第1章 年〜年

未来工業:未来工業の設立と大垣市楽田町への本社移転

1965年〜劇団「未来座」の解散と、山田昭男氏・清水昭八氏が1品で始めた電設資材の未来工業

山田昭男氏は1965年8月に電設資材メーカーの未来工業を岐阜県大垣市で設立した。有価証券報告書の沿革によれば、設立地は大垣市久瀬川町で、目的は電設資材の製造と販売。山田昭男氏は父親が営む電線メーカーで働き、本来は家業を継ぐ予定だった。ところが大垣市民会館の開館を機に劇団「未来座」を旗揚げし、自ら座長となって芝居に没頭した末、父親から勘当を受けた。山田昭男氏は劇団を解散し、演出を担った清水昭八氏と2人で、乏しい手持ち資金を元手に会社を興した。1978年の取材で山田昭男氏が明かした創業の動機は、『この会社を作ったのは食うに困ったからなんです』である。家業を離れた座長にとって、電線に近い電設資材は生計を立てる最も身近な分野だったとみられる。

  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [1]1965年8月、大垣市の劇団「未来座」が解散しメンバーで電設資材メーカー未来工業を設立。山田昭男は父の電線メーカー勤務・家業継承予定、市民会館開館時に未来座結成し座長、芝居で勘当され、演出担当の清水昭八(現専務)と2人で創業
    • [3]1965年8月、大垣市の劇団「未来座」が解散しメンバーで電設資材メーカー未来工業を設立。山田昭男は父の電線メーカー勤務・家業継承予定、市民会館開館時に未来座結成し座長、芝居で勘当され、演出担当の清水昭八(現専務)と2人で創業
    • [4]1965年8月、大垣市の劇団「未来座」が解散しメンバーで電設資材メーカー未来工業を設立。山田昭男は父の電線メーカー勤務・家業継承予定、市民会館開館時に未来座結成し座長、芝居で勘当され、演出担当の清水昭八(現専務)と2人で創業
    • [5]1965年8月、大垣市の劇団「未来座」が解散しメンバーで電設資材メーカー未来工業を設立。山田昭男は父の電線メーカー勤務・家業継承予定、市民会館開館時に未来座結成し座長、芝居で勘当され、演出担当の清水昭八(現専務)と2人で創業
    • [6]1965年8月、大垣市の劇団「未来座」が解散しメンバーで電設資材メーカー未来工業を設立。山田昭男は父の電線メーカー勤務・家業継承予定、市民会館開館時に未来座結成し座長、芝居で勘当され、演出担当の清水昭八(現専務)と2人で創業
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1965年8月、電設資材の製造・販売を目的に岐阜県大垣市久瀬川町に未来工業株式会社を設立

未来工業は創業時、製品をわずか1品に絞って事業を始めた。その1品は家庭内の配線に使う透明ジョイントボックスで、成形機を1台備えれば製造でき、販売数量も見込める品目である。参入しやすい品目であったため、同じ品を手がける先発メーカーは10社を超えていた。資金も技術の蓄積も持たない素人が先発に対抗する手段は新しいアイデアの発掘しかなかったというのが、山田昭男氏の回想である。未来工業はベースとカバーで構成される製品のうち、ベース側に工夫を加えて使い勝手を高め、販売数量を拡大した。創業後は劇団の仲間が相次いで入社し、1978年時点の総務・営業・製造の各部長はいずれも「未来座」の出身者だった。

