1804年 清水喜助 大工業を創業
越中富山出身の宮大工・22歳の清水喜助が、1804年に江戸神田鍛冶町で銀三分を元手に大工業を開業。1859年の横浜開港を機に外国商館建築で洋風技術を取得し、1887年に3代店主急逝を受けた渋沢栄一の相談役就任で「民間の建築工事」を営業方針に定めた。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 清水喜助は越中富山出身の大工で、文化元年(1804年)に江戸神田鍛冶町で大工業を開業した。神田鍛冶町は江戸城下の職人町であり町家・商家の建築需要を地続きで取り込める立地、宮大工としての修練を背景に独立棟梁として民間請負を出発点とし、官需に依存しない江戸期の請負慣行が後に清水組の経営路線を規定する素地となった。1859年安政6年の横浜開港に伴い横浜店を開設し、幕府の諸施設建設と居留地の外国商館建築を通じて煉瓦造・トラス構造などの西洋建築技術を現場で習得した。
- 明治期に蓄積した洋風建築の技術力は、2代清水喜助による1872年の第一国立銀行建築という擬洋風建築の代表作として結実し、明治初期の民間建築への傾斜と洋風建築技術が後の渋沢栄一の経営方針と合流する素地となった。1886年7月、工学士を招聘して技師長制を発足させ設計・施工一貫態勢を整備、翌1887年に3代店主の急逝を受け渋沢栄一が相談役に就任、営業方針を「民間の建築工事」と定めた。渋沢は以後30年以上にわたり経営に関与し、官需依存の同業他社と一線を画す民間建築主軸の路線が大正期にかけて事業基盤として定着した。
- 1915年10月、清水同族は資本金100万円で合資会社清水組を設立し、1804年以来110年続いた個人営業から会社組織へ転換した。1937年8月に資本金1,200万円で株式会社清水組を設立、同年11月に合資会社清水組を合併すると同時に名古屋・大阪・九州支店を開設して全国展開体制を整え、日中戦争期の軍需工事拡大に対応した。1945年8月18日、終戦翌日には戦災を免れた本社社屋で約3,500人の社員とともに業務を再開、戦後復興需要を他社に先んじて取り込んだ。
- 1948年2月、社名を「清水建設株式会社」へ改称、8月に企業再建整備計画の認可を受け、11月の増資で資本金7,000万円とし清水同族以外から初めて外部資本を導入した。1804年から140年余続いた喜助一族の個人商店色が資本面から薄まり、1961年4月に資本金30億円へ増資して株式公開、同年10月に東証2部上場、翌1962年2月に東証1部へ指定替えされ、1804年神田鍛冶町の個人棟梁から公開企業のスーパーゼネコンへ至る基礎が、創業140年余の戦後再建期に据えられた。
1804年の創業以来、清水喜助一族の個人棟梁経営として民間請負を出発点とし、1887年に渋沢栄一が相談役に就任して営業方針を「民間の建築工事」と定めて30年以上にわたり経営に関与、官公庁工事に依存する同業他社と一線を画す民間建築主軸の路線が明治後期から大正期にかけて事業基盤として定着した。1948年の改称と外部資本導入で同族個人商店から公開企業への転換を開始した。
1804年は喜助個人の棟梁経営として発足、110年以上にわたり個人営業の体制で推移し、1915年10月に資本金100万円で合資会社清水組を設立して法人化、1937年8月に資本金1,200万円で株式会社清水組を設立、1948年11月の企業再建整備計画に基づく増資で資本金7,000万円とし清水同族以外から初めて外部資本を導入、1961年4月に資本金30億円へ増資して株式公開、同年10月に東証2部上場へ至った。
1804年創業期は神田鍛冶町を拠点とした町家・商家の大工請負、1859年の横浜開港後は居留地外国商館建築を通じて煉瓦造・トラス構造などの西洋建築技術を習得、2代清水喜助は1872年の第一国立銀行建築で擬洋風建築の技術力を示し、明治後期から大正期は渋沢栄一の方針のもとオフィス・工場・銀行・商社など民間建築を主軸に、戦時期は軍需関連工事へ受注を広げた。
1804年創業期の主要顧客は江戸神田の町家・商家など民間需要、1859年以降は幕府の諸施設工事と横浜居留地の外国人商館建築の発注者、明治期には2代喜助の第一国立銀行をはじめとする官民の擬洋風建築発注者、1887年以降は渋沢栄一の方針のもとオフィス・工場・銀行・商社を主要顧客とし、戦時期は軍需関係、戦後は進駐軍関係施設と戦災ビル改修工事の発注者へ広がった。
