森村市左衛門
経歴1876〜1919年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1876年主要役職の状況(推定含む目安)1919年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 森村組 | 1876 | 設立 | ||
| 1909 | その他 | ||||
| ノリタケ(旧・日本陶器合名会社) | 1904 | 設立 | |||
| 1915 | その他 | ||||
| 1919 | 死去 |
社長就任までの出自
出自
1839年10月に生まれ、6代目の森村市左衛門を名乗った。父は大名屋敷に出入りする袋物商で、本人も横浜の唐物を扱う商人として旗本や諸藩に出入りした。1876年に弟の森村豊氏と森村組を創立し、1904年には森村組の首脳とともに日本陶器合名会社を創立した。合名会社の代表社員には大倉和親氏が推され、森村市左衛門氏は日本陶器の社長に就任していない。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
森村市左衛門氏は1855年の江戸大地震で家財をすべて失い、路上の小商いから再起した。横浜経由の舶来品を扱ううちに、開港後の取引が日本の商人に不利な形で進んでいることに疑問を抱いた。1860年の遣米使節に際しては御用金をメキシコ銀に両替する役を引き受け、日米の金銀比価の差から日本の金が海外へ流れ出ていると知った。中津藩の家老の紹介で福澤諭吉氏と知り合い、金を取り戻す手段は輸出貿易しかないと結論づけた。
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第一編第一章 森村組の誕生
- [5]安政2年、江戸大地震によって家財のすべてを失った市左衛門は、一介の大道商人から立ちあがった。横浜から入る外国の文物をあきなううちに貿易上の多くの矛盾に疑念を抱くようになった
- [6]安政2年、江戸大地震によって家財のすべてを失った市左衛門は、一介の大道商人から立ちあがった。横浜から入る外国の文物をあきなううちに貿易上の多くの矛盾に疑念を抱くようになった
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第一編第一章第二節 海外貿易の先駆者
- [7]遣米使節の御用金の両替(メキシコ銀との交換)を引き受け、当時の日米間の金銀比価で日本の金が安いことを知った。中津藩奥平家の家老を通じて福澤諭吉に引き合わされ、金を取り戻すには輸出貿易による以外に方法がないとの結論を得た
- [8]遣米使節の御用金の両替(メキシコ銀との交換)を引き受け、当時の日米間の金銀比価で日本の金が安いことを知った。中津藩奥平家の家老を通じて福澤諭吉に引き合わされ、金を取り戻すには輸出貿易による以外に方法がないとの結論を得た
明治に入ると洋服裁縫店や洋式馬具の製造で資金を蓄え、政府の御用達は辞して独立の商いを選んだ。15歳下の異母弟の森村豊氏を慶応義塾で学ばせ、店の資金から3,000円余りを渡米の費用に充てた。1876年、兄弟は東京・銀座4丁目に森村組を創立し、森村豊氏は同年3月に渡米してニューヨークに雑貨店を開設した。国内では森村市左衛門氏と義弟の大倉孫兵衛氏が各地の産地を回り、陶器・銅器・提灯などを買い集めて送り出した。
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第一編第一章第三節 森村組の創設
- [9]洋式馬具の製作・御用達ののち、政府の御用達を辞して銀座に洋服裁縫店を開いた。15才年下の異母弟森村豊を慶応義塾に学ばせ、洋服裁縫店や馬具製造所の資金などから3,000円余りを渡米の資金とし、明治9年(1876)兄弟二人で森村組を東京銀座4丁目に創立。同年3月10日、豊は福澤の紹介状をたずさえて渡米の途についた
- [10]洋式馬具の製作・御用達ののち、政府の御用達を辞して銀座に洋服裁縫店を開いた。15才年下の異母弟森村豊を慶応義塾に学ばせ、洋服裁縫店や馬具製造所の資金などから3,000円余りを渡米の資金とし、明治9年(1876)兄弟二人で森村組を東京銀座4丁目に創立。同年3月10日、豊は福澤の紹介状をたずさえて渡米の途についた
