1956年 富士通信機製造株式会社 自動制御部門を創業
富士通信機の「3C構想」下で、稲葉清右衛門が1956年からNC装置の研究開発に着手、赤字10年を経て1965年に黒字転換。1972年5月に富士通から分社して資本金20億円の富士通ファナックを川崎で発足、1980年12月には山梨県忍野村へ本社・工場を全面移転した。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 富士通信機製造は1956年、技術担当常務の尾見半左右が掲げた「3C構想」(Communication / Computer / Control)の制御分野で、当時30歳代の機械系技術者・稲葉清右衛門を NC(数値制御装置)の研究開発責任者に指名した。米国で先行する NC 技術を国内で開拓する役割で、コンピュータが1台数百万〜数千万円という時代に市場自体が未成熟であったが、富士通の通信機事業による安定収益が長期の技術蓄積を許容する社内環境となった。
- 稲葉清右衛門は1959年に独自発明の「電気圧パルスモーター」で特許を取得し、工作機械の精密な位置制御を可能にする基盤技術を確立、参入から約10年の赤字期間(社内で「神代の時代」と呼ばれた)を経て1965年に初の黒字転換を果たした。1972年5月、富士通株式会社から NC 部門が分離する形で資本金20億円の富士通ファナック株式会社が川崎で発足し、稲葉が事業責任者として実質的な経営トップに就いた。
- 分社後は NC 装置・サーボモータ・産業用ロボットの三本柱で事業を急拡大、1973年に米ゲティス社とライセンス契約でDCサーボモータに参入、1974年に産業用ロボットを自社開発、1975年に独シーメンスと相互援助契約、1976年に東証2部上場、1980年12月に山梨県忍野村へ本社・工場を全面移転して汎用 NC 量産体制を築き、1982年7月にファナック株式会社へ商号変更、1983年9月に東証1部上場、1985年には NC 国内シェア70%・売上高経常利益率36.6%で全上場企業日本一の収益力に到達した。
富士通信機の3C構想の制御担当として発足、汎用 NC 装置への一点集中(稲葉清右衛門のいう「憲法」)で量産効果による原価低減と開発費抑制を両立、工作機械メーカーを顧客とする部品供給者の立ち位置を守り工作機械本体には参入せず競合回避を徹底し、1980年の山梨忍野への本社・工場全面移転で都市部から距離を置く独自の経営モデルを完成させた。
1956年からは富士通信機の社内事業として通信機事業の収益で約10年の赤字を吸収し技術蓄積を進め、1972年5月に資本金20億円で富士通ファナック株式会社として分社、1976年11月に東京証券取引所市場第二部、1983年9月に同第一部へ上場して公開企業の資金調達基盤を整え、親会社富士通は2000年時点でも約4割を保有する筆頭株主であり続けた。
1959年に稲葉清右衛門が「電気圧パルスモーター」を発明・特許取得し NC 装置の精密位置制御を実現、1973年米ゲティス社とのライセンス契約で DC サーボモータに参入、1974年に産業用ロボットを自社開発、汎用 NC 装置・サーボモータ・産業用ロボットの三本柱を1970年代後半までに確立し、最終製品の工作機械には参入せず部品供給者の立ち位置で寡占を築いた。
創業期から牧野フライス製作所をはじめとする国内工作機械メーカーが主要顧客となり、1971年時点で国内 NC シェア約85%、海外では米 GE 製品に対抗するため1975年6月に独シーメンスと相互援助契約を締結して欧州市場へ進出、1976年に独現地法人、1977年に米現地法人、1978年に韓国合弁を相次いで設立して工作機械メーカー向け汎用 NC 装置の世界供給体制を構築した。
1972年5月の分社時は富士通から移籍した NC 部門の技術者・営業を中核とする規模で発足、1976年の東証2部上場前後には数百名規模に拡大、1980年の忍野移転と1983年の東証1部上場を経て千名規模となり、稲葉清右衛門は「創立20年でファナックの売り上げは26倍、経常利益は41倍になりましたが、従業員数は2.9倍」(SMEライブラリー 2014/8)と効率重視の人員設計を語っている。
1972年の分社時は富士通本社地区の川崎に本社を置き、1977年10月に東京都日野地区へ商品開発研究所を新設、1980年12月に山梨県忍野村に本社地区を定めロボット・NC 工作機械製造工場を新設して全面移転、1982年9月に忍野本社地区にモータ工場、1984年9月に本館・CNC 工場・産機工場・次世代技術研究所を建設して研究所と量産工場が同一敷地に同居する忍野モデルを完成させた。
ファナック 創業地の主な拠点一都三県 の地理(富士通ファナック本社 → 忍野本社地区)