  • 証券アナリストジャーナル 1992年1月 山田昭男
    • [7]製品は当初1品でスタートし、1992年時点で約100種類・6,000点に拡大
  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [8]1965年に家内配線器具の透明ジョイントボックスを製造開始。成形機1台で作れ数も売れる素人向き製品で先発は10数社。ベース部分の工夫で使いやすくなり売れた。資金・技術なく先発と競うにはアイデアしかなかったと山田社長が回想。劇団仲間が続々入社し総務・営業・製造部長は未来座出身
    • [9]1965年に家内配線器具の透明ジョイントボックスを製造開始。成形機1台で作れ数も売れる素人向き製品で先発は10数社。ベース部分の工夫で使いやすくなり売れた。資金・技術なく先発と競うにはアイデアしかなかったと山田社長が回想。劇団仲間が続々入社し総務・営業・製造部長は未来座出身
    • [10]1965年に家内配線器具の透明ジョイントボックスを製造開始。成形機1台で作れ数も売れる素人向き製品で先発は10数社。ベース部分の工夫で使いやすくなり売れた。資金・技術なく先発と競うにはアイデアしかなかったと山田社長が回想。劇団仲間が続々入社し総務・営業・製造部長は未来座出身
    • [11]1965年に家内配線器具の透明ジョイントボックスを製造開始。成形機1台で作れ数も売れる素人向き製品で先発は10数社。ベース部分の工夫で使いやすくなり売れた。資金・技術なく先発と競うにはアイデアしかなかったと山田社長が回想。劇団仲間が続々入社し総務・営業・製造部長は未来座出身
    • [12]1965年に家内配線器具の透明ジョイントボックスを製造開始。成形機1台で作れ数も売れる素人向き製品で先発は10数社。ベース部分の工夫で使いやすくなり売れた。資金・技術なく先発と競うにはアイデアしかなかったと山田社長が回想。劇団仲間が続々入社し総務・営業・製造部長は未来座出身
参考文献[1]-[12]
  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [1]1965年8月、大垣市の劇団「未来座」が解散しメンバーで電設資材メーカー未来工業を設立。山田昭男は父の電線メーカー勤務・家業継承予定、市民会館開館時に未来座結成し座長、芝居で勘当され、演出担当の清水昭八(現専務)と2人で創業
    • [3]1965年8月、大垣市の劇団「未来座」が解散しメンバーで電設資材メーカー未来工業を設立。山田昭男は父の電線メーカー勤務・家業継承予定、市民会館開館時に未来座結成し座長、芝居で勘当され、演出担当の清水昭八(現専務)と2人で創業
    • [4]1965年8月、大垣市の劇団「未来座」が解散しメンバーで電設資材メーカー未来工業を設立。山田昭男は父の電線メーカー勤務・家業継承予定、市民会館開館時に未来座結成し座長、芝居で勘当され、演出担当の清水昭八(現専務)と2人で創業
    • [5]1965年8月、大垣市の劇団「未来座」が解散しメンバーで電設資材メーカー未来工業を設立。山田昭男は父の電線メーカー勤務・家業継承予定、市民会館開館時に未来座結成し座長、芝居で勘当され、演出担当の清水昭八(現専務)と2人で創業
    • [6]1965年8月、大垣市の劇団「未来座」が解散しメンバーで電設資材メーカー未来工業を設立。山田昭男は父の電線メーカー勤務・家業継承予定、市民会館開館時に未来座結成し座長、芝居で勘当され、演出担当の清水昭八(現専務)と2人で創業
    • [8]1965年に家内配線器具の透明ジョイントボックスを製造開始。成形機1台で作れ数も売れる素人向き製品で先発は10数社。ベース部分の工夫で使いやすくなり売れた。資金・技術なく先発と競うにはアイデアしかなかったと山田社長が回想。劇団仲間が続々入社し総務・営業・製造部長は未来座出身
    • [9]1965年に家内配線器具の透明ジョイントボックスを製造開始。成形機1台で作れ数も売れる素人向き製品で先発は10数社。ベース部分の工夫で使いやすくなり売れた。資金・技術なく先発と競うにはアイデアしかなかったと山田社長が回想。劇団仲間が続々入社し総務・営業・製造部長は未来座出身
    • [10]1965年に家内配線器具の透明ジョイントボックスを製造開始。成形機1台で作れ数も売れる素人向き製品で先発は10数社。ベース部分の工夫で使いやすくなり売れた。資金・技術なく先発と競うにはアイデアしかなかったと山田社長が回想。劇団仲間が続々入社し総務・営業・製造部長は未来座出身
    • [11]1965年に家内配線器具の透明ジョイントボックスを製造開始。成形機1台で作れ数も売れる素人向き製品で先発は10数社。ベース部分の工夫で使いやすくなり売れた。資金・技術なく先発と競うにはアイデアしかなかったと山田社長が回想。劇団仲間が続々入社し総務・営業・製造部長は未来座出身
    • [12]1965年に家内配線器具の透明ジョイントボックスを製造開始。成形機1台で作れ数も売れる素人向き製品で先発は10数社。ベース部分の工夫で使いやすくなり売れた。資金・技術なく先発と競うにはアイデアしかなかったと山田社長が回想。劇団仲間が続々入社し総務・営業・製造部長は未来座出身
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1965年8月、電設資材の製造・販売を目的に岐阜県大垣市久瀬川町に未来工業株式会社を設立
  • 証券アナリストジャーナル 1992年1月 山田昭男
    • [7]製品は当初1品でスタートし、1992年時点で約100種類・6,000点に拡大

