セブンイレブン・ジャパン:POSによる単品管理と専用協力工場の供給網の構築
POSの単品管理による1日3便体制への移行
1979年〜親会社が過半を持ったままの東証二部上場
設立から6年目の1979年10月15日、セブン-イレブン・ジャパンは東京証券取引所市場第二部へ上場した。公募は380万株で、資本金は10億円となった。上場後もイトーヨーカ堂が発行済株式の62.54%を保有し、ヨークマートが4.30%、イトーヨーカ堂社長の伊藤雅俊氏が4.30%、社長の鈴木敏文氏が1.85%を持つ構成である。親会社が過半を握ったままの上場であり、資本の面での独立ではなかった。上場時の紹介資料は、比較可能な類似会社が存在しないとして、参考にイトーヨーカ堂の諸数値を並べている。増資はその後も続き、1980年3月に0.2の割合で無償交付、1981年2月に140万株を1株3,480円で公募し、1981年3月と1982年3月にも無償交付を行った。
- 証券 1979年31巻10号
- [1]株式会社セブン-イレブン・ジャパンの上場年月日は昭和54年10月15日、銘柄コード8183、所属部は市場第二部である
- [2]公募3,800,000株(払込期日 昭和54年10月14日、受渡日 昭和54年10月15日)により資本金は1,000,000千円となった。幹事会員は野村証券(事務幹事)ほか5社
- [3]大株主は(株)イトーヨーカ堂62.54%、(株)ヨークマート4.30%、伊藤雅俊4.30%、中央建設エンジニアリング(株)3.09%、鈴木敏文1.85%、清水秀雄1.23%
- [4]「同社には比較可能な類似会社が存在しないが、参考として(株)イトーヨーカ堂の諸数値を記載した」と注記されている
- 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社、1982年11月)
- [5]1980年3月1日 無償交付(割当率0.2、400万株)、1981年2月21日 公募140万株(1株3,480円)、1981年3月1日 無償交付(0.2、508万株)、1982年3月1日 無償交付(0.2、609万6千株)
上場時の会社は、店舗を持たない本部だった。1979年2月期末で加盟店570店に対し自営店は21店、従業員は372名である。収入の中身は加盟店から受け取る営業収入と自営店の売上総利益に分かれ、営業総利益は1977年2月期の21億8,900万円から1978年2月期48億4,800万円、1979年2月期88億7,600万円へ伸びた。同じ3期の営業利益は5億7,500万円、9億7,900万円、20億9,200万円である。加盟店の増加と既存加盟店の粗利益率の改善が、増収の理由として挙げられた。粗利益率を押し上げたのはファストフードで、1杯100円のコーヒーは原価40円、沸かして2時間たてば捨てる運用にして粗利益率60%を確保した。
- 証券 1979年31巻10号
- [6]昭和54年2月期の事業所は東京本部、札幌地区事務所ほか14地区事務所、加盟店570店、自営店21店。従業員数は372名である
- [7]最近3年間の営業総利益は、昭和52年2月期2,189百万円、昭和53年2月期4,848百万円、昭和54年2月期8,876百万円である
- [8]営業利益は昭和52年2月期575百万円、昭和53年2月期979百万円、昭和54年2月期2,092百万円と急激な伸びを示している
- [9]昭和54年2月期の増収は、加盟店の増加が211店舗あり、さらに既存加盟店の粗利益率の改善が進んだことで加盟店からの営業収入が3,799百万円増えたことによる
- 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(鈴木敏文)
- [10]セブン-イレブンのコーヒーは1杯100円で原価は40円、60円の粗利益がある。味さえきちんとしておけばよく、そのために売れなくても沸かして2時間たてば捨てる仕組みにしている。これで荒利益は60%になる
上場の翌週、鈴木敏文氏は証券アナリストを前に、年250店から300店の出店を目標に据えていると説明した。当時の店舗数は720店で、うち24時間営業は200店である。契約担当者30人が月に1店ずつ契約すれば届く計算だと述べており、開店作業はスーパーバイザー1人でまかなえる仕組みになっていた。直営であれば出店は自社の判断で決まるが、フランチャイズは相手の合意がなければ1店も増えない。だからこそ、店舗が増え続けている限りは大丈夫だという見方を鈴木氏は示している。鈴木氏は日本のコンビニエンス・ストアが3万5,000店まで成り立つと見ていた。食品店およそ70万軒の5%という見当である。出店は関東に集中していたが、蓄積した出店ノウハウをもとに東北、北海道、九州への進出を図る段階に入っていた。
