第2章 年〜年

ニチロ:三社合併による北洋サケ・マス漁業の集約

1914年〜大戦景気の缶詰輸出と、毎年入れ替わる漁区

1914年に始まった第一次世界大戦は、北洋の缶詰に値上がりをもたらした。優良漁場を次々と失って苦しい時期にあった堤商会も、製品の値上がりでやりくりがついた。欧州大戦の結果、缶詰の輸出は盛んになった。設立まもない日魯漁業は缶詰設備の拡張のため、1917年6月と1920年2月に増資して資本金1,000万円となる。1916年には、デンビー商会が自ら表に立たず、新規の出願者を装った替え玉を使って三社のいずれの優良漁場も取っていった。平塚氏は抗議に回らず、さらにキシカへ進出して操業で対抗した。缶詰の値が上がるほど、漁区を取る競争も激しくなった。

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [1]第一次世界大戦により北洋の缶詰製品が値上がりした
    • [2]大戦による製品の値上がりで堤商会は資金繰りがついた
    • [5]1916年にデンビー商会が新規出願者を装った替え玉で三社の優良漁場を取った
    • [6]平塚常次郎はキシカへ進出して操業で対抗した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [3]欧州大戦の結果として缶詰の輸出が盛んになった
    • [4]日魯漁業は缶詰設備拡張のため1917年6月と1920年2月に増資し資本金1,000万円となった

大阪で金融業を営む島徳蔵氏が日魯漁業の社長となったのは1916年で、旧重役が退いた後を受けてのことだった。創業から数年、この会社の持ち主は落ち着かなかった。初代社長だった田村市郎氏のほうは内地のトロール漁業を組み直す仕事へ移り、共同漁業の株式の過半を握ったうえで、1919年には日本トロール株式会社を吸収合併した。のちの日本水産は、この共同漁業から出ている。同じ1919年、島徳氏の日魯漁業は資本金を1,000万円へ増やしたうえで函館の資産家目貫礼三氏の手に渡り、そこへ堤商会が一万株を携えて加わった。北洋の漁場で殴り合っていた堤商会にとって、日魯漁業は競争相手であると同時に、株を握っておく相手になった。

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [7]1916年に日魯漁業の旧重役が退き島徳蔵が社長に就いた
    • [11]1919年に島徳蔵の日魯漁業は資本金1,000万円へ増資し函館の資産家目貫礼三の手に移った
    • [12]堤商会は日魯漁業へ一万株を持って参加した
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 水産・農林「水産-荒波こえ遠洋へ」
    • [8]田村市郎は内地でトロール漁業の再編に向かった
    • [9]田村市郎は共同漁業の株式の大半を取得し1919年に日本トロールを吸収合併した
    • [10]共同漁業は日本水産の前身である

1917年のロシア革命は露人の漁業家に打撃を与え、平塚氏の競争相手だったデンビー商会も1918年に三菱へ身売りした。革命後のソビエトは国営漁場を推し進め、日本の漁業家が個々に対峙できる相手ではなくなる。1919年、平塚氏が草分けしたカム河の三漁場が長期漁区として競売にかけられた。当時のロシアは外国為替を禁じており、入札には数百万ルーブルの現金が要る。平塚氏はハルビンで200万ルーブルを現金化すると、紙幣の束を小分けにして体に巻きつけ、その上に毛皮外套を着てウラジオストクへ渡った。無警察状態のシベリアを単身で抜けたこの入札行で、三漁場を確保した。堤商会自身も1919年12月に極東漁業へ改組し、翌1920年2月には輸出食品を合併してその商号を継いだ。

