ニチロ:堤商会の設立と函館での日魯漁業の創立
1906年〜遠洋への政策転換と、ブロンゲ岬で組んだ二人
明治期の日本の漁業は沿岸に張りついたまま生産が伸びず、低い技術水準から抜け出すことが官民の課題だった。日清戦争が終わると漁船に石油発動機が載るようになり、漁網も綿網の普及で性能を上げた。国の側では1897年に遠洋漁業奨励法が公布され、翌年から漁船・漁具・乗組員が補助金の交付を受けられるようになった。この法は1905年の全面改正を含めて改定を重ね、漁業を沖合遠洋へ押し出す原動力となっていく。明治の終わりから大正のはじめには捕鯨業と汽船トロール漁業も興り、日露戦争の勝利は、露領の漁場を日本人の手で開発する道を開いた。とはいえ日本の漁業者から見れば、そこは最も遠く、どう操業しどこへ売るのかも見当のつかない土地だった。
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 水産・農林「水産-荒波こえ遠洋へ」
- [1]明治期の漁業は沿岸漁業が中心で低い技術水準のもと停滞していた
- [3]綿網の普及で漁網の性能が高まった
- [4]1897年公布の遠洋漁業奨励法は漁船・漁具・乗組員へ補助金を交付した
- [5]遠洋漁業奨励法は1905年の全面改正をはじめ数次の改正を経た
- [7]日露戦争の勝利で邦人によるロシア領漁業開発の途が開けた
- 会社銀行八十年史(1955年)「水産」概説
- [2]日清戦争後に石油発動機が漁船に利用されはじめた
- [6]捕鯨業・汽船トロール漁業は明治末期から大正初期に始まった
日魯漁業の創業者の一人となる平塚常次郎氏は、1881年に北海道函館の呉服唐物商の家に生まれた。札幌の露清語学校でロシア語を学び、南樺太コルサコフの雑貨店員を経て、21歳の春に露領カムチャッカのヤイナへ買魚出漁に加わった。1906年春、平塚氏の漁場は沿海州黒龍江のほとりのブロンゲ岬にあり、そこで漁をしていた。日本がポーツマス条約で北洋露領の漁業権を手にした翌年である。それ以前の日露戦争には旭川第七師団の砲兵として出征し、旅順攻撃から奉天大会戦までを戦って、砲声に右の鼓膜を破られていた。この岬を訪ねてきた青年は、漁場には似合わない身なりをしていた。上は背広で頭にはハンチング、下は白ズボンで足もとは長ぐつである。ロシア人相手の雑貨貿易の下調べに来た、越後三条町の呉服屋の長男、堤清六氏だった。
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [8]平塚常次郎は1881年に函館の呉服唐物商の家に生まれた
- [9]平塚常次郎は札幌の露清語学校でロシア語を学んだ
- [10]平塚常次郎は21歳の春にカムチャッカのヤイナへ買魚出漁した
- [11]1906年春に平塚常次郎はブロンゲ岬で堤清六と出会った
- [12]平塚常次郎は日露戦争に砲兵として従軍し右の鼓膜を失った
- [13]堤清六は背広にハンチング、白ズボンに長ぐつという風体で漁場を訪ねた
- [14]堤清六は越後三条町の呉服屋の長男で雑貨貿易の調査に来ていた
堤氏は帰郷したのち、水産に反対する両親と親類を説得して1万2,500円の出資を集め、163トンの帆船"宝寿丸"を取得した。名目は当初の計画どおりの貿易だったが、宝寿丸は出漁船であり、二人はこれを元手に新潟で堤商会の看板を掲げた。堤商会の設立は1906年11月と記録されるが、平塚氏が看板を掲げたのは翌1907年だった。同年に日露漁業協約が結ばれたものの漁場の競売が遅れたため、初年度は宝寿丸でカムチャッカ河へ向かう買魚出漁に終わった。翌1908年、堤商会はウスチ・カムチャッカで二か所の漁場を落札し、自前の漁場を持った。平塚氏は漁のかたわら地形や潮流、魚の回遊状態を調べて歩いた。
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [15]堤清六は親類から1万2,500円の出資を得て帆船宝寿丸を購入した
- [16]宝寿丸は貿易名目で購入されたが実態は出漁船だった
- [17]平塚常次郎は堤商会の看板を掲げたのを1907年と回想した
