三菱レイヨン:新興人絹の設立と企業再建整備法による新光レイヨンの発足
1933年〜羊毛会社の更生から分離されたレーヨンステープル専業
この会社の起点は、毛織工場の隅に置かれた200坪余りの試験工場だった。1929年の世界恐慌で合同毛織が倒産し、その更生会社として1930年3月に発足したのが新興毛織である。満州事変から国際連盟脱退へと進むなかで繊維原料の自給を求める声は高まっていたが、日本の繊維会社の多くは輸出好調のレーヨン糸工業を重視し、レーヨンステープルの本格的な工業化に踏み出していなかった。新興毛織は1932年10月に製造装置一式を発注し、翌1933年2月15日、近代装備を誇る今津工場の北側の空室に試験工場を設ける。紡糸工程以降を独自に考案した国産第一号の連続製造装置は故障が続き、約2週間の不眠不休の改善を経て、1933年4月13日にようやく初紡糸に至った。
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第1章第2節 当社の誕生
- [1]昭和4年に合同毛織が倒産し、更生会社として昭和5年3月27日に資本金500万円の新興毛織株式会社が発足した
- [2]わが国の繊維会社の多くは昭和7〜10年の人絹ラッシュにみられるようにレーヨン糸工業を重視し、レーヨンステープルの本格的な工業化は客観情勢の変化を待たねばならなかった
- [3]昭和7年10月3日に新興毛織が紡機製造へレーヨンステープル製造装置一式を発注し、翌年2月15日に今津工場内へ試験工場を設置した
- [4]紡糸機以降の設計・工作の不備で故障が続出し、約2週間の改善ののち昭和8年4月13日に初紡糸に成功した
試験に成功しても、新興毛織はこの事業を自社で営めなかった。合同毛織の更生会社である以上、レーヨンステープル工業の兼営は不可能とされたためである。そこで新興毛織を母体に新会社を設立し、これに専業として経営させる方針が採られた。1933年2月23日、新興毛織社長の河崎助太郎氏を発起人総代として18名が発起人会を開き、資本金1,000万円・20万株のうち10万株を発起人と賛成人、10万株を新興毛織の株主に割り当てることを決める。引受申込みは両者だけで満株となり、大株主に減数を請うて2万株を公募に回したが、これも申込み順で即日締め切られた。同年8月31日、大阪の綿業会館で創立総会を開き、払込資本金250万円の新興人絹株式会社が発足した。
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第1章第2節 当社の誕生
- [5]新興毛織が直接にレーヨンステープル工業を兼営することは、合同毛織の更生会社であるということから不可能であった
- [6]新興毛織は同社を母胎として新会社を設立し、レーヨンステープル工業を専業として経営させる方針を採った
- [7]昭和8年2月23日に18名の発起人による発起人会が新興毛織本社で開かれ、河崎助太郎が発起人総代に選任された。資本金1,000万円・20万株のうち10万株を発起人と賛成人、10万株を新興毛織株主へ割り当てた
- [8]発起人と賛成人だけで満株となる盛況で、大株主に申込株数の減少を請いかろうじて2万株を公募に回し、7月14日限りで申込み順に受け付け満株に達すると同時に締め切った
- 『会社銀行八十年史』(1955年)「三菱レイヨン」
- [9]昭和8年8月、資本金1,000万円(払込250万円)をもって新興人絹を設立した
発足の翌年から、会社は資金繰りに追われた。1934年1月に日産15トンの設備能力を持つ大竹工場の建設へ着手したものの操業は遅れ、1935年下期までの総収入は100万円に及ばず、損益は累計9万余円の赤字だった。先行きを危ぶむうわさが流れ、1935年10月には払込20円の株価が一時6円20銭まで下落する。取引銀行は第一銀行のみで、河崎助太郎氏が個人保証で金策する場面もあった。それでも同社は同月の役員会で第3回払込みを決議し、払込資本金を500万円へ積み増す。大竹工場の操業が軌道に乗った1935年秋から業績は急速に向上し、1936年上期には総収入が190万円近くに達して初配当にこぎ着けた。販路を先に開いたのは輸出で、1935年5月のバルセロナ向け5万ポンドが最初の契約だった。国内の紡績会社が様子を見ているあいだに、新しい繊維を先に買ったのは海外の需要家だった。
- 『会社銀行八十年史』(1955年)「三菱レイヨン」
- [10]昭和9年1月にスフ綿日産15トンの設備能力を有する大竹工場の建設に着手し、翌10年6月完成して製造を開始した
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第1章第5節 創業期の苦難を克服
- [11]大竹工場の操業が順調に進まず先行きに悲観的なうわさが流れ、昭和10年10月一時、払込み20円の株価が6円20銭にまで暴落した
