第1章 年〜年

大塚商会:大塚實の大塚商会創業と電算機事業への参入

1961年〜理研光学を出て三度つまずいた大塚實氏と、千代田区で始めた複写機の販売

大塚實氏はビルマ戦線から1947年に復員し、同年に理研光学工業へ入社して営業で実績を上げた。創業社長の市村清氏の退陣を求める争議で委員長となり、1カ月のストライキが会社側の切り崩しで終わった後、1951年に退社した。次に働いた感光紙販売の理研紙工業は2年を待たずに倒産し、資金を投じたルミナ閃光電球も東京芝浦電気などの参入を受けて倒産。複写機用品を扱う山本商会では営業で頭角を現したものの、個性の強さから古参社員と折り合わず、退社に至った。大塚實氏は後年、先を急いでは同じ失敗を繰り返し、生き方を変える必要を痛感したと振り返った。3社で続いた挫折が、1922年生まれの大塚實氏の独立を38歳の1961年まで遅らせたとみられる。

  • 日経ビジネス 1989年12月4日号 p86-90
    • [1]大塚実は1947年に理研光学工業入社、市村清退陣要求の争議(1カ月スト)に敗れ1951年退社。理研紙工業は2年未満で倒産、ルミナ閃光電球は東芝など大手参入で倒産、山本商会は古参社員に疎まれ退社
    • [2]大塚実は1947年に理研光学工業入社、市村清退陣要求の争議(1カ月スト)に敗れ1951年退社。理研紙工業は2年未満で倒産、ルミナ閃光電球は東芝など大手参入で倒産、山本商会は古参社員に疎まれ退社
    • [3]大塚実は1947年に理研光学工業入社、市村清退陣要求の争議(1カ月スト)に敗れ1951年退社。理研紙工業は2年未満で倒産、ルミナ閃光電球は東芝など大手参入で倒産、山本商会は古参社員に疎まれ退社
    • [4]大塚実は1947年に理研光学工業入社、市村清退陣要求の争議(1カ月スト)に敗れ1951年退社。理研紙工業は2年未満で倒産、ルミナ閃光電球は東芝など大手参入で倒産、山本商会は古参社員に疎まれ退社
  • 日経ビジネス 1998年3月23日号 有訓無訓 大塚実 p3
    • [5]大塚実は創業前の十数年、失敗を繰り返し生き方を変える必要を痛感したと回顧

大塚實氏は生活に困窮した末に、1961年7月に大塚商会を設立した。最初の商材は複写機で、大塚實氏は2000年にも自社の出発点を複写機の販売と位置づけた。大塚實氏は理研光学工業での経験から市村清氏を反面教師とし、働きに見合った評価を社員が受けられる会社を作ることを創業の動機に据えた。同時に、速さよりも失敗しないことを優先すると誓い、その誓いを社訓の「亀の歩みは兎より速い」に込めた。1989年時点の社訓の筆頭には、創業前の困窮を踏まえた「人生は勝者に楽しく、敗者には悲惨な道だ」という言葉を置いた。人に使われる立場で挫折を重ねた経験が、自ら会社を持つ決断と創業時の2つの誓いを同時に生んだと推察される。

