第3章 年〜年

サントリーホールディングス:佐治敬三のビール参入とサントリーへの改称

1961年〜ウイスキーの好調期に決めたビール参入と、寿屋からの改称

1961年5月30日、鳥井信治郎氏は次男の佐治敬三氏を社長に推し、自らは会長に就任した。新社長が最初に打った大きな手が、ビールへの参入である。1949年頃にも、阪急の小林一三氏が鳥井信治郎氏へビール製造を持ちかけていた。そのときは工場新設の税負担と設備投資、公定価格の薄い利幅、大手数社の販路支配を理由に見送っている。佐治敬三氏は欧州で、客がビールを銘柄の名で注文する様子に接し、個性ある味なら需要の1割は取れると考えた。1960年に計画を聞いた鳥井信治郎氏の返答は『やってみなはれ』の一言。1976年の佐治敬三氏の説明では、参入の動機は製品構成の均衡にあった。決めた時点では、ウイスキーがここまで伸びるとは見込んでいなかったという。洋酒一本の収益に、客層も季節も異なる大型商品を加える狙いだったのだろう。

  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦後編」開高健
    • [1]1961年5月30日信治郎が敬三を社長に推し会長へ。1949年頃小林一三がビール製造を提案、税・設備投資・公定価格・大手の販路支配で断念。敬三は欧州旅行で銘柄名で呼ばれるビールを見て、ビール人口の1割は画一化を嫌うと考えた。1960年に父へ打ち明け「やってみなはれ」
    • [2]1961年5月30日信治郎が敬三を社長に推し会長へ。1949年頃小林一三がビール製造を提案、税・設備投資・公定価格・大手の販路支配で断念。敬三は欧州旅行で銘柄名で呼ばれるビールを見て、ビール人口の1割は画一化を嫌うと考えた。1960年に父へ打ち明け「やってみなはれ」
    • [3]1961年5月30日信治郎が敬三を社長に推し会長へ。1949年頃小林一三がビール製造を提案、税・設備投資・公定価格・大手の販路支配で断念。敬三は欧州旅行で銘柄名で呼ばれるビールを見て、ビール人口の1割は画一化を嫌うと考えた。1960年に父へ打ち明け「やってみなはれ」
    • [4]1961年5月30日信治郎が敬三を社長に推し会長へ。1949年頃小林一三がビール製造を提案、税・設備投資・公定価格・大手の販路支配で断念。敬三は欧州旅行で銘柄名で呼ばれるビールを見て、ビール人口の1割は画一化を嫌うと考えた。1960年に父へ打ち明け「やってみなはれ」
    • [5]1961年5月30日信治郎が敬三を社長に推し会長へ。1949年頃小林一三がビール製造を提案、税・設備投資・公定価格・大手の販路支配で断念。敬三は欧州旅行で銘柄名で呼ばれるビールを見て、ビール人口の1割は画一化を嫌うと考えた。1960年に父へ打ち明け「やってみなはれ」
    • [6]1961年5月30日信治郎が敬三を社長に推し会長へ。1949年頃小林一三がビール製造を提案、税・設備投資・公定価格・大手の販路支配で断念。敬三は欧州旅行で銘柄名で呼ばれるビールを見て、ビール人口の1割は画一化を嫌うと考えた。1960年に父へ打ち明け「やってみなはれ」
  • 日経ビジネス 1976年7月19日号
    • [7]ビール進出の動機は製品構成のバランスのとれた姿を達成すること(1976年の佐治社長)
  • 日経ビジネス 1977年3月14日号
    • [8]ビールを始めようと思った時にはウイスキーがここまで伸びるとは考えていなかった

1961年9月7日、佐治敬三氏は立川税務署へビール製造の内免許を申請し、その足で参入を公表した。計画はおよそ1年、社外へ漏れずに保たれた。当時の市場はサッポロ、アサヒ、キリンの3社が占め、先に参入したタカラは撤退に追い込まれていた。タカラのビールは既存3社と味の差が乏しく、銘柄で選ばれなかった。佐治敬三氏はドイツ風の構想をデンマーク流に改め、同国のブレデコ社、ヨルゲンセン醗酵研究所と技術援助の契約を結んだ。1963年春に完成した武蔵野工場は敷地3万坪、初年度の生産量は4万5000キロリットルである。同年4月のサントリービール発売に合わせて、社名を寿屋からサントリー株式会社に改めた。後発の劣位を、味の違いという一点で埋めにいったと推察される。

