ユキグニファクトリー:雪国まいたけの設立とバイオセンターでのまいたけ量産化
1982年〜自動栽培装置に消えた太もやしと、まいたけへの転身
創業者の大平喜信氏は、六日町立五十沢中学校を卒業したのち地元の電機部品メーカーに勤めていた。1974年、オイルショックのあおりで退職し、もやし作りへ転じた。翌1975年には実家から12km離れた新潟県六日町へ移り、大平もやし店を出店した。新潟県で売られていなかった太いもやしを量産するためで、きっかけは東京に住む親戚の勧めにある。6畳1間に親子4人が暮らし、トイレと風呂を近所の親戚に頼る生活のなか、家屋の横の栽培室でストーブを不完全燃焼させ、エチレンガスでもやしの伸びを止めて太さを増す仕組みを3年かけて見つけ、太もやしは地元の人気商品となった。
- 日経ビジネス 1995年7月24日号
- [1]大平喜信氏は1963年3月に六日町立五十沢中学校を卒業し、地元の電機部品メーカーに勤務した
- [3]1975年、もやし店を開くため実家から12km離れた六日町へ越し、大平もやし店を創業した
- [4]新潟県では売られていなかった太いもやしを量産するためで、東京に住む親戚が勧めたのがきっかけだった
- [5]6畳1間に親子4人が暮らし、トイレと風呂は近所の親戚に頼った。家屋の横の栽培室でストーブを不完全燃焼させエチレンガスを出し、もやしの太さを増す仕組みを3年かかって発見し、一時は地元の人気商品となった
- 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
- [2]1974年にオイルショックのあおりで地元の電気会社を退職せざるをえなくなり、脱サラでもやし作りを始めた
あるメーカーが太もやしの自動栽培装置を発売すると、誰もが同じもやしを作れるようになって新たな業者が次々と入り、大平もやし店の売上高は急落した。独自の優位を保てた期間は1年半にすぎず、3年がかりで編み出した栽培法も装置の前に価値を失ったため、大平喜信社長は過当競争を避けて別の事業に目を向けた。1982年、配達に行った隣町の農協の店頭で人工栽培のまいたけが売られているのを見つけ、買って食べた。天然のまいたけと味がほとんど変わらず、量産すれば商売になると考えた。もやし店は倒産寸前に陥っており、中卒で独立した自分が実家に戻れば村で笑い物になるという思いが、まいたけへの転身を決めさせた。
- 日経ビジネス 1995年7月24日号
- [6]太もやしの成功は1年半しか続かず、ある機械メーカーが自動栽培装置を売り出すと参入業者が殺到して売り上げが急降下した
- [8]1982年、もやし店を経営していた大平氏が配達に行った農協で人工まいたけが売られているのを目にし、買って食べた
- [10]当時もやし店は倒産寸前の状況に陥っており、中卒の自分が実家に戻れば村で笑い物になると考えた
- 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
- [7]某機械メーカーが太もやしを栽培できる装置を完成させて売り出したため3年がかりの苦労が水の泡となり、過当競争になるとみて別の事業を手掛けなければならないと考えた
- 日経ビジネス 1994年5月23日号
- [9]隣町の農協で買った人工まいたけを食べたところ天然ものと味がそれほど違わず、これはいけるとすぐに決断した
まいたけの栽培研究は1955年ごろから試験研究機関や種菌メーカーの手で進められたが、主な方法だった原木栽培ではうまくいかなかった。実を結んだのは1970年代に入ってからで、ヒラタケやナメコで広まっていた菌床栽培を使ったことによる。1982年2月、まいたけの生産が始まった。まいたけ菌を開発した種菌メーカーから温度・湿度管理のデータを譲り受け、パート5人を雇って、自宅に建てた工場で栽培を始めた。人工栽培は、広葉樹のオガ粉と水とフスマを混ぜた培地を殺菌し、そこにまいたけ菌を植え込む方式で、3カ月で出荷できる。ただし一定量を作り続けるのは難しく、大平喜信社長は工場に泊まり込み、部屋を暗くして光量を変え、風を送り、湿度を下げる組み合わせを繰り返し試した。1年後には日産80kgだった能力が350kgまで広がり、量産のめどが立った。
- 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
- [11]まいたけ栽培の研究は1955年ごろから試験研究機関や種菌メーカーによって主に原木栽培で行われてきたが成功せず、1970年代に入ってヒラタケやナメコで盛んに行われていた菌床栽培により成功した
- 日経ビジネス 1994年5月23日号
