売の後ろ盾に持ち、森永・明治とともに当時の三大乳業会社の一つ

1931年〜ネッスルへの備えと、明治商店に委ねた極東煉乳の一手販売

スイスのネッスル・アンド・アングロスイス社は、関東大震災で救援の乳製品を大量に持ち込んだ後、日本での乳製品事業を計画した。最初に打診した相手は極東煉乳の大株主の三井物産で、この交渉は不調に終わった。1928年6月12日には大日本乳製品と合同の仮契約を結んだものの、関係各方面の反対で決裂した。1931年8月に示したのは、元横浜市長の有吉忠一氏を擁する資本金400万円の日本ネッスル設立案である。北海道に製乳工場を建てる計画に対し、明治製菓は1931年10月10日の役員会で製乳協会の阻止運動と対策を承認した。対策の中身は国産練乳の生産販売協定と、乳製品の共同販売会社の設立などである。業界は同じ1931年に生産販売協定を結び、価格を統一した。

  • 『明治乳業50年史』(1969)「1.外資対策と海外進出」
    • [32]ネッスルは震災の救援物資を機に乳製品事業を計画し、まず極東煉乳の大株主三井物産を打診し不調、1928年6月12日大日本乳製品と仮契約も反対で不調、1931年8月31日有吉忠一の声明で資本金400万円の日本ネッスル案、1931年10月10日明治製菓役員会が製乳協会の阻止運動と対策(生産販売協定・木古内工場共同経営・共同販売会社設立等)を承認
    • [33]ネッスルは震災の救援物資を機に乳製品事業を計画し、まず極東煉乳の大株主三井物産を打診し不調、1928年6月12日大日本乳製品と仮契約も反対で不調、1931年8月31日有吉忠一の声明で資本金400万円の日本ネッスル案、1931年10月10日明治製菓役員会が製乳協会の阻止運動と対策(生産販売協定・木古内工場共同経営・共同販売会社設立等)を承認
    • [34]ネッスルは震災の救援物資を機に乳製品事業を計画し、まず極東煉乳の大株主三井物産を打診し不調、1928年6月12日大日本乳製品と仮契約も反対で不調、1931年8月31日有吉忠一の声明で資本金400万円の日本ネッスル案、1931年10月10日明治製菓役員会が製乳協会の阻止運動と対策(生産販売協定・木古内工場共同経営・共同販売会社設立等)を承認
    • [35]ネッスルは震災の救援物資を機に乳製品事業を計画し、まず極東煉乳の大株主三井物産を打診し不調、1928年6月12日大日本乳製品と仮契約も反対で不調、1931年8月31日有吉忠一の声明で資本金400万円の日本ネッスル案、1931年10月10日明治製菓役員会が製乳協会の阻止運動と対策(生産販売協定・木古内工場共同経営・共同販売会社設立等)を承認
    • [36]ネッスルは震災の救援物資を機に乳製品事業を計画し、まず極東煉乳の大株主三井物産を打診し不調、1928年6月12日大日本乳製品と仮契約も反対で不調、1931年8月31日有吉忠一の声明で資本金400万円の日本ネッスル案、1931年10月10日明治製菓役員会が製乳協会の阻止運動と対策(生産販売協定・木古内工場共同経営・共同販売会社設立等)を承認
    • [37]ネッスルは震災の救援物資を機に乳製品事業を計画し、まず極東煉乳の大株主三井物産を打診し不調、1928年6月12日大日本乳製品と仮契約も反対で不調、1931年8月31日有吉忠一の声明で資本金400万円の日本ネッスル案、1931年10月10日明治製菓役員会が製乳協会の阻止運動と対策(生産販売協定・木古内工場共同経営・共同販売会社設立等)を承認
  • 『明治製菓四十年小史』(1958)「第2章 創業から昭和10年まで」
    • [38]1931年に業界は生産販売協定を結び価格を統一、ネッスルは1931年の北海道新会社計画に失敗し1933年に藤井煉乳を買収

北海道の大日本乳製品は1914年9月に北海道煉乳として資本金25万円で設立され、札幌・八雲・木古内に工場を持った。北海道拓殖銀行などからの借入金を抱えて経営難に陥り、1928年にはネッスルとの合同を図った。1932年3月31日に厚床工場を酪連へ、4月30日に当別工場をトラピスト修道院へ譲渡し、3工場に縮小した。同じ1932年3月、大日本乳製品の過半数の株式を引き受けたのは明治製糖である。7月21日の臨時株主総会で明治製菓の経営参加が承認され、有島健助氏が社長に就任した。明治製糖は借入金も引き受け、大日本乳製品は1933年12月に明治製菓への合併の引き継ぎを終えた。経営難の練乳会社を系列に収め、外資が北海道へ入る足場をふさいだと推察される。