  • 日経ビジネス 1978年7月17日号 p103-104
    • [6]大塚商会は1961年(昭和36年)7月設立。大塚実は生活困窮の末に創業
  • 証券アナリストジャーナル 2000年7月 大塚実
    • [7]大塚実は自社が「複写機の大塚商会」から創業したと説明(2000年)
  • 日経ビジネス 1989年12月4日号 p86-90
    • [8]大塚実は市村清を反面教師とし、真面目に働く者が正当に評価される会社を作ると念じて1961年に大塚商会を設立
    • [10]大塚実は市村清を反面教師とし、真面目に働く者が正当に評価される会社を作ると念じて1961年に大塚商会を設立
  • 日経ビジネス 1998年3月23日号 有訓無訓 大塚実 p3
    • [9]大塚実は大塚商会を興すとき「ゆっくりでいいから失敗しないこと」を誓い、社訓は「亀の歩みは兎より速い」
参考文献[1]-[10]
  • 日経ビジネス 1989年12月4日号 p86-90
    • [1]大塚実は1947年に理研光学工業入社、市村清退陣要求の争議(1カ月スト)に敗れ1951年退社。理研紙工業は2年未満で倒産、ルミナ閃光電球は東芝など大手参入で倒産、山本商会は古参社員に疎まれ退社
    • [2]大塚実は1947年に理研光学工業入社、市村清退陣要求の争議(1カ月スト)に敗れ1951年退社。理研紙工業は2年未満で倒産、ルミナ閃光電球は東芝など大手参入で倒産、山本商会は古参社員に疎まれ退社
    • [3]大塚実は1947年に理研光学工業入社、市村清退陣要求の争議(1カ月スト)に敗れ1951年退社。理研紙工業は2年未満で倒産、ルミナ閃光電球は東芝など大手参入で倒産、山本商会は古参社員に疎まれ退社
    • [4]大塚実は1947年に理研光学工業入社、市村清退陣要求の争議(1カ月スト)に敗れ1951年退社。理研紙工業は2年未満で倒産、ルミナ閃光電球は東芝など大手参入で倒産、山本商会は古参社員に疎まれ退社
    • [8]大塚実は市村清を反面教師とし、真面目に働く者が正当に評価される会社を作ると念じて1961年に大塚商会を設立
    • [10]大塚実は市村清を反面教師とし、真面目に働く者が正当に評価される会社を作ると念じて1961年に大塚商会を設立
  • 日経ビジネス 1998年3月23日号 有訓無訓 大塚実 p3
    • [5]大塚実は創業前の十数年、失敗を繰り返し生き方を変える必要を痛感したと回顧
    • [9]大塚実は大塚商会を興すとき「ゆっくりでいいから失敗しないこと」を誓い、社訓は「亀の歩みは兎より速い」
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号 p103-104
    • [6]大塚商会は1961年(昭和36年)7月設立。大塚実は生活困窮の末に創業
  • 証券アナリストジャーナル 2000年7月 大塚実
    • [7]大塚実は自社が「複写機の大塚商会」から創業したと説明(2000年)

1965年〜リコー複写機を中小事業所へ販売する独立系ディーラーと、大阪支店・三崎町の本社ビル

大塚商会は、取引1件の金額が小さく採算が取りにくいとみなされていた中小事業所を主な顧客に据えた。大企業向けの複写機販売では富士ゼロックスの力が強く、リコーも中堅・中小企業を客層としていた。大塚商会はリコーの客層よりもさらに規模の小さい事業所を1軒ずつ開拓し、1978年にはリコーの独立系ディーラーで首位となった。複写機は販売後も用紙の供給と保守で取引が続き、迅速な対応が次の商談を生んだ。大塚實氏は2000年にも、販売した機器が目的どおり稼働するのを見届けるまでを売り手の責任とする考え方を示した。客単価の低い層を選んだことが、販売後の継続取引で利益を得る事業の土台になったと考えられる。

  • 日経ビジネス 1978年7月17日号 p103-104
    • [11]大企業向け複写機は富士ゼロックスが強くリコーは中堅・中小が客層。大塚商会は1件の取扱高が小さい中小事業所に絞りシェアを拡大。販売後の紙供給・保守で次の商談へ
    • [12]大企業向け複写機は富士ゼロックスが強くリコーは中堅・中小が客層。大塚商会は1件の取扱高が小さい中小事業所に絞りシェアを拡大。販売後の紙供給・保守で次の商談へ
    • [13]大企業向け複写機は富士ゼロックスが強くリコーは中堅・中小が客層。大塚商会は1件の取扱高が小さい中小事業所に絞りシェアを拡大。販売後の紙供給・保守で次の商談へ
    • [14]大企業向け複写機は富士ゼロックスが強くリコーは中堅・中小が客層。大塚商会は1件の取扱高が小さい中小事業所に絞りシェアを拡大。販売後の紙供給・保守で次の商談へ
  • 証券アナリストジャーナル 2000年7月 大塚実
    • [15]大塚実は「サービスに優る商法なし」を信条とし、商品が目的どおり稼働するのを見届けるまでを自社の責任とする(2000年)