  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦後編」開高健
    • [9]昭和36年9月7日立川税務署にビール製造の内免許申請、帝国ホテルで進出宣言。約1年極秘。市場はサッポロ・アサヒ・キリンの寡占で、先行したタカラは身売り。タカラの敗因は味が御三家と同じだったこと
    • [10]昭和36年9月7日立川税務署にビール製造の内免許申請、帝国ホテルで進出宣言。約1年極秘。市場はサッポロ・アサヒ・キリンの寡占で、先行したタカラは身売り。タカラの敗因は味が御三家と同じだったこと
    • [11]昭和36年9月7日立川税務署にビール製造の内免許申請、帝国ホテルで進出宣言。約1年極秘。市場はサッポロ・アサヒ・キリンの寡占で、先行したタカラは身売り。タカラの敗因は味が御三家と同じだったこと
    • [12]昭和36年9月7日立川税務署にビール製造の内免許申請、帝国ホテルで進出宣言。約1年極秘。市場はサッポロ・アサヒ・キリンの寡占で、先行したタカラは身売り。タカラの敗因は味が御三家と同じだったこと
  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [13]ドイツ風からデンマーク流へ方針転換、ブレデコ社・ヨルゲンセン醗酵研究所と技術援助契約。昭和38年春武蔵野工場(敷地3万坪)完成、初年度4万5000kl。ビール発売とともに社名をサントリー株式会社に変更、資本金20億円・従業員約2000名
    • [14]ドイツ風からデンマーク流へ方針転換、ブレデコ社・ヨルゲンセン醗酵研究所と技術援助契約。昭和38年春武蔵野工場(敷地3万坪)完成、初年度4万5000kl。ビール発売とともに社名をサントリー株式会社に変更、資本金20億円・従業員約2000名
    • [15]ドイツ風からデンマーク流へ方針転換、ブレデコ社・ヨルゲンセン醗酵研究所と技術援助契約。昭和38年春武蔵野工場(敷地3万坪)完成、初年度4万5000kl。ビール発売とともに社名をサントリー株式会社に変更、資本金20億円・従業員約2000名
  • 日経ビジネス 1977年3月14日号
    • [16]昭和38年社名をサントリーに改称

ビールの販売は、洋酒とは異なる営業を求めた。寿屋時代のウイスキーは配給に近い売れ方で、営業担当者は問屋を回れば足りていた。1963年6月には他部門から人を集めた特販隊を編成し、料飲店への飛び込み販売に充てている。ビールの営業には洋酒営業の経験者に加え、他部門の応援と大量の中途採用者が入った。外から来た人材が、それまでのおっとりした社風を改めたという。翌1964年には、酒販店を回る第二次特販隊が続いた。佐治敬三氏が発売時に掲げた目標は、5年でシェア1割。実際のシェアは1975年でも5.4%にとどまった。それでも佐治敬三氏は1977年に、『ビールを売る苦しみがわかるとウイスキーも殿様商売ではいかんということで営業部門全体が原点に帰れたと思うんです』と語っている。赤字のビールは、営業の主な相手を問屋から小売店と料飲店へ移す役割も負ったと考えられる。