- 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(鈴木敏文)
- [11]今後は年に250~300店舗ぐらいの出店を目標にしている
- [12]現在ちょうど720店舗で、そのうち24時間営業が200店に達している(昭和54年10月時点)
- [13]契約担当者が30人おり、各人が月に1店ずつ契約すれば年250店は可能である。開店についてもスーパーバイザーが1人で全部やれるシステムになっている
- [14]自営店なら問題点があろうと出店しようと思えば出せるが、フランチャイズの場合は相手の合意があって初めて出せる。したがってセブン-イレブンを見る場合、店舗が増え続けているかぎりは大丈夫と考えてほしい
- [15]コンビニエンス・ストアは日本に3万5,000店ぐらいは可能だと考えている。食品店が約70万軒あるので、その5%ぐらいはという根拠による
- 証券 1979年31巻10号
- [16]関東中心の店舗展開となっているが、これまでの蓄積された出店ノウハウを基礎に順次、東北、北海道、九州地方への進出を図っている
参考文献[1]-[16]
- 証券 1979年31巻10号
- [1]株式会社セブン-イレブン・ジャパンの上場年月日は昭和54年10月15日、銘柄コード8183、所属部は市場第二部である
- [2]公募3,800,000株(払込期日 昭和54年10月14日、受渡日 昭和54年10月15日)により資本金は1,000,000千円となった。幹事会員は野村証券(事務幹事)ほか5社
- [3]大株主は(株)イトーヨーカ堂62.54%、(株)ヨークマート4.30%、伊藤雅俊4.30%、中央建設エンジニアリング(株)3.09%、鈴木敏文1.85%、清水秀雄1.23%
- [4]「同社には比較可能な類似会社が存在しないが、参考として(株)イトーヨーカ堂の諸数値を記載した」と注記されている
- [6]昭和54年2月期の事業所は東京本部、札幌地区事務所ほか14地区事務所、加盟店570店、自営店21店。従業員数は372名である
- [7]最近3年間の営業総利益は、昭和52年2月期2,189百万円、昭和53年2月期4,848百万円、昭和54年2月期8,876百万円である
- [8]営業利益は昭和52年2月期575百万円、昭和53年2月期979百万円、昭和54年2月期2,092百万円と急激な伸びを示している
- [9]昭和54年2月期の増収は、加盟店の増加が211店舗あり、さらに既存加盟店の粗利益率の改善が進んだことで加盟店からの営業収入が3,799百万円増えたことによる
- [16]関東中心の店舗展開となっているが、これまでの蓄積された出店ノウハウを基礎に順次、東北、北海道、九州地方への進出を図っている
- 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社、1982年11月)
- [5]1980年3月1日 無償交付(割当率0.2、400万株)、1981年2月21日 公募140万株(1株3,480円)、1981年3月1日 無償交付(0.2、508万株)、1982年3月1日 無償交付(0.2、609万6千株)
- 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(鈴木敏文)
- [10]セブン-イレブンのコーヒーは1杯100円で原価は40円、60円の粗利益がある。味さえきちんとしておけばよく、そのために売れなくても沸かして2時間たてば捨てる仕組みにしている。これで荒利益は60%になる
- [11]今後は年に250~300店舗ぐらいの出店を目標にしている
- [12]現在ちょうど720店舗で、そのうち24時間営業が200店に達している(昭和54年10月時点)
- [13]契約担当者が30人おり、各人が月に1店ずつ契約すれば年250店は可能である。開店についてもスーパーバイザーが1人で全部やれるシステムになっている
- [14]自営店なら問題点があろうと出店しようと思えば出せるが、フランチャイズの場合は相手の合意があって初めて出せる。したがってセブン-イレブンを見る場合、店舗が増え続けているかぎりは大丈夫と考えてほしい
- [15]コンビニエンス・ストアは日本に3万5,000店ぐらいは可能だと考えている。食品店が約70万軒あるので、その5%ぐらいはという根拠による
1979年〜品切れ時刻をデータに載せた単品管理