1965年、大阪支店を開設して関西地区へ進出。営業の範囲は東京都とその近県、大阪府に限り、狭い地域で顧客の密度を高めた。1978年時点の支店は東京都下25、大阪府9、神奈川県4、埼玉県2、千葉県1の計41店で、ユーザーは約4万5000軒である。東京都内では23支店で3万軒を担当し、都心部は徒歩10分以内、他地域は車で10分以内に駆けつける体制を敷いた。各支店は1日4便の巡回サービス車を走らせ、1回40分でユーザーを回る設計とし、計350台の車で注文品を届けた。地域を絞った集中は、小口の取引でも移動の手間を抑えて採算を保つ仕組みだったのだろう。

  • 大塚商会 アニュアルレポート2000(和文)沿革
    • [16]1965年 大阪支店を開設し関西地区に進出
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号 p103-104
    • [17]販売地域を東京周辺と大阪に限定。1978年時点で41支店(東京25・大阪9・神奈川4・埼玉2・千葉1)、ユーザー約4万5000軒、都内23支店で3万軒、1日4便の巡回車350台
    • [18]販売地域を東京周辺と大阪に限定。1978年時点で41支店(東京25・大阪9・神奈川4・埼玉2・千葉1)、ユーザー約4万5000軒、都内23支店で3万軒、1日4便の巡回車350台
    • [19]販売地域を東京周辺と大阪に限定。1978年時点で41支店(東京25・大阪9・神奈川4・埼玉2・千葉1)、ユーザー約4万5000軒、都内23支店で3万軒、1日4便の巡回車350台
    • [20]販売地域を東京周辺と大阪に限定。1978年時点で41支店(東京25・大阪9・神奈川4・埼玉2・千葉1)、ユーザー約4万5000軒、都内23支店で3万軒、1日4便の巡回車350台

大塚商会は1968年に東京都千代田区で本社ビルを竣工し、本社を移転した。同じ1968年に大塚實氏はかつて退陣を迫った市村清氏と和解し、大塚商会はリコーとの取引を開始している。理研光学工業を去った大塚實氏は、そのリコーの複写機を扱う独立系ディーラーとして販売を広げた。理研光学工業の争議では、市村清氏による会社の私物化と社員の低い待遇への反発が大塚實氏を動かしていた。大塚實氏は1978年、この争議について『やり方には反省するところが多いが、正直者がばかをみることに反発したあのときの気持ちは、今でも正しかったと思っている』と振り返った。仕入れ元との関係修復と本社の構えが同じ年にそろい、リコー系の独立ディーラーとしての基盤が定まったと思われる。

