第2章 年〜年

マキタ:マキタUSA設立と流通支配による高収益化

変形直販によるブラック・アンド・デッカーの締め出し

1970年〜代金回収を特約店へ預けた変形直販の販売網

電動工具には修理などのアフターケアが欠かせないため、マキタ電機製作所は販売と修理を自ら小売店相手に担い、代金の回収だけを特約店・代理店に任せた。卸売でも直販でもない、その中間に位置する経路であり、代理店・特約店を介せば低いコストで大量に流せる反面、使い手と向き合う小売店との関係は薄れ、直販なら関係は深まるものの回収の手間と費用を抱えることになる。手数料しか入らない特約店の利幅は小さいが、扱う品はマキタ製品に限られないため、商売としては成り立っていた。全国の営業所と出張所は、製品を小売店へ卸しアフターサービスを行う販売の最前線に置かれていた。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [1]電動工具はその性格上アフタケアが不可欠であるため、マキタは直販方式をとって商品の販売を直接小売店に行うとともに修理もし、代金の回収は特約店・代理店が行う
    • [2]メーカーの販売方法には代理店・特約店を通す方法と小売店へ直接売る直販方式があり、マキタが採用したのはその折衷案である
    • [3]代理店・特約店通しは安い経費で大量の商品を流せるがユーザーに最も近い小売店との結び付きが弱く、直販方式はユーザーとの結び付きが強くなるが代金回収など経費がかかる
    • [4]特約店・代理店は代金回収だけで手数料しか入らずうまみは少ないが、マキタの商品だけを売っているわけではないから十分採算に合う
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [5]マキタ電機の営業所や出張所は、製品を小売店に卸したりアフターサービスを行う販売の最前線である

1974年、電動工具業界のIBMという異名を持つ米ブラック・アンド・デッカーが日本へ上陸し、豊富な資金力にものを言わせて大攻勢をかけた。海外売上比率42%、海外部門利益47%というこの世界最大のメーカーの姿は、輸出を広げ始めていたマキタ自身が手本と見ていたものでもある。あのマキタも今度ばかりは、と業界では言われたが流通は切り崩せず、ブラック・アンド・デッカーは販売先を日曜大工用の個人向けへ振り向けざるを得なくなった。大手メーカーで電動工具分野に参入して定着できたのは日立製作所系の日立工機だけで、1978年時点のマキタのシェアは5割弱と圧倒的だった。外資が持ち込めたのは資金と製品であって、大工の仕事の段取りに食い込んだ修理と供給の網ではなかった。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [6]1974年、電動工具業界のIBMの異名を持つブラック・アンド・デッカー社(米国)が日本に上陸し、豊富な資金力にモノをいわせて大攻勢をかけた
    • [8]「あのマキタも今度ばかりは」といわれたがB&D社はついにマキタを切り崩せず、「日曜大工用」へと販売先を個人向けに方向転換せざるをえなかった
    • [9]大手メーカーの電動工具分野への進出も日立製作所系の日立工機を除いてこのルートに入り込めず、この分野でのマキタのシェアは5割弱と圧倒的である
  • 日経ビジネス 1973年10月29日号
    • [7]マキタ電機は、世界最大のメーカーであるブラック・アンド・デッカー社の海外売り上げ比率42%・海外部門利益47%を手本とし、将来は海外部門から相当の利益を期待している