  • 『明治製菓四十年小史』(1958)「第2章 創業から昭和10年まで」
    • [39]大日本乳製品は1914年9月北海道煉乳として資本金25万円で創立、札幌・八雲・木古内に工場、拓銀等への借入金で経営難、明治製糖が借入金を引き受け1933年12月に明治製菓が合併の引継ぎ完了
    • [40]大日本乳製品は1914年9月北海道煉乳として資本金25万円で創立、札幌・八雲・木古内に工場、拓銀等への借入金で経営難、明治製糖が借入金を引き受け1933年12月に明治製菓が合併の引継ぎ完了
    • [44]大日本乳製品は1914年9月北海道煉乳として資本金25万円で創立、札幌・八雲・木古内に工場、拓銀等への借入金で経営難、明治製糖が借入金を引き受け1933年12月に明治製菓が合併の引継ぎ完了
  • 『明治乳業50年史』(1969)「1-大日本乳製品(株)の合併」
    • [41]1932年3月31日厚床工場を酪連へ、4月30日当別工場をトラピスト修道院へ譲渡し3工場に縮小、同年3月明治製糖が過半数の株式を引受、7月21日臨時総会で明治製菓の経営参加を承認し社長有島健助
    • [42]1932年3月31日厚床工場を酪連へ、4月30日当別工場をトラピスト修道院へ譲渡し3工場に縮小、同年3月明治製糖が過半数の株式を引受、7月21日臨時総会で明治製菓の経営参加を承認し社長有島健助
    • [43]1932年3月31日厚床工場を酪連へ、4月30日当別工場をトラピスト修道院へ譲渡し3工場に縮小、同年3月明治製糖が過半数の株式を引受、7月21日臨時総会で明治製菓の経営参加を承認し社長有島健助

1935年12月3日、極東煉乳は明治製糖・明治商店・明治製菓との4社で連鎖契約を結んだ。国内向け製品の一手販売を明治商店に、輸出を当面明治製菓に委託する内容である。不足資金は土地・工場建物・乳牛など147万円を担保に明治製糖から融資を受け、まず585,337円54銭を借り入れた。借入金は三井物産からの長期借入金の返済に充当し、三井物産との一手販売契約を解除した。契約の背景にあるのは、業績不振に加え、明治製菓と工場の所在地域が重なる不合理である。12月16日には明治製糖が過半数の株式を引き受け、会長に有島健助氏、専務に岩波六郎氏が就任した。1935年末の明治製菓の製乳部門は傍系会社4社・製乳工場13か所となり、全国の乳製品生産高の7割を占めた。極東煉乳は1940年12月に明治乳業へ改称した。

