石黒慶三郎
経歴1895〜1930年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1895年主要役職の状況(推定含む目安)1930年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 石杉社(合資会社) | 1895 | 創業 | ||
| 共立電機電線 | 1908 | — | |||
| 共立電機 | 1923 | — | |||
| 1930 | 退任 |
創業ストーリー
創業ストーリー
石黒慶三郎氏は1867年8月、京都府加佐郡舞鶴町の大石清五郎氏の三男として生まれ、大阪で電気技術を身につけたのちに上京した。三吉工場を経て逓信省電信灯台用品製造所に入り、官の電信設備を支える現場に身を置いた。当時の日本の電信は輸入品で始まり、1890年に東京・横浜で電話交換が開業し、日清戦争とマルコーニの無線電信の成功を機に通信機器の国産への関心が高まっていた。
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章第2節 注1
- [1]石黒慶三郎は京都府加佐郡舞鶴町の大石清五郎の三男で、慶応3年8月に生まれ、大阪で電気技術を修得して上京し、三吉工場を経て逓信省電信灯台用品製造所に入所した
- [2]石黒慶三郎は京都府加佐郡舞鶴町の大石清五郎の三男で、慶応3年8月に生まれ、大阪で電気技術を修得して上京し、三吉工場を経て逓信省電信灯台用品製造所に入所した
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章第1節 わが国通信産業のはじまり
- [3]わが国の電信は当初すべて外国の輸入品で行われた。明治23年12月に東京、横浜および両市間の電話交換業務が開始された。明治27、28年の日清戦役と28年のマルコーニの無線電信の成功を契機として、電気通信産業に対する官民の関心は高まった
1895年、同じ製造所に勤める杉山鎌太郎氏と資金を出し合って石杉社を興し、逓信省のあった京橋区木挽町に工場を置いた。のちに杉山鎌太郎氏が抜けたため資本金3万円の合資会社に組み直し、電気機械の受託製造、内外の機械と材料の販売、工事の請負を事業の目的に登記した。当時の主な品目は電信機と電鍵・継電器などの附属品、加減抵抗器、絹巻線やエナメル線で、1897年にはモールス印字機も製造販売していた。
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章第2節 石杉社時代
- [4]石杉社は明治28年、当時逓信省電信灯台用品製造所に勤めていた石黒慶三郎と同僚杉山鎌太郎との合資で創設され、はじめは工場を京橋区木挽町に置いた。その後杉山が分離したので、改めて資本金3万円の合資会社を組織した。登記簿抄本には会社の目的として、他人のために電気その他諸種の機械の製造、内外国において製造した機械および材料の販売と工事の請負が記載されていた
- [6]石杉社は明治28年、当時逓信省電信灯台用品製造所に勤めていた石黒慶三郎と同僚杉山鎌太郎との合資で創設され、はじめは工場を京橋区木挽町に置いた。その後杉山が分離したので、改めて資本金3万円の合資会社を組織した。登記簿抄本には会社の目的として、他人のために電気その他諸種の機械の製造、内外国において製造した機械および材料の販売と工事の請負が記載されていた
- [7]当時の主要製品は、電信機、同付属品(電鍵、音響機、検電器、継電器等)、加減抵抗器、加減蓄電器、絹巻線、エナメル線などであった
- Anritsu「Tracing 120 Years of Anritsu History」(2013年)
- [5]1885年に発足した逓信省は京橋区木挽町に置かれた。1895年、逓信省の灯台用品製造所に勤めていた石黒慶三郎らが石杉社を創業し、工場を木挽町9-17に置いた。石杉社はのちに木挽町から京橋区采女町へ移った
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)年表
- [8]明治30年(1897)、石杉社は電信機(モールス印字機)、同附属品および絹巻線、エナメル線などの製造販売を営む
石黒慶三郎氏は電信機の修理と取付けに打ち込み、無線用のインダクションコイルを研究していた安中電機製作所の安中常次郎氏とは、事業でも個人でも深く結びついていた。創業の翌年に逓信省は第1次の電話拡張計画を始め、電話加入数は1890年の344から1900年の18,668へ増加した。石杉社は采女町へ移り、移転の時期に、火災で代わりの工場を探していた阿部電線製造所との合併話がまとまった。1908年3月25日、両社の合併で資本金25万円の共立電機電線が麻布区富士見町に発足し、自らは専務取締役に就任した。
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章第2節
- [9]インダクションコイルの研究・製作に没頭していた安中電機製作所の安中常次郎と、電信機の修理および取付に一身を投じていた石杉社の石黒慶三郎との間には、事業的にもつながりがあり、個人的にも一心同体の観があったといわれる
- Anritsu「Tracing 120 Years of Anritsu History」(2013年)
- [10]石杉社の設立の翌年、逓信省は最初の電話拡張計画を始めた。電話加入数は1890年の344から10年後の1900年には18,668へ増えた
- [11]1885年に発足した逓信省は京橋区木挽町に置かれた。1895年、逓信省の灯台用品製造所に勤めていた石黒慶三郎らが石杉社を創業し、工場を木挽町9-17に置いた。石杉社はのちに木挽町から京橋区采女町へ移った
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章第2節 石杉社時代
- [12]大口出資者の1人である阿部政之の経営する阿部電線製造所が火災に遭い代替工場を物色中に、たまたま京橋に移転中の石杉社との間に合併の話が持ち上がった
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章第2節 共立電機電線時代