  • 大塚商会 アニュアルレポート2000(和文)沿革
    • [21]1968年 東京都千代田区に本社ビルを竣工し本社移転、株式会社リコーと取引を開始
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号 p103-104
    • [22]大塚実は1968年(昭和43年)に市村清と和解しリコーとの取引を開始
    • [23]大塚実は1968年(昭和43年)に市村清と和解しリコーとの取引を開始
    • [25]大塚実は1968年(昭和43年)に市村清と和解しリコーとの取引を開始
  • 日経ビジネス 1989年12月4日号 p86-90
    • [24]理研光学の争議は市村清の経営私物化・低賃金への不満が発端
参考文献[11]-[25]
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号 p103-104
    • [11]大企業向け複写機は富士ゼロックスが強くリコーは中堅・中小が客層。大塚商会は1件の取扱高が小さい中小事業所に絞りシェアを拡大。販売後の紙供給・保守で次の商談へ
    • [12]大企業向け複写機は富士ゼロックスが強くリコーは中堅・中小が客層。大塚商会は1件の取扱高が小さい中小事業所に絞りシェアを拡大。販売後の紙供給・保守で次の商談へ
    • [13]大企業向け複写機は富士ゼロックスが強くリコーは中堅・中小が客層。大塚商会は1件の取扱高が小さい中小事業所に絞りシェアを拡大。販売後の紙供給・保守で次の商談へ
    • [14]大企業向け複写機は富士ゼロックスが強くリコーは中堅・中小が客層。大塚商会は1件の取扱高が小さい中小事業所に絞りシェアを拡大。販売後の紙供給・保守で次の商談へ
    • [17]販売地域を東京周辺と大阪に限定。1978年時点で41支店(東京25・大阪9・神奈川4・埼玉2・千葉1)、ユーザー約4万5000軒、都内23支店で3万軒、1日4便の巡回車350台
    • [18]販売地域を東京周辺と大阪に限定。1978年時点で41支店(東京25・大阪9・神奈川4・埼玉2・千葉1)、ユーザー約4万5000軒、都内23支店で3万軒、1日4便の巡回車350台
    • [19]販売地域を東京周辺と大阪に限定。1978年時点で41支店(東京25・大阪9・神奈川4・埼玉2・千葉1)、ユーザー約4万5000軒、都内23支店で3万軒、1日4便の巡回車350台
    • [20]販売地域を東京周辺と大阪に限定。1978年時点で41支店(東京25・大阪9・神奈川4・埼玉2・千葉1)、ユーザー約4万5000軒、都内23支店で3万軒、1日4便の巡回車350台
    • [22]大塚実は1968年(昭和43年)に市村清と和解しリコーとの取引を開始
    • [23]大塚実は1968年(昭和43年)に市村清と和解しリコーとの取引を開始
    • [25]大塚実は1968年(昭和43年)に市村清と和解しリコーとの取引を開始
  • 証券アナリストジャーナル 2000年7月 大塚実
    • [15]大塚実は「サービスに優る商法なし」を信条とし、商品が目的どおり稼働するのを見届けるまでを自社の責任とする(2000年)
  • 大塚商会 アニュアルレポート2000(和文)沿革
    • [16]1965年 大阪支店を開設し関西地区に進出
    • [21]1968年 東京都千代田区に本社ビルを竣工し本社移転、株式会社リコーと取引を開始
  • 日経ビジネス 1989年12月4日号 p86-90
    • [24]理研光学の争議は市村清の経営私物化・低賃金への不満が発端

1970年〜電算機事業への参入と日本電気との取引、年商86億円・社員730人の組織

大塚商会の電算機事業への参入は1970年である。1971年には内田洋行とオフィスコンピューターの代理店契約を結び、複写機以外の事務機の販売に着手した。ただし販売実績は伸びず、大塚商会は一時この分野の販売体制を縮めた。大塚實氏は後年、主力商品を複写機から汎用コンピューター、パソコンへと時代に応じて入れ替えてきたと説明した。1978年時点の営業内容には、複写機と複写用紙に加えてオフィスコンピューターとファクシミリの販売が並んだ。複写機で得た中小事業所の顧客に次の事務機を提案する狙いが、1970年の参入の背景にあったと推測される。

  • 大塚商会 アニュアルレポート2000(和文)沿革
    • [26]1970年 電算機事業を開始
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号 p103-104
    • [27]1971年(昭和46年)に内田洋行とオフィスコンピューターの代理店契約、販売実績が上がらず一時縮小
    • [28]1971年(昭和46年)に内田洋行とオフィスコンピューターの代理店契約、販売実績が上がらず一時縮小
    • [30]1971年(昭和46年)に内田洋行とオフィスコンピューターの代理店契約、販売実績が上がらず一時縮小
  • 日経ビジネス 1998年3月23日号 有訓無訓 大塚実 p3
    • [29]大塚実は主力商品を複写機→汎用コンピューター→パソコンと時代に合わせて変えてきたと説明。失敗への不安が変化の兆しを探る姿勢に結びつくと述べる

