稲畑勝太郎(初代)
経歴1890〜1949年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1890年主要役職の状況(推定含む目安)1949年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 稲畑産業 | 1890 | 創業(京都で稲畑染料店を開業。店主) | ||
| 1897 | 本店を大阪に移す(店主) | ||||
| 1918 | 株式会社稲畑商店 取締役社長(個人商店を株式会社に改組) | ||||
| 1937 | 相談役(社長を長男稲畑太郎に譲る) | ||||
| 1949 | 死去 | ||||
| 日本染料製造 | 1916 | 監査役(設立時) | |||
| 1926 | 取締役社長 | ||||
| 1937 | 会長 | ||||
| 1941 | 会長を退任 |
社長就任までの出自
出自
1862年に京都・烏丸御池の菓子舗「亀屋正重」を営む稲畑利助氏の長男として生まれた。1877年に京都府派遣の留学生としてフランスへ渡り、リヨンの工業学校と大学で染色を学び、染工場で3年間の徒弟修業も積んだ。帰国後は京都府に奉職し、京都織物会社の染色技師長を経て、1890年10月に京都で稲畑染料店を開業した。1918年に株式会社稲畑商店の社長となり、1937年に長男の稲畑太郎氏へ社長を譲った。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
稲畑勝太郎氏は1862年、京都・烏丸御池の菓子舗「亀屋正重」を営む稲畑利助氏の長男に生まれた。2歳のときに蛤御門の変で生家が焼け、一家は三条大橋東へ移って菓子舗を再開したが、暮らし向きは厳しかった。1877年、15歳で京都府が派遣する留学生8人の1人としてフランスへ渡り、リヨンの工業学校と大学で染色の理論を修め、マルナス染工場で3年間徒弟として現場の技術を身につけた。1885年に帰国して京都府に勤め、1887年に京都織物会社が設立されると府庁を辞して入社し、翌年に染色技師長となった。
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)「稲畑勝太郎の生い立ち」(本文.txt L364–L400)
- [7]文久2年(1862)10月30日、京都烏丸通御池東南角で父利助・母みつの長男として生まれた。生家は「亀屋正重」という菓子舗。2歳のとき蛤御門の変で生家は焼失し、翌年両親は京都三条大橋東5丁目西海子町で菓子舗を再開したが、以前とは打って変った貧しい暮しであった
- [8]文久2年(1862)10月30日、京都烏丸通御池東南角で父利助・母みつの長男として生まれた。生家は「亀屋正重」という菓子舗。2歳のとき蛤御門の変で生家は焼失し、翌年両親は京都三条大橋東5丁目西海子町で菓子舗を再開したが、以前とは打って変った貧しい暮しであった
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)「稲畑勝太郎フランスへ留学」(本文.txt L449–L480)
- [9]明治10年(1877)京都府は稲畑勝太郎等8名を海外留学生としてフランスに派遣(15歳)。染色を専攻し、リヨンの工業学校及び大学で学理を究め、マルナス染工場で3年間徒弟として実地に技術を学んだ
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)年譜「本人の歩み」(本文.txt L700–L780)
- [10]明治18年7月フランス留学を終えて8年ぶりに帰朝、8月京都府に奉職。明治20年6月京都府庁を辞し京都織物株式会社に入社。明治21年京都織物会社の染色技師長に就任
独立の直接のきっかけは解雇である。1890年9月、京都織物会社は社内の事情から技師長を解き、これが自ら店を構える動機になった。同年10月、28歳で三条大橋東の生家で稲畑染料店を創業し、フランスのサンドニー染料薬品製造会社と日本での一手販売の契約を結んで、人造染料と染色用の工業薬品を直輸入して売り始めた。開業時の人手は夫妻2人だけで、店主が見本を背負って市中の染屋を回り、夫人が店で染料の試験を受け持った。
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)「京都織物株式会社と稲畑勝太郎」(本文.txt L620–L660)
- [11]染色技師長として染色面を担当したが、23年9月、突如会社の内部事情で解雇された。これが独立開業の動機になった
- [12]染色技師長として染色面を担当したが、23年9月、突如会社の内部事情で解雇された。これが独立開業の動機になった
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)「創業」(本文.txt L350–L354, L873–L940)
- [13]明治23年(1890)10月、京都市三条大橋東5丁目西海子町で、フランス・サンドニー染料薬品製造会社の人造染料と染色加工用工業薬品の直輸入販売を主業とする稲畑染料店を開業。同社と日本国一手特約販売の約を締結。創業当初は店主夫妻の2人だけで、店主は染料の見本を背負って市中の染屋を売り歩き、夫人は染料の試験をした。弱冠28歳で独立自営の染料店を開業
- [14]明治23年(1890)10月、京都市三条大橋東5丁目西海子町で、フランス・サンドニー染料薬品製造会社の人造染料と染色加工用工業薬品の直輸入販売を主業とする稲畑染料店を開業。同社と日本国一手特約販売の約を締結。創業当初は店主夫妻の2人だけで、店主は染料の見本を背負って市中の染屋を売り歩き、夫人は染料の試験をした。弱冠28歳で独立自営の染料店を開業
売り方は、染め方の指導と一体だった。業界誌に広告を出すとともに染色法の解説を毎号のように寄稿し、関西のほか桐生・足利や新潟の産地へ出向いて講習と実地指導を重ね、染色の手引書も続けて刊行した。1894年に東京へ出張所を設け、1895年12月には輸入に依存していたモスリンの国産化を目指して毛斯倫紡織株式会社を立ち上げた。
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)「創業当時のPR活動」(本文.txt L976–L996)
- [15]創業当時、関係業界の機関誌にほとんど毎号広告を掲載し、店主は染料・染色法の紹介・解説を特別寄稿。開業早々から関西、桐生・足利、北越(新潟)の染織工業地に出張して講習・講演・実地指導を行い、「仏国実地染色術要書」などの図書を相次いで編集発行