- [12]大平社長がまいたけ生産に乗り出したのは1982年2月である
- [13]まいたけ菌を開発したキノコ菌メーカーから温度・湿度管理の技術データをもらい、パート5人を雇って生産を始めた。1982年に自宅に工場を建設した
- [14]まいたけの人工栽培は広葉樹のオガ粉、水、フスマなどを混ぜた培地を殺菌し、そこにまいたけ菌を植え込む方式で、3カ月で出荷できる
- [16]1年後には日産80kgだった能力が350kgに拡大し、量産化のめどが立った
- 日経ビジネス 1995年7月24日号
- [15]工場に泊まり込み、連日部屋を暗くして光量を変えたり、風を送ったり、湿度を下げたりと生長が促進される環境づくりに明け暮れた
参考文献[1]-[16]
- 日経ビジネス 1995年7月24日号
- [1]大平喜信氏は1963年3月に六日町立五十沢中学校を卒業し、地元の電機部品メーカーに勤務した
- [3]1975年、もやし店を開くため実家から12km離れた六日町へ越し、大平もやし店を創業した
- [4]新潟県では売られていなかった太いもやしを量産するためで、東京に住む親戚が勧めたのがきっかけだった
- [5]6畳1間に親子4人が暮らし、トイレと風呂は近所の親戚に頼った。家屋の横の栽培室でストーブを不完全燃焼させエチレンガスを出し、もやしの太さを増す仕組みを3年かかって発見し、一時は地元の人気商品となった
- [6]太もやしの成功は1年半しか続かず、ある機械メーカーが自動栽培装置を売り出すと参入業者が殺到して売り上げが急降下した
- [8]1982年、もやし店を経営していた大平氏が配達に行った農協で人工まいたけが売られているのを目にし、買って食べた
- [10]当時もやし店は倒産寸前の状況に陥っており、中卒の自分が実家に戻れば村で笑い物になると考えた
- [15]工場に泊まり込み、連日部屋を暗くして光量を変えたり、風を送ったり、湿度を下げたりと生長が促進される環境づくりに明け暮れた
- 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
- [2]1974年にオイルショックのあおりで地元の電気会社を退職せざるをえなくなり、脱サラでもやし作りを始めた
- [7]某機械メーカーが太もやしを栽培できる装置を完成させて売り出したため3年がかりの苦労が水の泡となり、過当競争になるとみて別の事業を手掛けなければならないと考えた
- [11]まいたけ栽培の研究は1955年ごろから試験研究機関や種菌メーカーによって主に原木栽培で行われてきたが成功せず、1970年代に入ってヒラタケやナメコで盛んに行われていた菌床栽培により成功した
- 日経ビジネス 1994年5月23日号
- [9]隣町の農協で買った人工まいたけを食べたところ天然ものと味がそれほど違わず、これはいけるとすぐに決断した
- [12]大平社長がまいたけ生産に乗り出したのは1982年2月である
- [13]まいたけ菌を開発したキノコ菌メーカーから温度・湿度管理の技術データをもらい、パート5人を雇って生産を始めた。1982年に自宅に工場を建設した
- [14]まいたけの人工栽培は広葉樹のオガ粉、水、フスマなどを混ぜた培地を殺菌し、そこにまいたけ菌を植え込む方式で、3カ月で出荷できる
- [16]1年後には日産80kgだった能力が350kgに拡大し、量産化のめどが立った
1983年〜産地直送・独自技術・1社20%以下という3つの原則
大平喜信氏は会社を興すにあたり、3つの原則を条件として定めた。新潟県六日町に雪国まいたけが株式会社として設立されたのは1983年7月で、同時に新設の五十沢工場でまいたけを作って売り始めた。大平氏の役職は当初は取締役で、2年後の1985年7月に代表取締役社長となった。青果物は農協、経済連、全農、青果市場、仲買と渡るたびに中間マージンが加わって安く出せないため、市場へは直接卸し、量販店へは自社が直に売る経路を築いた。他社と同じ方法では追い越せないため、実験を重ねて独自の菌床栽培による大量生産技術を確立した。特定のスーパーへ大量に納入すると価格と出荷の主導権を販売先に握られるため、1つの販売先への比率を20%以下に抑えた。この水準なら大手スーパーが仕入れを止めても打撃は限られると判断した。
- 日経ビジネス 1994年5月23日号
- [17]会社設立にあたり大平社長は3つの経営原則を決めた。流通の中間段階を省いた産地直送型の販売ルートを作ること、独自技術の開発、大手取引先への依存度を1社20%以内に抑えることの3つである
- 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