大塚商会は1976年夏、オフィスコンピューターの代理店契約を内田洋行から日本電気へ切り替え、日本電気との取引を始めた。大塚實氏は、他社に比べて販売網の弱さが課題とされた日本電気なら、短期間で有力ディーラーになれると読んだ。1977年度の販売は70台程度で、1978年春の増員後は年間120台のペースとなり、翌年に250台ペースを目標に置いた。複写機・オフィスコンピューター・ファクシミリの頭文字を取った「COF作戦」が、社内での呼び名である。大塚實氏は2000年に、この時期の自社を「COFの大塚商会」と呼んだ。販売網の薄いメーカーを選んだことに、ディーラーとして重みを得る計算がうかがえる。

  • 日経ビジネス 1978年7月17日号 p103-104
    • [31]1976年(昭和51年)夏、オフィスコンの代理店を内田洋行から日本電気に切り替え。日電は販売網が弱く短期間で有力ディーラーになれるとの読み。前年度70台、現在年120台ペース、翌年250台ペース目標。社内呼称「COF作戦」
    • [32]1976年(昭和51年)夏、オフィスコンの代理店を内田洋行から日本電気に切り替え。日電は販売網が弱く短期間で有力ディーラーになれるとの読み。前年度70台、現在年120台ペース、翌年250台ペース目標。社内呼称「COF作戦」
    • [33]1976年(昭和51年)夏、オフィスコンの代理店を内田洋行から日本電気に切り替え。日電は販売網が弱く短期間で有力ディーラーになれるとの読み。前年度70台、現在年120台ペース、翌年250台ペース目標。社内呼称「COF作戦」
    • [34]1976年(昭和51年)夏、オフィスコンの代理店を内田洋行から日本電気に切り替え。日電は販売網が弱く短期間で有力ディーラーになれるとの読み。前年度70台、現在年120台ペース、翌年250台ペース目標。社内呼称「COF作戦」
  • 証券アナリストジャーナル 2000年7月 大塚実
    • [35]大塚実は自社の段階を「複写機」「COF」「OA」「ソリューションプロバイダ」の大塚商会と整理(2000年)

1977年12月期の売上高は86億8165万円、従業員は730人。利益の源は、不採算になりやすいアフタサービスを最大の売り物に変えたことにある。本社管理部門は30人にとどめ、人員の大半を収益を生む支店に置いた。支店の人員とユーザー数をそろえ、卸を兼ねない直販に絞ったのは、社員を評価する基準を公平に保つためだった。1978年には、後の実践ソリューションフェアとなるビジネスシステムフェアを開催した。支店網とサービスの収益で固めた組織が、次の段階で自社のソフトを載せて売る基盤になったと推定される。