- [18]1907年は漁場競売が遅れたため買魚出漁に終わった
- [19]1908年に堤商会はウスチ・カムチャッカで2漁場を落札した
- [20]平塚常次郎は漁のかたわら地形・潮流・魚の回遊状態を調べて歩いた
参考文献[1]-[20]
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 水産・農林「水産-荒波こえ遠洋へ」
- [1]明治期の漁業は沿岸漁業が中心で低い技術水準のもと停滞していた
- [3]綿網の普及で漁網の性能が高まった
- [4]1897年公布の遠洋漁業奨励法は漁船・漁具・乗組員へ補助金を交付した
- [5]遠洋漁業奨励法は1905年の全面改正をはじめ数次の改正を経た
- [7]日露戦争の勝利で邦人によるロシア領漁業開発の途が開けた
- 会社銀行八十年史(1955年)「水産」概説
- [2]日清戦争後に石油発動機が漁船に利用されはじめた
- [6]捕鯨業・汽船トロール漁業は明治末期から大正初期に始まった
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [8]平塚常次郎は1881年に函館の呉服唐物商の家に生まれた
- [9]平塚常次郎は札幌の露清語学校でロシア語を学んだ
- [10]平塚常次郎は21歳の春にカムチャッカのヤイナへ買魚出漁した
- [11]1906年春に平塚常次郎はブロンゲ岬で堤清六と出会った
- [12]平塚常次郎は日露戦争に砲兵として従軍し右の鼓膜を失った
- [13]堤清六は背広にハンチング、白ズボンに長ぐつという風体で漁場を訪ねた
- [14]堤清六は越後三条町の呉服屋の長男で雑貨貿易の調査に来ていた
- [15]堤清六は親類から1万2,500円の出資を得て帆船宝寿丸を購入した
- [16]宝寿丸は貿易名目で購入されたが実態は出漁船だった
- [17]平塚常次郎は堤商会の看板を掲げたのを1907年と回想した
- [18]1907年は漁場競売が遅れたため買魚出漁に終わった
- [19]1908年に堤商会はウスチ・カムチャッカで2漁場を落札した
- [20]平塚常次郎は漁のかたわら地形・潮流・魚の回遊状態を調べて歩いた
1910年〜手詰めの缶詰から米国式サニタリー缶機械への切り替え
カムチャッカ東海岸の一帯は紅鮭が多かったが、当時の日本で紅鮭は好まれず値も安かった。外国では喜ばれるので輸出用の缶詰にすればよいという助言を受け、堤商会は1910年にウスチ・カムチャッカの漁場へ小さな工場を建設した。その年の生産は四ダース入り704箱にとどまる。缶の封は職人が鏝で半田づけし、煮沸で膨張した缶に穴をあけてまた半田づけするという手工業で、身の詰め方も揃わず"鮭のスープか"と冷やかされた(日本経済新聞 1958/4)。それでも味は評価され、翌年には2,700余箱を製造した。隣接する露人デンビー商会の漁場はスウェーデン式の半自動機械を据えており、生産能力は堤商会の五倍から十倍あった。
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [21]カムチャッカ東海岸は紅鮭が多かったが当時の日本では値が安かった
- [22]1910年にウス・カム漁場へ缶詰工場を建てた
- [23]1910年の鮭缶詰生産は四ダース入り704箱だった
- [24]初期の缶詰は身の処理が揃わず鮭のスープかと冷やかされた
- [25]1911年の缶詰生産は2,700余箱に増えた
- [26]隣接するデンビー商会は半自動缶詰機械で5倍から10倍の能力を持っていた
缶詰工場を建てた翌年、漁場取締の官憲が事を構えて、堤商会の工場がある漁場へ閉鎖を命じてきた。カム河の缶詰工場は、北洋に日本人が建てた工場として最初のものだった。露領カムチャッカで日本初の紅鮭缶詰工場を建てて経営したのが堤商会であり、業界ではこの点で先駆けと見られた。個人企業のままでも製品の出来がよく、英国のセール・フレーザー社とセール商会から信用を得ていた。この処分は、デンビー商会から見れば競争相手の漁場がなくなる好都合なものだった。平塚氏が選んだのは抗議することではなく、操業で張り合うことである。機械力で後れを取ったうえに漁場まで失えば、缶詰を量産するどころの話ではなくなる。新たに獲得したのはオホーツク方面の三漁場で、そこで大漁に恵まれて相当の利益を出した。オホーツクでの成功を機に、事務所は北洋漁業の根拠地である函館へ移された。