1967年〜大垣市楽田町への本社移転と、スイッチボックスなど1000点で23億円を見込んだアイデア商品

未来工業は1967年7月、本社を岐阜県大垣市楽田町へ移転した。創業地の大垣市久瀬川町と同じ大垣市内での移転である。1978年時点でも本社は楽田町にあり、資本金は4800万円、製造品目は35種類・約1000点に増えていた。本社の事務所は2階に社長席と専務席を一般社員の机と並べて置き、重役室を仕切らない造り。1982年3月に養老工場を設けた際、未来工業は本社製造部を大垣工場へ改組しており、楽田町の本社は製造の機能も担っていた。楽田町の本社は、1985年7月に安八郡輪之内町へ本社と大垣工場を移すまで約18年続いた。創業から2年での移転は、品目と人員の増加に合わせて製造と販売の場を広げる狙いだったと推察される。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1965年8月大垣市久瀬川町に設立、1967年7月大垣市楽田町に本社移転、1982年3月養老工場設置に伴い本社製造部を大垣工場に組織変更、1985年7月安八郡輪之内町に本社移転・大垣工場移転
    • [14]1965年8月大垣市久瀬川町に設立、1967年7月大垣市楽田町に本社移転、1982年3月養老工場設置に伴い本社製造部を大垣工場に組織変更、1985年7月安八郡輪之内町に本社移転・大垣工場移転
    • [17]1965年8月大垣市久瀬川町に設立、1967年7月大垣市楽田町に本社移転、1982年3月養老工場設置に伴い本社製造部を大垣工場に組織変更、1985年7月安八郡輪之内町に本社移転・大垣工場移転
    • [18]1965年8月大垣市久瀬川町に設立、1967年7月大垣市楽田町に本社移転、1982年3月養老工場設置に伴い本社製造部を大垣工場に組織変更、1985年7月安八郡輪之内町に本社移転・大垣工場移転
  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [15]1978年時点のプロフィル:本社 岐阜県大垣市楽田町、資本金4800万円、製造品目35種類・約1000点。事務所2階の重役室は一般社員の机と並んだ社長席・専務席のみ
    • [16]1978年時点のプロフィル:本社 岐阜県大垣市楽田町、資本金4800万円、製造品目35種類・約1000点。事務所2階の重役室は一般社員の机と並んだ社長席・専務席のみ

未来工業は1973年度まで、売上高と収益をともに毎年倍増させた。山田昭男氏は、個性を尊重して上下の命令系統を設けないことを組織理念に据えた。役者と裏方が平等に費用を負担し、各自の持ち場を生かして舞台を仕上げる素人劇団の運営を、企業組織に移し替えた理念である。未来工業は製造・営業・開発・総務の各部に運営責任を委ね、稟議書を廃したうえで、5〜6人の小グループに持ち場を任せた。製品開発では創業以来「常に考える」を最も大切な言葉に掲げ、社員と顧客の提案を生かして他社品に付加価値を加える方針を貫いた。1978年時点で製品はスイッチボックス・テレチューブ・ジョイントボックスを含む約1000点に達した。舞台監督に徹する社長の下で現場が考える組織が、先発と異なる製品を生む土台になったのだろう。