- [12]当時の取引銀行は第一銀行だけで単なる取引銀行にすぎず、一時は河崎助太郎が個人保証で金策することもあった
- [13]昭和10年10月7日の役員会決議にもとづき第3回払込みを1株5円・総額100万円で行ない、払込資本金は500万円となった
- [14]昭和10年下期までは総収入100万円に及ばず累計9万余円の赤字だったが、同年秋に大竹工場の操業が軌道に乗り、昭和11年上期には総収入190万円近くに達した。輸出は昭和10年5月にスペインのバルセロナ向け5万ポンドの契約が最初であった
参考文献[1]-[14]
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第1章第2節 当社の誕生
- [1]昭和4年に合同毛織が倒産し、更生会社として昭和5年3月27日に資本金500万円の新興毛織株式会社が発足した
- [2]わが国の繊維会社の多くは昭和7〜10年の人絹ラッシュにみられるようにレーヨン糸工業を重視し、レーヨンステープルの本格的な工業化は客観情勢の変化を待たねばならなかった
- [3]昭和7年10月3日に新興毛織が紡機製造へレーヨンステープル製造装置一式を発注し、翌年2月15日に今津工場内へ試験工場を設置した
- [4]紡糸機以降の設計・工作の不備で故障が続出し、約2週間の改善ののち昭和8年4月13日に初紡糸に成功した
- [5]新興毛織が直接にレーヨンステープル工業を兼営することは、合同毛織の更生会社であるということから不可能であった
- [6]新興毛織は同社を母胎として新会社を設立し、レーヨンステープル工業を専業として経営させる方針を採った
- [7]昭和8年2月23日に18名の発起人による発起人会が新興毛織本社で開かれ、河崎助太郎が発起人総代に選任された。資本金1,000万円・20万株のうち10万株を発起人と賛成人、10万株を新興毛織株主へ割り当てた
- [8]発起人と賛成人だけで満株となる盛況で、大株主に申込株数の減少を請いかろうじて2万株を公募に回し、7月14日限りで申込み順に受け付け満株に達すると同時に締め切った
- 『会社銀行八十年史』(1955年)「三菱レイヨン」
- [9]昭和8年8月、資本金1,000万円(払込250万円)をもって新興人絹を設立した
- [10]昭和9年1月にスフ綿日産15トンの設備能力を有する大竹工場の建設に着手し、翌10年6月完成して製造を開始した
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第1章第5節 創業期の苦難を克服
- [11]大竹工場の操業が順調に進まず先行きに悲観的なうわさが流れ、昭和10年10月一時、払込み20円の株価が6円20銭にまで暴落した
- [12]当時の取引銀行は第一銀行だけで単なる取引銀行にすぎず、一時は河崎助太郎が個人保証で金策することもあった
- [13]昭和10年10月7日の役員会決議にもとづき第3回払込みを1株5円・総額100万円で行ない、払込資本金は500万円となった
- [14]昭和10年下期までは総収入100万円に及ばず累計9万余円の赤字だったが、同年秋に大竹工場の操業が軌道に乗り、昭和11年上期には総収入190万円近くに達した。輸出は昭和10年5月にスペインのバルセロナ向け5万ポンドの契約が最初であった
1937年〜三菱の資本参加から戦時合併による法人格の消滅へ
1937年なかば、三菱社は三菱商事大阪支店長を通じて、傘下に入る意思の有無を新興人絹に打診した。当時の三菱は金融・商事・産業の各部門に傘下会社を多数持ちながら繊維では見るべき会社がなく、岩崎小彌太社長は将来の繊維産業をになう化学繊維工業の既存の優秀会社を傘下に加えて育てたいという考えを持っていた。受ける側の事情も重なった。新興人絹の役員の多くは大阪で商社を営む出資資本家で、会社自体の発展よりも保有株式や自社製品の売買による収益を優先しがちだったため、常勤役員はこの申し入れを経営陣刷新の機会と見た。折衝は日本化成工業への株式肩替わりという形でまとまり、三菱側が河崎助太郎氏の社長留任を明言したことを受けて、同氏は新興産業の持つ3万株を払込済額で譲渡した。
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第2章第3節 三菱の経営参加
- [15]三菱社は昭和12年なかごろ、三菱商事大阪支店長を通じ、当社に対して三菱傘下に入る意志の有無を打診してきた
- [16]当時の三菱は繊維産業にみるべき会社がなく、岩崎小彌太社長は三菱の傘下に将来の繊維産業をになう化学繊維工業の既存の優秀会社を加え育成したいとの抱負をもっていた