  • 日経ビジネス 1978年7月17日号 p103-104
    • [36]1977年12月期(昭和52年)売上高86億8165万円、従業員730人。アフタサービスを高収益源に。本社管理部門30人、支店の人員・ユーザー数を揃え評価を公平に。評価の公平のため卸を兼ねず直販
    • [37]1977年12月期(昭和52年)売上高86億8165万円、従業員730人。アフタサービスを高収益源に。本社管理部門30人、支店の人員・ユーザー数を揃え評価を公平に。評価の公平のため卸を兼ねず直販
    • [38]1977年12月期(昭和52年)売上高86億8165万円、従業員730人。アフタサービスを高収益源に。本社管理部門30人、支店の人員・ユーザー数を揃え評価を公平に。評価の公平のため卸を兼ねず直販
    • [39]1977年12月期(昭和52年)売上高86億8165万円、従業員730人。アフタサービスを高収益源に。本社管理部門30人、支店の人員・ユーザー数を揃え評価を公平に。評価の公平のため卸を兼ねず直販
  • 大塚商会 アニュアルレポート2000(和文)沿革
    • [40]1978年 ビジネスシステムフェア(現 実践ソリューションフェア)を開催
参考文献[26]-[40]
  • 大塚商会 アニュアルレポート2000(和文)沿革
    • [26]1970年 電算機事業を開始
    • [40]1978年 ビジネスシステムフェア(現 実践ソリューションフェア)を開催
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号 p103-104
    • [27]1971年(昭和46年)に内田洋行とオフィスコンピューターの代理店契約、販売実績が上がらず一時縮小
    • [28]1971年(昭和46年)に内田洋行とオフィスコンピューターの代理店契約、販売実績が上がらず一時縮小
    • [30]1971年(昭和46年)に内田洋行とオフィスコンピューターの代理店契約、販売実績が上がらず一時縮小
    • [31]1976年(昭和51年)夏、オフィスコンの代理店を内田洋行から日本電気に切り替え。日電は販売網が弱く短期間で有力ディーラーになれるとの読み。前年度70台、現在年120台ペース、翌年250台ペース目標。社内呼称「COF作戦」
    • [32]1976年(昭和51年)夏、オフィスコンの代理店を内田洋行から日本電気に切り替え。日電は販売網が弱く短期間で有力ディーラーになれるとの読み。前年度70台、現在年120台ペース、翌年250台ペース目標。社内呼称「COF作戦」
    • [33]1976年(昭和51年)夏、オフィスコンの代理店を内田洋行から日本電気に切り替え。日電は販売網が弱く短期間で有力ディーラーになれるとの読み。前年度70台、現在年120台ペース、翌年250台ペース目標。社内呼称「COF作戦」
    • [34]1976年(昭和51年)夏、オフィスコンの代理店を内田洋行から日本電気に切り替え。日電は販売網が弱く短期間で有力ディーラーになれるとの読み。前年度70台、現在年120台ペース、翌年250台ペース目標。社内呼称「COF作戦」
    • [36]1977年12月期(昭和52年)売上高86億8165万円、従業員730人。アフタサービスを高収益源に。本社管理部門30人、支店の人員・ユーザー数を揃え評価を公平に。評価の公平のため卸を兼ねず直販
    • [37]1977年12月期(昭和52年)売上高86億8165万円、従業員730人。アフタサービスを高収益源に。本社管理部門30人、支店の人員・ユーザー数を揃え評価を公平に。評価の公平のため卸を兼ねず直販
    • [38]1977年12月期(昭和52年)売上高86億8165万円、従業員730人。アフタサービスを高収益源に。本社管理部門30人、支店の人員・ユーザー数を揃え評価を公平に。評価の公平のため卸を兼ねず直販
    • [39]1977年12月期(昭和52年)売上高86億8165万円、従業員730人。アフタサービスを高収益源に。本社管理部門30人、支店の人員・ユーザー数を揃え評価を公平に。評価の公平のため卸を兼ねず直販
  • 日経ビジネス 1998年3月23日号 有訓無訓 大塚実 p3
    • [29]大塚実は主力商品を複写機→汎用コンピューター→パソコンと時代に合わせて変えてきたと説明。失敗への不安が変化の兆しを探る姿勢に結びつくと述べる
  • 証券アナリストジャーナル 2000年7月 大塚実
    • [35]大塚実は自社の段階を「複写機」「COF」「OA」「ソリューションプロバイダ」の大塚商会と整理(2000年)

出典・参考

5件
出典・参考
  • 大塚商会 アニュアルレポート2000(和文)沿革
  • 日経ビジネス 1978年7月17日号 p103-104
  • 日経ビジネス 1989年12月4日号 p86-90
  • 日経ビジネス 1998年3月23日号 有訓無訓 大塚実 p3
  • 証券アナリストジャーナル 2000年7月 大塚実

免責事項およびポリシー