電動工具は使う人が限られて売上の伸びが早く頭打ちになるため、それを破るには新製品を出し続けるほかなく、1958年の電気カンナ一つから始まった品目は1978年に250種類を超えた。景気の悪いときほど攻めに出る姿勢は開発にも貫かれ、落ち込みの深かった1962年には16種類をまとめて世に出しており、景気が冷えるほど開発に熱が入るのが同社の持ち味とされた。価格は先に決めた。大工の所得水準と購入予想価格を見積もって売値を置き、その値で十分に採算が取れる原価をはじき出してから生産に入る。初めから赤字覚悟で値段を決め、あとは量産で原価を下げるという順序は採っていない。この繰り返しが、電気カンナ・電気ノコギリ・電気ノミなど電動工具で42〜43%というシェアを積み上げた。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [10]電動工具はユーザーが限られているため売り上げの伸びが鈍化するのも早く、これを打開するには新製品の開発が不可欠である
    • [11]33年(1958年)に電気カンナ一つで始まった製品も現在では250種類を超える
    • [12]37年(1962年)の不況時には一気に16種類の製品を開発し、不況時であればあるほど開発意欲が高まるのが同社の特徴である
    • [13]日本の大工の所得水準と購入予想価格を見積もって売価を決め、その価格で十分採算がとれるようなコストをはじき出して生産を開始した
    • [14]初めから赤字覚悟で値段を決め、後は大量生産方式によってコストを下げていくといった方式はとっていない
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [15]電気カンナ、電気ノコギリ、電気ノミなど電動工具の42〜43%のシェアを占めるトップ企業の地位を固めた
参考文献[1]-[15]
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [1]電動工具はその性格上アフタケアが不可欠であるため、マキタは直販方式をとって商品の販売を直接小売店に行うとともに修理もし、代金の回収は特約店・代理店が行う
    • [2]メーカーの販売方法には代理店・特約店を通す方法と小売店へ直接売る直販方式があり、マキタが採用したのはその折衷案である
    • [3]代理店・特約店通しは安い経費で大量の商品を流せるがユーザーに最も近い小売店との結び付きが弱く、直販方式はユーザーとの結び付きが強くなるが代金回収など経費がかかる
    • [4]特約店・代理店は代金回収だけで手数料しか入らずうまみは少ないが、マキタの商品だけを売っているわけではないから十分採算に合う
    • [6]1974年、電動工具業界のIBMの異名を持つブラック・アンド・デッカー社(米国)が日本に上陸し、豊富な資金力にモノをいわせて大攻勢をかけた
    • [8]「あのマキタも今度ばかりは」といわれたがB&D社はついにマキタを切り崩せず、「日曜大工用」へと販売先を個人向けに方向転換せざるをえなかった
    • [9]大手メーカーの電動工具分野への進出も日立製作所系の日立工機を除いてこのルートに入り込めず、この分野でのマキタのシェアは5割弱と圧倒的である
    • [10]電動工具はユーザーが限られているため売り上げの伸びが鈍化するのも早く、これを打開するには新製品の開発が不可欠である
    • [11]33年(1958年)に電気カンナ一つで始まった製品も現在では250種類を超える
    • [12]37年(1962年)の不況時には一気に16種類の製品を開発し、不況時であればあるほど開発意欲が高まるのが同社の特徴である
    • [13]日本の大工の所得水準と購入予想価格を見積もって売価を決め、その価格で十分採算がとれるようなコストをはじき出して生産を開始した
    • [14]初めから赤字覚悟で値段を決め、後は大量生産方式によってコストを下げていくといった方式はとっていない
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [5]マキタ電機の営業所や出張所は、製品を小売店に卸したりアフターサービスを行う販売の最前線である
    • [15]電気カンナ、電気ノコギリ、電気ノミなど電動工具の42〜43%のシェアを占めるトップ企業の地位を固めた
  • 日経ビジネス 1973年10月29日号
    • [7]マキタ電機は、世界最大のメーカーであるブラック・アンド・デッカー社の海外売り上げ比率42%・海外部門利益47%を手本とし、将来は海外部門から相当の利益を期待している

1973年〜社内留保と預託証券で賄った無借金の投資

借金の返済が動き出したのは、1955年に後藤十次郎氏が社長に就いてからである。手段として定めたのは、売上高の5%を毎回欠かさず預け入れることだった。借りた金を預金に回す場面すらあって社内には無意味だとの不満が出たが、後藤氏は、狙いは借入の解消よりも貯める習慣を社内に根づかせる点にあるとして取り合わなかった。電気カンナの売れ行きが急拡大した追い風もあり、1963年以降の貸借対照表から借入金の欄は消えた。1973年2月期には借入金ゼロのまま預金が資本金の4倍超の50億円に積み上がり、自己資本比率は78.3%に達した。設備投資には借金してまでは行わないという大前提が置かれ、1977年度の75億円は前年度の2倍を超えたが、すべて自己資金の内側に収めている。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [16]30年(1955年)の後藤十次郎社長登場とともに借金返済が始まり、その方法は「売り上げの5%を必ず預金しろ」というものだった
    • [17]ときには借金して預金することもあり社内から「実質的に無意味」という声が上がったが、後藤社長は「借金をなくすことが目標ではなく、預金するというクセをつけることが大事」としてはねつけた
    • [18]電気カンナの爆発的な売り上げ増もあって、38年(1963年)以来同社のバランスシートからは「借入金」という項目が消えたままである
    • [20]「借金してまでも設備投資はしない」という大前提があり、52年度(1977年度)は75億円と前年度の2倍強の設備投資を実施したがいずれも自己資金内である
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [19]48年2月期(1973年2月期)の預金は資本金の4倍以上の50億円、借入金ゼロ、自己資本比率78.3%、使用総資本純利益率18.5%、社内留保率91.2%