- [18]1983年7月、新潟県六日町に株式会社雪国まいたけを設立した
- [21]農協→経済連→全農→青果市場→仲買→スーパー→消費者という従来の青果物ルートでは中間マージンもかかり消費者に安価で供給できないと考え、市場へ直接卸す方式のほか量販店へは直接販売することとした
- [22]他社と同じ方法をとっていたのでは他社を追い越せないと考え、実験を繰り返して独自の菌床栽培による大量生産技術を確立した
- [23]ダイレクト取引で特定のスーパーなどに大量納入する偏りがあると価格・出荷面で販売先に主導権を握られるおそれがあるため、1販売先への割合を20%以下に抑えることにした
- [24]1販売先20%以下であれば、大手スーパーなどが仕入れをストップしても大きな打撃を受けなくて済む
- 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
- [19]1983年7月、株式会社雪国まいたけを設立し、五十沢工場新設によりまいたけの生産販売を開始した
- 雪国まいたけ 有価証券報告書【役員の状況】
- [20]昭和58年7月 株式会社雪国まいたけ設立取締役就任、昭和60年7月 代表取締役社長就任
設立時の生産量は日産350kgで、1984年に700kg、1985年に1,400kg、1986年に3,000kg、1987年に6,000kgと毎年倍に増やした。当時の栽培業者が尋ねるのは決まって大量に作る方法だったなかで、大平喜信氏は量産もままならないうちから売り方まで構想していた——創業以来まいたけ菌を納めた種菌開発業者、森産業(群馬県桐生市)社長の森喜美男氏が見た姿である。量産だけにこだわって失速したもやしの経験が、売り先と価格を先に決める判断を生んだ。1986年6月には本社を新築して南魚沼市余川へ移し、同年10月に第1バイオセンターを南魚沼市水尾新田へ新設し、まいたけの生産に入った。
- 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
- [25]会社設立後、生産を本格化して当初は日産350kgから始めた
- [26]日産は1984年に700kg、1985年に1,400kg、1986年に3,000kg、1987年に6,000kgと倍々で増えた
- 日経ビジネス 1995年7月24日号
- [27]創業以来まいたけ菌を購入している種菌開発業者、森産業(群馬県桐生市)社長の森喜美男氏は、多くの栽培業者が尋ねるのは決まって『どうすれば大量に作れるか』だったが、大平氏は量産もままならないうちから売り方まで構想を膨らませていたと述べた
- [28]森喜美男氏は、量産だけにこだわってしまったもやしの失敗を教訓にしていたのだろうと指摘した
- 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
- [29]1986年6月に本社新築により新潟県南魚沼市余川89番地へ移転し、1986年10月に第1バイオセンターを南魚沼市水尾新田に新設してまいたけの生産を開始した
1987年3月に東京営業所を開設し、大手スーパーへ売り込んだ。埼玉県には配送センターも置いた。量産によって価格が他社より3割から4割安く、売り込みは容易に進んだ。高級品のままでは消費が広がらないと読み、まいたけ栽培に入ってきた片倉工業や十条製紙の関連会社に対抗する狙いも込めて、同社は他社並みの値上げで利幅を広げる道を捨て、増産による値下げを選んだ。1985年には、バイオへの関心の高まりを追い風に、JTをはじめとする大企業も続いてまいたけ生産へ乗り出していた。しかし、1kgあたり高値5,000円・安値1,500円だった1983年の相場は、1994年には年平均1kg1,000円にまで下がり、高い付加価値をあてにして入った大手にとっては計算違いとなって、そのほとんどが手を引いた。
- 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
- [30]1987年3月に東京営業所を開設した。1987年に東京都内に営業所をつくり、大手スーパーに売り込んだ
- 日経ビジネス 1994年5月23日号
- [31]1987年、東京都内の営業所とあわせて埼玉県に配送センターも設置した
- [32]大手スーパーへの売り込みは容易だった。量産化によって他社に比べ価格が3、4割安かったため
- [33]高級品では消費が拡大しないという読みに加え、まいたけ栽培に乗り出してきた大手企業への防戦の意味もあった。参入してきたのは片倉工業や十条製紙(現・日本製紙)の関連会社などである
