田嶋一雄による日独写真機商店の創業とカメラ国産化への挑戦
舶来品が占めた写真機市場に、貿易商の長男はなぜ一身を投じたのか
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- 概要
- 1928年11月、貿易商・田嶋商店に勤めていた田嶋一雄が、父の反対を押し切って独立し、兵庫県武庫郡鳴尾村の武庫川河畔に個人経営「日独写真機商店」を興した経営判断。二人のドイツ人技術者の協力を得て小型カメラの製造に着手し、のちのミノルタカメラ、現コニカミノルタの一方の源流となった。
- 背景
- 田嶋一雄は父の貿易商で人絹や雑貨の輸出に携わったが、模造品の乱立で値の通らない商いに疑問を抱いていた。当時の日本の写真機市場は国産大手が小西六一社にとどまり、大半をドイツをはじめとする欧米からの輸入品が占めていた。外遊先のパリで光学兵器工場を見た田嶋は、加工度の高い独創的な製品づくりへの志を強めていた。
- 内容
- 神戸で顔見知りだったドイツ人ハイレマンと技術者ノイマンから写真機製造を勧められた田嶋は、パリで胸に刻んだ「光学」と写真機が同じ機器だと気づき、独立を決めた。父は資金援助を渋りつつ生命保険金五千円を渡し、生家の番頭からの借金も加えて武庫川に工場を建て、総勢約三十人で操業を始めた。
- 含意
- 創業の翌年に第一号機ニフカレッテを世に出したが、部品の多くは輸入に頼っていた。ドイツ人技術者の離反を機に田嶋は日本人だけの体制へ切り替え、シャッターの自製やレンズの国産化を進めた。1933年にはブランド名「ミノルタ」を確立し、独創を旨とする社風が国産初の二眼レフや一貫生産体制へとつながった。
舶来品への従属を断つという選択
この創業の判断が持つ意味は、単に一つの会社が生まれたことにとどまらない。値の通らない雑貨貿易に見切りをつけ、輸入品が支配する写真機を自らつくる側へ回るという選択は、舶来品への従属をどこかで断ち切ろうとする意志に支えられていたとみることができる。パリで測距儀に引きつけられた一個人が、父の反対と恐慌の逆風のなかで独立に踏み切った背景には、加工度の高い独創的な製品でなければ日本の商いは立ち行かないという、外遊で得た危機感がうかがえる。
出発こそ輸入部品に頼ったものの、田嶋氏はドイツ人技術者の離反をむしろ機として国産化へ向かい、独創を旨とする社風を育てた。その志向は、国産初の二眼レフや宇宙へ運ばれたカメラ、事務機への多角化へと形を変えて受け継がれていく。祖業のカメラ事業そのものは2006年に幕を下ろしたが、光学と精密の技術は計測やセンシングとして今のコニカミノルタに残る。一つの町工場の創業を、その後の八十年を貫く技術の系譜の出発点として読み直すこともできよう。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
値の通らない雑貨貿易と、舶来品が占めた写真機市場
田嶋一雄氏は、父が神戸で営む貿易商・田嶋商店に勤め、人絹織物や雑貨の輸出に携わっていた。1927年、商工省の後援する旅商団の一員として中近東と東欧を巡った折、カイロで自らが開拓した綿布の取引先から思わぬ苦情を受けた。好評だった商品にそっくりの模造品が別のルートから安値で流れ込み、先発の利をつかむ間もない、という内容であった。田嶋氏は、過当競争と人まねに沈む日本の商いに疑問を深め、加工度が高く他がまねしにくい独創的な製品でなければ立ち行かない、との思いを強めていった[1]。
当時の日本の写真機産業は、国産の大手が小西六の一社にとどまり、市場の大半はドイツをはじめとする欧米からの輸入品で占められていた。カメラやレンズは舶来品が支配する高価な機器であり、国産化はまだ緒に就いたばかりであった。田嶋氏はこの外遊の途上、パリで一級の光学兵器会社の工場を訪ね、日本軍向けに独占的に量産される精密な測距儀を目にする。値の通らない繊維とは対照的に、価格が言い値で通る精密機器の世界に、田嶋氏は強く引きつけられていった[2]。
決断
「光学」への開眼と、二人のドイツ人の誘い
パリで測距儀を見て以来、田嶋氏の頭からは「光学」の二文字が離れなくなっていた。帰国してほどなく、神戸で写真機用品を輸入していた顔見知りのドイツ人ハイレマンが、パリの光学機器会社に勤めた経験を持つ技術者ノイマンを伴って田嶋氏を訪ねた。二人は口をそろえて「写真機をつくらないか」と勧める。田嶋氏は、パリで胸に焼きついた光学兵器と、いま持ちかけられた写真機とが「光学機器」という一点で結びつくことに気づき、これを好機とみた[3]。