海外進出が相次いで投資資金が急増した1975年から1977年にかけては、大陸預託証券CDRと米国預託証券ADRの発行によって資金を調達した。海外での資金調達の足場として、1973年6月にアムステルダム証券取引所へ上場し、続いて1977年2月からはナスダックでも株式の取引を始めた。1977年秋に円が急騰すると、海外で借り入れて為替の変動を相殺する案が重役会にかけられたが、採用には至らなかった。円高の打撃はコスト削減と新製品開発で吸収できるという見通しがあったうえ、後藤修宏社長は、ヘッジで損失を減らせる見込みがあっても、無借金で通ってきた信用に傷をつけることを嫌った。差損を抑える手立てよりも、借金のない会社という評判そのものが資産として重んじられていた。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [21]海外進出が相次ぎ投資資金が急増した50〜52年(1975〜1977年)には、CDR(大陸預託証券)、ADR(米国預託証券)の発行によって資金を調達している
    • [23]円高になったら海外で借金すれば為替ヘッジができると勧められ、重役会でも検討したがやめた
    • [24]円高はたしかに痛いが、コストダウン、新製品の開発で切り抜けられる、と後藤修宏社長が語った
    • [25]為替ヘッジで損害は少なくなるかもしれないが「無借金のマキタ」の信用は崩したくなかったから採らなかった、と後藤修宏社長が語った
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1973年6月にアムステルダム証券取引所へ上場、1977年2月に米国預託証券ADRの発行に伴いナスダックで取引を開始

収益の高さは、株式市場での評価とは別だった。1972年度の経営実績を日本経済新聞社の日経財務データで見ると、使用総資本純利益率は東証上場会社で1位、1株当たり純利益はソニーに次ぐ2位、自己資本比率と1株当たり純資産はともに3位に入っていた。ところが1973年2月期の配当は年10円の2割配当で配当性向は7.8%しかなく、内部に蓄えるだけで株主へ回す分が乏しいとして市場の評価は低く、配当性向は上場会社でも最も低い水準だろうと書かれた。大幅な増配に動きにくかったのは、2位以下を大きく引き離す株を握る筆頭株主が、再建を担った後藤十次郎会長その人だったことによる。なお1973年5月の第五次資本自由化を受け、マキタ電機はソニー、オリエント・リースと並んで外国人の取得枠を広げた。