  • 『明治乳業50年史』(1969)「1-大日本乳製品(株)の合併」
    • [45]1935年12月3日明治製糖・明治商店・明治製菓・極東煉乳の4社連鎖契約(国内一手販売は明治商店、輸出は明治製菓、147万円の資産を担保に明治製糖が融資し585,337円54銭で三井物産借入金を返済、三井物産一手販売契約を解除)、背景は不振と明治製菓との工場の同一地域共存の不合理、12月16日明治製糖が過半数取得・会長有島健助・専務岩波六郎
    • [46]1935年12月3日明治製糖・明治商店・明治製菓・極東煉乳の4社連鎖契約(国内一手販売は明治商店、輸出は明治製菓、147万円の資産を担保に明治製糖が融資し585,337円54銭で三井物産借入金を返済、三井物産一手販売契約を解除)、背景は不振と明治製菓との工場の同一地域共存の不合理、12月16日明治製糖が過半数取得・会長有島健助・専務岩波六郎
    • [47]1935年12月3日明治製糖・明治商店・明治製菓・極東煉乳の4社連鎖契約(国内一手販売は明治商店、輸出は明治製菓、147万円の資産を担保に明治製糖が融資し585,337円54銭で三井物産借入金を返済、三井物産一手販売契約を解除)、背景は不振と明治製菓との工場の同一地域共存の不合理、12月16日明治製糖が過半数取得・会長有島健助・専務岩波六郎
    • [48]1935年12月3日明治製糖・明治商店・明治製菓・極東煉乳の4社連鎖契約(国内一手販売は明治商店、輸出は明治製菓、147万円の資産を担保に明治製糖が融資し585,337円54銭で三井物産借入金を返済、三井物産一手販売契約を解除)、背景は不振と明治製菓との工場の同一地域共存の不合理、12月16日明治製糖が過半数取得・会長有島健助・専務岩波六郎
    • [49]1935年12月3日明治製糖・明治商店・明治製菓・極東煉乳の4社連鎖契約(国内一手販売は明治商店、輸出は明治製菓、147万円の資産を担保に明治製糖が融資し585,337円54銭で三井物産借入金を返済、三井物産一手販売契約を解除)、背景は不振と明治製菓との工場の同一地域共存の不合理、12月16日明治製糖が過半数取得・会長有島健助・専務岩波六郎
    • [50]1935年12月3日明治製糖・明治商店・明治製菓・極東煉乳の4社連鎖契約(国内一手販売は明治商店、輸出は明治製菓、147万円の資産を担保に明治製糖が融資し585,337円54銭で三井物産借入金を返済、三井物産一手販売契約を解除)、背景は不振と明治製菓との工場の同一地域共存の不合理、12月16日明治製糖が過半数取得・会長有島健助・専務岩波六郎
  • 『明治製菓四十年小史』(1958)「第2章 創業から昭和10年まで」
    • [51]1935年12月に明治製糖が極東煉乳株の過半数を引き受け明治製菓が経営、1935年末に製乳部門は傍系4社・工場13、全国生産高の7割
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「明治乳業」
    • [52]極東煉乳は1940年12月に明治乳業と改称
参考文献[32]-[52]
  • 『明治乳業50年史』(1969)「1.外資対策と海外進出」
    • [32]ネッスルは震災の救援物資を機に乳製品事業を計画し、まず極東煉乳の大株主三井物産を打診し不調、1928年6月12日大日本乳製品と仮契約も反対で不調、1931年8月31日有吉忠一の声明で資本金400万円の日本ネッスル案、1931年10月10日明治製菓役員会が製乳協会の阻止運動と対策(生産販売協定・木古内工場共同経営・共同販売会社設立等)を承認
    • [33]ネッスルは震災の救援物資を機に乳製品事業を計画し、まず極東煉乳の大株主三井物産を打診し不調、1928年6月12日大日本乳製品と仮契約も反対で不調、1931年8月31日有吉忠一の声明で資本金400万円の日本ネッスル案、1931年10月10日明治製菓役員会が製乳協会の阻止運動と対策(生産販売協定・木古内工場共同経営・共同販売会社設立等)を承認
    • [34]ネッスルは震災の救援物資を機に乳製品事業を計画し、まず極東煉乳の大株主三井物産を打診し不調、1928年6月12日大日本乳製品と仮契約も反対で不調、1931年8月31日有吉忠一の声明で資本金400万円の日本ネッスル案、1931年10月10日明治製菓役員会が製乳協会の阻止運動と対策(生産販売協定・木古内工場共同経営・共同販売会社設立等)を承認
    • [35]ネッスルは震災の救援物資を機に乳製品事業を計画し、まず極東煉乳の大株主三井物産を打診し不調、1928年6月12日大日本乳製品と仮契約も反対で不調、1931年8月31日有吉忠一の声明で資本金400万円の日本ネッスル案、1931年10月10日明治製菓役員会が製乳協会の阻止運動と対策(生産販売協定・木古内工場共同経営・共同販売会社設立等)を承認
    • [36]ネッスルは震災の救援物資を機に乳製品事業を計画し、まず極東煉乳の大株主三井物産を打診し不調、1928年6月12日大日本乳製品と仮契約も反対で不調、1931年8月31日有吉忠一の声明で資本金400万円の日本ネッスル案、1931年10月10日明治製菓役員会が製乳協会の阻止運動と対策(生産販売協定・木古内工場共同経営・共同販売会社設立等)を承認
    • [37]ネッスルは震災の救援物資を機に乳製品事業を計画し、まず極東煉乳の大株主三井物産を打診し不調、1928年6月12日大日本乳製品と仮契約も反対で不調、1931年8月31日有吉忠一の声明で資本金400万円の日本ネッスル案、1931年10月10日明治製菓役員会が製乳協会の阻止運動と対策(生産販売協定・木古内工場共同経営・共同販売会社設立等)を承認