  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [19]48年度まで売上・収益とも倍々。組織理念は個性尊重・縦の命令系統を作らない(素人劇団の平等・役割分担に由来)。各部に運営責任を委譲し稟議書なし、5~6人の小グループ制。製品はスイッチボックス・テレチューブ・ジョイントボックスなど約1000点
    • [20]48年度まで売上・収益とも倍々。組織理念は個性尊重・縦の命令系統を作らない(素人劇団の平等・役割分担に由来)。各部に運営責任を委譲し稟議書なし、5~6人の小グループ制。製品はスイッチボックス・テレチューブ・ジョイントボックスなど約1000点
    • [21]48年度まで売上・収益とも倍々。組織理念は個性尊重・縦の命令系統を作らない(素人劇団の平等・役割分担に由来)。各部に運営責任を委譲し稟議書なし、5~6人の小グループ制。製品はスイッチボックス・テレチューブ・ジョイントボックスなど約1000点
    • [22]48年度まで売上・収益とも倍々。組織理念は個性尊重・縦の命令系統を作らない(素人劇団の平等・役割分担に由来)。各部に運営責任を委譲し稟議書なし、5~6人の小グループ制。製品はスイッチボックス・テレチューブ・ジョイントボックスなど約1000点
    • [24]48年度まで売上・収益とも倍々。組織理念は個性尊重・縦の命令系統を作らない(素人劇団の平等・役割分担に由来)。各部に運営責任を委譲し稟議書なし、5~6人の小グループ制。製品はスイッチボックス・テレチューブ・ジョイントボックスなど約1000点
  • 証券アナリストジャーナル 1992年1月 山田昭男
    • [23]設立以来「常に考える」を一番大切な言葉とし、社員と顧客の提案制度でプラスアルファの付加価値を付ける製品づくりを貫いた

未来工業は石油危機後の低成長期に入っても、1978年まで過去最高の利益を更新し続けた。創業10周年の1975年には記念事業の一つとして、大垣市で山本安英の会の「夕鶴」公演を主催し、2,000人の市民を無料で招待した。山田昭男氏が後年示したのは、企業は文化活動を通じても社会に還元すべきだという考えである。同じころ正月の休暇を10日間に増やし、給与以外で社員の意欲を高める策も講じた。販売では一次問屋を通さず1850社の二次問屋と直接取引し、問屋の倒産リスクを分散した。1978年度の売上高は23億円を見込み、従業員数は120人となり、1978年3月期末の自己資本比率は42.8%。厚い自己資本と約1000点の製品群が、1980年代の工場新設に向けた備えになったと思われる。