  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [26]日本経済新聞社の「日経財務データ」によるランキングで、47年度(1972年度)の経営実績は使用総資本純利益率が東証上場会社中1位、1株当たり純利益がソニーに次いで2位、自己資本比率と1株当たり純資産がいずれも3位
    • [27]48年2月期(1973年2月期)の配当性向はわずかに7.8%(年10円=2割配当)で、配当余力は東証上場会社中1位
  • 日経ビジネス 1973年10月29日号
    • [28]同社はため込むばかりで株主への利益配分が少ないと株式市場では評判がよくなく、配当性向は6%台と多分上場会社最低である
    • [29]再建者で実質的創業者の後藤十次郎会長が筆頭株主で2位以下を大きく引きはなしており、会長としては大幅増配に踏み切りにくい
  • 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986年)「外国株式の上場」
    • [30]48年(1973年)5月の第五次資本自由化の実施後、マキタ電機、ソニー、オリエント・リースなどが外人取得枠を拡大させた
参考文献[16]-[30]
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [16]30年(1955年)の後藤十次郎社長登場とともに借金返済が始まり、その方法は「売り上げの5%を必ず預金しろ」というものだった
    • [17]ときには借金して預金することもあり社内から「実質的に無意味」という声が上がったが、後藤社長は「借金をなくすことが目標ではなく、預金するというクセをつけることが大事」としてはねつけた
    • [18]電気カンナの爆発的な売り上げ増もあって、38年(1963年)以来同社のバランスシートからは「借入金」という項目が消えたままである
    • [20]「借金してまでも設備投資はしない」という大前提があり、52年度(1977年度)は75億円と前年度の2倍強の設備投資を実施したがいずれも自己資金内である
    • [21]海外進出が相次ぎ投資資金が急増した50〜52年(1975〜1977年)には、CDR(大陸預託証券)、ADR(米国預託証券)の発行によって資金を調達している
    • [23]円高になったら海外で借金すれば為替ヘッジができると勧められ、重役会でも検討したがやめた
    • [24]円高はたしかに痛いが、コストダウン、新製品の開発で切り抜けられる、と後藤修宏社長が語った
    • [25]為替ヘッジで損害は少なくなるかもしれないが「無借金のマキタ」の信用は崩したくなかったから採らなかった、と後藤修宏社長が語った
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [19]48年2月期(1973年2月期)の預金は資本金の4倍以上の50億円、借入金ゼロ、自己資本比率78.3%、使用総資本純利益率18.5%、社内留保率91.2%
    • [26]日本経済新聞社の「日経財務データ」によるランキングで、47年度(1972年度)の経営実績は使用総資本純利益率が東証上場会社中1位、1株当たり純利益がソニーに次いで2位、自己資本比率と1株当たり純資産がいずれも3位
    • [27]48年2月期(1973年2月期)の配当性向はわずかに7.8%(年10円=2割配当)で、配当余力は東証上場会社中1位
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1973年6月にアムステルダム証券取引所へ上場、1977年2月に米国預託証券ADRの発行に伴いナスダックで取引を開始
  • 日経ビジネス 1973年10月29日号
    • [28]同社はため込むばかりで株主への利益配分が少ないと株式市場では評判がよくなく、配当性向は6%台と多分上場会社最低である
    • [29]再建者で実質的創業者の後藤十次郎会長が筆頭株主で2位以下を大きく引きはなしており、会長としては大幅増配に踏み切りにくい
  • 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986年)「外国株式の上場」
    • [30]48年(1973年)5月の第五次資本自由化の実施後、マキタ電機、ソニー、オリエント・リースなどが外人取得枠を拡大させた

1976年〜役員5人の組織から欧州・台湾の生産拠点へ

利益率の高さは、組織の薄さと表裏をなしていた。副社長・専務・常務を置かず、社長を含む役員5人のうち後藤社長以外の全員が平の取締役として1人で複数の部門を受け持ったのは、肩書は仕事に不要という考えによる。約2,500人の従業員のうち98%が製造と販売の現場に立ち、管理部門に就くのは37人だけだった。保養所も設けず、休みの使い方は各人に任せればよく、賃金を払っている以上そこまで会社が口を出す必要はないというのが後藤十次郎氏の説明だった。日本開発銀行による1976年度の企業評価システムでは、収益力と健全性がともに100点、自己資本比率は84.4%で、総合評点77点は上場827社のうち3位だった。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [31]同社には社長も含めて役員は5人で、後藤社長を除くといずれもただの取締役。副社長も専務も常務もなく、1人で数部門を担当している
    • [32]役員に肩書きを置かない理由は「仕事に肩書はいらない」という考えによる
    • [33]管理部門は約2,500人の従業員のうちわずか37人で、全体の98%は「ものを作って売る」部門に向けられている
    • [35]51年度(1976年度)の日本開発銀行の企業評価システムによる総合評点は77点で827社中第3位、収益力(使用総資本事業利益率20.8%)と健全性(自己資本比率84.4%)はいずれも100点
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [34]超優良会社ながらマキタ電機には保養施設がなく、「遊びたければ勝手に遊べばいい。会社は給与を払っているのだから遊ぶめんどうまでみきれない」というのが後藤十次郎氏の説明である