  • 日経ビジネス 1984年1月23日号
    • [17]寿屋時代の営業マンは横柄な殿様。中途採用の外人部隊の大量入社がおっとりした会社の体質を一変させた(中田尚文常務)。ウイスキーは飛ぶように売れ配給制に近く、強力な競争相手もなかった。ビール進出で洋酒営業経験者・他部門・中途採用者の特攻隊を編成
    • [18]寿屋時代の営業マンは横柄な殿様。中途採用の外人部隊の大量入社がおっとりした会社の体質を一変させた(中田尚文常務)。ウイスキーは飛ぶように売れ配給制に近く、強力な競争相手もなかった。ビール進出で洋酒営業経験者・他部門・中途採用者の特攻隊を編成
    • [20]寿屋時代の営業マンは横柄な殿様。中途採用の外人部隊の大量入社がおっとりした会社の体質を一変させた(中田尚文常務)。ウイスキーは飛ぶように売れ配給制に近く、強力な競争相手もなかった。ビール進出で洋酒営業経験者・他部門・中途採用者の特攻隊を編成
    • [21]寿屋時代の営業マンは横柄な殿様。中途採用の外人部隊の大量入社がおっとりした会社の体質を一変させた(中田尚文常務)。ウイスキーは飛ぶように売れ配給制に近く、強力な競争相手もなかった。ビール進出で洋酒営業経験者・他部門・中途採用者の特攻隊を編成
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦後編」開高健
    • [19]ビール発売の昭和38年6月、各部門から徴用した特販隊が料飲店中心に飛び込み。翌39年第二次特販隊が酒販店ルートを担当
    • [22]ビール発売の昭和38年6月、各部門から徴用した特販隊が料飲店中心に飛び込み。翌39年第二次特販隊が酒販店ルートを担当
  • 日経ビジネス 1977年3月14日号
    • [23]ビールを始めた時に5年間で1割のシェア確保を掲げた。ビールを売る苦しみでウイスキーの営業部門全体が原点に帰れた
    • [25]ビールを始めた時に5年間で1割のシェア確保を掲げた。ビールを売る苦しみでウイスキーの営業部門全体が原点に帰れた
  • 日経ビジネス 1976年7月19日号
    • [24]ビールのシェアは50年に5.4%、10%への引き上げを計画
参考文献[1]-[25]
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦後編」開高健
    • [1]1961年5月30日信治郎が敬三を社長に推し会長へ。1949年頃小林一三がビール製造を提案、税・設備投資・公定価格・大手の販路支配で断念。敬三は欧州旅行で銘柄名で呼ばれるビールを見て、ビール人口の1割は画一化を嫌うと考えた。1960年に父へ打ち明け「やってみなはれ」
    • [2]1961年5月30日信治郎が敬三を社長に推し会長へ。1949年頃小林一三がビール製造を提案、税・設備投資・公定価格・大手の販路支配で断念。敬三は欧州旅行で銘柄名で呼ばれるビールを見て、ビール人口の1割は画一化を嫌うと考えた。1960年に父へ打ち明け「やってみなはれ」
    • [3]1961年5月30日信治郎が敬三を社長に推し会長へ。1949年頃小林一三がビール製造を提案、税・設備投資・公定価格・大手の販路支配で断念。敬三は欧州旅行で銘柄名で呼ばれるビールを見て、ビール人口の1割は画一化を嫌うと考えた。1960年に父へ打ち明け「やってみなはれ」
    • [4]1961年5月30日信治郎が敬三を社長に推し会長へ。1949年頃小林一三がビール製造を提案、税・設備投資・公定価格・大手の販路支配で断念。敬三は欧州旅行で銘柄名で呼ばれるビールを見て、ビール人口の1割は画一化を嫌うと考えた。1960年に父へ打ち明け「やってみなはれ」
    • [5]1961年5月30日信治郎が敬三を社長に推し会長へ。1949年頃小林一三がビール製造を提案、税・設備投資・公定価格・大手の販路支配で断念。敬三は欧州旅行で銘柄名で呼ばれるビールを見て、ビール人口の1割は画一化を嫌うと考えた。1960年に父へ打ち明け「やってみなはれ」
    • [6]1961年5月30日信治郎が敬三を社長に推し会長へ。1949年頃小林一三がビール製造を提案、税・設備投資・公定価格・大手の販路支配で断念。敬三は欧州旅行で銘柄名で呼ばれるビールを見て、ビール人口の1割は画一化を嫌うと考えた。1960年に父へ打ち明け「やってみなはれ」
    • [9]昭和36年9月7日立川税務署にビール製造の内免許申請、帝国ホテルで進出宣言。約1年極秘。市場はサッポロ・アサヒ・キリンの寡占で、先行したタカラは身売り。タカラの敗因は味が御三家と同じだったこと
    • [10]昭和36年9月7日立川税務署にビール製造の内免許申請、帝国ホテルで進出宣言。約1年極秘。市場はサッポロ・アサヒ・キリンの寡占で、先行したタカラは身売り。タカラの敗因は味が御三家と同じだったこと
    • [11]昭和36年9月7日立川税務署にビール製造の内免許申請、帝国ホテルで進出宣言。約1年極秘。市場はサッポロ・アサヒ・キリンの寡占で、先行したタカラは身売り。タカラの敗因は味が御三家と同じだったこと
    • [12]昭和36年9月7日立川税務署にビール製造の内免許申請、帝国ホテルで進出宣言。約1年極秘。市場はサッポロ・アサヒ・キリンの寡占で、先行したタカラは身売り。タカラの敗因は味が御三家と同じだったこと
    • [19]ビール発売の昭和38年6月、各部門から徴用した特販隊が料飲店中心に飛び込み。翌39年第二次特販隊が酒販店ルートを担当
    • [22]ビール発売の昭和38年6月、各部門から徴用した特販隊が料飲店中心に飛び込み。翌39年第二次特販隊が酒販店ルートを担当
  • 日経ビジネス 1976年7月19日号
    • [7]ビール進出の動機は製品構成のバランスのとれた姿を達成すること(1976年の佐治社長)
    • [24]ビールのシェアは50年に5.4%、10%への引き上げを計画
  • 日経ビジネス 1977年3月14日号
    • [8]ビールを始めようと思った時にはウイスキーがここまで伸びるとは考えていなかった
    • [16]昭和38年社名をサントリーに改称
    • [23]ビールを始めた時に5年間で1割のシェア確保を掲げた。ビールを売る苦しみでウイスキーの営業部門全体が原点に帰れた
    • [25]ビールを始めた時に5年間で1割のシェア確保を掲げた。ビールを売る苦しみでウイスキーの営業部門全体が原点に帰れた
  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [13]ドイツ風からデンマーク流へ方針転換、ブレデコ社・ヨルゲンセン醗酵研究所と技術援助契約。昭和38年春武蔵野工場(敷地3万坪)完成、初年度4万5000kl。ビール発売とともに社名をサントリー株式会社に変更、資本金20億円・従業員約2000名
    • [14]ドイツ風からデンマーク流へ方針転換、ブレデコ社・ヨルゲンセン醗酵研究所と技術援助契約。昭和38年春武蔵野工場(敷地3万坪)完成、初年度4万5000kl。ビール発売とともに社名をサントリー株式会社に変更、資本金20億円・従業員約2000名
    • [15]ドイツ風からデンマーク流へ方針転換、ブレデコ社・ヨルゲンセン醗酵研究所と技術援助契約。昭和38年春武蔵野工場(敷地3万坪)完成、初年度4万5000kl。ビール発売とともに社名をサントリー株式会社に変更、資本金20億円・従業員約2000名
  • 日経ビジネス 1984年1月23日号
    • [17]寿屋時代の営業マンは横柄な殿様。中途採用の外人部隊の大量入社がおっとりした会社の体質を一変させた(中田尚文常務)。ウイスキーは飛ぶように売れ配給制に近く、強力な競争相手もなかった。ビール進出で洋酒営業経験者・他部門・中途採用者の特攻隊を編成
    • [18]寿屋時代の営業マンは横柄な殿様。中途採用の外人部隊の大量入社がおっとりした会社の体質を一変させた(中田尚文常務)。ウイスキーは飛ぶように売れ配給制に近く、強力な競争相手もなかった。ビール進出で洋酒営業経験者・他部門・中途採用者の特攻隊を編成
    • [20]寿屋時代の営業マンは横柄な殿様。中途採用の外人部隊の大量入社がおっとりした会社の体質を一変させた(中田尚文常務)。ウイスキーは飛ぶように売れ配給制に近く、強力な競争相手もなかった。ビール進出で洋酒営業経験者・他部門・中途採用者の特攻隊を編成
    • [21]寿屋時代の営業マンは横柄な殿様。中途採用の外人部隊の大量入社がおっとりした会社の体質を一変させた(中田尚文常務)。ウイスキーは飛ぶように売れ配給制に近く、強力な競争相手もなかった。ビール進出で洋酒営業経験者・他部門・中途採用者の特攻隊を編成