  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [25]低成長時代も過去最高の利益を更新中(1978年)。一次問屋を通さず1850社の二次問屋に絞りリスク分散。売上高23億円(53年度予想)・従業員120人、自己資本比率42.8%(53年3月期末)
    • [29]低成長時代も過去最高の利益を更新中(1978年)。一次問屋を通さず1850社の二次問屋に絞りリスク分散。売上高23億円(53年度予想)・従業員120人、自己資本比率42.8%(53年3月期末)
    • [30]低成長時代も過去最高の利益を更新中(1978年)。一次問屋を通さず1850社の二次問屋に絞りリスク分散。売上高23億円(53年度予想)・従業員120人、自己資本比率42.8%(53年3月期末)
  • 証券アナリストジャーナル 1992年1月 山田昭男
    • [26]1975年の創業10周年記念に山本安英の会「夕鶴」公演を大垣市で主催し市民2,000人を無料招待。企業も文化面で社会貢献すべきとの考え。約17年前(1975年ごろ)に正月休暇を10日間に
    • [27]1975年の創業10周年記念に山本安英の会「夕鶴」公演を大垣市で主催し市民2,000人を無料招待。企業も文化面で社会貢献すべきとの考え。約17年前(1975年ごろ)に正月休暇を10日間に
    • [28]1975年の創業10周年記念に山本安英の会「夕鶴」公演を大垣市で主催し市民2,000人を無料招待。企業も文化面で社会貢献すべきとの考え。約17年前(1975年ごろ)に正月休暇を10日間に
参考文献[13]-[30]
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1965年8月大垣市久瀬川町に設立、1967年7月大垣市楽田町に本社移転、1982年3月養老工場設置に伴い本社製造部を大垣工場に組織変更、1985年7月安八郡輪之内町に本社移転・大垣工場移転
    • [14]1965年8月大垣市久瀬川町に設立、1967年7月大垣市楽田町に本社移転、1982年3月養老工場設置に伴い本社製造部を大垣工場に組織変更、1985年7月安八郡輪之内町に本社移転・大垣工場移転
    • [17]1965年8月大垣市久瀬川町に設立、1967年7月大垣市楽田町に本社移転、1982年3月養老工場設置に伴い本社製造部を大垣工場に組織変更、1985年7月安八郡輪之内町に本社移転・大垣工場移転
    • [18]1965年8月大垣市久瀬川町に設立、1967年7月大垣市楽田町に本社移転、1982年3月養老工場設置に伴い本社製造部を大垣工場に組織変更、1985年7月安八郡輪之内町に本社移転・大垣工場移転
  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
    • [15]1978年時点のプロフィル:本社 岐阜県大垣市楽田町、資本金4800万円、製造品目35種類・約1000点。事務所2階の重役室は一般社員の机と並んだ社長席・専務席のみ
    • [16]1978年時点のプロフィル:本社 岐阜県大垣市楽田町、資本金4800万円、製造品目35種類・約1000点。事務所2階の重役室は一般社員の机と並んだ社長席・専務席のみ
    • [19]48年度まで売上・収益とも倍々。組織理念は個性尊重・縦の命令系統を作らない(素人劇団の平等・役割分担に由来)。各部に運営責任を委譲し稟議書なし、5~6人の小グループ制。製品はスイッチボックス・テレチューブ・ジョイントボックスなど約1000点
    • [20]48年度まで売上・収益とも倍々。組織理念は個性尊重・縦の命令系統を作らない(素人劇団の平等・役割分担に由来)。各部に運営責任を委譲し稟議書なし、5~6人の小グループ制。製品はスイッチボックス・テレチューブ・ジョイントボックスなど約1000点
    • [21]48年度まで売上・収益とも倍々。組織理念は個性尊重・縦の命令系統を作らない(素人劇団の平等・役割分担に由来)。各部に運営責任を委譲し稟議書なし、5~6人の小グループ制。製品はスイッチボックス・テレチューブ・ジョイントボックスなど約1000点
    • [22]48年度まで売上・収益とも倍々。組織理念は個性尊重・縦の命令系統を作らない(素人劇団の平等・役割分担に由来)。各部に運営責任を委譲し稟議書なし、5~6人の小グループ制。製品はスイッチボックス・テレチューブ・ジョイントボックスなど約1000点
    • [24]48年度まで売上・収益とも倍々。組織理念は個性尊重・縦の命令系統を作らない(素人劇団の平等・役割分担に由来)。各部に運営責任を委譲し稟議書なし、5~6人の小グループ制。製品はスイッチボックス・テレチューブ・ジョイントボックスなど約1000点
    • [25]低成長時代も過去最高の利益を更新中(1978年)。一次問屋を通さず1850社の二次問屋に絞りリスク分散。売上高23億円(53年度予想)・従業員120人、自己資本比率42.8%(53年3月期末)
    • [29]低成長時代も過去最高の利益を更新中(1978年)。一次問屋を通さず1850社の二次問屋に絞りリスク分散。売上高23億円(53年度予想)・従業員120人、自己資本比率42.8%(53年3月期末)
    • [30]低成長時代も過去最高の利益を更新中(1978年)。一次問屋を通さず1850社の二次問屋に絞りリスク分散。売上高23億円(53年度予想)・従業員120人、自己資本比率42.8%(53年3月期末)
  • 証券アナリストジャーナル 1992年1月 山田昭男
    • [23]設立以来「常に考える」を一番大切な言葉とし、社員と顧客の提案制度でプラスアルファの付加価値を付ける製品づくりを貫いた
    • [26]1975年の創業10周年記念に山本安英の会「夕鶴」公演を大垣市で主催し市民2,000人を無料招待。企業も文化面で社会貢献すべきとの考え。約17年前(1975年ごろ)に正月休暇を10日間に
    • [27]1975年の創業10周年記念に山本安英の会「夕鶴」公演を大垣市で主催し市民2,000人を無料招待。企業も文化面で社会貢献すべきとの考え。約17年前(1975年ごろ)に正月休暇を10日間に
    • [28]1975年の創業10周年記念に山本安英の会「夕鶴」公演を大垣市で主催し市民2,000人を無料招待。企業も文化面で社会貢献すべきとの考え。約17年前(1975年ごろ)に正月休暇を10日間に

出典・参考

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出典・参考
  • 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1978年11月6日号
  • 証券アナリストジャーナル 1992年1月 山田昭男

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