扱う品目が少ないことが、かえって在庫の管理を厳しくした。1979年からは、弁当などの調理済み食品に製造時間を極力ラベルへ記入する運用が始まった。1982年にはPOSのデータへ「デイリー商品別売り切れ時刻一覧」を盛り込み、商品ごとに単品の管理を徹底させている。開業から5年間で商品台帳に登録された商品は8,000アイテムに上ったが、1979年時点で使われていたのは半分の4,000アイテムだった。残りは売れ行きの分析にかけて落とした商品で、スーパーマーケットには起こらない入れ替わりである。仕入れの段階ですべての商品の粗利益を押さえて在庫を一定に保つ考え方を取り、3か月に1度の棚卸と合わせて、どの商品がどれだけ売れているかを仕入れ時点で把握する仕組みを敷いていた。
- 日経ビジネス 1989年2月13日号
- [17]79年から極力製造時間をラベルに記入するようにしてきた
- [18]古い商品が顧客の手に渡らないよう、82年にPOSデータに「デイリー商品別売り切れ時刻一覧」を盛りこみ、単品管理も徹底させた
- 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(鈴木敏文)
- [19]昭和49年5月15日の1号店開店以来、商品台帳に登録された商品は全部で8,000アイテムに上るが、現在使われている台帳に登録されているのはその半分の4,000アイテムである
- [20]たった5年の間に4,000アイテムが消えた。スーパー・マーケットの場合まずこういうことはなく、コンビニエンス・ストアはそれだけ細かく商品を分析しなければならない
- [21]「商品の仕入れ即ち販売」という考え方で、それぞれの商品の動向を細かく分析し、仕入の段階ですべて荒利益をおさえている。在庫を一定にするという考え方であり、同時に3カ月に1回必ず棚卸をやる。これによってそれぞれの商品がどのくらい売れているかが仕入の段階できちっとわかる
1983年から、弁当と調理パンの製造・配送は1日3便への切り替えが進んだ。店への納品回数を増やす以外に、在庫の精度を高める手はなかったからである。取引先に課した条件は、生産ラインを18度に保つこと、仕分け場と保冷車を持つこと、そして3便に合わせて工場を24時間、休みなしで回すことだった。こうした要求を通せたのは店舗の密度があったからで、1984年時点の首都圏には1,000を超える店があった。同じ首都圏に200店余りしか持たないローソンは、有力問屋に週2回の配送を3回にしてほしいと頼んだが、店が少ないという理由で断られている。工場の稼働時間を決めるのが本部という関係であり、納入業者は取引先というより、本部の設計に組み込まれた工程だった。
- 日経ビジネス 1989年2月13日号
- [22]83年から徐々に1日3便体制の導入を進めてきた
- [23]ベンダーの選別にあたっては、18度に温度管理された生産ライン、仕分け場、保冷車を所有することを条件としてきた
- [24]1日3便体制に対応できるよう、24時間年中無休で工場を稼働させるようベンダーを指導してきた
- 日経ビジネス 1986年12月8日号
- [25]昭和59年、首都圏での店舗数が200余りだったローソンは、取引先の有力雑貨問屋・青木正雄商店に対し、同じ首都圏ですでに1000店舗をもっていたセブン並みに週2回配送から3回に増やすよう要望したが、店舗数が少ないことを理由に断られた
1986年からは、売れ残った調理済み食品を納入後20時間で全量廃棄させる運用に切り替えた。店頭の陳列も、18度の保冷ケースに置いたうえで常に新しいものを前面へ出す並べ方に改めている。首都圏では1980年ごろから調理済み食品の売上高が年に2割ずつ増えていた。品ぞろえの軸も、加工食品から日持ちしない商品へと移った。捨てることを織り込めたのは、粗利の厚い商品を組み合わせて店全体の粗利を押し上げる設計があったからである。客層も変わりつつあった。1984年から1988年までの顧客調査を見ると、独身の男女は2割強にすぎず、既婚者は35%と40%のあいだを上下していた。主婦が来る時間は午前9時から午後7時に集中しており、この店はもう時間に追われる人だけの場所ではなかった。
- 日経ビジネス 1989年2月13日号
- [26]86年からは、18度の保冷ケースに商品を置いているにもかかわらず、売れ残りは納入後20時間ですべて廃棄するようにさせた
- [27]86年から、製造時間表示をもとに店頭での商品陳列は常に新しいものを前面に出すこととした
- [28]80年ごろから首都圏では、調理済み食品は毎年2割の売り上げ増が続いた
- [30]最近5年間(1984〜1988年)のセブン-イレブン顧客調査によると、客層のうち独身男女は20%強、既婚者は35%から40%で推移している
- [31]主婦の利用は午前9時から午後7時までに集中していることから、専業主婦が大半を占めていると推測できる