1971年〜オールドの量販が支えたビールの赤字と、決算の初公表

1976年、サントリーは非上場のまま、1976年3月期の決算を初めて公表した。経常利益は249億3100万円で、前期を32.9%上回っている。売上の内訳は洋酒3000億円、ビール454億円、食品67億円で、洋酒が大半を占めた。翌1977年には、「オールド」1銘柄だけで年間1億本が国内で消費された。1983年3月期の広告宣伝費と販売促進費は合計623億円で、麒麟麦酒の2.3倍にあたる。酒税を除いた売上に対する粗利益率は47.5%と、麒麟麦酒の30.1%を大きく上回った。ウイスキーは工場の人員が少なく、売上原価を低く抑えられた。この粗利益の厚みが、ビールの赤字と大量の販促費を同時に賄う原資だったとみられる。

  • 日経ビジネス 1976年7月19日号
    • [26]51年3月期決算を初めて記者発表。経常利益249億3100万円(前期比32.9%増)。売上構成は洋酒3000億円・ビール454億円・食品67億円
    • [27]51年3月期決算を初めて記者発表。経常利益249億3100万円(前期比32.9%増)。売上構成は洋酒3000億円・ビール454億円・食品67億円
    • [28]51年3月期決算を初めて記者発表。経常利益249億3100万円(前期比32.9%増)。売上構成は洋酒3000億円・ビール454億円・食品67億円
  • 日経ビジネス 1977年3月14日号
    • [29]オールドだけで年間1億本が日本の中で消費されるようになった
  • 日経ビジネス 1984年1月23日号
    • [30]58年3月期の広告宣伝費257億円・販促費366億円で合計623億円、麒麟の2.3倍。酒税を除いた実質収入に対する粗利益率はサントリー47.5%、麒麟30.1%。工場人員が少なく売上原価が安い
    • [31]58年3月期の広告宣伝費257億円・販促費366億円で合計623億円、麒麟の2.3倍。酒税を除いた実質収入に対する粗利益率はサントリー47.5%、麒麟30.1%。工場人員が少なく売上原価が安い
    • [32]58年3月期の広告宣伝費257億円・販促費366億円で合計623億円、麒麟の2.3倍。酒税を除いた実質収入に対する粗利益率はサントリー47.5%、麒麟30.1%。工場人員が少なく売上原価が安い

佐治敬三氏は1974年度を初年度とする5カ年計画を立て、1980年3月期の売上高9600億円を目標に置いた。洋酒の伸びは2倍程度に抑え、ビール、食品、海外を伸ばす配分で、ビールのシェアは10%に引き上げる計画だった。株式の公開については、1977年の取材で当面その考えはないと答えている。資金はウイスキーの利益と借入金で賄えたからである。1981年度には群馬県の利根川ビール工場の建設で設備投資が550億円に膨らみ、借入金は330億円増えた。20年赤字のビールを続けられた理由を問われると、副社長の鳥井道夫氏は『そら大きいわ』と即答した。1979年には医薬品事業にも参入し、収益の見込めない新事業をもう一つ持った。

  • 日経ビジネス 1976年7月19日号
    • [33]49年度を初年度とする5カ年計画で55年3月期売上高9600億円。洋酒は2倍程度、ビール・食品・海外を伸ばし、ビールシェア5.4%から10%へ
    • [34]49年度を初年度とする5カ年計画で55年3月期売上高9600億円。洋酒は2倍程度、ビール・食品・海外を伸ばし、ビールシェア5.4%から10%へ
  • 日経ビジネス 1977年3月14日号
    • [35]株式公開は今のところ考えていない。ウイスキーは設備投資に金がかからず、利益と借入金で十分まかなえる
    • [36]株式公開は今のところ考えていない。ウイスキーは設備投資に金がかからず、利益と借入金で十分まかなえる
  • 日経ビジネス 1984年1月23日号
    • [37]利根川工場建設で56年度設備投資550億円、借入金330億円増。20年ビールの赤字を続けられたのはウイスキーのもうけと非上場だからかとの問いに鳥井道夫副社長「そら大きいわ」。54年に医薬品事業
    • [38]利根川工場建設で56年度設備投資550億円、借入金330億円増。20年ビールの赤字を続けられたのはウイスキーのもうけと非上場だからかとの問いに鳥井道夫副社長「そら大きいわ」。54年に医薬品事業
    • [39]利根川工場建設で56年度設備投資550億円、借入金330億円増。20年ビールの赤字を続けられたのはウイスキーのもうけと非上場だからかとの問いに鳥井道夫副社長「そら大きいわ」。54年に医薬品事業