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [13]ロシア革命により露人漁業家のデンビー商会は1918年に三菱へ身売りした
    • [14]革命後のソビエトは国営漁場を推し進めた
    • [15]1919年にカム河の三漁場が長期漁区として競売にかけられた
    • [16]ロシアが外国為替を禁じていたため入札には現金が必要だった
    • [17]平塚常次郎はハルビンで200万ルーブルを現金化して身につけ運んだ
    • [18]平塚常次郎は単身の入札行でカム河の三漁場を確保した
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1919年12月に堤商会は極東漁業へ改組した
    • [20]1920年2月に極東漁業は輸出食品を合併し輸出食品の商号を継承した
参考文献[1]-[20]
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [1]第一次世界大戦により北洋の缶詰製品が値上がりした
    • [2]大戦による製品の値上がりで堤商会は資金繰りがついた
    • [5]1916年にデンビー商会が新規出願者を装った替え玉で三社の優良漁場を取った
    • [6]平塚常次郎はキシカへ進出して操業で対抗した
    • [7]1916年に日魯漁業の旧重役が退き島徳蔵が社長に就いた
    • [11]1919年に島徳蔵の日魯漁業は資本金1,000万円へ増資し函館の資産家目貫礼三の手に移った
    • [12]堤商会は日魯漁業へ一万株を持って参加した
    • [13]ロシア革命により露人漁業家のデンビー商会は1918年に三菱へ身売りした
    • [14]革命後のソビエトは国営漁場を推し進めた
    • [15]1919年にカム河の三漁場が長期漁区として競売にかけられた
    • [16]ロシアが外国為替を禁じていたため入札には現金が必要だった
    • [17]平塚常次郎はハルビンで200万ルーブルを現金化して身につけ運んだ
    • [18]平塚常次郎は単身の入札行でカム河の三漁場を確保した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [3]欧州大戦の結果として缶詰の輸出が盛んになった
    • [4]日魯漁業は缶詰設備拡張のため1917年6月と1920年2月に増資し資本金1,000万円となった
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 水産・農林「水産-荒波こえ遠洋へ」
    • [8]田村市郎は内地でトロール漁業の再編に向かった
    • [9]田村市郎は共同漁業の株式の大半を取得し1919年に日本トロールを吸収合併した
    • [10]共同漁業は日本水産の前身である
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1919年12月に堤商会は極東漁業へ改組した
    • [20]1920年2月に極東漁業は輸出食品を合併し輸出食品の商号を継承した

1920年〜尼港事件と恐慌が決めた三社合同

1920年3月の尼港事件では石田領事以下の邦人700余名が殺害され、その余波でオホーツク方面の漁場30余か所が焼き払われた。同じ年、大戦後の世界的な恐慌でロンドンへ送った缶詰が滞貨し、運賃の変動による差損も重なって1,000万円の負債を抱えた。朝鮮銀行を主体とする融資の条件が、関係三社の合同だった。1921年3月、輸出食品・勘察加漁業・日魯漁業の三社が合併して日魯漁業の商号を継ぎ、資本金2,570万円の会社が本社を東京市日本橋区に置き、堤氏が取締役会長、平塚氏が常務に就任した。この合同は米国式の缶詰機械と技術を全面的に使い、缶詰の能率的な大量生産を図るためのもので、輸出食品が主体となって計画を進めた。

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [21]1920年3月の尼港事件で邦人700余名が殺害された
    • [22]戦後恐慌で缶詰が滞貨し1,000万円の負債を抱えた
    • [23]朝鮮銀行の融資条件が関係三社の合同だった
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1921年3月に輸出食品・勘察加漁業・日魯漁業の三社が合併した
    • [26]合同後の本社を東京市日本橋区に置いた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [25]三社合同後の資本金は2,570万円となった
    • [27]三社合同は米国式缶詰機械による大量生産を目的とし輸出食品が主導した

三社の合同は、資本の足し算ではなく信用の持ち寄りだった。合同の主体となった輸出食品は、1919年11月に堤商会と旧輸出食品が合併してできた会社である。堤商会は個人企業のまま優秀な製品を作り、英国のセール・フレーザー社やセール商会の信用を得ていた。合同にあたって輸出食品はこの信用と暖簾を無形資産として提供した。新会社は英国商社から機械の輸入と融資の援助を受け、合同を実現した。平塚氏は堤商会のカムチャッカ漁業部を輸出食品へ合併させて常務取締役に入り、さらに袴・小熊ら西海岸の漁業家を糾合して堪察加漁業会社を創設し、取締役となっていた。堤商会・輸出食品・日魯の三社は、合併の前にすでに平塚氏の手で一本に繋がれていた。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [28]輸出食品は1919年11月に堤商会と旧輸出食品が合併してできた会社である
    • [29]堤商会は個人企業により優秀製品を生産し英国のセール・フレーザー社・セール商会の信用を得ていた
    • [30]合同で輸出食品は信用と暖簾などの無形資産を提供した
    • [31]新会社は英国商社から機械輸入と融資の援助を受けて合同を実現した
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [32]平塚常次郎は堤商会のカムチャッカ漁業部を輸出食品へ合併させ常務取締役となった
    • [33]平塚常次郎は西海岸の漁業家を糾合して堪察加漁業会社を創設し取締役となった
    • [34]堤商会・輸出食品・日魯の三社は平塚常次郎の手で一本につながった