後藤十次郎氏は三重県桑名市の出身で1897年10月に生まれ、1915年3月に創業者の牧田茂三郎氏の誘いを受けて職工となった。1941年から14年間は独立してモーターの販売・修理を手がけ、1955年4月に呼び戻されて社長に就き、1973年4月には会長へ退いて後藤修宏社長に経営を委ねた。日本電機工業会理事などの役職を頼まれても、自分の仕事で手いっぱいだとして会合にはまず顔を出さず、財界での活動や経営者仲間との交際をひどく嫌った。後藤修宏社長の海外進出は3年かけて準備し見通しを得てから実行に移したもので、国内販売網の強化も、大工の仕事の実情を押さえ、どこを攻めるべきかを調べ尽くしたうえで進めた。

  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [36]後藤十次郎氏は明治30年(1897年)10月15日に三重県桑名市に生まれ、大正4年(1915年)3月にマキタ電機の創業者牧田茂三郎氏に誘われ「職工」として入社した
    • [37]昭和16年(1941年)から30年(1955年)まで、いったん独立してモートルの販売・修理を行い(マキタ電機の代理店・下請けなど)、30年4月に請われて復帰しマキタ電機社長に就任した
    • [38]後藤十次郎氏は昭和48年(1973年)4月に会長に就任した
    • [39]財界活動や経営者同士のつき合いを極度に嫌い、日本電機工業会理事など中央・地元の要職を押しつけられてもほとんど会合に出たことがなく、「わしは仕事を持っとるので出られん」が断るときの決まり文句である
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [40]海外進出について後藤修宏社長は「準備期間に3年かけた。そしてイケルと判断して踏み切った」と語り、国内販売網の強化も「大工さんという職業の性格をつかみ、どこに食い込んだらいいか、十分調査した上で」と述べた

1977年の円高に対して後藤修宏社長が示した答えは、コストダウンと新製品の開発だった。1980年代に入ると、同じ問いへの答えは資本と生産の置き場所そのものを動かすことに変わる。1982年2月にルクセンブルグ証券取引所へ上場して資金の調達先を広げ、1984年9月には米国の統括会社マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカを設立した。1988年5月のマキタ・タイワン、1989年12月のマキタ・マニュファクチュアリング・ヨーロッパは、売り先の側で作る体制の起点である。売上高は1975年2月期の264億円から1985年2月期には879億円へ、経常利益は62億円から157億円へ伸びた。輸出で稼いだ会社が、為替で収益が減少しない稼ぎ方へ移り始めていた。

  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [41]円高はたしかに痛いが、コストダウン、新製品の開発で切り抜けられる、と後藤修宏社長が語った
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [42]1982年2月 ルクセンブルグ証券取引所に上場
    • [43]1984年9月 マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカを設立
    • [44]1988年5月 マキタ・タイワンを設立、1989年12月 マキタ・マニュファクチュアリング・ヨーロッパを設立
  • 会社年鑑(1976年版・1986年版)
    • [45]売上高は1975年2月期264億円・経常利益62億円、1985年2月期879億円・経常利益157億円
参考文献[31]-[45]
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [31]同社には社長も含めて役員は5人で、後藤社長を除くといずれもただの取締役。副社長も専務も常務もなく、1人で数部門を担当している
    • [32]役員に肩書きを置かない理由は「仕事に肩書はいらない」という考えによる
    • [33]管理部門は約2,500人の従業員のうちわずか37人で、全体の98%は「ものを作って売る」部門に向けられている
    • [35]51年度(1976年度)の日本開発銀行の企業評価システムによる総合評点は77点で827社中第3位、収益力(使用総資本事業利益率20.8%)と健全性(自己資本比率84.4%)はいずれも100点
    • [40]海外進出について後藤修宏社長は「準備期間に3年かけた。そしてイケルと判断して踏み切った」と語り、国内販売網の強化も「大工さんという職業の性格をつかみ、どこに食い込んだらいいか、十分調査した上で」と述べた
    • [41]円高はたしかに痛いが、コストダウン、新製品の開発で切り抜けられる、と後藤修宏社長が語った
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
    • [34]超優良会社ながらマキタ電機には保養施設がなく、「遊びたければ勝手に遊べばいい。会社は給与を払っているのだから遊ぶめんどうまでみきれない」というのが後藤十次郎氏の説明である
    • [36]後藤十次郎氏は明治30年(1897年)10月15日に三重県桑名市に生まれ、大正4年(1915年)3月にマキタ電機の創業者牧田茂三郎氏に誘われ「職工」として入社した
    • [37]昭和16年(1941年)から30年(1955年)まで、いったん独立してモートルの販売・修理を行い(マキタ電機の代理店・下請けなど)、30年4月に請われて復帰しマキタ電機社長に就任した
    • [38]後藤十次郎氏は昭和48年(1973年)4月に会長に就任した
    • [39]財界活動や経営者同士のつき合いを極度に嫌い、日本電機工業会理事など中央・地元の要職を押しつけられてもほとんど会合に出たことがなく、「わしは仕事を持っとるので出られん」が断るときの決まり文句である
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [42]1982年2月 ルクセンブルグ証券取引所に上場
    • [43]1984年9月 マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカを設立
    • [44]1988年5月 マキタ・タイワンを設立、1989年12月 マキタ・マニュファクチュアリング・ヨーロッパを設立
  • 会社年鑑(1976年版・1986年版)
    • [45]売上高は1975年2月期264億円・経常利益62億円、1985年2月期879億円・経常利益157億円