- [17]当社の役員の多くは大阪で商社を経営する出資資本家で、会社自体の発展よりも保有株式や自社製品の売買による収益を第一に考えることが多かったため、常勤役員は三菱の申入れを機会に経営陣を刷新することが必要と判断した
- [18]三菱側は河崎助太郎が従来どおり社長の地位にあってさしつかえないと表明し、河崎助太郎は新興産業の所有していた当社株式3万株を払込済額で日本化成工業に譲渡した
資本金3,000万円に届かない会社は政府の行政指導で単独では存続できなくなり、新興人絹も他社との統合を促された。資本系列が移ってから5年で、会社そのものが姿を消すことになる。統合の相手に選ばれたのは1937年から資本提携していた日本化成工業で、原料・資材・人材・資金を互いに融通すれば、自社が業界の先駆けとして手がけてきたレーヨンステープル工業を存続させられると考え、1942年3月にその方針を固めた。新興人絹の企業価値を7割と見積もったのは、株価を比べたうえで純資産の比率と払込資本に対する収益率も考慮した結果であり、合併比率は新興人絹10株につき日本化成工業7株、加えて1株につき3円の交付金とされた。合併は同年8月1日に成り、大竹工場と岐阜紡績工場は日本化成工業に属する工場となった。
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第3章第3節 日本化成工業との合併
- [19]政府の行政指導として資本金3,000万円未満の会社は単独会社としては存続を許されなくなり、当社もいずれかの会社と統合することを勧奨された
- [20]当社は業界のパイオニアとして育ててきたレーヨンステープル工業の命脈を保持するため、昭和12年以来資本提携関係にあった日本化成工業と合併し原料・資材・人材・資金などを相互に有効に利用しあうことが最善の策と判断し、昭和17年3月この方針を決定した
- [21]新興人絹株式10株に対し日本化成工業株式7株が交付され、ほかに1株あたり3円の交付金が支払われた。株価のほか両社の純資産の比率および払込資本に対する収益率を斟酌し、乙の企業価値は甲の70%とされた
- 三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- [22]昭和17年10月、日本化成工業株式会社と合併(社名:日本化成工業株式会社)
法人格を失ったあとも、工場は企業整備の対象であり続けた。第2次企業整備にともなう設備供出で大竹工場は鉄材786トンを課されたが、建設中の有機ガラス工場に遊休設備を転用する許可を得て625トンまで減らし、1943年6月に第一工場から供出している。第4次では第一工場の登録設備日産15.421トンの供出を命じられた。当時この工場は海軍用の捲縮ステープルの生産に全力を挙げており、同社は拒否を続けた末に、設備供出はしないが設備登録からは削除するという決着に持ち込んだ。岐阜工場は東洋紡績知立工場や呉羽紡績から紡績設備を譲り受けて代替供出し、供出を最小限に抑えたが、1945年7月の空襲で焼失した。大竹工場は終戦まで操業を続けたステープル6工場の一つとして残った。
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第3章第2節 企業整備と当社
- [23]第2次企業整備にともない大竹工場は鉄材786トンを供出することとなったが、建設中の有機ガラス工場への転用許可161トンを受けて供出は625トンに減少し、昭和18年6月25日第一工場から供出した
- [24]第4次企業整備にともなう第2次設備供出で第一工場の登録設備15.421トンの供出を命ぜられたが、当時同工場は海軍用捲縮ステープルの生産に全力をあげており、当社は拒否を続けた結果、設備供出の要はないが設備登録からは削除することに決まった
- [25]岐阜工場は当局の斡旋により東洋紡績知立工場の紡績設備を譲り受けて代替供出し、第4次では呉羽紡績から紡績設備を購入して代替供出したが、昭和20年7月戦災により焼失した
- 『会社銀行八十年史』(1955年)「三菱レイヨン」
- [26]昭和18年には大竹工場スフ綿製造設備と岐阜工場紡績設備の一部を供出し生産能力は著しく低下した。また20年7月岐阜工場は空襲によって焼失した
参考文献[15]-[26]
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第2章第3節 三菱の経営参加
- [15]三菱社は昭和12年なかごろ、三菱商事大阪支店長を通じ、当社に対して三菱傘下に入る意志の有無を打診してきた
- [16]当時の三菱は繊維産業にみるべき会社がなく、岩崎小彌太社長は三菱の傘下に将来の繊維産業をになう化学繊維工業の既存の優秀会社を加え育成したいとの抱負をもっていた
- [17]当社の役員の多くは大阪で商社を経営する出資資本家で、会社自体の発展よりも保有株式や自社製品の売買による収益を第一に考えることが多かったため、常勤役員は三菱の申入れを機会に経営陣を刷新することが必要と判断した