収益を支えた「オールド」の販売量は、1980年に年間1130万ケースに達した。ところが1982年3月期には出荷が初めて減り、同年秋に20億円を投じた初の消費者キャンペーンで下支えを図った。1984年5月の酒税引き上げで「オールド」は2900円から3170円に上がり、需要は割安な焼酎へ流れた。1985年3月期の販売量は前期比34%の減少。この1銘柄が、洋酒部門の売上の約4割を占めていた。佐治敬三氏が掲げた「生活文化企業」は、ビール、ワイン、食品への多角化を統括する理念で、その要に「オールド」の収益があった。銘柄への依存を多角化で薄めつつ、その原資を当の銘柄に依存する構造が、急減の打撃を大きくした可能性が高い。

  • 日経ビジネス 1995年5月1日・8日号
    • [40]オールドは1980年に年間1130万ケース(1ケース12本)売れた
  • 日経ビジネス 1985年4月29日号
    • [41]57年3月期にオールドの出荷が初めて減少、57年秋に20億円の初の消費者キャンペーン。昨年5月の酒税引き上げで2900円から3170円、焼酎に需要が流れた。前3月期の販売量34%減、洋酒部門売上の約4割。多角化を統括する理念が生活文化企業で、その要がオールド
    • [42]57年3月期にオールドの出荷が初めて減少、57年秋に20億円の初の消費者キャンペーン。昨年5月の酒税引き上げで2900円から3170円、焼酎に需要が流れた。前3月期の販売量34%減、洋酒部門売上の約4割。多角化を統括する理念が生活文化企業で、その要がオールド
    • [43]57年3月期にオールドの出荷が初めて減少、57年秋に20億円の初の消費者キャンペーン。昨年5月の酒税引き上げで2900円から3170円、焼酎に需要が流れた。前3月期の販売量34%減、洋酒部門売上の約4割。多角化を統括する理念が生活文化企業で、その要がオールド
    • [44]57年3月期にオールドの出荷が初めて減少、57年秋に20億円の初の消費者キャンペーン。昨年5月の酒税引き上げで2900円から3170円、焼酎に需要が流れた。前3月期の販売量34%減、洋酒部門売上の約4割。多角化を統括する理念が生活文化企業で、その要がオールド
    • [45]57年3月期にオールドの出荷が初めて減少、57年秋に20億円の初の消費者キャンペーン。昨年5月の酒税引き上げで2900円から3170円、焼酎に需要が流れた。前3月期の販売量34%減、洋酒部門売上の約4割。多角化を統括する理念が生活文化企業で、その要がオールド
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
    • [46]15年程前、当時社長の佐治敬三会長が「生活文化企業」を標榜
参考文献[26]-[46]
  • 日経ビジネス 1976年7月19日号
    • [26]51年3月期決算を初めて記者発表。経常利益249億3100万円(前期比32.9%増)。売上構成は洋酒3000億円・ビール454億円・食品67億円
    • [27]51年3月期決算を初めて記者発表。経常利益249億3100万円(前期比32.9%増)。売上構成は洋酒3000億円・ビール454億円・食品67億円
    • [28]51年3月期決算を初めて記者発表。経常利益249億3100万円(前期比32.9%増)。売上構成は洋酒3000億円・ビール454億円・食品67億円
    • [33]49年度を初年度とする5カ年計画で55年3月期売上高9600億円。洋酒は2倍程度、ビール・食品・海外を伸ばし、ビールシェア5.4%から10%へ
    • [34]49年度を初年度とする5カ年計画で55年3月期売上高9600億円。洋酒は2倍程度、ビール・食品・海外を伸ばし、ビールシェア5.4%から10%へ
  • 日経ビジネス 1977年3月14日号
    • [29]オールドだけで年間1億本が日本の中で消費されるようになった
    • [35]株式公開は今のところ考えていない。ウイスキーは設備投資に金がかからず、利益と借入金で十分まかなえる
    • [36]株式公開は今のところ考えていない。ウイスキーは設備投資に金がかからず、利益と借入金で十分まかなえる
  • 日経ビジネス 1984年1月23日号
    • [30]58年3月期の広告宣伝費257億円・販促費366億円で合計623億円、麒麟の2.3倍。酒税を除いた実質収入に対する粗利益率はサントリー47.5%、麒麟30.1%。工場人員が少なく売上原価が安い
    • [31]58年3月期の広告宣伝費257億円・販促費366億円で合計623億円、麒麟の2.3倍。酒税を除いた実質収入に対する粗利益率はサントリー47.5%、麒麟30.1%。工場人員が少なく売上原価が安い
    • [32]58年3月期の広告宣伝費257億円・販促費366億円で合計623億円、麒麟の2.3倍。酒税を除いた実質収入に対する粗利益率はサントリー47.5%、麒麟30.1%。工場人員が少なく売上原価が安い
    • [37]利根川工場建設で56年度設備投資550億円、借入金330億円増。20年ビールの赤字を続けられたのはウイスキーのもうけと非上場だからかとの問いに鳥井道夫副社長「そら大きいわ」。54年に医薬品事業
    • [38]利根川工場建設で56年度設備投資550億円、借入金330億円増。20年ビールの赤字を続けられたのはウイスキーのもうけと非上場だからかとの問いに鳥井道夫副社長「そら大きいわ」。54年に医薬品事業
    • [39]利根川工場建設で56年度設備投資550億円、借入金330億円増。20年ビールの赤字を続けられたのはウイスキーのもうけと非上場だからかとの問いに鳥井道夫副社長「そら大きいわ」。54年に医薬品事業
  • 日経ビジネス 1995年5月1日・8日号
    • [40]オールドは1980年に年間1130万ケース(1ケース12本)売れた
  • 日経ビジネス 1985年4月29日号
    • [41]57年3月期にオールドの出荷が初めて減少、57年秋に20億円の初の消費者キャンペーン。昨年5月の酒税引き上げで2900円から3170円、焼酎に需要が流れた。前3月期の販売量34%減、洋酒部門売上の約4割。多角化を統括する理念が生活文化企業で、その要がオールド
    • [42]57年3月期にオールドの出荷が初めて減少、57年秋に20億円の初の消費者キャンペーン。昨年5月の酒税引き上げで2900円から3170円、焼酎に需要が流れた。前3月期の販売量34%減、洋酒部門売上の約4割。多角化を統括する理念が生活文化企業で、その要がオールド
    • [43]57年3月期にオールドの出荷が初めて減少、57年秋に20億円の初の消費者キャンペーン。昨年5月の酒税引き上げで2900円から3170円、焼酎に需要が流れた。前3月期の販売量34%減、洋酒部門売上の約4割。多角化を統括する理念が生活文化企業で、その要がオールド
    • [44]57年3月期にオールドの出荷が初めて減少、57年秋に20億円の初の消費者キャンペーン。昨年5月の酒税引き上げで2900円から3170円、焼酎に需要が流れた。前3月期の販売量34%減、洋酒部門売上の約4割。多角化を統括する理念が生活文化企業で、その要がオールド
    • [45]57年3月期にオールドの出荷が初めて減少、57年秋に20億円の初の消費者キャンペーン。昨年5月の酒税引き上げで2900円から3170円、焼酎に需要が流れた。前3月期の販売量34%減、洋酒部門売上の約4割。多角化を統括する理念が生活文化企業で、その要がオールド
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
    • [46]15年程前、当時社長の佐治敬三会長が「生活文化企業」を標榜