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [27]缶詰工場の翌年に漁場取締の官憲が堤商会の工場のある漁場へ閉鎖を命じた
- [28]カム河の缶詰工場は北洋における日本人工場の草分けだった
- [31]平塚常次郎はオホーツクに三漁場を獲得し大漁で利益をあげた
- [32]オホーツクでの成功後に堤商会は事務所を函館へ移した
- 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
- [29]堤商会は露領カムチャッカにわが国最初の紅鮭缶詰工場を建設経営した
- [30]堤商会は個人企業により優秀製品を生産し英国のセール・フレーザー社・セール商会の信用を得た
函館に本拠を移した堤商会は、西海岸のオゼルナヤに漁場を開き、ここにも缶詰工場を建てることにした。もう鮭のスープの時代ではないとして、有り金を全部はたいて米国から最新式のサニタリー缶機械を買い付けた。空缶の製造から中身の充填までを自動で処理する設備である。米国の会社は空缶は売るが機械は売り物ではないと撥ねつけた。堤商会に力添えしていたセール・フレーザー商会のブース氏が、金を立て替えてまで買い入れを通した。空缶機械は後に函館で独立した工場となり、北海製罐へつながった。堤商会はこうして、北洋で米国式缶詰機械によるサケ・マス缶詰の大量生産を行う会社になった。
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [33]函館へ移った堤商会は西海岸オゼルナヤに漁場を開き缶詰工場を建てた
- [34]オゼルナヤの工場に有り金をはたいて米国製サニタリー缶機械を買い付けた
- [35]サニタリー缶機械は空缶製造から充填までを自動で処理する設備だった
- [36]米国の機械会社は空缶は売るが機械は売り物ではないと断った
- [37]セール・フレーザー商会のブースが金を立て替えて機械の買付を通した
- [38]空缶機械は後に函館で独立工場となり北海製罐につながった
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
- [39]堤商会は北洋で米国式缶詰機械によるサケ・マス缶詰の大量生産を行った
参考文献[21]-[39]
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [21]カムチャッカ東海岸は紅鮭が多かったが当時の日本では値が安かった
- [22]1910年にウス・カム漁場へ缶詰工場を建てた
- [23]1910年の鮭缶詰生産は四ダース入り704箱だった
- [24]初期の缶詰は身の処理が揃わず鮭のスープかと冷やかされた
- [25]1911年の缶詰生産は2,700余箱に増えた
- [26]隣接するデンビー商会は半自動缶詰機械で5倍から10倍の能力を持っていた
- [27]缶詰工場の翌年に漁場取締の官憲が堤商会の工場のある漁場へ閉鎖を命じた
- [28]カム河の缶詰工場は北洋における日本人工場の草分けだった
- [31]平塚常次郎はオホーツクに三漁場を獲得し大漁で利益をあげた
- [32]オホーツクでの成功後に堤商会は事務所を函館へ移した
- [33]函館へ移った堤商会は西海岸オゼルナヤに漁場を開き缶詰工場を建てた
- [34]オゼルナヤの工場に有り金をはたいて米国製サニタリー缶機械を買い付けた
- [35]サニタリー缶機械は空缶製造から充填までを自動で処理する設備だった
- [36]米国の機械会社は空缶は売るが機械は売り物ではないと断った
- [37]セール・フレーザー商会のブースが金を立て替えて機械の買付を通した
- [38]空缶機械は後に函館で独立工場となり北海製罐につながった