- [34]価格を他社並みにして利益幅を増やすことは避け、逆に増産によって価格を下げた
- [36]1983年に高値で1kg5,000円、安値で1,500円だったまいたけ価格は、1994年時点で年平均1kg1,000円にまで下がった
- [37]多くの大手企業がバイオ技術を武器にキノコ業界に参入したが、その大半は撤退した。高付加価値を狙って参入した大手にとっては大きな誤算だった
- 日経ビジネス 1995年7月24日号
- [35]1985年にはバイオブームに乗ってJTなど大企業が続々とまいたけ栽培事業に進出した
参考文献[17]-[37]
- 日経ビジネス 1994年5月23日号
- [17]会社設立にあたり大平社長は3つの経営原則を決めた。流通の中間段階を省いた産地直送型の販売ルートを作ること、独自技術の開発、大手取引先への依存度を1社20%以内に抑えることの3つである
- [31]1987年、東京都内の営業所とあわせて埼玉県に配送センターも設置した
- [32]大手スーパーへの売り込みは容易だった。量産化によって他社に比べ価格が3、4割安かったため
- [33]高級品では消費が拡大しないという読みに加え、まいたけ栽培に乗り出してきた大手企業への防戦の意味もあった。参入してきたのは片倉工業や十条製紙(現・日本製紙)の関連会社などである
- [34]価格を他社並みにして利益幅を増やすことは避け、逆に増産によって価格を下げた
- [36]1983年に高値で1kg5,000円、安値で1,500円だったまいたけ価格は、1994年時点で年平均1kg1,000円にまで下がった
- [37]多くの大手企業がバイオ技術を武器にキノコ業界に参入したが、その大半は撤退した。高付加価値を狙って参入した大手にとっては大きな誤算だった
- 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
- [18]1983年7月、新潟県六日町に株式会社雪国まいたけを設立した
- [21]農協→経済連→全農→青果市場→仲買→スーパー→消費者という従来の青果物ルートでは中間マージンもかかり消費者に安価で供給できないと考え、市場へ直接卸す方式のほか量販店へは直接販売することとした
- [22]他社と同じ方法をとっていたのでは他社を追い越せないと考え、実験を繰り返して独自の菌床栽培による大量生産技術を確立した
- [23]ダイレクト取引で特定のスーパーなどに大量納入する偏りがあると価格・出荷面で販売先に主導権を握られるおそれがあるため、1販売先への割合を20%以下に抑えることにした
- [24]1販売先20%以下であれば、大手スーパーなどが仕入れをストップしても大きな打撃を受けなくて済む
- [25]会社設立後、生産を本格化して当初は日産350kgから始めた
- [26]日産は1984年に700kg、1985年に1,400kg、1986年に3,000kg、1987年に6,000kgと倍々で増えた
- 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
- [19]1983年7月、株式会社雪国まいたけを設立し、五十沢工場新設によりまいたけの生産販売を開始した
- [29]1986年6月に本社新築により新潟県南魚沼市余川89番地へ移転し、1986年10月に第1バイオセンターを南魚沼市水尾新田に新設してまいたけの生産を開始した
- [30]1987年3月に東京営業所を開設した。1987年に東京都内に営業所をつくり、大手スーパーに売り込んだ
- 雪国まいたけ 有価証券報告書【役員の状況】
- [20]昭和58年7月 株式会社雪国まいたけ設立取締役就任、昭和60年7月 代表取締役社長就任
- 日経ビジネス 1995年7月24日号
- [27]創業以来まいたけ菌を購入している種菌開発業者、森産業(群馬県桐生市)社長の森喜美男氏は、多くの栽培業者が尋ねるのは決まって『どうすれば大量に作れるか』だったが、大平氏は量産もままならないうちから売り方まで構想を膨らませていたと述べた
- [28]森喜美男氏は、量産だけにこだわってしまったもやしの失敗を教訓にしていたのだろうと指摘した
- [35]1985年にはバイオブームに乗ってJTなど大企業が続々とまいたけ栽培事業に進出した
1994年〜日産33トンへの増設と新潟証券取引所への上場