1985年〜ウイスキーの縮小と、清涼飲料・低価格品への組み替え

ウイスキーの縮小は、全社の業績を押し下げた。1985年3月期から売上高と営業利益は下降に転じ、売上高営業利益率は3%台に低下した。1989年の酒税改正では等級制度が廃止され、旧2級の「レッド」は900円から1450円に上がった。割安になった焼酎へ、普及価格帯の消費が移った。1990年代半ばのウイスキー出荷量は年13万キロリットル台で、最盛期の4割の水準である。1990年3月、佐治敬三氏は29年務めた社長の座を鳥井信一郎氏に譲り、会長に就任した。鳥井信一郎氏が1992年から始めた全社革新運動は、販売促進費と在庫の圧縮が中心だった。それでも1993年12月期の株主資本利益率は1.9%まで下がっていた。

  • 日経ビジネス 1995年5月1日・8日号
    • [47]85年3月期から売上高・営業利益が下降、売上高営業利益率3%台。93年12月期ROE1.9%。90年就任の鳥井信一郎社長が92年から全社革新運動、販促費削減・在庫圧縮
    • [48]85年3月期から売上高・営業利益が下降、売上高営業利益率3%台。93年12月期ROE1.9%。90年就任の鳥井信一郎社長が92年から全社革新運動、販促費削減・在庫圧縮
    • [54]85年3月期から売上高・営業利益が下降、売上高営業利益率3%台。93年12月期ROE1.9%。90年就任の鳥井信一郎社長が92年から全社革新運動、販促費削減・在庫圧縮
    • [55]85年3月期から売上高・営業利益が下降、売上高営業利益率3%台。93年12月期ROE1.9%。90年就任の鳥井信一郎社長が92年から全社革新運動、販促費削減・在庫圧縮
  • 日経ビジネス 1998年10月26日号
    • [49]1989年等級廃止と酒税見直しでレッド(720ml)が900円から1450円、普及価格帯でウイスキー離れ、割安感の出た焼酎に消費者が流れた。ここ数年の出荷量は年13万kl台で最盛期の4割
    • [50]1989年等級廃止と酒税見直しでレッド(720ml)が900円から1450円、普及価格帯でウイスキー離れ、割安感の出た焼酎に消費者が流れた。ここ数年の出荷量は年13万kl台で最盛期の4割
    • [51]1989年等級廃止と酒税見直しでレッド(720ml)が900円から1450円、普及価格帯でウイスキー離れ、割安感の出た焼酎に消費者が流れた。ここ数年の出荷量は年13万kl台で最盛期の4割
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
    • [52]鳥井信一郎氏 90年3月サントリー社長就任
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号 三宅誠一
    • [53]1990年1月、29年間務めた社長の座を譲る会見で口やかましい姑型会長を宣言

縮小を補ったのは、早くから育てていた清涼飲料と食品である。1994年時点で食品事業は不況下でも年率2割前後で伸び、全社の売上の減少を防いでいた。1986年から1991年にかけてはウーロン茶など低価格飲料の数量が急増し、物流費は50%増えた。缶コーヒーの「BOSS」は、販売不振の「WEST」に代わる商品として、愛飲家2万人の調査をもとに味と名前を決めている。1994年にダイエーが「オールド」を1980円で売ると、販売量は値引き前の2.5倍になった。これを受けて、2000円を切る「ニューオールド」の開発に踏み切った。同年の発泡酒「ホップス」は麦芽の比率を下げて酒税を抑え、ビールの225円に対し180円で売り出した。高価格帯で失った量を、飲料と低価格品の数量で埋める組み替えだったと思われる。