- 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
- [29]堤商会は露領カムチャッカにわが国最初の紅鮭缶詰工場を建設経営した
- [30]堤商会は個人企業により優秀製品を生産し英国のセール・フレーザー社・セール商会の信用を得た
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
- [39]堤商会は北洋で米国式缶詰機械によるサケ・マス缶詰の大量生産を行った
1912年〜輸出食品と一井組の参入が生んだ北洋の三社並立
北洋に腰が据わると、同じ漁場をめざす者が増えた。1912年に設立された輸出食品株式会社もその一つだった。堤商会が最初の缶詰工場を建てたときに技師長格で骨を折った水産講習所の技手・鍋島熊道氏が支配人に入っている。資本金50万円のこの会社は、社長に甲州出身の小野金六氏、専務に穴水熊男氏を置いた。そこへ神谷バーの神谷伝兵衛氏らが加わり、魚に縁のある者は鍋島氏一人という顔ぶれだった。堤商会は、この輸出食品と協力する道を選んだ。函館には久原房之助氏の番頭であった中山説太郎氏が一井組を興し、派手な進出ぶりを見せていた。漁場を知る者と資本を持つ者が、この時期に別々の会社を構えた。
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [40]北洋に腰が据わると北洋をめざす漁業者が増えた
- [42]輸出食品の支配人は堤商会の缶詰工場建設で技師長格を務めた水産講習所技手の鍋島熊道だった
- [43]輸出食品は資本金50万円で社長が小野金六、専務が穴水熊男だった
- [44]輸出食品には神谷伝兵衛らが加わり魚に縁があるのは鍋島熊道一人だった
- [45]堤商会は輸出食品と協力することになった
- [46]久原房之助の番頭だった中山説太郎が函館で一井組を興した
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 水産・農林「水産-荒波こえ遠洋へ」
- [41]輸出食品株式会社は1912年に創立された
露領の漁区は日露漁業協約に基づいて競売にかけられ、合同前の三社はいずれも十四年前から露領カムチャッカで鮭鱒を獲っていた。入札では、露領水産組合と露人側の間で各社の持つ漁場に暗黙の優先権が認められていた。1913年、その慣行を破ったのは日本側だった。中山氏の一井組が、露人の有力漁業家デンビー商会と相次いで動き、堤商会の優良なウス・カム漁場を奪った。デンビー商会は報復として堤商会の漁場を取ったが、事の起こりが日本側にある以上、抗議の筋が立たない。平塚氏は場所を変えて前年と同数の六漁場を獲得し、経営を続けた。日本人同士が事を起こせば、国家権益として得た漁業権は力を分散させる——平塚氏はそう考え、前途の多難を思った。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
- [47]日露漁業協約により合同前の三社はいずれも十四年前から露領カムチャッカで鮭鱒漁を操業していた
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [48]入札では露領水産組合と露人側の間で各社の持漁場に暗黙の優先権が認められていた
- [49]1913年に一井組がデンビー商会と動き堤商会の優良なウス・カム漁場を奪った
- [50]デンビー商会は報復として堤商会の漁場を取った
- [51]平塚常次郎は場所を変えて前年と同数の六漁場を獲得した
- [52]平塚常次郎は日本人同士の争いが国家権益を分散させると考え前途の多難を思った
一井組は1914年3月12日、資本金200万円の日魯漁業株式会社となった。本店を函館に置き、北洋におけるサケ・マス建網漁業を目的に掲げた会社である。社長には久原氏と同じ長州の出身である田村市郎氏が就き、中山氏が専務に入った。田村氏は国産第一号の鋼製トロール汽船を建造した人物で、のちに共同漁業の実権を握る。日魯という商号は日露漁業協約から取られたものである。合同前の三社がいずれも露領カムチャッカで操業していたため、この事業の発展を期して採用された。以後、堤商会・輸出食品・日魯漁業の三社は、北洋漁業の三羽烏と呼ばれた。漁場を開いた側と資本を集めた側が別々の会社を構えたまま、この八年は終わった。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