- [11]洋式馬具の製作・御用達ののち、政府の御用達を辞して銀座に洋服裁縫店を開いた。15才年下の異母弟森村豊を慶応義塾に学ばせ、洋服裁縫店や馬具製造所の資金などから3,000円余りを渡米の資金とし、明治9年(1876)兄弟二人で森村組を東京銀座4丁目に創立。同年3月10日、豊は福澤の紹介状をたずさえて渡米の途についた
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第一編第一章第四節 森村ブラザースの設立
- [12]豊はニューヨークのフロントストリートに雑貨店を開き、明治11年(1878)単独経営の森村ブラザースを設立。日本では市左衞門と義弟の大倉孫兵衞が東海道を横浜・名古屋・京都・大阪とかけまわり、骨董品・陶器・銅器・団扇・提灯・人形などを買い集めて送りこんだ
- [13]豊はニューヨークのフロントストリートに雑貨店を開き、明治11年(1878)単独経営の森村ブラザースを設立。日本では市左衞門と義弟の大倉孫兵衞が東海道を横浜・名古屋・京都・大阪とかけまわり、骨董品・陶器・銅器・団扇・提灯・人形などを買い集めて送りこんだ
同じ時期の貿易会社には政府から無利子の資金を借りた会社が多かったが、森村組は保護を受けない方針を貫いた。森村市左衛門氏は後年、無利子の資金では商売に真剣さを欠くと振り返っており、保護を受けた会社の多くは後に姿を消した。1880年には自ら渡米して市場を調べ、陶磁器の商いに将来性があると見定めた。1882年末には、即時の卸売転換を説く村井保固氏の意見を森村豊氏が本店に諮り、ニューヨーク店の営業を小売中心から卸売専門へ切り替えた。この転換が、森村組が日本有数の輸出商社へ成長する契機となった。
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第一編第一章第五節 森村組の経営理念
- [14]政府の保護を受けた起立工商会社などは無利子の資金を借りていたが、森村組は政府の援助を固辞し独立自営を経営の基本方針とした。「森村翁言行録」で市左衞門は無利息の金を使うと苦しんで働く気象が無くなると述べ、無利息で政府の金を借りた貿易商は跡形も無くなったと回顧した
- [15]政府の保護を受けた起立工商会社などは無利子の資金を借りていたが、森村組は政府の援助を固辞し独立自営を経営の基本方針とした。「森村翁言行録」で市左衞門は無利息の金を使うと苦しんで働く気象が無くなると述べ、無利息で政府の金を借りた貿易商は跡形も無くなったと回顧した
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第一編第二章 森村組の発展/第四章第一節 海外技術の吸収
- [16]明治13年(1880)市左衞門はみずから米国へ渡って市場を調査し、陶磁器の商売が有望であるとの確信を得た。村井保固は即時卸売専門への転換を主張し、豊は村井の意見も添えて本店の裁断を求めた。明治15年(1882)暮れに本店の方針で森村ブラザースの営業が小売りから卸売り専門に転換し、森村組の大発展の契機となった
- [17]明治13年(1880)市左衞門はみずから米国へ渡って市場を調査し、陶磁器の商売が有望であるとの確信を得た。村井保固は即時卸売専門への転換を主張し、豊は村井の意見も添えて本店の裁断を求めた。明治15年(1882)暮れに本店の方針で森村ブラザースの営業が小売りから卸売り専門に転換し、森村組の大発展の契機となった
- [18]明治13年(1880)市左衞門はみずから米国へ渡って市場を調査し、陶磁器の商売が有望であるとの確信を得た。村井保固は即時卸売専門への転換を主張し、豊は村井の意見も添えて本店の裁断を求めた。明治15年(1882)暮れに本店の方針で森村ブラザースの営業が小売りから卸売り専門に転換し、森村組の大発展の契機となった
1889年のパリ万国博覧会では森村豊氏とともに欧州の磁器を見て技術の差を知り、品質の改良を産地任せにせず森村組が自ら主導すると決めた。白色硬質磁器の研究に着手し、1896年には飛鳥井孝太郎氏を迎え、翌年欧州へ研究に送り出した。1904年1月1日、森村組の首脳は愛知県鷹羽村則武に日本陶器合名会社を創立し、資本金10万円のうち3万円を森村市左衛門氏が出資した。社名は地方名を冠した名古屋製陶会社の案を退けて日本陶器とし、創立の宣誓文は森村市左衛門氏が「誓テ至誠事ニ當リ」と書き改めさせた。