- [16]創業当時、関係業界の機関誌にほとんど毎号広告を掲載し、店主は染料・染色法の紹介・解説を特別寄稿。開業早々から関西、桐生・足利、北越(新潟)の染織工業地に出張して講習・講演・実地指導を行い、「仏国実地染色術要書」などの図書を相次いで編集発行
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)「関東へ進出,東京に店を出す」「モスリン紡織会社を設立」(本文.txt L1010–L1060)
- [17]明治27年東京に出張所(翌年支店)を開設。モスリンを国産化して大量の輸入を抑圧するため研究し、明治28年12月に「毛斯倫紡織株式会社」を創立
1897年は事業の軸を広げた年である。2月に大阪・難波の南地演舞場で、リヨン工業学校の同窓にあたるリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフを使い、日本で初めて映画を一般に上映した。5月に稲畑染工場を設けて綿布の染色加工を始め、10月には本店を大阪の順慶町へ移して京都の店を支店に改めた。1908年には天津に支店を置き、中国大陸へも進出している。
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)「本店を大阪へ移す」「日本で初めて映画を上映」「稲畑染工場を創設」(本文.txt L1100–L1150)
- [18]明治30年2月15日から1週間、大阪難波の南地演舞場でシネマトグラフにより日本で初めて映画を公開上映。シネマトグラフは店主留学時のリヨン工業学校の同窓生リュミエール兄弟の発明。明治30年5月稲畑染工場を創設し綿布の染色加工を開始。明治30年10月本店を大阪の順慶町に移し、京都の店を支店とした
- [19]明治30年2月15日から1週間、大阪難波の南地演舞場でシネマトグラフにより日本で初めて映画を公開上映。シネマトグラフは店主留学時のリヨン工業学校の同窓生リュミエール兄弟の発明。明治30年5月稲畑染工場を創設し綿布の染色加工を開始。明治30年10月本店を大阪の順慶町に移し、京都の店を支店とした
- [20]明治30年2月15日から1週間、大阪難波の南地演舞場でシネマトグラフにより日本で初めて映画を公開上映。シネマトグラフは店主留学時のリヨン工業学校の同窓生リュミエール兄弟の発明。明治30年5月稲畑染工場を創設し綿布の染色加工を開始。明治30年10月本店を大阪の順慶町に移し、京都の店を支店とした
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)「明治時代」(本文.txt L853–L858)
- [21]27年東京に出張所を、30年大阪に本店を、41年には中国大陸に進出して天津に支店をそれぞれ開設した
- [22]27年東京に出張所を、30年大阪に本店を、41年には中国大陸に進出して天津に支店をそれぞれ開設した
第1次世界大戦で染料の輸入が途絶えると、1916年2月に政府補助の国策会社として設立された日本染料製造の創立に参画し、監査役に就任した。1918年6月には個人商店を株式会社に改め、資本金100万円の株式会社稲畑商店を設立して自ら取締役社長に就任した。1926年1月に貴族院議員に勅選され、同年8月には日本染料製造の社長も兼ねた。
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)「日本染料製造株式会社の創立」(本文.txt L1622–L1660)
- [23]第1次世界大戦による染料の輸入途絶を受け、大正5年2月25日に国策会社として政府補助の日本染料製造株式会社が設立。店主は同社の創立に参画し、設立当初選ばれて監査役に就任
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)「株式会社稲畑商店設立」(本文.txt L1694–L1710)
- [24]大正7年6月10日、従来の個人商店を株式会社に組織変更し株式会社稲畑商店を設立。資本金100万円、役員は取締役社長稲畑勝太郎・専務取締役稲畑二郎・取締役稲畑太郎・監査役大中直三
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)「日本染料の社長」「貴族院議員その他の公職」(本文.txt L1824–L1832)
- [25]社長は大正15年1月29日貴族院議員に勅選された。社長は大正15年8月5日、日本染料製造(株)の取締役社長に就任した
1937年3月、75歳で経営の第一線を退き、社長を長男の稲畑太郎氏に譲って相談役に回った。日本染料製造の社長も女婿の稲畑二郎氏に譲って会長となり、1941年8月に会長も退任した。同社は1944年に住友化学工業に合併され、稲畑産業はその特約販売店となる。1949年3月29日、88歳で死去した。
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)(本文.txt L2490–L2517, L3044)
- [26]昭和12年、満75歳で経営の第一線から引退し、社長の座を長男の稲畑太郎(専務取締役)に譲り相談役になった(昭和12年3月30日就任)。前後して日本染料の社長も女婿の稲畑二郎と交代して会長に就任(昭和12年2月15日)。昭和16年8月7日に会長を勇退、満80歳
- [27]昭和12年、満75歳で経営の第一線から引退し、社長の座を長男の稲畑太郎(専務取締役)に譲り相談役になった(昭和12年3月30日就任)。前後して日本染料の社長も女婿の稲畑二郎と交代して会長に就任(昭和12年2月15日)。昭和16年8月7日に会長を勇退、満80歳
- 稲畑産業 有価証券報告書【沿革】
- [28]1944年7月 住友化学工業㈱が日本染料製造㈱を合併したことに伴い、住友化学工業㈱の染料、化学品、医薬品の特約販売店となる
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)「相談役稲畑勝太郎永眠」(本文.txt L3630–L3646, L3773)
- [29]創業者で初代社長の稲畑勝太郎は、八十八歳の米寿を迎えた昭和24年3月29日に死去。4月4日に社葬
参考文献1件
参考文献
- 稲畑産業『稲畑八十八年史』(稲畑産業、1978年)
事実根拠:出所(稲畑産業)