筆者考察

マキタ電機製作所が1970年代に得た高収益は、製品の性能よりも流通の形から来ている。電動工具は買ったあとに刃を替え、壊れれば直す道具で、売ったきりにできない。だから同社は商品を小売店へ直接届けて修理まで自社で持ち、経費のかかる代金回収だけを特約店へ預けた。使い手との距離を縮める部分は手放さず、手間のかかる部分を外へ出したことになる。1974年に世界最大のブラック・アンド・デッカーが資金力を携えて日本へ上陸しながら、職人向けを諦めて日曜大工用へ退いたのは、この網の目に入る場所がなかったためである。電動工具で5割弱というシェアは、価格でも技術でもなく、大工の仕事の段取りに食い込んだ距離が生んだ。

もう一つの特徴は、稼いだ金の置き場所だった。売上の5%を必ず預金しろという後藤十次郎氏の指示は、借金を返すための計算というより、預ける習慣を社内に残すための規律である。1963年に借入金が消えたあとも規律は残り、1977年度の75億円の設備投資は自己資金の内側に収まり、円高を海外借入の為替ヘッジで凌ぐ案は無借金という信用を理由に退けられた。その代償は株主が負う。配当性向7.8%は上場会社で最低の水準と書かれ、1株当たり純利益でソニーに迫る会社が株式市場では人気を欠いた。内部に貯めた資金は配当へ回らず、ルクセンブルグでの上場や台湾と欧州の生産拠点という形で1980年代の海外へ出ていった。

売上高の推移 1971年2月期〜1985年2月期(億円)

138 71/2期 261 74/2期 378 77/2期 542 80/2期 664 83/2期 879 85/2期

1970年〜1990年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1970年02月期 単体 116 n/a 18 n/a n/a n/a
1971年02月期 単体 138 +19.0% 32 19 13.8% n/a
1972年02月期 単体 144 +4.3% 32 17 11.8% n/a
1973年02月期 単体 187 +29.9% 51 27 14.4% n/a
1974年02月期 単体 261 +39.6% 72 38 14.6% n/a
1975年02月期 単体 264 +1.1% 62 31 11.7% n/a
1976年02月期 単体 296 +12.1% 68 33 11.1% n/a
1977年02月期 単体 378 +27.7% 77 43 11.4% n/a
1978年02月期 単体 456 +20.6% 83 44 9.6% n/a
1979年02月期 単体 466 +2.2% 84 42 9.0% n/a
1980年02月期 単体 542 +16.3% 102 53 9.8% n/a
1981年02月期 単体 597 +10.1% 97 55 9.2% n/a
1982年02月期 単体 643 +7.7% 108 55 8.6% n/a
1983年02月期 単体 664 +3.3% 114 60 9.0% n/a
1984年02月期 単体 735 +10.7% 120 62 8.4% n/a
1985年02月期 単体 879 +19.6% 157 73 8.3% n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

6件
出典・参考
  • マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
  • 会社年鑑(1976年版・1986年版)
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号
  • 日経ビジネス 1973年10月29日号
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
  • 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986年)「外国株式の上場」

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