1988年、ベンチャーキャピタルの日本合同ファイナンスで専務を務めた秋野正司氏が六日町を訪ね、出会いから3カ月後に2億円を出資した。秋野氏は、空気がきれいで土地も安い六日町の事業環境に大平喜信社長の熱意が加われば伸びると見込んだ。売上高7億円の企業への投資としては異例の規模で、雪国まいたけはこれをきっかけに上場までに27億円を調達し、工場を相次いで新設した。同じ時期、イトーヨーカ堂で青果を担当したチーフバイヤーの杉岡一郎氏が、1984年から続けてきた取引の拡大を決めた。10トントラック3台で埼玉県の集中配送センターへ運び、そこから全国の店舗へ配る経路ができ、契約の成立を機に他のスーパーや百貨店へも販路が広がった。
- 日経ビジネス 1995年7月24日号
- [38]1988年、大手ベンチャーキャピタル日本合同ファイナンス専務の秋野正司氏が大平氏を訪ね、出会いから3カ月後に2億円を投資した
- [39]秋野正司氏は「六日町は空気もきれいで土地も安い。整った事業環境に大平さんの熱意が加われば、大化けするのではと勘が働いた」と述べた
- [40]売上高7億円の企業に対する2億円の投資は異例の額で、これをきっかけに雪国まいたけは上場までに27億円を調達し、続々と工場を新設した
- [41]イトーヨーカ堂食品事業部ニューMD青果担当チーフバイヤーの杉岡一郎氏が、1984年から始めた取引を本格的に拡張することにした
- [42]10トントラック3台で埼玉県の集中配送センターへ運び、そこから全国の店舗へ送った。イトーヨーカ堂との契約成立は他のスーパーや百貨店にも販路を広げるきっかけとなった
同社は需要を前もって見積もり、品不足で値が急騰しないよう設備を足していく計画を立てており、生産能力を闇雲に伸ばしたのではなかった。その計画に沿って、能力は1988年10月に日産9トン、1989年9月に12トン、1990年9月に22トンへ引き上げられた。1989年9月には南魚沼市浦佐で第2バイオセンターが稼働し、まいたけの生産を始めている。1990年4月には大平もやし店から営業権を受け継いでもやしの生産と販売を再び手掛け、1992年8月には本社を本社パッケージセンターとともに新築して移った。総工費23億円の12階建てで、着工したのは売上高が20億円しかなかった1989年である。
- 日経ビジネス 1994年5月23日号
- [43]むやみに増産したわけではなく、市場の需要予測を立て、供給不足で価格が高騰しないように増産計画を立てた
- [44]1988年10月に日産9トン、1989年9月に同12トン、1990年9月に同22トンと相次いで工場を増設して生産能力を高めた
- [48]六日町の本社ビルは総工費23億円の12階建てで、売上高が20億円しかなかった1989年に着工し、1992年に完成した
- 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
- [45]1989年9月に第2バイオセンターを南魚沼市浦佐に新設し、まいたけの生産を開始した
- [46]1990年4月に大平もやし店の営業権を譲り受け、もやしの生産販売を開始した
- [47]1992年8月に新本社及び本社パッケージセンターを新築移転した
設立当初の年商は1億円にすぎなかったが、1993年3月期の売上高は約46億円まで伸びた。続く1994年3月期には、売上高64億円、経常利益8億3,800万円が見込まれていた。拡大を支えたのは設備で、1993年に日産の能力を22トンから33トンへ引き上げ、1.5倍にした。全国で年に1万トン作られるまいたけのうち、70%は同社の出荷分だった。雪国まいたけが新潟証券取引所の地域産業育成部に株式を上場したのは、1994年3月11日である。コシヒカリの産地で名高い魚沼地方に拠点を置く会社としては、これが最初の上場だった。キノコを専業とする会社の上場でも第1号である。大平喜信社長は上場後も、1kgあたり平均1,000円の維持を目安に生産量を調整する方針を示した。
- 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
- [49]売上高は会社設立時の年商1億円から1993年3月期には約46億円となり、1994年3月期は売上高64億円、営業利益12億1,000万円、経常利益8億3,800万円、当期純利益4億1,200万円を見込む
- [50]1993年に生産能力を従来の日産22トンから同33トンへ1.5倍に増強した。全国シェアは70%前後に達している
- [51]1994年3月11日に株式を新潟証券取引所へ上場した。1994年3月、当社株式を新潟証券取引所の地域産業育成部へ上場
- [53]1kg当たり平均1,000円ぐらいの価格の維持を目安として生産を調整してきたと述べた
- 日経ビジネス 1994年5月23日号