1804年創業時は喜助個人とその弟子・職人衆から出発し、明治期を通じて個人営業のもと棟梁・大工・職人を抱える体制が続き、1915年の合資会社化で組織的な雇用形態へ移行、1937年の株式会社化と全国支店網整備で組織規模が一挙に拡大、1945年8月18日の終戦翌日の業務再開時点で社員約3,500人の体制を整え、戦後復興期の量産体制の人員基盤を確保した。
1804年の創業地は江戸神田鍛冶町、1859年に横浜店を開設し開港地での新工法習得の拠点とした。1928年2月に合資会社東京鐵骨橋梁製作所(現 日本ファブテック)を芝浦に設立して鉄骨建築の素材供給を内製化、1937年11月の株式会社化と同時に名古屋・大阪・九州支店、1939年に北海道支店、1945年に広島支店、1946年に仙台・北陸・四国支店を開設して全国支店網を一挙整備した。
清水建設 創業地の主な拠点一都三県 の地理(清水喜助 大工業(創業地) → 清水建設株式会社(改称時本社))
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1790〜1804年 なぜ越中富山の大工・清水喜助は1804年に江戸神田鍛冶町で独立できたのか? | 越中富山出身の宮大工であった清水喜助は、文化元年(1804年)に江戸へ出て神田鍛冶町に大工業を開業した。神田鍛冶町は江戸城下の職人町として大工・鍛冶・木挽きの集積地であり、町家・商家の建築需要を直接取り込める立地が、地方出身の棟梁が独立する足場となった。 清水喜助は越中国富山の出身で、文化元年(1804年)、22歳のとき江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店に住みつき、銀三分をもとでに大工業を開業した。社史は「銀三分をもとでとして大工業を開業した」「当年二十二才の清水喜助であつた」(清水建設百五十年 1956)と記し、技倆については日光山の修築に関係した程の確かなものと伝えている。昼は日本橋辺の商店仕事に呼ばれ、夜は日用家具を作って売って糊口をしのいだ時期から、独立棟梁としての歩みが始まった。 神田鍛冶町は江戸城下の職人町であり、大工・鍛冶・木挽きが集積する街区として町家・商家・寺社の建築需要を地続きで取り込める立地だった。喜助は宮大工としての修練を背景に町家請負で評判を得るに従い、裏店を出て表通りの神田新石町に店と仕事場を構え、屋号を「清水屋」として弟子多数を養いながら終生ここで家業に力を尽くした。官需に依存せず民間の建築工事を直接受注する江戸期の請負慣行が、後に清水組の経営路線を規定する素地となり、個人営業の時代は1915年の合資会社化まで続いた。 |
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| 1858〜1859年 なぜ1859年の横浜開港で横浜店を開設できたのか? | 1858年の日米修好通商条約により横浜・神戸・長崎などが開港地に指定され、翌1859年に横浜が開港した。幕府は外国人居留地の整備と諸施設の建設に大量の大工を必要とし、清水喜助は横浜店を開設して幕府発注の諸施設工事と居留地の外国商館建築を引き受け、現場で西洋建築技術を習得した。 安政6年(1859年)、2代清水喜助は得意先であった大老・井伊直弼の執りなしで横浜開港準備を一手に引き受け、幕府の諸施設建設のため横浜店を開設した。社史は「直弼の執りなしで横浜開港の準備を一手に引受けて奮闘していた」(清水建設百五十年 1956)と記し、開港派の老中・海防掛らによる調印決行を背景に2代喜助が幕府発注の現場を任された経緯を伝える。江戸の弟子衆もこの転身に同行し、万蔵以来の古参弟子・斎藤金太郎などは東京の得意先を他の出入大工に譲って横浜へ馳せ参じている。 開港直後の横浜居留地では、洋館の規模・構造・建材が江戸の在来工法と大きく異なり、棟梁は外国人技師の図面を読み取りながら現場で工法を覚える必要があった。清水組は幕府発注の諸施設と外国商館の請負を通じて煉瓦造・トラス構造・洋瓦などの新工法を実地で取得し、明治期に擬洋風建築を組み立てる技術蓄積を江戸末期のうちに確保した。2代喜助は築地ホテル館に続いて明治4年(1871年)に三井組大番頭・三野村利左衛門から下命を受け第一国立銀行(三井組ハウス)の建築を担当、洋行経験のないまま自前で設計した中央に高い塔を備える宮殿風の外観は、明治初期の代表的洋風建築として技術力を世に示した。 |