合同の直後、1921年10月に日魯漁業の全額出資で資本金100万円の北海製罐倉庫が設立され、製缶業と倉庫業を始めた。空缶の製造は、堤商会がオゼルナヤで米国式機械を入れたときに切り離した部門であり、それが合同後に会社の形を取った。同じ1921年から翌年にかけて、北洋では自衛出漁と呼ばれる操業が行われた。帝政が倒れた後のロシアには協約を履行する相手がおらず、現地の官憲は既得権を顧みずに振る舞った。小さな漁業家はその迫害でまともに出漁できず、日魯漁業と北洋漁業の二大会社だけが操業を続けた。個々の漁業家が残れない海になったことが、合同を必要とした条件だった。

  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「北海製罐」
    • [35]1921年10月に日魯漁業の全額出資により資本金100万円で北海製罐倉庫が設立され製缶業と倉庫業を始めた
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [36]空缶機械は堤商会が函館で独立工場とし北海製罐のもととなった
    • [37]1921年から1922年にかけて北洋で自衛出漁が行われた
    • [38]帝政崩壊後のロシアには協約履行の相手がなく官憲は既得権を顧みなかった
    • [39]小さな漁業家は迫害でまともに出漁できなかった
    • [40]日魯漁業と北洋漁業の二大会社だけが操業を続けた
参考文献[21]-[40]
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [21]1920年3月の尼港事件で邦人700余名が殺害された
    • [22]戦後恐慌で缶詰が滞貨し1,000万円の負債を抱えた
    • [23]朝鮮銀行の融資条件が関係三社の合同だった
    • [32]平塚常次郎は堤商会のカムチャッカ漁業部を輸出食品へ合併させ常務取締役となった
    • [33]平塚常次郎は西海岸の漁業家を糾合して堪察加漁業会社を創設し取締役となった
    • [34]堤商会・輸出食品・日魯の三社は平塚常次郎の手で一本につながった
    • [36]空缶機械は堤商会が函館で独立工場とし北海製罐のもととなった
    • [37]1921年から1922年にかけて北洋で自衛出漁が行われた
    • [38]帝政崩壊後のロシアには協約履行の相手がなく官憲は既得権を顧みなかった
    • [39]小さな漁業家は迫害でまともに出漁できなかった
    • [40]日魯漁業と北洋漁業の二大会社だけが操業を続けた
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1921年3月に輸出食品・勘察加漁業・日魯漁業の三社が合併した
    • [26]合同後の本社を東京市日本橋区に置いた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [25]三社合同後の資本金は2,570万円となった
    • [27]三社合同は米国式缶詰機械による大量生産を目的とし輸出食品が主導した
    • [28]輸出食品は1919年11月に堤商会と旧輸出食品が合併してできた会社である
    • [29]堤商会は個人企業により優秀製品を生産し英国のセール・フレーザー社・セール商会の信用を得ていた
    • [30]合同で輸出食品は信用と暖簾などの無形資産を提供した
    • [31]新会社は英国商社から機械輸入と融資の援助を受けて合同を実現した
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「北海製罐」
    • [35]1921年10月に日魯漁業の全額出資により資本金100万円で北海製罐倉庫が設立され製缶業と倉庫業を始めた

1924年〜露領漁場の集約と、島徳事件が突いた弱点

合同後の日魯漁業は露領の漁場を集め、1924年10月に大北漁業を買収して露領の優良漁場をほぼ掌握し、1932年9月には露領に散在する41漁場を合併して総合同を実現する。同年11月の経営漁場はカムチャッカ東海岸106、西海岸137、オホーツク38、沿海州サガレン17の計298に達し、工場は32を数えた。半期の漁獲高は1,394万貫、缶詰122万2,000函、塩魚53万6,000函にのぼる。缶詰は英国船1隻と邦船2隻を使ってほとんど英国へ直送され、年産5,000万円を突破した。堤商会が作ったあけぼの印の鮭缶詰は、合同前の1915年にサンフランシスコ万国博覧会で名誉大賞牌を得ていた。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [41]1924年10月に大北漁業を買収して露領の優良漁場を掌握した
    • [42]1932年9月に露領の41漁場を合併した
    • [43]1932年11月の経営漁場は298、工場は32だった
    • [44]半期の漁獲高は1,394万貫、缶詰122万2,000函だった
    • [45]缶詰はほとんど英国へ直送され年産5,000万円を超えた
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [46]あけぼの印の鮭缶詰が1915年のサンフランシスコ万国博覧会で名誉大賞牌を得た