- 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(鈴木敏文)
- [29]コンビニエンス・ストアの荒利益は個々の商品では必ずしも高くない。マーチャンダイジング・ミックス、つまり荒利益の大きい物を組み合わせて販売することで全体の荒利益を高めるのがコンビニエンス商法のやり方である
参考文献[17]-[31]
- 日経ビジネス 1989年2月13日号
- [17]79年から極力製造時間をラベルに記入するようにしてきた
- [18]古い商品が顧客の手に渡らないよう、82年にPOSデータに「デイリー商品別売り切れ時刻一覧」を盛りこみ、単品管理も徹底させた
- [22]83年から徐々に1日3便体制の導入を進めてきた
- [23]ベンダーの選別にあたっては、18度に温度管理された生産ライン、仕分け場、保冷車を所有することを条件としてきた
- [24]1日3便体制に対応できるよう、24時間年中無休で工場を稼働させるようベンダーを指導してきた
- [26]86年からは、18度の保冷ケースに商品を置いているにもかかわらず、売れ残りは納入後20時間ですべて廃棄するようにさせた
- [27]86年から、製造時間表示をもとに店頭での商品陳列は常に新しいものを前面に出すこととした
- [28]80年ごろから首都圏では、調理済み食品は毎年2割の売り上げ増が続いた
- [30]最近5年間(1984〜1988年)のセブン-イレブン顧客調査によると、客層のうち独身男女は20%強、既婚者は35%から40%で推移している
- [31]主婦の利用は午前9時から午後7時までに集中していることから、専業主婦が大半を占めていると推測できる
- 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(鈴木敏文)
- [19]昭和49年5月15日の1号店開店以来、商品台帳に登録された商品は全部で8,000アイテムに上るが、現在使われている台帳に登録されているのはその半分の4,000アイテムである
- [20]たった5年の間に4,000アイテムが消えた。スーパー・マーケットの場合まずこういうことはなく、コンビニエンス・ストアはそれだけ細かく商品を分析しなければならない
- [21]「商品の仕入れ即ち販売」という考え方で、それぞれの商品の動向を細かく分析し、仕入の段階ですべて荒利益をおさえている。在庫を一定にするという考え方であり、同時に3カ月に1回必ず棚卸をやる。これによってそれぞれの商品がどのくらい売れているかが仕入の段階できちっとわかる
- [29]コンビニエンス・ストアの荒利益は個々の商品では必ずしも高くない。マーチャンダイジング・ミックス、つまり荒利益の大きい物を組み合わせて販売することで全体の荒利益を高めるのがコンビニエンス商法のやり方である
- 日経ビジネス 1986年12月8日号
- [25]昭和59年、首都圏での店舗数が200余りだったローソンは、取引先の有力雑貨問屋・青木正雄商店に対し、同じ首都圏ですでに1000店舗をもっていたセブン並みに週2回配送から3回に増やすよう要望したが、店舗数が少ないことを理由に断られた
1984年〜大手食品メーカーに設立させた専用協力工場
需要の伸びは、供給の側から限界を突きつけた。それまで育ててきた納入業者20数社はいずれも中小企業であり、生産量を急に増やすには資金と人材の面で天井があった。そこで1984年以降、大手食品メーカーの経営資源を使う手に出ている。キユーピーが1984年9月に東京都青梅市でデイリーメイトを、ハウス食品工業が1985年8月に埼玉県上尾市でデリカシェフを、プリマハムが1986年10月に神奈川県厚木市でプライムデリカを設立し、いずれもセブン-イレブン専用の協力工場となった。工場を置く場所は本部が指定した。出店の速度も落とせなかった。セブン-イレブンが年300店で出していたのに対し、ダイエー系のローソンとサンチェーンは事業地域を分け合って合計年350店から400店へ引き上げ、追撃する方針を立てていた。
- 日経ビジネス 1989年2月13日号
- [32]これまでに育成してきた20数社のベンダーだけではとても対応できなくなってきた。彼等のほとんどが企業規模からいっても中小企業であり、拡大のテンポには資金・人材面でおのずと天井がある
- [33]84年以来、キューピー、ハウス食品工業、プリマハム、伊藤ハム、味の素、スギヨといった企業に関東地区で調理済み食品を製造するセブン-イレブン専用協力工場を設立させた。デイリーメイト(キューピー、84年9月、東京都青梅市)、デリカシェフ(ハウス食品工業、85年8月、埼玉県上尾市)、プライムデリカ(プリマハム、86年10月、神奈川県厚木市)