| 1886〜1887年 なぜ1886〜1887年に技師長制発足と渋沢栄一の相談役就任が同時期に起きたのか? | 明治中期にかけて建築規模と構造の複雑化が進み、棟梁の経験則だけでは設計と施工の品質保証が困難になった。1886年7月に工学士を招聘して技師長制を発足させ設計・施工一貫態勢を整え、翌1887年に3代店主の急逝を受けて渋沢栄一が相談役に就任し、営業方針を「民間の建築工事」と定めた。組織と方針が同時に近代化された画期である。 1886年7月、清水組は工学士を招聘して技師長制を発足させ、設計と施工を一貫させる近代的な組織体制を整えた。江戸期以来の棟梁による経験伝承だけでは煉瓦造・鉄骨造の大規模建築に対応できず、技術者を社内に抱え図面と現場を結ぶ体制が業界に先駆けて導入された。 翌1887年(明治20年)、3代店主の急逝を受け渋沢栄一が相談役に就任し、清水組の営業方針を「民間の建築工事」と定めた。日本会社史総覧は「1887年(明20)、渋沢栄一を相談役に迎え、営業の方針を『民間の建築工事』と定めた。以降、1900年前後(明治30年代)にかけて、店内改革、専属取引業者の組織化等を進め、土木・建築請負業の基礎を固めた」(日本会社史総覧 1995)と記す。渋沢は以後30年以上にわたり経営に関与し、官公庁工事に依存する同業他社と一線を画す民間建築主軸の路線が、明治後期から大正期にかけて清水組の事業基盤として定着した。 |
| 1915〜1937年 なぜ1915年に法人化し1937年に株式会社化したのか? | 明治期を通じて個人営業の体制が続いたが、受注規模の拡大と建設機械の本格導入には個人責任を超えた組織形態が必要となった。1915年10月に資本金100万円で合資会社清水組を設立し110年続いた個人営業から法人組織へ転換、1937年8月の株式会社清水組設立と同年11月の合資会社合併・全国支店一挙開設で、日中戦争期の軍需工事拡大に対応する体制を整えた。 大正4年(1915年)10月、清水同族は資本金100万円で合資会社清水組を設立し、1804年以来110年続いた個人営業から会社組織へ転換した。法人化は喜助一族の個人責任で背負ってきた建築請負業を有限責任の組織として再構築する転機で、近代企業としての基礎が制度面から整った。 昭和12年(1937年)8月、資本金1,200万円で株式会社清水組を設立し、同年11月に合資会社清水組を合併すると同時に名古屋支店・大阪支店(現 関西支店)・九州支店を開設した。法人統合と全国支店網の整備が同時に行われたことで、関東中心だった営業基盤が一挙に全国規模へ拡大した。日中戦争の拡大に伴い海外工事や軍需関連工事の受注が増加し、1939年5月に北海道支店、1945年5月に広島支店を開設して戦時下の受注体制を全国に張り巡らせている。 |
| 1945〜1948年 なぜ1948年に「清水建設」へ改称し外部資本を初導入したのか? | 終戦後、戦災ビルの改修工事と進駐軍関係施設工事に活路を求めたが1947年末には一段落、政府発注工事の支払い遅延とインフレで資金繰りが悪化し経営危機に追い込まれた。1948年2月に「清水建設株式会社」へ改称、8月に企業再建整備計画の認可、11月の増資で初めて同族以外から外部資本を導入し資本金7,000万円で新発足、同族個人商店から公開企業へ転換する第一歩を踏み出した。 1945年8月15日の終戦から3日後の8月18日、戦災を免れた本社社屋で清水組は業務を再開した。当時の社員数は約3,500人で、戦災ビルの改修工事と進駐軍関係施設工事に建設事業の活路を求めた。1946年4月に仙台支店、7月に北陸支店・四国支店、同8月に建設資材販売の丸喜産業(現 ミルックス)を余剰人員対策も兼ねて設立し、雇用維持と支店網拡充を同時に進めた。 しかし1947年末には進駐軍関係工事も一段落、政府発注工事の支払い遅延とインフレで資金繰りが悪化し経営危機に陥った。1948年2月、社名を「清水建設株式会社」へ改称、8月に企業再建整備計画の認可を受け、11月の増資で資本金7,000万円とし初めて清水同族以外から外部資本を導入した。1804年から140年余続いた喜助一族の個人商店色が資本面から薄まり、1961年4月の株式公開(資本金30億円に増資)と同年10月の東証2部上場、翌1962年2月の東証1部指定替えへとつながる公開企業化の起点となった。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