- [18]三菱側は河崎助太郎が従来どおり社長の地位にあってさしつかえないと表明し、河崎助太郎は新興産業の所有していた当社株式3万株を払込済額で日本化成工業に譲渡した
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第3章第3節 日本化成工業との合併
- [19]政府の行政指導として資本金3,000万円未満の会社は単独会社としては存続を許されなくなり、当社もいずれかの会社と統合することを勧奨された
- [20]当社は業界のパイオニアとして育ててきたレーヨンステープル工業の命脈を保持するため、昭和12年以来資本提携関係にあった日本化成工業と合併し原料・資材・人材・資金などを相互に有効に利用しあうことが最善の策と判断し、昭和17年3月この方針を決定した
- [21]新興人絹株式10株に対し日本化成工業株式7株が交付され、ほかに1株あたり3円の交付金が支払われた。株価のほか両社の純資産の比率および払込資本に対する収益率を斟酌し、乙の企業価値は甲の70%とされた
- 三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- [22]昭和17年10月、日本化成工業株式会社と合併(社名:日本化成工業株式会社)
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第3章第2節 企業整備と当社
- [23]第2次企業整備にともない大竹工場は鉄材786トンを供出することとなったが、建設中の有機ガラス工場への転用許可161トンを受けて供出は625トンに減少し、昭和18年6月25日第一工場から供出した
- [24]第4次企業整備にともなう第2次設備供出で第一工場の登録設備15.421トンの供出を命ぜられたが、当時同工場は海軍用捲縮ステープルの生産に全力をあげており、当社は拒否を続けた結果、設備供出の要はないが設備登録からは削除することに決まった
- [25]岐阜工場は当局の斡旋により東洋紡績知立工場の紡績設備を譲り受けて代替供出し、第4次では呉羽紡績から紡績設備を購入して代替供出したが、昭和20年7月戦災により焼失した
- 『会社銀行八十年史』(1955年)「三菱レイヨン」
- [26]昭和18年には大竹工場スフ綿製造設備と岐阜工場紡績設備の一部を供出し生産能力は著しく低下した。また20年7月岐阜工場は空襲によって焼失した
1947年〜企業再建整備による3社分離と三菱への復帰
日本化成工業による新興人絹・旭硝子の合併は、戦時総動員政策に強いられたもので、会社自身が望んだものではなかったと、社内の整備委員会は見ていた。事業の性格からみて、この3部門を1企業体で合理的に運営するのも難しいとして、委員会は旧3社に分かれる案を支持した。GHQ反トラスト課が三菱化成工業を呼び出したのは1946年10月である。同課が示した分割案は、合併前の3社を最低線とし、必要なら一段と細かく分けるのが望ましいというものだった。その後、GHQからは8ないし9社への分割を勧められたが、同社は3社分割を譲らなかった。1947年6月1日には、親会社の役割を担う総本部と、化成・旭・繊維の3ブロック本部からなる社内組織に改め、旧新興人絹の事業を繊維本部に引き継がせて、主張に実態の裏付けを与えた。
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第4章第2節 繊維本部の発足
- [27]日本化成工業が新興人絹・旭硝子両社を合併したのはいずれも戦時総動員政策の強制によるもので企業それ自体の要望に帰因するものではなく、1企業体としてこれら3事業部門を合理的に経営することは事業の性格上困難であるとして、旧3社への分離が望ましいという意見が支配的であった
- [28]昭和21年10月、三菱化成工業はGHQ反トラスト課に呼ばれ、少なくとも合併前の3社に、場合によってはさらに細分することが望ましいという分割案を示された
- [29]三菱化成工業は数度にわたってGHQに呼ばれ8または9の会社に分割するよう勧告されたが、3社分割が最も合理的でありそれ以上の分割は妥当ではないことを強く主張した
- [30]昭和22年6月1日、三菱化成工業は職制を根本的に改正し、社内組織を親会社としての総本部と、第二会社としての化成本部・旭本部・繊維本部の3ブロック本部とに再編成した