- [34]直ちに既存ベンダーへの脅威とならぬよう、新たに工場を設立する場所はセブン-イレブンが指定した。既存ベンダーでは十分にカバーしきれていなかった地区が中心である
- 日経ビジネス 1986年12月8日号
- [35]1986年10月、サンチェーンが北海道・東北・新潟・九州の計200店舗をローソンに譲渡し、サンチェーンは3大都市圏の都市型チェーン、ローソンはナショナルチェーンと位置づけた。今後の出店ペースは両社合わせて年350〜400店となり、セブンの同300店を凌ぐことになる
工場を増やしても、資産は本部に載らない。セブン-イレブン・ジャパンは製造・配送・販売の機能を自前では抱えず、外部の企業を結びつけて一つのシステムを組むことで付加価値を生んだ。そのため納入業者の選別が本部の生命線となり、要求に応じられないメーカーや問屋は取引から外された。新設の工場についても、既存の納入業者と扱うメニューを調整して棲み分けさせている。親会社のイトーヨーカ堂は投資収益率を採算の判断基準に据え、自前で投資する場合と外部の機能を使う場合を厳密に比べたうえで、その均衡点をできるだけ自社へ引き寄せる企業だった。誰に何を作らせ、どの地区を任せるかを決める権限が、設備を持たない本部に集まっていた。
- 日経ビジネス 1989年2月13日号
- [36]セブン-イレブンという企業は、自前では製造・配送・販売機能を全く抱えず、外部の企業を結びつけ、ひとつのシステムを作り上げることで付加価値を生んできた
- [37]ベンダーの選別は本部にとってまさに生命線であり、セブン-イレブンの要求に応じられないメーカー、問屋は容赦なくふるい落とされてきた
- [38]メニューについても既存のベンダーと調整して棲み分けるようにしている
- 日経ビジネス 1985年8月5日号
- [39]イトーヨーカ堂はROI(投資収益率)を採算概念として好んで使い、自らの手で投資をする場合と外部の機能を利用する場合の厳密なコスト比較をしたうえで、その均衡点をできるだけ自分に引きつけようとする企業である
投資の差は店当たりの売上高に出た。1986年10月末の店舗数は2,869店で前年比14%増、うちフランチャイズが80%、直営が20%である。同じ時点のローソンは1,585店で、POSの導入はまだ実験の段階にあった。1985年度の1店当たり売上高はセブン-イレブンが1億7,100万円、ローソンが1億700万円と開き、セブン-イレブンの経常利益は225億円に達した。加盟店から取る粗利益45%は他チェーンより高かったが、水道光熱費の80%を本部が持つ条件と合わせれば大差はないと、加盟店側は受け止めていた。鈴木敏文氏は1985年時点でイトーヨーカ堂の副社長を兼ね、親会社の業務改善委員会の最高責任者に就任している。子会社で組んだ仕組みが、親会社の売り場へ持ち込まれる段階に入っていた。
- 日経ビジネス 1986年12月8日号
- [40]1986年10月末のセブン-イレブンの店舗数は2,869店(前年同期比14%増)、19県に分布し、フランチャイズ80%・直営(運営委託を含む)20%である
- [41]1986年10月末のローソンの店舗数は1,585店(前年同期比43%増)。ローソンのPOS導入はまだ実験段階にとどまっている
- [42]昭和60年度の売上高を店舗数で割った1店当たり売上高は、セブンが1億7,100万円、ローソンが1億700万円。セブンの経常利益は昭和60年度で225億円である
- [43]ローソンはロイヤルティーをセブンの粗利45%に対し35%とし、最低保証も30万円上乗せしたが、加盟候補の酒店主は「セブンは確かにロイヤルティーが高いが、その分、光熱費の80%を負担するからね」と述べ、条件は大手同士で大差ないとの見方を示した
- 日経ビジネス 1985年8月5日号
- [44]イトーヨーカ堂には創業者オーナーの伊藤雅俊のほかにもう1人リーダーがおり、「業務改善委員会」の最高責任者、副社長の鈴木敏文である(1985年8月時点)
- [45]人と商品の管理技法の巧みさがヨーカ堂の強さであり、この仕組みを作り精緻化してきたのは鈴木敏文である。セブンイレブンを先導役に、そのシステム技術の応用導入という循環が既にはじまっている
参考文献[32]-[45]
- 日経ビジネス 1989年2月13日号
- [32]これまでに育成してきた20数社のベンダーだけではとても対応できなくなってきた。彼等のほとんどが企業規模からいっても中小企業であり、拡大のテンポには資金・人材面でおのずと天井がある
- [33]84年以来、キューピー、ハウス食品工業、プリマハム、伊藤ハム、味の素、スギヨといった企業に関東地区で調理済み食品を製造するセブン-イレブン専用協力工場を設立させた。デイリーメイト(キューピー、84年9月、東京都青梅市)、デリカシェフ(ハウス食品工業、85年8月、埼玉県上尾市)、プライムデリカ(プリマハム、86年10月、神奈川県厚木市)