  • 『明治製菓四十年小史』(1958)「第2章 創業から昭和10年まで」
    • [38]1931年に業界は生産販売協定を結び価格を統一、ネッスルは1931年の北海道新会社計画に失敗し1933年に藤井煉乳を買収
    • [39]大日本乳製品は1914年9月北海道煉乳として資本金25万円で創立、札幌・八雲・木古内に工場、拓銀等への借入金で経営難、明治製糖が借入金を引き受け1933年12月に明治製菓が合併の引継ぎ完了
    • [40]大日本乳製品は1914年9月北海道煉乳として資本金25万円で創立、札幌・八雲・木古内に工場、拓銀等への借入金で経営難、明治製糖が借入金を引き受け1933年12月に明治製菓が合併の引継ぎ完了
    • [44]大日本乳製品は1914年9月北海道煉乳として資本金25万円で創立、札幌・八雲・木古内に工場、拓銀等への借入金で経営難、明治製糖が借入金を引き受け1933年12月に明治製菓が合併の引継ぎ完了
    • [51]1935年12月に明治製糖が極東煉乳株の過半数を引き受け明治製菓が経営、1935年末に製乳部門は傍系4社・工場13、全国生産高の7割
  • 『明治乳業50年史』(1969)「1-大日本乳製品(株)の合併」
    • [41]1932年3月31日厚床工場を酪連へ、4月30日当別工場をトラピスト修道院へ譲渡し3工場に縮小、同年3月明治製糖が過半数の株式を引受、7月21日臨時総会で明治製菓の経営参加を承認し社長有島健助
    • [42]1932年3月31日厚床工場を酪連へ、4月30日当別工場をトラピスト修道院へ譲渡し3工場に縮小、同年3月明治製糖が過半数の株式を引受、7月21日臨時総会で明治製菓の経営参加を承認し社長有島健助
    • [43]1932年3月31日厚床工場を酪連へ、4月30日当別工場をトラピスト修道院へ譲渡し3工場に縮小、同年3月明治製糖が過半数の株式を引受、7月21日臨時総会で明治製菓の経営参加を承認し社長有島健助
    • [45]1935年12月3日明治製糖・明治商店・明治製菓・極東煉乳の4社連鎖契約(国内一手販売は明治商店、輸出は明治製菓、147万円の資産を担保に明治製糖が融資し585,337円54銭で三井物産借入金を返済、三井物産一手販売契約を解除)、背景は不振と明治製菓との工場の同一地域共存の不合理、12月16日明治製糖が過半数取得・会長有島健助・専務岩波六郎
    • [46]1935年12月3日明治製糖・明治商店・明治製菓・極東煉乳の4社連鎖契約(国内一手販売は明治商店、輸出は明治製菓、147万円の資産を担保に明治製糖が融資し585,337円54銭で三井物産借入金を返済、三井物産一手販売契約を解除)、背景は不振と明治製菓との工場の同一地域共存の不合理、12月16日明治製糖が過半数取得・会長有島健助・専務岩波六郎
    • [47]1935年12月3日明治製糖・明治商店・明治製菓・極東煉乳の4社連鎖契約(国内一手販売は明治商店、輸出は明治製菓、147万円の資産を担保に明治製糖が融資し585,337円54銭で三井物産借入金を返済、三井物産一手販売契約を解除)、背景は不振と明治製菓との工場の同一地域共存の不合理、12月16日明治製糖が過半数取得・会長有島健助・専務岩波六郎
    • [48]1935年12月3日明治製糖・明治商店・明治製菓・極東煉乳の4社連鎖契約(国内一手販売は明治商店、輸出は明治製菓、147万円の資産を担保に明治製糖が融資し585,337円54銭で三井物産借入金を返済、三井物産一手販売契約を解除)、背景は不振と明治製菓との工場の同一地域共存の不合理、12月16日明治製糖が過半数取得・会長有島健助・専務岩波六郎
    • [49]1935年12月3日明治製糖・明治商店・明治製菓・極東煉乳の4社連鎖契約(国内一手販売は明治商店、輸出は明治製菓、147万円の資産を担保に明治製糖が融資し585,337円54銭で三井物産借入金を返済、三井物産一手販売契約を解除)、背景は不振と明治製菓との工場の同一地域共存の不合理、12月16日明治製糖が過半数取得・会長有島健助・専務岩波六郎
    • [50]1935年12月3日明治製糖・明治商店・明治製菓・極東煉乳の4社連鎖契約(国内一手販売は明治商店、輸出は明治製菓、147万円の資産を担保に明治製糖が融資し585,337円54銭で三井物産借入金を返済、三井物産一手販売契約を解除)、背景は不振と明治製菓との工場の同一地域共存の不合理、12月16日明治製糖が過半数取得・会長有島健助・専務岩波六郎
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「明治乳業」
    • [52]極東煉乳は1940年12月に明治乳業と改称

出典・参考

8件
出典・参考
  • 『明治乳業50年史』(1969)「3.わが社のおこり」
  • 『明治乳業50年史』(1969)「1-大日本乳製品(株)の合併」
  • 『明治乳業50年史』(1969)「2.第一次世界大戦後の不況対策」
  • 『明治乳業50年史』(1969)「1.外資対策と海外進出」
  • 『会社銀行八十年史』(1955)「明治乳業」
  • 黒沢酉蔵「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人17』1981)
  • 大野勇「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人20』1986)
  • 『明治製菓四十年小史』(1958)「第2章 創業から昭和10年まで」

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