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1956年 なぜ富士通信機は1956年に NC 装置の研究開発へ参入したのか? | 技術担当常務の尾見半左右が、従来の通信機に加えコンピュータ(Computer)と制御(Control)の二分野へ進出する「3C構想」を掲げ、制御分野の開発責任者として当時30歳代の稲葉清右衛門を指名した。市場は未成熟だったが、富士通の通信機事業による安定収益が長期の技術蓄積を支える設計であった。 1950年代半ばの富士通信機製造(現富士通)は、有線・無線の通信機を本業とする電機メーカーで、技術担当常務の尾見半左右が将来の事業多角化として「3C構想」を掲げていた。Communication(通信機)に加え Computer(計算機)と Control(制御)の三本柱へ事業領域を広げる構想で、1956年、尾見は制御部門の開発責任者として稲葉清右衛門を指名している。 稲葉清右衛門は1925年茨城県結城郡生まれ、1946年に東京帝国大学第二工学部精密工学科を卒業し、富士通信機製造へ入社した機械系の技術者で、指名当時は30歳代の若手であった。配属先は工作機械の動きをコンピュータで数値制御する NC(Numeric Control)の基礎研究で、米国で先行する技術領域を国内で開拓する役割を担うこととなった。NC を必要とする工作機械市場自体が未成熟で、コンピュータ単価が数百万〜数千万円という時代に、富士通の通信機事業による安定収益が長期の技術開発を許容する社内環境となった。 |
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| 1956〜1965年 なぜ参入から10年の赤字期間が許されたのか? | 富士通の通信機事業による安定収益基盤があり、独立系ベンチャーであれば存続困難な期間に基盤技術の開発と特許取得へ専念できたためで、社内では「神代の時代」と呼ばれた長期の技術蓄積期間が、独立後に競合他社との差を決定づける競争優位の源泉となった。 NC 事業は1956年の参入から約10年にわたり恒常的な赤字が続いた。コンピュータ本体が1台数百万〜数千万円という単価で市場自体が未成熟であった当時、稲葉清右衛門は1959年に独自発明の「電気圧パルスモーター」で特許を取得し、工作機械の精密な位置制御を可能にする基盤技術を確立している。富士通の社内では NC が事業として採算に乗らないこの期間が、半ば比喩的に「神代の時代」と呼ばれていた。 牧野フライス製作所をはじめとする国内工作機械メーカーへの技術供給という事業モデルを稲葉が模索する一方、市場形成自体が遅れ、事業化の見通しは長く立たなかった。1965年にようやく初の黒字転換を果たし、参入9年目で技術と事業の双方が回り始めた。富士通という大企業の懐の深さがあったからこそ10年の赤字を甘受して技術蓄積に没頭できた経緯が、独立後に競合他社が短期に追随できない競争優位として作用していくこととなった。 |
| 1972年 なぜ1972年に富士通から分社したのか? | NC 事業が黒字化して独立採算で運営できる段階に到達したこと、工作機械メーカーを主要顧客とする事業モデルが本業の通信機事業と顧客層・営業文化が異なること、稲葉清右衛門を事業責任者として権限と裁量を持つ独立企業の形にする必要が重なったためで、1972年5月に資本金20億円で富士通ファナックが発足した。 1965年の黒字転換後、富士通の NC 事業は工作機械メーカー向け汎用品の供給で売上を伸ばし、富士通本体の通信機・コンピュータ事業とは顧客層・営業文化・量産設計の双方で性格が異なる事業として独立採算で運営できる段階に到達した。1972年5月、富士通株式会社から NC 部門が分離する形で資本金20億円の富士通ファナック株式会社が設立されている。本社は富士通本社地区の川崎に置かれた。 新会社の事業責任者には稲葉清右衛門が就き、後の1975年には富士通ファナック社長として代表者となった。富士通は分社後も株式の約4割を保有し続け、ファナックは富士通グループ内の独立事業会社として位置付けられたが、製品開発・量産投資・顧客との営業判断は分社された新会社の側で完結する体制が整った。社内事業から分離独立した瞬間に独自の経営判断が始まった経緯が、後年の汎用品集中戦略を打ち出す上での組織的な前提となった。 |
| 1980年 なぜ1980年に山梨県忍野村へ本社・工場を全面移転したのか? | 都市部での量産工場の用地拡張が困難となり、広大な土地取得コストの抑制と長期に定着する技術者の確保を両立できる立地として、富士山麓の忍野村が選定された。地理的隔離による独自技術の秘密保持と、現場と研究所の物理的一体化による開発速度の維持も狙いに含まれた。 1972年の分社後、ファナックは NC 装置・サーボモータ・産業用ロボットの三本柱で事業を急拡大させていったが、首都圏の工場用地では量産能力の拡張と研究開発拠点の一体化に物理的な制約が生じていた。1980年12月、本社地区を山梨県南都留郡忍野村に定め、ロボットおよび NC 工作機械の製造工場を新設して全面移転に踏み切っている。富士山北麓の標高約1,000mに位置する寒冷地で、当時としては常識外の立地戦略であった。 広大な土地を低コストで取得でき、都市部から距離を置くことで定着率の高い技術者の確保と独自技術の秘密保持を同時に実現する設計で、研究所と量産工場が同一敷地に同居する「自動化工場」のモデルが忍野で形作られた。1982年7月に富士通ファナック株式会社からファナック株式会社へ商号を変更し、1983年9月に東京証券取引所市場第一部へ上場、1984年10月には本店登記を東京都日野市から山梨県忍野村へ移して制度面でも忍野が本社となった。 |