2024年度有価証券報告書の沿革欄が記す創業の経緯、1804年の神田鍛冶町開業を起源と明示し、明治中期に近代建設業者としての基礎を確立した経過を簡潔に記述
「1804年(文化元年)、清水喜助が江戸神田鍛冶町に大工業を開業したのが、当社の起源であります。以来、個人営業の時代が続きましたが、明治中期には近代建設業者としての基礎を確立しました。」
1859年の横浜店開設と居留地外国商館建築を通じた西洋建築技術習得の経緯を日本会社史総覧が記述、清水組が江戸末期に西洋建築の知見を確保した過程
「横浜開港に伴う幕府の諸施設を建設するために1859年(安政6)に横浜へ進出。居留地の外国商館建築工事等を通じて、西洋建築技術を習得した。」
1887年の渋沢栄一相談役就任と「民間の建築工事」方針の確立、明治後期にかけて店内改革・専属取引業者組織化が進み近代建設業者としての基礎が固まった経過を日本会社史総覧が記述
「1887年(明20)、渋沢栄一を相談役に迎え、営業の方針を「民間の建築工事」と定めた。以降、1900年前後(明治30年代)にかけて、店内改革、専属取引業者の組織化等を進め、土木・建築請負業の基礎を固めた。」
1995年時点で日本会社史総覧が清水建設を業界最大手の総合建設会社と位置付け、堅実経営と民間建築の強みを企業特色として明記、1887年に渋沢が定めた路線が1世紀後にも企業評価の核として継承された
「創業190年余の歴史と伝統をもつ業界最大手の総合建設会社。堅実経営で民間建築に強み。都市再開発事業や海外市場にも進出している。」
1945年8月18日の終戦翌日に本社で業務を再開した経緯を日本会社史総覧が記述、社員約3,500人とともに戦後復興需要を他社に先んじて取り込んだ起点
「終戦後の1945年8月18日、戦災を免れた本社社屋で業務を再開。当時の社員数は約3500人だった。」
1948年2月の「清水建設株式会社」改称と11月の増資による外部資本初導入の経過を日本会社史総覧が記述、1804年から140年余続いた清水同族の個人商店色が資本面から薄まる転換点
「1948年(昭23)2月、清水建設株)と社名を変更。在外資産の喪失と戦時補償の打ち切りにより多額の損失が見込まれたため、8月、企業再建整備計画の認可を受けた。11月の増資をもって再建整備を完了し、資本金7000万円で新発足したが、この増資で初めて外部資本を導入した。」
1956年刊の公式社史が記す初代喜助の開業時の状況、22歳・銀三分のもとでで神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店から大工業を始めた具体的な創業条件を伝える一次資料
「銀三分をもとでとして大工業を開業した。この年が文化元年(一八〇四)であり、この大工が当年二十二才の清水喜助であつた。」
1956年刊の公式社史が記す初代喜助の人物像、日光山の修築に関与した宮大工としての技倆と誠実な人柄が、神田鍛冶町で独立棟梁として顧客を獲得する基盤となった経緯を伝える
「技倆は日光山の修築に関係した程の確かなもので、仕事熱心で、人間は誠実であつたから、おそらくお店では評判が好かつたことであろぅ。」
1956年刊の公式社史が記す初代喜助の店構え、神田新石町に表通りの店と仕事場を構え屋号「清水屋」として弟子多数を養いながら家業を継続した経緯を伝える
「屋号を「清水屋」といい、棟梁として弟子も多数やしない、終生ここを住所として家業に力を尽した。」
1956年刊の公式社史が記す2代喜助と井伊直弼の関係、清水屋の得意先であった大老直弼の口添えで幕府による横浜開港準備の請負を一手に獲得し、清水組が横浜進出と西洋建築技術習得への足がかりを得た経緯を伝える
「直弼の執りなしで横浜開港の準備を一手に引受けて奮闘していた。」
1956年刊の公式社史が記す1872年の第一国立銀行(三井組ハウス)建築の経緯、三井組大番頭・三野村利左衛門からの下命に対し2代喜助が洋行経験のないまま自前で設計し、明治初期の代表的擬洋風建築を世に出した経緯を伝える
「三野村利左衛門から銀行建築を下命された二代 喜助は既に築地ホテル館は手がけており、立派な腕は持つていたのであるが、洋行したことは無いから実際に銀行建築を知ろうはずが無い。」
参考文献
- 有価証券報告書 FY24 沿革
- 日本会社史総覧 1995(東洋経済新報社)
- 清水建設百五十年 1956
- 株式会社年鑑 昭和33年版(1958年)