第1章 年〜年

ベネッセコーポレーション:倒産の翌年に岡山で始めた生徒手帳と模擬試験

生徒手帳の学校納入から進研ゼミの継続課金へ

1955年〜富士出版の倒産から福武書店の設立まで

福武哲彦氏は1949年、岡山で小学生向けのテストブックとドリルブックを出版する富士出版を設立し、業界の最高峰を目指すという意味を"富士"の社名に込めた。教材は作れば売れ、滑り出しは順調だったが、代金を回収できない取引先が次々に現れた。損を取り戻そうと無理な販売を重ねて資金繰りは詰まり、妹の嫁ぎ先の権利書を本人に無断で持ち出して担保に入れ、友人の校長からはPTAの会費まで借りた。午後3時ぎりぎりに銀行へ駆け込んで手形を落とす日が3カ月以上続いたのち、1954年7月20日、64万円の手形が落とせず富士出版は倒産した。総負債は2,400万円で、大卒の初任給が3,500円の時代である。

  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [1]1949年 福武哲彦氏が岡山で富士出版を設立し小学生向けのテストブック・ドリルブックを出版
    • [2]社名「富士」には業界の最高峰を目指すという意味を込めた
    • [3]教材はよく売れたが代金を回収できない取引先が次々に生じた
    • [4]損を取り戻そうと無理な販売を重ねて資金繰りが悪化した
    • [5]妹の嫁ぎ先の家・土地の権利書を無断で持ち出して担保に入れ、友人の校長からPTAの会費も借りた
    • [6]午後3時ぎりぎりに銀行へ駆け込んで手形を落とす日々が3カ月以上続いた
    • [7]1954年7月20日 64万円の手形が落とせず富士出版が倒産
    • [8]富士出版の総負債額 2,400万円
    • [9]倒産当時の大卒初任給は3,500円

債権者が自宅に押し寄せ、たんすの中の着物が消え、続いてたんすも電話も無くなり、自宅にも会社にも債権者の目が光るなかで、屋根裏に隠れて社員が差し入れたラーメンをすすった日もある。妻の実家に借りた四畳半一間で、福武哲彦氏は岡山を離れて再出発するかどうかを考え続けた。町を歩けば会社を潰した男だという声が聞こえ、窮状を伝え聞いた東京の友人からは、こちらへ来れば仕事を世話するという申し出も届いた。それでも福武哲彦氏が岡山に残ったのは、ここで逃げれば二度と郷里の地を踏めず、息子まで夜逃げ男の子供と言われると判断したためである。1954年10月、二つ目の決断として、もう一度出版をやると決めた。

  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [10]債権者が自宅に押し寄せ、着物・たんす・電話が無くなった
    • [11]自宅にも会社にも債権者の目が光り、会社の屋根裏に隠れて社員の差し入れたラーメンをすすった
    • [12]妻の実家に借りた四畳半一間で岡山を離れて再出発するかを考え続けた
    • [13]岡山では会社を潰した男として知られ、東京の友人が来れば仕事を世話すると誘った
    • [14]岡山に残った理由は、逃げれば二度と郷里の地を踏めず息子も夜逃げ男の子供と言われるという判断
    • [15]1954年10月 もう一度出版をやると決めた

悪名が高いままでは普通の本を作っても取り合ってもらえないと考え、福武哲彦氏は二つの商品を用意した。一つは身分証明書を貼り、校則と生徒会の規約を書き込む生徒手帳で、教材販売で作った小学校教員との人脈を頼れば売れると踏んだ。もう一つは刷り込んだ文面をなぞれば字が書けなくても出せる葉書実物大の年賀状の手本集で、地元の印刷業者には断られ、つてを頼って訪ねた京都の業者にようやく引き受けてもらった。1冊15円で売った手本集の利益を全額つぎ込み、資本金50万円で会社を設立した。1955年1月、岡山市南方420番地に株式会社福武書店を設立し、中学校関係の図書と生徒手帳の発行を始めた。