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第一編第四章第一節 海外技術の吸収
- [19]明治22年(1889)5月のパリ万国博覧会に市左衞門は豊とともに渡仏し、欧州製品の製作技術と画付けに驚嘆した。東京で検討した結果、品質改良は業者にまかせず、みずから陣頭にたって指導すべきとの結論に達し、白色硬質磁器への挑戦がはじまった
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第一編第四章 製造技術の進歩
- [20]市左衞門は白色硬質磁器研究の第一着手として、東京工業学校校長手島精一の推せんで明治29年(1896)1月に飛鳥井孝太郎を招へい。翌30年2月、飛鳥井は農商務省海外貿易練習生として渡欧した
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第二編第一章 日本陶器合名会社の設立
- [21]明治37年1月1日、森村組首脳が愛知県愛知郡鷹羽村則武に日本陶器合名会社を創立。資本金10万円のうち森村市左衞門3万円・大倉孫兵衞2万5千円・村井保固2万5千円・大倉和親1万5千円・飛鳥井孝太郎5千円。社名は名古屋製陶会社とほぼ決まっていたが地方的名称を避けて日本陶器合名会社とした。宣誓文の「天祐ニ依リ素志ヲ」を市左衞門が「誓テ至誠事ニ當リ」と改めさせた
- [22]明治37年1月1日、森村組首脳が愛知県愛知郡鷹羽村則武に日本陶器合名会社を創立。資本金10万円のうち森村市左衞門3万円・大倉孫兵衞2万5千円・村井保固2万5千円・大倉和親1万5千円・飛鳥井孝太郎5千円。社名は名古屋製陶会社とほぼ決まっていたが地方的名称を避けて日本陶器合名会社とした。宣誓文の「天祐ニ依リ素志ヲ」を市左衞門が「誓テ至誠事ニ當リ」と改めさせた
業務を担う代表社員には29歳の大倉和親氏が推され、森村市左衛門氏は日本陶器の経営の表には立たなかった。1909年5月には森村組総長の名で「我カ社ノ精神」を示し、私利を求めず約束を違えない商いの方針を文書にした。日本陶器は1914年6月にディナーセットを完成させ、のちに主力製品とした。森村市左衛門氏は1915年12月に男爵を受け、1919年9月に死去した。
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第二編第一章第三節 工場の建設と設備
- [23]初代代表社員には、当時29歳であった大倉和親が総意をもって推され、工場建設の最高責任者となった
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第一編第一章第五節 森村組の経営理念
- [24]明治42年5月、森村組総長森村市左衞門の名で「我カ社ノ精神」を宣明。私利を楽しまず一身を犠牲とし、至誠を心とし信実を旨とし約束を違えざることなどを掲げた
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第二編第四章 ディナーセットの完成
- [25]大正3年(1914)6月、待望久しいわが社のディナーセットはついに完成した。翌5年にはディナーセットが登場し、ついにはわが社の主要製品となった
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)年表
- [26]年表 大正4年12月1日 森村市左衞門、男爵を受ける。大正8年9月11日 森村市左衞門逝去
参考文献3件
参考文献
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第一編第一章 森村組の誕生
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)第二編第一章 日本陶器合名会社の設立
- 日本陶器七十年史(日本陶器, 1974)年表
事実根拠:出所(ノリタケ)