  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
    • [56]食品事業は不況の中でも年率2割くらいで伸び、食品が無ければ売上も落ちていた。ニューオールドを2000円以下で発売。ホップスは発泡酒扱いで税金が安く、ビール225円に対し180円
    • [57]食品事業は不況の中でも年率2割くらいで伸び、食品が無ければ売上も落ちていた。ニューオールドを2000円以下で発売。ホップスは発泡酒扱いで税金が安く、ビール225円に対し180円
    • [62]食品事業は不況の中でも年率2割くらいで伸び、食品が無ければ売上も落ちていた。ニューオールドを2000円以下で発売。ホップスは発泡酒扱いで税金が安く、ビール225円に対し180円
  • 日経ビジネス 1995年10月16日号
    • [58]洋酒が低迷し、ウーロン茶やはちみつレモンなど低価格飲料の販売数量が急増。86年から91年に売上高4%増に対し物流費50%増
  • 日経ビジネス 1995年5月1日・8日号
    • [59]缶コーヒーBOSSは不調のWESTに代え愛飲家2万人の調査で開発。94年4月ダイエーがオールドを1980円で売り値引き前の2.5倍、これを機にニューオールドを開発。ホップスは麦芽使用率を下げ酒税を抑えた
    • [60]缶コーヒーBOSSは不調のWESTに代え愛飲家2万人の調査で開発。94年4月ダイエーがオールドを1980円で売り値引き前の2.5倍、これを機にニューオールドを開発。ホップスは麦芽使用率を下げ酒税を抑えた
    • [61]缶コーヒーBOSSは不調のWESTに代え愛飲家2万人の調査で開発。94年4月ダイエーがオールドを1980円で売り値引き前の2.5倍、これを機にニューオールドを開発。ホップスは麦芽使用率を下げ酒税を抑えた
    • [63]缶コーヒーBOSSは不調のWESTに代え愛飲家2万人の調査で開発。94年4月ダイエーがオールドを1980円で売り値引き前の2.5倍、これを機にニューオールドを開発。ホップスは麦芽使用率を下げ酒税を抑えた

一方でビール事業は、参入から32年を経た1995年時点でも利益を出していなかった。1994年12月期の営業赤字は100億円以上と推定され、首都圏と関西圏への絞り込みを唱える声も社内にあった。それでも経営陣は、雇用と事業の将来性を理由に縮小を決めなかった。鳥井信一郎氏は、ウイスキーは8年から10年寝かせる必要があるとして、株式を公開しない方針を示した。株式の89%は、佐治敬三氏が社長を務める寿不動産が持っていた。1999年11月、佐治敬三氏は80歳で死去した。社長就任時に売上高250億円だった会社は、連結で1兆円を超える企業群に広がっていた。短期の採算より長い時間軸を優先できたのは、創業家が株式を握る資本構成があったからだろう。