持株会社整理委員会が1949年9月21日に出した指示によって財閥の商号と商標が使えなくなり、新会社の名は当初予定した三菱レイヨンから、新興人絹の時代から世界に知られていた商標の新光を取った新光レイヨン株式会社へ改められた。整備計画は1950年1月31日に認可された。三菱化成工業が大竹・幸田・岐阜・六条の各工場を含む繊維本部の資産9,000万円を現物で出資して180万株を引き受け、別に60万株を募って、資本金1億2,000万円の会社を立てるという計画である。同社は日本化成工業・旭硝子と並ぶ第二会社として1950年6月1日に発足し、社長には賀集益藏氏が就いた。三菱化成工業の常務だった賀集氏は公職追放令の対象となり、1946年末から職を離れていた。
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第4章第2節 繊維本部の発足
- [31]繊維本部の事業を継承する第二会社の商号は当初「三菱レイヨン株式会社」と定めていたが、昭和24年9月21日の持株会社整理委員会指示により財閥商号および商標の使用が許されないこととなったので「新光レイヨン株式会社」と修正した
- [32]三菱化成工業が大竹工場・幸田工場・岐阜工場・六条工場その他繊維本部所属資産9,000万円の現物出資をして180万株の株式を引き受けるとともに、60万株の株式を募集して資本金1.2億円で新光レイヨン株式会社を設立し、繊維本部の事業を継承する
- 三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- [33]昭和25年6月、新光レイヨン株式会社として発足。三菱化成工業は企業再建整備法により3社に分割された
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第5章第2節 三菱レイヨン株式会社の発足
- [34]賀集益藏は三菱化成工業常務取締役であったためGHQの公職追放令に該当し昭和21年末以来一時退任、昭和23年に追放指定を解除されていた
新発足の会社がまず組み立てたのは、原料から製品までを自社で通す一貫操業の体制だった。戦災で焼いた岐阜工場に代わる紡績設備は愛知県幸田で復元が進み、1950年2月に完成、同年末には紡機7万錘と織機480台を備える。岐阜工場も紡績設備の再建に入り、1951年9月には5万7,000錘の据付けを終えた。1952年6月には名古屋にスフ織物の染色・樹脂加工設備を設け、ここでスフ製品製造の一貫操業態勢が整う。資本金も1951年3月に3億円、1952年4月に6億円へ増えた。講和条約の発効で財閥商号の制限が解けると、同社は1952年12月1日に三菱レイヨン株式会社と改称し、社章もスリーダイヤモンドに改めた。19年をかけて、羊毛会社の分家は三菱の名を掲げる化学繊維会社になった。
- 『会社銀行八十年史』(1955年)「三菱レイヨン」
- [35]幸田工場の建設は昭和25年2月に完成し、同年末には紡機7万錘、織機480台の設備となった
- [36]戦災を被った岐阜工場も紡績設備の再建を開始し、昭和26年9月には5万7,000錘の据付けを終えた
- [37]名古屋市にスフ織物独自の染色および樹脂加工設備を建設し昭和27年6月完成、スフ製品製造の一貫操業態勢を確立した。設立以後の資本金は昭和26年3月3億円、27年4月6億円となった
- 三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- [38]昭和27年12月、三菱レイヨン株式会社と改称
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第5章第2節 三菱レイヨン株式会社の発足
- [39]財閥商号の使用制限は財閥商号使用禁止令廃止法および同経過政令により解かれ、昭和27年12月1日から当社は三菱レイヨン株式会社と称することとなり、社名変更と同時に社章をスリーダイヤモンドに改めた
参考文献[27]-[39]
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第4章第2節 繊維本部の発足
- [27]日本化成工業が新興人絹・旭硝子両社を合併したのはいずれも戦時総動員政策の強制によるもので企業それ自体の要望に帰因するものではなく、1企業体としてこれら3事業部門を合理的に経営することは事業の性格上困難であるとして、旧3社への分離が望ましいという意見が支配的であった
- [28]昭和21年10月、三菱化成工業はGHQ反トラスト課に呼ばれ、少なくとも合併前の3社に、場合によってはさらに細分することが望ましいという分割案を示された
- [29]三菱化成工業は数度にわたってGHQに呼ばれ8または9の会社に分割するよう勧告されたが、3社分割が最も合理的でありそれ以上の分割は妥当ではないことを強く主張した
- [30]昭和22年6月1日、三菱化成工業は職制を根本的に改正し、社内組織を親会社としての総本部と、第二会社としての化成本部・旭本部・繊維本部の3ブロック本部とに再編成した