- [53]1914年3月12日に資本金200万円で日魯漁業株式会社が設立された
- [54]日魯漁業は函館に本店を置き北洋の鮭鱒建網漁業を目的として設立された
- [57]日魯という商号は日露漁業協約から採られた
- [58]合同前の三社はいずれも露領カムチャッカで操業しており事業の発展を期して日魯漁業の商号が採用された
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [55]設立時の日魯漁業は社長が久原房之助と同じ長州出身の田村市郎、専務が中山説太郎だった
- [59]堤商会・輸出食品・日魯の三社は北洋漁業の三羽烏と呼ばれた
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 水産・農林「水産-荒波こえ遠洋へ」
- [56]田村市郎は国産第一号の鋼製トロール汽船第一丸を建造し共同漁業の実権を握った
参考文献[40]-[59]
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [40]北洋に腰が据わると北洋をめざす漁業者が増えた
- [42]輸出食品の支配人は堤商会の缶詰工場建設で技師長格を務めた水産講習所技手の鍋島熊道だった
- [43]輸出食品は資本金50万円で社長が小野金六、専務が穴水熊男だった
- [44]輸出食品には神谷伝兵衛らが加わり魚に縁があるのは鍋島熊道一人だった
- [45]堤商会は輸出食品と協力することになった
- [46]久原房之助の番頭だった中山説太郎が函館で一井組を興した
- [48]入札では露領水産組合と露人側の間で各社の持漁場に暗黙の優先権が認められていた
- [49]1913年に一井組がデンビー商会と動き堤商会の優良なウス・カム漁場を奪った
- [50]デンビー商会は報復として堤商会の漁場を取った
- [51]平塚常次郎は場所を変えて前年と同数の六漁場を獲得した
- [52]平塚常次郎は日本人同士の争いが国家権益を分散させると考え前途の多難を思った
- [55]設立時の日魯漁業は社長が久原房之助と同じ長州出身の田村市郎、専務が中山説太郎だった
- [59]堤商会・輸出食品・日魯の三社は北洋漁業の三羽烏と呼ばれた
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 水産・農林「水産-荒波こえ遠洋へ」
- [41]輸出食品株式会社は1912年に創立された
- [56]田村市郎は国産第一号の鋼製トロール汽船第一丸を建造し共同漁業の実権を握った
- 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
- [47]日露漁業協約により合同前の三社はいずれも十四年前から露領カムチャッカで鮭鱒漁を操業していた
- [53]1914年3月12日に資本金200万円で日魯漁業株式会社が設立された
- [54]日魯漁業は函館に本店を置き北洋の鮭鱒建網漁業を目的として設立された
- [57]日魯という商号は日露漁業協約から採られた
- [58]合同前の三社はいずれも露領カムチャッカで操業しており事業の発展を期して日魯漁業の商号が採用された
出典・参考
5件
- 会社銀行八十年史(1955年)「水産」概説
- 会社銀行八十年史(1955年)「日魯漁業」
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「日魯漁業」
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 水産・農林「水産-荒波こえ遠洋へ」
- 私の履歴書 経済人3「平塚常次郎」(日本経済新聞社、1980年)