  • 日経ビジネス 1995年5月1日・8日号
    • [64]ビール事業は参入から32年たって利益が出ていない。前期推定で100億円以上の営業赤字。首都圏・関西圏への絞り込み案もあるが、トップは雇用・事業の将来性を理由に決断しない。株式の89%を寿不動産が所有、社長は佐治会長
    • [65]ビール事業は参入から32年たって利益が出ていない。前期推定で100億円以上の営業赤字。首都圏・関西圏への絞り込み案もあるが、トップは雇用・事業の将来性を理由に決断しない。株式の89%を寿不動産が所有、社長は佐治会長
    • [66]ビール事業は参入から32年たって利益が出ていない。前期推定で100億円以上の営業赤字。首都圏・関西圏への絞り込み案もあるが、トップは雇用・事業の将来性を理由に決断しない。株式の89%を寿不動産が所有、社長は佐治会長
    • [68]ビール事業は参入から32年たって利益が出ていない。前期推定で100億円以上の営業赤字。首都圏・関西圏への絞り込み案もあるが、トップは雇用・事業の将来性を理由に決断しない。株式の89%を寿不動産が所有、社長は佐治会長
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
    • [67]ウイスキーは8〜10年寝かせないといいものはできない。じっくりいいものを造るため株式非公開を続ける
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号 三宅誠一
    • [69]1999年11月に佐治敬三会長死去(80歳)。61年41歳で社長就任、売上高250億円の企業を連結1兆円超のグループに
    • [70]1999年11月に佐治敬三会長死去(80歳)。61年41歳で社長就任、売上高250億円の企業を連結1兆円超のグループに
参考文献[47]-[70]
  • 日経ビジネス 1995年5月1日・8日号
    • [47]85年3月期から売上高・営業利益が下降、売上高営業利益率3%台。93年12月期ROE1.9%。90年就任の鳥井信一郎社長が92年から全社革新運動、販促費削減・在庫圧縮
    • [48]85年3月期から売上高・営業利益が下降、売上高営業利益率3%台。93年12月期ROE1.9%。90年就任の鳥井信一郎社長が92年から全社革新運動、販促費削減・在庫圧縮
    • [54]85年3月期から売上高・営業利益が下降、売上高営業利益率3%台。93年12月期ROE1.9%。90年就任の鳥井信一郎社長が92年から全社革新運動、販促費削減・在庫圧縮
    • [55]85年3月期から売上高・営業利益が下降、売上高営業利益率3%台。93年12月期ROE1.9%。90年就任の鳥井信一郎社長が92年から全社革新運動、販促費削減・在庫圧縮
    • [59]缶コーヒーBOSSは不調のWESTに代え愛飲家2万人の調査で開発。94年4月ダイエーがオールドを1980円で売り値引き前の2.5倍、これを機にニューオールドを開発。ホップスは麦芽使用率を下げ酒税を抑えた
    • [60]缶コーヒーBOSSは不調のWESTに代え愛飲家2万人の調査で開発。94年4月ダイエーがオールドを1980円で売り値引き前の2.5倍、これを機にニューオールドを開発。ホップスは麦芽使用率を下げ酒税を抑えた
    • [61]缶コーヒーBOSSは不調のWESTに代え愛飲家2万人の調査で開発。94年4月ダイエーがオールドを1980円で売り値引き前の2.5倍、これを機にニューオールドを開発。ホップスは麦芽使用率を下げ酒税を抑えた
    • [63]缶コーヒーBOSSは不調のWESTに代え愛飲家2万人の調査で開発。94年4月ダイエーがオールドを1980円で売り値引き前の2.5倍、これを機にニューオールドを開発。ホップスは麦芽使用率を下げ酒税を抑えた
    • [64]ビール事業は参入から32年たって利益が出ていない。前期推定で100億円以上の営業赤字。首都圏・関西圏への絞り込み案もあるが、トップは雇用・事業の将来性を理由に決断しない。株式の89%を寿不動産が所有、社長は佐治会長
    • [65]ビール事業は参入から32年たって利益が出ていない。前期推定で100億円以上の営業赤字。首都圏・関西圏への絞り込み案もあるが、トップは雇用・事業の将来性を理由に決断しない。株式の89%を寿不動産が所有、社長は佐治会長
    • [66]ビール事業は参入から32年たって利益が出ていない。前期推定で100億円以上の営業赤字。首都圏・関西圏への絞り込み案もあるが、トップは雇用・事業の将来性を理由に決断しない。株式の89%を寿不動産が所有、社長は佐治会長
    • [68]ビール事業は参入から32年たって利益が出ていない。前期推定で100億円以上の営業赤字。首都圏・関西圏への絞り込み案もあるが、トップは雇用・事業の将来性を理由に決断しない。株式の89%を寿不動産が所有、社長は佐治会長
  • 日経ビジネス 1998年10月26日号
    • [49]1989年等級廃止と酒税見直しでレッド(720ml)が900円から1450円、普及価格帯でウイスキー離れ、割安感の出た焼酎に消費者が流れた。ここ数年の出荷量は年13万kl台で最盛期の4割
    • [50]1989年等級廃止と酒税見直しでレッド(720ml)が900円から1450円、普及価格帯でウイスキー離れ、割安感の出た焼酎に消費者が流れた。ここ数年の出荷量は年13万kl台で最盛期の4割
    • [51]1989年等級廃止と酒税見直しでレッド(720ml)が900円から1450円、普及価格帯でウイスキー離れ、割安感の出た焼酎に消費者が流れた。ここ数年の出荷量は年13万kl台で最盛期の4割
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
    • [52]鳥井信一郎氏 90年3月サントリー社長就任
    • [56]食品事業は不況の中でも年率2割くらいで伸び、食品が無ければ売上も落ちていた。ニューオールドを2000円以下で発売。ホップスは発泡酒扱いで税金が安く、ビール225円に対し180円
    • [57]食品事業は不況の中でも年率2割くらいで伸び、食品が無ければ売上も落ちていた。ニューオールドを2000円以下で発売。ホップスは発泡酒扱いで税金が安く、ビール225円に対し180円
    • [62]食品事業は不況の中でも年率2割くらいで伸び、食品が無ければ売上も落ちていた。ニューオールドを2000円以下で発売。ホップスは発泡酒扱いで税金が安く、ビール225円に対し180円
    • [67]ウイスキーは8〜10年寝かせないといいものはできない。じっくりいいものを造るため株式非公開を続ける
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号 三宅誠一
    • [53]1990年1月、29年間務めた社長の座を譲る会見で口やかましい姑型会長を宣言
    • [69]1999年11月に佐治敬三会長死去(80歳)。61年41歳で社長就任、売上高250億円の企業を連結1兆円超のグループに
    • [70]1999年11月に佐治敬三会長死去(80歳)。61年41歳で社長就任、売上高250億円の企業を連結1兆円超のグループに
  • 日経ビジネス 1995年10月16日号
    • [58]洋酒が低迷し、ウーロン茶やはちみつレモンなど低価格飲料の販売数量が急増。86年から91年に売上高4%増に対し物流費50%増

出典・参考

11件
出典・参考
  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
  • 日経ビジネス 1976年7月19日号
  • 日経ビジネス 1977年3月14日号
  • 日経ビジネス 1984年1月23日号
  • 日経ビジネス 1985年4月29日号
  • 日経ビジネス 1994年12月5日号
  • 日経ビジネス 1995年5月1日・8日号
  • 日経ビジネス 1995年10月16日号
  • 日経ビジネス 1998年10月26日号
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号 三宅誠一
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦後編」開高健

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