1892年 大林組(個人事業)を創業

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乾物問屋「大徳」三男・27歳の大林芳五郎が、1892年1月に大阪市西区阿波座で土木建築の請負業を個人創業。商家の信用と人脈を足場に1898年大阪市築港工事、1903年第5回内国勧業博覧会、1914年東京中央停車場と国家事業を相次いで受注した。

創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?

  • 大林芳五郎は1864年に大阪の乾物問屋「大徳」大林徳の三男として生まれ、1892年1月、27歳で大阪市西区阿波座において個人事業として土木建築の請負業を興した。建設業界とは無縁の商家出身であったが、市制施行後の大阪で近代港湾・鉄道・博覧会施設の需要が立ち上がる時期に、商家の信用と人脈を足場に建築と土木の双方で受注を取り込む方針を採った。
  • 1898年に大阪市築港工事を受注し7年がかりで1905年に完成、1903年には大阪天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会の諸施設工事の大半を受注した。創業6年目の個人企業による港湾工事の受注は異例で、博覧会施設の受注で創業10年にして関西の大手業者と並ぶ位置に進んだ。1904年に店名を「大林組」と定め、1909年7月に合資会社大林組を設立して法人化を果たした。
  • 1906年に東京支店を設置し、辰野金吾設計の東京中央停車場(東京駅丸の内本屋)を1914年12月に開業させた。同年には大阪電気軌道の生駒トンネル(3,388メートル)も完成させ、東西の建築と土木の最難関を同年に並行完遂した。1916年12月に創業者・大林芳五郎が51歳で死去、2代目大林義雄が1918年12月に株式会社大林組へ改組し、技術者の欧米派遣と支店網拡大で全国展開の体制を整えた。
創業
経営方針 何を目指していたか?

乾物問屋出身の創業者は技術蓄積よりも商家の信用と人脈で受注を取り込む方針を採り、建築と土木を分けず並行して請け負った。1916年の芳五郎死去後、2代目義雄は業務組織の近代化と技術者の欧米派遣で組織経営への転換を主導した。

1892.1 個人事業として土木建築請負業を開業
1904 店名を「大林組」に統一
1916.12 創業者死去・2代目就任
1918.12 技術者の欧米派遣開始
資金調達 どう資金を工面したか?

1892年の創業時は芳五郎個人の資金で発足、1909年7月に合資会社へ改組し家族・親族による出資基盤を法人化、1918年12月に株式会社大林組を設立して資本調達基盤を整備した。1936年12月の合併形式の増資(第二大林組設立)で資本金を本格的に拡張するまで、出資は大林家中心の閉じた構造が続いた。

1892.1 個人事業として発足
1909.7 合資会社大林組を設立
1918.12 株式会社大林組を設立
製品サービス 何を作って売ったか?

創業期は大阪市内の小工事から始まり、1898年大阪市築港工事、1903年第5回内国勧業博覧会、1912年東京中央停車場と国家事業を順次受注、1914年完工の東京中央停車場と生駒トンネルで建築と土木の双方を主力に据えた。1923年関東大震災で施工ビルが倒壊せず鉄筋コンクリート造の評価を確立した。

1892 大阪市内の小工事
1898 大阪市築港工事を受注
1903 第5回内国勧業博覧会の施設工事
1912 東京中央停車場工事に着工
1914.12 東京中央停車場と生駒トンネル同年完工
1923.9 関東大震災で施工ビル無倒壊
1927 日本初の地下鉄工事完工
主要顧客 誰に売ったか?

創業期は大阪市・大阪府の官公庁工事が中心、1903年の第5回内国勧業博覧会で農商務省、1906年以降の東京中央停車場で鉄道院と国家機関を顧客に取り込んだ。1914年の生駒トンネルでは大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)など民間鉄道が加わり、官需と私鉄インフラの双方が初期の主力顧客となった。

1898 大阪市
1903 農商務省
1906 鉄道院
1914 大阪電気軌道(現 近畿日本鉄道)
1923 日本興業銀行ほか首都圏金融機関
従業員数 誰と作っていたか?

1892年の個人創業時は芳五郎個人と少数の職人体制から出発、1898年の大阪市築港工事や1903年の博覧会施設工事で工事規模に応じて職方を増員、1909年の合資会社化以降は組織的な技術者・事務員の雇用が始まり、1918年の株式会社化と支店設置で社員規模が拡大した。

1892 個人事業者と少数職人
1898 築港工事の職方増員
1918 株式会社化後の社員拡大
設備投資 どこで作っていたか?