- [31]繊維本部の事業を継承する第二会社の商号は当初「三菱レイヨン株式会社」と定めていたが、昭和24年9月21日の持株会社整理委員会指示により財閥商号および商標の使用が許されないこととなったので「新光レイヨン株式会社」と修正した
- [32]三菱化成工業が大竹工場・幸田工場・岐阜工場・六条工場その他繊維本部所属資産9,000万円の現物出資をして180万株の株式を引き受けるとともに、60万株の株式を募集して資本金1.2億円で新光レイヨン株式会社を設立し、繊維本部の事業を継承する
- 三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- [33]昭和25年6月、新光レイヨン株式会社として発足。三菱化成工業は企業再建整備法により3社に分割された
- [38]昭和27年12月、三菱レイヨン株式会社と改称
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第5章第2節 三菱レイヨン株式会社の発足
- [34]賀集益藏は三菱化成工業常務取締役であったためGHQの公職追放令に該当し昭和21年末以来一時退任、昭和23年に追放指定を解除されていた
- [39]財閥商号の使用制限は財閥商号使用禁止令廃止法および同経過政令により解かれ、昭和27年12月1日から当社は三菱レイヨン株式会社と称することとなり、社名変更と同時に社章をスリーダイヤモンドに改めた
- 『会社銀行八十年史』(1955年)「三菱レイヨン」
- [35]幸田工場の建設は昭和25年2月に完成し、同年末には紡機7万錘、織機480台の設備となった
- [36]戦災を被った岐阜工場も紡績設備の再建を開始し、昭和26年9月には5万7,000錘の据付けを終えた
- [37]名古屋市にスフ織物独自の染色および樹脂加工設備を建設し昭和27年6月完成、スフ製品製造の一貫操業態勢を確立した。設立以後の資本金は昭和26年3月3億円、27年4月6億円となった
筆者考察
新興人絹の20年は、工場を建てた人々が会社を手放していく20年だった。1933年の発足時に持っていた大竹と岐阜の工場は、その後も同じ場所で同じレーヨンステープルを作り続けている。入れ替わったのは株主と社名のほうである。母体の新興毛織は合同毛織の更生会社という立場ゆえに新しい事業を兼営できず、今津工場の隅で仕上げた製造技術ごと、別に建てた会社へ渡した。1937年には三菱が日本化成工業を通じて株式を肩替わりし、大阪の商社主が並んでいた株主名簿が書き換わる。会社が大きくなる過程は、そのまま創業に関わった側が持分を薄めていく過程でもあった。
1942年の合併で新興人絹は解散し、法人格そのものを失った。資本金3,000万円未満の会社は単独で存続を許されないという行政指導が理由で、自ら望んだ統合ではない。その8年後、会社は同じ理屈で戻ってくる。三菱化成工業はGHQから8ないし9社への分割を勧告されながら、旧3社への分離だけを主張し続けた。新興人絹と旭硝子の合併は戦時総動員政策の強制であって企業の要望ではない、という理屈で、過度な細分を退けながら旧法人を復活させたのである。1950年に発足した新光レイヨンは財閥商号を禁じられて三菱を名乗れなかったが、講和条約の発効から半年で社名も社章も取り戻した。
- 1933年8月の設立時が1,000万円(払込250万円)、1941年11月に1,500万円、1950年6月の新光レイヨン発足時が1億2,000万円、1952年4月に6億円。
- 1942年8月から1950年5月までは日本化成工業(のち三菱化成工業)に合併されており、独立した法人が存在しない。
- 出所は『会社銀行八十年史』(1955年)「三菱レイヨン」。
出典・参考
9件
- 三菱レイヨン 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第1章第2節 当社の誕生
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第1章第5節 創業期の苦難を克服
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第2章第3節 三菱の経営参加
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第3章第3節 日本化成工業との合併
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第3章第2節 企業整備と当社
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第4章第2節 繊維本部の発足
- 社史 三菱レイヨン30年史(1964年)第5章第2節 三菱レイヨン株式会社の発足
- 『会社銀行八十年史』(1955年)「三菱レイヨン」