| 1972〜1985年 なぜ汎用 NC 装置への一点集中という戦略が成立したのか? | 個別仕様の特注品ではなく汎用 NC 装置に経営資源を集中させることで量産効果による原価低減と開発費の抑制を両立させる事業設計で、稲葉清右衛門は「2つの要素技術にメカニクスをつなぎ合わせた商品に限定する」という社内基準を「憲法」と表現していた。 ファナックの突出した収益力を支えた戦略判断は、個別顧客の仕様に合わせた特注品ではなく汎用 NC 装置へ経営資源を一点集中させる選択にあった。稲葉清右衛門は1985年の日経ビジネス取材に対し、新規分野進出にあたっては「エレクトロニクスそのものである NC と、NC の指令によって工作機械を実際に動かす特殊制御モーター(サーボモーター)」「この2つの要素技術にメカニクスをつなぎ合わせた商品に限定するというのが稲葉のいう"憲法"である」(日経ビジネス 1985/10/28)と語っている。 競合の安川電機が手間のかかる特注品を中心に NC ソフト開発要員約20人を抱える一方、ファナックは汎用品集中で要員約100人前後(ロボット部門含む)に NC ソフト開発を絞り込み、ソフトの量産効果を最大化する組織設計を取っていた。1985年には NC 装置の国内シェア70%、売上高経常利益率36.6%で全上場企業中の最高水準に達し、汎用品集中+忍野立地という独自の事業構造が「限定的独占」による高収益体質として確立された。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
1956年、富士通信機の技術担当常務として稲葉清右衛門を NC 研究開発の責任者に指名した際の発言
「稲葉君、これからは"3C"の時代が必ず来る。君にはコントロール(制御)の開発をやってもらう」
1956年に富士通の3C構想で制御分野の開発責任者に指名された経緯の回想
「1956(昭和31)年でしたか、技術担当常務だった尾見さんが「稲葉君、これからは'3C'の時代が必ず来る。君にはコントロール(制御)の開発をしてもらう」とおっしゃったのです。富士通信機が従来から手がけている通信機(Communication)分野だけでなく、新しくComputerとControl 分野に進出することを初めて知らされたわけです。当時の富士通の経営陣は、その頃からすでに"3C"時代の到来を見通していたんですね。」
1971年時点で国内 NC シェア85%を確保したが海外では米 GE 製品に対抗する必要があり、独シーメンスの販売網を通じ欧州市場に進出する戦略を伝える紙面
「85%を占めているが海外ではアメリカのGE社製品が強力のため、GE製品に対抗するうえからシーメンス社の販売網を通じ、ヨーロッパ市場に売り込む」
1985年の日経ビジネス特集で、汎用 NC・サーボ・メカニクスへの商品領域限定を稲葉清右衛門が社内基準として「憲法」と呼んだことを伝える紙面
「ファナックはエレクトロニクスそのものであるNCと、NCの指令によって工作機械を実際に動かす特殊制御モーター(サーボモーター)に、本来の強さがある。新規分野進出にあたっては、この2つの要素技術にメカニクスをつなぎ合わせた商品に限定するというのが稲葉のいう"憲法"である」
1985年時点で NC 国内シェア70%超のファナックが、汎用品集中によりソフト開発要員約100人で運営する効率的な組織設計を伝える紙面
「ライバル安川電機製作所のNCソスト開発要員は約20人。手間のかかる特注品を主に手がけるものの、シェア(市場占有率)9%のメーカーでこれだけ抱えているのに、70%以上を握るファナックの要員は、ロボット部門を含め100人前後にすぎない」
1992年(創立20年時点)の売上・経常利益・従業員数の比較で、効率重視の人員設計を一貫した経営方針として語った回想
「創立20年でファナックの売り上げは26倍、経常利益は41倍になりましたが、従業員数は2.9倍です。仕事が増えたから人を増やすという安易な考えでなく、どこまで効率的に消化できるかを徹底的に追及するというのが、私の一貫した考え方です」
参考文献
- 有価証券報告書 沿革
- SME ライブラリー 日本の工作機械を築いた人々・稲葉清右衛門 2014/8
- SME 同 2014/8
- 読売新聞 1971/3/27「シーメンスへ独占販売権」
- 日経ビジネス 1985/10/28「強さの研究・ファナック」
- SME 日本の工作機械を築いた人々・稲葉清右衛門 2014/8