創業地は大阪市西区阿波座の個人事務所、1906年に東京中央停車場受注を契機に東京支店を開設、1919年に小倉支店、1925年4月に横浜支店、同年7月に名古屋支店と順次拠点を展開した。1931年に内外木材工芸、1933年に東洋鋪装(後の大林道路)を設立して関連事業を分社化した。

1892.1 大阪市西区阿波座の創業地
1906 東京支店設置
1919 小倉支店設置
1925.4 横浜支店設置
1925.7 名古屋支店設置

大林組 創業地の主な拠点関西6府県 の地理(大林組創業地(個人事務所) → 生駒トンネル)

日本地図 1892年 大林組創業地(個人事務所) 大阪市西区阿波座 創業地(大林芳五郎の個人事業として土木建築請負業を開業) 1898年 大阪市築港工事現場 大阪市港区築港(安治川河口) 創業6年目に受注した大型港湾工事(7年がかりで1905年完成) 1903年 第5回内国勧業博覧会会場 大阪市天王寺(現 天王寺公園・新世界一帯) 諸施設工事の大半を受注(大阪天王寺) 1914年 生駒トンネル 大阪府東大阪市〜奈良県生駒市 大阪電気軌道の難工事(3,388メートル、東洋一の長大トンネル)

創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部

1892年1月 なぜ乾物問屋の三男・大林芳五郎が建設業を選んだのか?

大阪が市制施行後の都市改造期に入り、近代港湾・鉄道・博覧会施設の建設需要が立ち上がる商都となっており、商家の信用と人脈を持つ若い商人にとって受注力で参入できる成長業種だったため。

大林芳五郎は1864年(元治元年)、大阪の乾物問屋「大徳」を営む大林徳の三男として生まれた。建設業界とは無縁の商家出身の人物であったが、1892年1月、27歳で大阪市西区阿波座において個人事業として土木建築の請負業を興した。

1889年に大阪市が市制施行され、近代都市としての基盤整備が本格化する時期であった。築港・鉄道・官公庁舎の新築需要が立ち上がる商都で、芳五郎は技術蓄積よりも商家としての信用と人脈で工事を取り込む方針をとり、当初は個人として小工事を請け負った。商人の受注力で建築と土木のどちらも切らず並行して取り込むやり方が、初期の事業基盤となった。1904年に店名を「大林組」と定め、屋号としての一体感を整えた。

1898年 なぜ創業6年目の個人企業が大阪市築港工事を受注できたのか?

大阪市は1897年に築港事業を起工しており、本工事に続く付帯工事の発注先を地元業者から選定する段階だった。芳五郎は商家の信用と現場での実績で受注に漕ぎつけ、7年がかりで完成させた。

1898年、大林組は大阪市築港工事を受注した。創業からわずか6年の個人企業による港湾工事の受注は異例で、受注額は当時の大阪市発注工事としても上位に位置した。大阪市築港は1897年に起工し、近代港湾としての安治川河口の整備を進める国家規模の事業であった。

工期は7年に及び、1905年に完成した。個人企業のまま大型港湾工事を完遂したことで大林組の施工能力が業界に認知された。続く1903年には大阪天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の諸施設工事の大半を受注し、博覧会の集客動線を一手に整備した。「創業から10年にして早くも先行の業者と肩を並べるまでになっていた」(日本会社史総覧 1995/11)と記録され、創業10年で関西の大手業者と並ぶ位置に進んだ。

1906〜1914年 なぜ関西の業者が東京中央停車場を受注できたのか?

鉄道院の指名競争入札で東京中央停車場の請負業者として選定された大林組は、1906年に東京支店を設置して施工体制を構築した。関西で築港・博覧会の国家事業を完遂した実績が、首都の象徴的駅舎の受注根拠となった。

1906年、大林組は東京支店を設置し、東京中央停車場(現在の東京駅丸の内本屋)の建設工事を受注した。設計は辰野金吾、発注者は鉄道院で、丸の内側の中央停車場として日本の鉄道網の起点となる赤煉瓦駅舎の施工であった。1908年に着工し、1914年12月に開業した。

同年、大林組は大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)の生駒トンネル(3,388メートル)も完成させている。1913年1月には掘削中の落盤事故で作業員20名が死亡する難工事であったが、湧水と岩盤崩落を克服して開通させた。「東西2大工事はいずれも14年に完成をみた」(日本会社史総覧 1995/11)と記録され、建築の最高峰と土木の難工事を同年に並行完遂したことで、関西地盤の一企業が全国規模の総合建設会社として認知された。

1916〜1918年 なぜ1916年の創業者死去から2年で株式会社へ改組したのか?