長男の田嶋氏には、そのまま父の家業を継ぐという恵まれた道もあった。それでも田嶋氏は、目の前に開けた新しい道に賭ける決断を下す。できれば田嶋商店の新規事業として手掛けたいと父に打ち明けたが、父は「あまりにも業種がかけ離れ過ぎて危険だ。どうしてもやりたければ独力で勝手にやれ」と同意しなかった。技術の要はノイマンが担い、必要な部品はハイレマンが輸入するという役割の見通しのもと、田嶋氏は父の会社を出て一人で写真機づくりに踏み切る道を選んだ[4]。
恐慌下の武庫川河畔で始まった操業
資金の当ては乏しかった。工場の用地と建築費でおよそ一万円、機械設備を加えれば最低一万五千円が要る。田嶋氏は生家の漆器商を切り盛りする番頭に頭を下げて借金を重ね、写真機に反対していた父も、生命保険が満期になって入った五千円を「これだけだぞ。あとは自分でやれ」と渡した。田嶋氏は兵庫県武庫郡鳴尾村の武庫川河畔に土地を求め、木造一部二階建て延べ約百三十坪の工場を建てた。旋盤工や仕上げ工を口コミで集め、田嶋自身を含めて総勢およそ三十人がそろった[5]。
1928年11月、田嶋氏は個人経営「日独写真機商店」の看板を掲げ、操業を開始した。田嶋氏は満二十九歳を迎えようとしていた。社名の「日独」は、日本人の自分がドイツ人二人の協力を得て出発したことに由来する。前年の金融恐慌に続いて世界恐慌が迫り、多くの中小企業が取引銀行を失って行き詰まるさなかの船出であった。舶来品が占める写真機市場へ、無名の町工場が嵐をついて漕ぎ出したかたちである[6][7]。
結果
第一号機ニフカレッテと、国産化の推進
部品の下請け企業がほとんど無いなか、ネジひとつから手づくりする試行錯誤が続いた。操業から四カ月後の1929年3月、ノイマンの指導のもとで一号機が完成する。八枚撮りのロールフィルムを使う蛇腹式のハンドカメラで、「日独」と写真、カメラの頭文字をとって「ニフカレッテ」と名づけられた。レンズやシャッターは輸入品に頼ったが、外観のスマートさが評判を呼び、一台二十円で売り出された当初はよく売れた。もっとも緊縮財政下で景気が下り坂に転じると売れ行きは鈍り、田嶋氏は再三の資金繰りに追われた[8][9]。
1931年、田嶋氏は個人経営を合資会社へ改めた。その直後、片腕だったハイレマンが独立し、続いてノイマンも数人の工員を連れて去っていく。技術の要を失った打撃は大きかったが、田嶋氏は「これからは日本人だけでやろう」と腹を決めた。生産体制を仕上・旋盤・シャッター・塗装の各部に組織化すると社内の士気はかえって高まり、シャッターを自前でつくり、レンズもなるべく国産品を使おうという機運が広がっていった。輸入部品への依存から国産化へと向かう歩みは、この人の出入りを境に加速した[10]。
「ミノルタ」の確立と、その後への継承
1933年、田嶋氏は速写型のカメラを発売し、これに「ミノルタ」の名を冠した。田嶋光学機器を意味する英語の頭文字をつないだ造語で、生母が生前に説いた「稔るほど頭を垂れる稲穂のように」という戒めから「稔る田」の意も重ねている。1936年に個人組織を資本金三十万円の合資会社モルタ商会と改めて全製品の名称をミノルタに統一すると、翌年には国産初の二眼レフカメラ「ミノルタフレックス」を世に送り出した。二眼レフはミノルタの得意分野と評されるようになり、レンズ生地までを自製する一貫生産体制も整っていった[11][12]。
田嶋氏は1937年に株式会社千代田光学精工へ改組し、戦時下では海軍向けの双眼鏡や光学ガラスの生産を通じて光学技術を蓄えた。戦後は戦後第一号機ミノルタセミや輸出の拡大を経て、1962年には社名をミノルタカメラに改めている。カメラから複写機など事務機への多角化も進んだ。1928年に一個人が興した写真機の町工場は、こうして光学と映像の総合メーカーへと育ち、2003年にはコニカと経営統合してコニカミノルタの一方の源流となった[13]。
- 田嶋一雄「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人21』日本経済新聞社, 1986 所収)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)「ミノルタカメラ」の項