事業が好調になると、外から仕掛けられた。1929年の漁区競売では、日魯漁業が更新するはずの優良漁区78か所がK・UDA名義の露人によって落札される。工場のあるキシカの漁区は平塚氏が2万金ルーブルで入れたのに対し、相手は10万金ルーブルという高値だった。入札の結果が知れ渡る前に市場へ投げ物が殺到し、120円台だった日魯株は20円まで暴落し、立会停止になった。仕掛けたのは相場師の島徳蔵氏の一派で、漁場を押さえて事業を止め、株の操作で儲ける筋書きだった。調停に立った杉山茂丸氏の一言で島側が漁区を全部放棄し、日魯漁業が160万円を渡して決着した。

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [47]昭和のはじめごろ日魯漁業の事業はきわめて好調だった
    • [48]1929年の漁区競売で優良漁区78か所がK・UDA名義で落札された
    • [49]キシカ漁区は日魯の2万金ルーブルに対し相手が10万金ルーブルを入れた
    • [50]日魯株は120円台から20円まで暴落し立会停止となった
    • [51]事件を仕掛けたのは相場師の島徳蔵の一派だった
    • [52]杉山茂丸の調停で島側が漁区を放棄し日魯が160万円を渡して決着した

平塚氏と堤清六氏の二人は、事業においては一人の人間といってよいほど一体だった。その堤氏が1931年、灸の跡から丹毒に冒され、肺炎を併せて起こして52歳で急逝する。残された平塚氏は、身も心も抜け落ちたような虚しさのなかにあった。北洋漁業が一社にまとまったのは翌1932年で、中小の漁業家が合同した北洋合同漁業を即時合併し、資本金は5,380万円に達した。さらに1943年4月、企業整備令に従って太平洋漁業・北千島水産・北日本漁業・日本蟹缶詰・北洋蟹缶詰の5社を吸収合併し、資本金を8,550万円に広げた。この時点で北洋全地域のサケ・マス漁業とカニ漁業の大部分を日魯漁業が経営した。そして1945年8月、終戦により在外の全資産を失った。

  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [53]1931年に堤清六が52歳で死去した
    • [54]平塚常次郎は堤清六の死に身も魂も抜けたような空虚を感じたと回想した
    • [55]1932年に北洋合同漁業を合併し資本金5,380万円となった
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [56]1943年4月に企業整備令で5社を吸収合併した
    • [57]5社合併後の資本金は8,550万円となった
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
    • [58]終戦まで北洋全地域のサケ・マス漁業とカニ漁業の大部分を経営した
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1945年8月の終戦により在外全資産を喪失した
参考文献[41]-[59]
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
    • [41]1924年10月に大北漁業を買収して露領の優良漁場を掌握した
    • [42]1932年9月に露領の41漁場を合併した
    • [43]1932年11月の経営漁場は298、工場は32だった
    • [44]半期の漁獲高は1,394万貫、缶詰122万2,000函だった
    • [45]缶詰はほとんど英国へ直送され年産5,000万円を超えた
    • [56]1943年4月に企業整備令で5社を吸収合併した
    • [57]5社合併後の資本金は8,550万円となった
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [46]あけぼの印の鮭缶詰が1915年のサンフランシスコ万国博覧会で名誉大賞牌を得た
    • [47]昭和のはじめごろ日魯漁業の事業はきわめて好調だった
    • [48]1929年の漁区競売で優良漁区78か所がK・UDA名義で落札された
    • [49]キシカ漁区は日魯の2万金ルーブルに対し相手が10万金ルーブルを入れた
    • [50]日魯株は120円台から20円まで暴落し立会停止となった
    • [51]事件を仕掛けたのは相場師の島徳蔵の一派だった
    • [52]杉山茂丸の調停で島側が漁区を放棄し日魯が160万円を渡して決着した
    • [53]1931年に堤清六が52歳で死去した
    • [54]平塚常次郎は堤清六の死に身も魂も抜けたような空虚を感じたと回想した
    • [55]1932年に北洋合同漁業を合併し資本金5,380万円となった
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
    • [58]終戦まで北洋全地域のサケ・マス漁業とカニ漁業の大部分を経営した
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1945年8月の終戦により在外全資産を喪失した

出典・参考

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出典・参考
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「北海製罐」
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 水産・農林「水産-荒波こえ遠洋へ」
  • 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)

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