- [52]コシヒカリの産地である魚沼地方の企業では初の上場であり、全国的にもキノコ専業として上場第1号になった
参考文献[38]-[53]
- 日経ビジネス 1995年7月24日号
- [38]1988年、大手ベンチャーキャピタル日本合同ファイナンス専務の秋野正司氏が大平氏を訪ね、出会いから3カ月後に2億円を投資した
- [39]秋野正司氏は「六日町は空気もきれいで土地も安い。整った事業環境に大平さんの熱意が加われば、大化けするのではと勘が働いた」と述べた
- [40]売上高7億円の企業に対する2億円の投資は異例の額で、これをきっかけに雪国まいたけは上場までに27億円を調達し、続々と工場を新設した
- [41]イトーヨーカ堂食品事業部ニューMD青果担当チーフバイヤーの杉岡一郎氏が、1984年から始めた取引を本格的に拡張することにした
- [42]10トントラック3台で埼玉県の集中配送センターへ運び、そこから全国の店舗へ送った。イトーヨーカ堂との契約成立は他のスーパーや百貨店にも販路を広げるきっかけとなった
- 日経ビジネス 1994年5月23日号
- [43]むやみに増産したわけではなく、市場の需要予測を立て、供給不足で価格が高騰しないように増産計画を立てた
- [44]1988年10月に日産9トン、1989年9月に同12トン、1990年9月に同22トンと相次いで工場を増設して生産能力を高めた
- [48]六日町の本社ビルは総工費23億円の12階建てで、売上高が20億円しかなかった1989年に着工し、1992年に完成した
- [52]コシヒカリの産地である魚沼地方の企業では初の上場であり、全国的にもキノコ専業として上場第1号になった
- 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
- [45]1989年9月に第2バイオセンターを南魚沼市浦佐に新設し、まいたけの生産を開始した
- [46]1990年4月に大平もやし店の営業権を譲り受け、もやしの生産販売を開始した
- [47]1992年8月に新本社及び本社パッケージセンターを新築移転した
- 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
- [49]売上高は会社設立時の年商1億円から1993年3月期には約46億円となり、1994年3月期は売上高64億円、営業利益12億1,000万円、経常利益8億3,800万円、当期純利益4億1,200万円を見込む
- [50]1993年に生産能力を従来の日産22トンから同33トンへ1.5倍に増強した。全国シェアは70%前後に達している
- [51]1994年3月11日に株式を新潟証券取引所へ上場した。1994年3月、当社株式を新潟証券取引所の地域産業育成部へ上場
- [53]1kg当たり平均1,000円ぐらいの価格の維持を目安として生産を調整してきたと述べた
筆者考察
太もやしで起きたことが、雪国まいたけの設計図になった。3年かけて見つけたエチレンガスの使い方は、機械メーカーが自動栽培装置を売り出した瞬間に誰のものでもなくなり、参入が殺到して大平もやし店の売上高は急降下した。技術は真似されるが、売り先と価格の構えは真似しにくい。1983年の設立にあたって大平喜信氏が置いた3つの原則、すなわち量販店への直接販売、独自の菌床栽培技術、1社あたり20%以下という取引比率は、どれも同じ失敗を二度繰り返さないための条件である。とくに20%という上限は、売上の拡大を縛る条件であって、拡大させる手段ではなかった。
まいたけの価格を下げ続けたのは、需要を増やすためだけではない。1985年のバイオブームでJTをはじめとする大企業が相次いで参入したとき、雪国まいたけの日産は1.4トンに過ぎなかった。それでも価格を他社より3割から4割低く置き、利益幅を広げる代わりに増産へ充当した。1983年に1kg5,000円だったまいたけは1994年には年平均1,000円になり、高い付加価値を見込んで入ってきた大手の採算は成り立たなくなる。参入した企業の大半は撤退した。日産33トン、全国シェア7割という1994年の位置は、量産の成果であると同時に、11年かけて値段で退出を促した結果だった。
出典・参考
5件
- 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
- 雪国まいたけ 有価証券報告書【役員の状況】
- 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
- 日経ビジネス 1994年5月23日号
- 日経ビジネス 1995年7月24日号