- [34]直ちに既存ベンダーへの脅威とならぬよう、新たに工場を設立する場所はセブン-イレブンが指定した。既存ベンダーでは十分にカバーしきれていなかった地区が中心である
- [36]セブン-イレブンという企業は、自前では製造・配送・販売機能を全く抱えず、外部の企業を結びつけ、ひとつのシステムを作り上げることで付加価値を生んできた
- [37]ベンダーの選別は本部にとってまさに生命線であり、セブン-イレブンの要求に応じられないメーカー、問屋は容赦なくふるい落とされてきた
- [38]メニューについても既存のベンダーと調整して棲み分けるようにしている
- 日経ビジネス 1986年12月8日号
- [35]1986年10月、サンチェーンが北海道・東北・新潟・九州の計200店舗をローソンに譲渡し、サンチェーンは3大都市圏の都市型チェーン、ローソンはナショナルチェーンと位置づけた。今後の出店ペースは両社合わせて年350〜400店となり、セブンの同300店を凌ぐことになる
- [40]1986年10月末のセブン-イレブンの店舗数は2,869店(前年同期比14%増)、19県に分布し、フランチャイズ80%・直営(運営委託を含む)20%である
- [41]1986年10月末のローソンの店舗数は1,585店(前年同期比43%増)。ローソンのPOS導入はまだ実験段階にとどまっている
- [42]昭和60年度の売上高を店舗数で割った1店当たり売上高は、セブンが1億7,100万円、ローソンが1億700万円。セブンの経常利益は昭和60年度で225億円である
- [43]ローソンはロイヤルティーをセブンの粗利45%に対し35%とし、最低保証も30万円上乗せしたが、加盟候補の酒店主は「セブンは確かにロイヤルティーが高いが、その分、光熱費の80%を負担するからね」と述べ、条件は大手同士で大差ないとの見方を示した
- 日経ビジネス 1985年8月5日号
- [39]イトーヨーカ堂はROI(投資収益率)を採算概念として好んで使い、自らの手で投資をする場合と外部の機能を利用する場合の厳密なコスト比較をしたうえで、その均衡点をできるだけ自分に引きつけようとする企業である
- [44]イトーヨーカ堂には創業者オーナーの伊藤雅俊のほかにもう1人リーダーがおり、「業務改善委員会」の最高責任者、副社長の鈴木敏文である(1985年8月時点)
- [45]人と商品の管理技法の巧みさがヨーカ堂の強さであり、この仕組みを作り精緻化してきたのは鈴木敏文である。セブンイレブンを先導役に、そのシステム技術の応用導入という循環が既にはじまっている
1979年〜1987年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1979年02月期 | 単体 | 725 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1980年02月期 | 単体 | 1,098 | +51.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1981年02月期 | 単体 | 1,536 | +39.9% | n/a | n/a | n/a |
| 1982年02月期 | 単体 | 2,021 | +31.6% | n/a | n/a | n/a |
| 1983年02月期 | 単体 | 2,565 | +26.9% | n/a | n/a | n/a |
| 1984年02月期 | 単体 | 3,190 | +24.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1985年02月期 | 単体 | 3,867 | +21.2% | n/a | n/a | n/a |
| 1986年02月期 | 単体 | 4,536 | +17.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1987年02月期 | 単体 | 5,219 | +15.1% | n/a | n/a | n/a |
出所:公式サイト
出典・参考
6件
- 証券 1979年31巻10号
- 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(鈴木敏文)
- 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社、1982年11月)
- 日経ビジネス 1985年8月5日号
- 日経ビジネス 1986年12月8日号
- 日経ビジネス 1989年2月13日号