- [13]石杉社と阿部電線は合併して明治41年3月25日、麻布区富士見町39番地に共立電機電線株式会社(資本金25万円)を設立した。発足当時の役員は専務取締役石黒慶三郎、常務取締役阿部政之ほか
共立電機電線は磁石式電話機や交換機、自働電話と呼ばれた初期の公衆電話機を量産し、1911年に逓信省・陸軍省・海軍省の指定工場となった。1913年には資本金を50万円へ倍増して電気計器の工場を加え、従業員は設立時の50人から1918年には250人に増加した。1912年には、病に倒れた安中常次郎氏から後事を託され、自社の相談役だった青山祿郎氏を招いた。安中電機は翌1913年、青山祿郎氏と安中常次郎氏、吉村鉄之助氏に自らを加えた4人の共営による資本金5万円の合資会社へ改まった。
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章第2節 共立電機電線時代
- [14]共立電機電線は磁石式電話機・交換機・デルビル電話機・ブレーキ電話機および自働電話と称した初期の公衆電話機などを大量に製造し、明治44年逓信省・陸軍省・海軍省などの指定工場になった。大正2年に倍額増資(50万円)して電気計器工場を増設した。従業員は設立当時50人であったが、最盛期の大正7年には250人となった
- [15]共立電機電線は磁石式電話機・交換機・デルビル電話機・ブレーキ電話機および自働電話と称した初期の公衆電話機などを大量に製造し、明治44年逓信省・陸軍省・海軍省などの指定工場になった。大正2年に倍額増資(50万円)して電気計器工場を増設した。従業員は設立当時50人であったが、最盛期の大正7年には250人となった
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章第2節 安中電機製作所
- [16]明治45年6月、安中常次郎は病魔に冒され、再起のおぼつかないことを悟って共立電機電線の専務で友人の石黒慶三郎に善後処置を相談した。石黒は自社の相談役である青山祿郎に出馬を懇請して安中に紹介し、青山を中心に安中、石黒、吉村鉄之助の4名で共営することになり、大正2年資本金5万円の合資会社に改組した
- [17]明治45年6月、安中常次郎は病魔に冒され、再起のおぼつかないことを悟って共立電機電線の専務で友人の石黒慶三郎に善後処置を相談した。石黒は自社の相談役である青山祿郎に出馬を懇請して安中に紹介し、青山を中心に安中、石黒、吉村鉄之助の4名で共営することになり、大正2年資本金5万円の合資会社に改組した
一方で共立電機電線の収支は悪化し、1918年には資本金50万円に対して借入金が500万円に達した。借入金の振替のための増資で資本総額が240万円まで増加すると、反発した役員が債権者と共同で石黒慶三郎氏を背任で訴え、破産も申し立てたため、1919年4月からは一時東海電機製作所の名で営業した。1923年5月に工場財団は競売にかけられ、落札した京和銀行の現物出資で資本金120万円の共立電機が設立され、自らは常務取締役として残った。
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章第2節 共立電機電線時代
- [18]共立電機電線は経営的には収支勘定の悪化が漸次表面化し、大正7年にはすでに50万円の資本金に対し500万円の借金があった。借入金に対する充当と債権振替の意味でしばしば不健全な増資が行われ、資本総額も240万円に膨れあがった
- [19]共立電機電線は経営的には収支勘定の悪化が漸次表面化し、大正7年にはすでに50万円の資本金に対し500万円の借金があった。借入金に対する充当と債権振替の意味でしばしば不健全な増資が行われ、資本総額も240万円に膨れあがった
- [20]石黒専務の処置に不満を抱いた二、三の役員は債権者の一部と共同して、石黒専務に対し背任と、会社に対する破産の申請を提訴した。この結果、大正8年4月、同社はやむなく東海電機製作所の名において一時営業を継続することになった(同年12月破産取消となり旧称に復す)
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章第2節 共立電機時代・注1
- [21]大正12年5月工場財団の競売に付せられ、その競落者京和銀行の現物出資によって、新たに資本金120万円の共立電機株式会社を設立した。石黒慶三郎は大正12年共立電機設立とともに常務取締役に就任した
共立電機はその後も震災と2度の失火で損失を重ね、1928年の減資と増資で日本国産の傍系の富士見商会が新株を引き受け、青山祿郎氏が社長に就任した。安中電機製作所との合併を前提に整理が進むなか、1930年12月に取締役を退き、翌1931年3月に両社の合併で安立電気が発足した。1948年3月15日に82歳で死去した。
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章第2節 共立電機時代
- [22]共立電機は大正12年9月の関東大震災で19万円余の損失を受け、翌13年5月には失火で工場が全焼し、昭和2年5月にも再び失火で工場の一部と事務所が全焼した。昭和3年2月に資本金120万円を50万円に減資し、同年6月に100万円に増資したが、この増資の50万円は日本国産株式会社の傍系会社富士見商会が肩替わりし、社長に青山祿郎が就任した
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章第2節・年表
- [23]共立電機はその後も業績が遅々として進展せず、安中電機製作所との合併を前提として整理が進められた。昭和5年12月、石黒慶三郎は共立電機取締役を辞任した
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)年表
- [24]1931年3月、株式会社安中電機製作所と共立電機株式会社の合併により、資本金50万円で安立電気株式会社が設立された
- [25]昭和23年(1948)3月15日、石黒慶三郎は82歳にて逝去した
参考文献2件
参考文献
- 安立電気五十年史(1982年・安立電気 刊)第1編第1章 前史
- Anritsu「Tracing 120 Years of Anritsu History」(2013年)
事実根拠:出所(アンリツ)