1916年12月に創業者・大林芳五郎が51歳で死去し、嫡子の大林義雄が2代目として就任した。事業の伸長に伴い個人企業の延長である合資会社では資本調達と組織近代化に制約があり、1918年12月に株式会社へ改組した。

1916年12月、創業者の大林芳五郎が51歳で死去した。創業から24年、東京中央停車場と生駒トンネルの完工を見届けた直後の死であった。嫡子の大林義雄が2代目社長に就任し、芳五郎が個人創業から法人化(1909年7月の合資会社大林組設立)まで築いた事業基盤を引き継いだ。

義雄は業務組織の近代化に着手し、技術者の欧米派遣を開始した。1918年12月、事業の伸長に伴い合資会社を株式会社大林組へ改組した。「業務組織の近代化を図るとともに、技術面でも主要な人物を欧米に派遣して、先進諸国の新技術を吸収させるなど、リーダー企業としての体制を整えていった」(日本会社史総覧 1995/11)と記録される。株式会社化により資本調達基盤と組織体制が強化され、1919年の小倉支店、1925年の横浜・名古屋支店設置と続く全国展開の前提が整った。

1923年 なぜ大林組は1923年の関東大震災で名声を高めたのか?

大林組施工の日本興業銀行本店をはじめ、鉄筋コンクリート造の複数のビルが倒壊せずに持ちこたえたため。設計・施工管理の水準が震災で証明され、首都圏の大型建築受注を引き寄せる転機となった。

1923年9月1日の関東大震災では、東京・横浜の市街地が壊滅的被害を受けた。大林組が施工した日本興業銀行本店ほか複数の鉄筋コンクリート造ビルは倒壊せず、震災下の耐震性能を実地で示した。「日本興業銀行、国分などの各ビルには損倒はなく、同社の名を高らしめた」(日本会社史総覧 1995/11)と記録される。

震災を契機に首都の建築需要は耐震構造を前提とする方向へ転じ、大林組には官公庁舎・銀行・オフィスビルの新築受注が集中した。1927年には日本初の地下鉄工事として上野〜浅草間のうち万世橋〜上野間を完工し、土木技術の最高水準も示している。創業者・芳五郎の死から10年余りで、東京中央停車場の受注に始まる首都圏市場への浸透は、震災後の都市再建需要を取り込む構造へと深化した。

歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について

日本会社史総覧

1892年の創業から1898年の大阪市築港工事、1903年の第5回内国勧業博覧会施設工事を経て、関西の大手業者と並ぶ位置に進んだ時期の評価

「創業から10年にして早くも先行の業者と肩を並べるまでになっていた」
日本会社史総覧

1914年に完工した東西2大工事が関西地盤の一企業を全国規模の総合建設会社として認知させた評価

「全国業者として、その地位を確実にしたのは、東京中央停車場(現 東京駅丸の内本屋)工事と大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)の生駒トンネル工事である」
日本会社史総覧

1914年完工の東京中央停車場と生駒トンネルの双方の性格と歴史的位置付け

「前者はわが国を代表する画期的な大建築であり、同社の東京進出の契機となった。後者は途中落盤事故に遭遇するなど、難工事をきわめた大トンネル工事であった」
日本会社史総覧

1916年12月の創業者・大林芳五郎の死去と2代目大林義雄への事業承継

「大林組の創業から基盤づくりに全力を傾けた芳五郎は、1916年に死去。嫡子義雄が2代目社長に就任した」
日本会社史総覧

1918年12月の株式会社改組以降、2代目大林義雄が推進した組織近代化と技術導入の方針

「業務組織の近代化を図るとともに、技術面でも主要な人物を欧米に派遣して、先進諸国の新技術を吸収させるなど、リーダー企業としての体制を整えていった」
日本会社史総覧

1923年9月の関東大震災で大林組施工の鉄筋コンクリート造ビルが倒壊せず、首都圏での評価を高めた

「日本興業銀行、国分などの各ビルには損倒はなく、同社の名を高らしめた」

参考文献

  • 日本会社史総覧 1995/11
  • 有価証券報告書