  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [16]悪名が高く普通の本では相手にされないと考え、二つの新商品を開発した
    • [17]生徒手帳は身分証明書を貼り校則と生徒会の規約を書き込むもので、小学校教員の人脈で売れると見込んだ
    • [18]年賀状の手本集は葉書実物大の文面を刷り込み、なぞれば字が書けなくても年賀状ができる商品
    • [19]地元の印刷業者に断られ、つてを頼った京都の業者が引き受けた
    • [20]1冊15円で売った年賀状の手本集の利益を全額つぎ込み、資本金50万円で福武書店を設立
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1955年1月 岡山市南方420番地に株式会社福武書店を設立し、中学校関係の図書・生徒手帳の発行を開始
参考文献[1]-[21]
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [1]1949年 福武哲彦氏が岡山で富士出版を設立し小学生向けのテストブック・ドリルブックを出版
    • [2]社名「富士」には業界の最高峰を目指すという意味を込めた
    • [3]教材はよく売れたが代金を回収できない取引先が次々に生じた
    • [4]損を取り戻そうと無理な販売を重ねて資金繰りが悪化した
    • [5]妹の嫁ぎ先の家・土地の権利書を無断で持ち出して担保に入れ、友人の校長からPTAの会費も借りた
    • [6]午後3時ぎりぎりに銀行へ駆け込んで手形を落とす日々が3カ月以上続いた
    • [7]1954年7月20日 64万円の手形が落とせず富士出版が倒産
    • [8]富士出版の総負債額 2,400万円
    • [9]倒産当時の大卒初任給は3,500円
    • [10]債権者が自宅に押し寄せ、着物・たんす・電話が無くなった
    • [11]自宅にも会社にも債権者の目が光り、会社の屋根裏に隠れて社員の差し入れたラーメンをすすった
    • [12]妻の実家に借りた四畳半一間で岡山を離れて再出発するかを考え続けた
    • [13]岡山では会社を潰した男として知られ、東京の友人が来れば仕事を世話すると誘った
    • [14]岡山に残った理由は、逃げれば二度と郷里の地を踏めず息子も夜逃げ男の子供と言われるという判断
    • [15]1954年10月 もう一度出版をやると決めた
    • [16]悪名が高く普通の本では相手にされないと考え、二つの新商品を開発した
    • [17]生徒手帳は身分証明書を貼り校則と生徒会の規約を書き込むもので、小学校教員の人脈で売れると見込んだ
    • [18]年賀状の手本集は葉書実物大の文面を刷り込み、なぞれば字が書けなくても年賀状ができる商品
    • [19]地元の印刷業者に断られ、つてを頼った京都の業者が引き受けた
    • [20]1冊15円で売った年賀状の手本集の利益を全額つぎ込み、資本金50万円で福武書店を設立
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1955年1月 岡山市南方420番地に株式会社福武書店を設立し、中学校関係の図書・生徒手帳の発行を開始

1962年〜関西模試と通信教育セミナが開いた在宅学習

福武書店が次に置いたのは同じ生徒と何年も付き合う商いであり、図書や生徒手帳は学校へ納めた時点で取引が終わるが、模擬試験と通信添削は同じ相手のもとへ何度も戻ってくる。1962年4月、関西進学研究会を設置して高校生を対象とする"関西模試"を始め、1969年1月には高校生のための通信添削講座"通信教育セミナ"を開講した。同年3月に東京支社を設置して東日本地区では"進研模試"の名称で模擬試験を実施し、1971年8月には本社を岡山市番町一丁目10番23号へ移転。売り先の異なる二つの商品を、福武書店は同じ高校生に向けて並べた。

  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1962年4月 関西進学研究会を設置し高校生を対象とした「関西模試」を開始
    • [23]1969年1月 高校生のための通信添削講座「通信教育セミナ」を開講
    • [24]1969年3月 東京支社を設置し東日本地区で「進研模試」の名称で模擬試験を実施
    • [25]1971年8月 本社を岡山市番町一丁目10番23号に移転

対象は高校生から下へ広がった。1972年12月、中学生のための通信添削講座"通信教育セミナ・ジュニア"を開講し、1973年4月には通信添削講座の名称を"進研ゼミ"に改め、1980年9月には進研ゼミ"小学講座"を開講した。受験競争が激しくなるなかで模擬試験と通信添削は伸び、福武哲彦社長に運が向き始めたのは1975年以降だった。小学生のうちに会員になれば、中学・高校と講座を替えながら同じ相手へ10年近く教材を届けられる。この組み立ては後年、不特定多数の顧客を特定化し、固定化し、継続化する営業として言語化された。

  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [26]1972年12月 中学生のための通信添削講座「通信教育セミナ・ジュニア」を開講
    • [27]1973年4月 通信添削講座の名称を「進研ゼミ」に変更
    • [28]1980年9月 進研ゼミ「小学講座」を開講
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [29]模擬試験と通信添削は受験戦争の激化で急成長し、福武哲彦氏に運が向き始めたのは1975年以降
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
    • [30]営業では不特定多数の人々を特定化し、固定化し、継続化する継続型の事業を組み立てている

模擬試験は、無名の出版社が学校の信用を借りることで広がった。福武哲彦氏は各県の一流校へ参加を頼んで回ったが、福武書店と名乗っても、どこの古本屋かという反応が返ってきた。そこで名門校の教師による研究会をつくり、模擬試験の運営方法をその研究会に任せた。問題の質を誰が保証するのかという問いに、会社ではなく教師の側が答える形にしたのである。この頼み方で教師側の信頼を得て、模擬試験は学校の年中行事として定着していった。1969年3月に東京支社を置いて東日本では"進研模試"の名で実施し、1982年時点の受験者は中学・高校生合計で280万人、"進研ゼミ"の会員は小学5年生から高校3年生まで全国60万人に達した。

  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
    • [31]各県の一流校に参加を頼むのが大変で、福武書店と名乗っても「どこの古本屋だ」という反応だった
    • [32]名門校の教師による研究会をつくり、模擬試験の運営方法を任せた
    • [33]教師側の信頼を得る方法で模擬試験の定着を図った
    • [35]1982年時点の進研模試の受験者は中学・高校生合計280万人、進研ゼミは小学5年生から高校3年生まで全国60万人が参加
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1969年3月 東京支社を設置し東日本地区で「進研模試」の名称で模擬試験を実施
参考文献[22]-[35]
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1962年4月 関西進学研究会を設置し高校生を対象とした「関西模試」を開始
    • [23]1969年1月 高校生のための通信添削講座「通信教育セミナ」を開講
    • [24]1969年3月 東京支社を設置し東日本地区で「進研模試」の名称で模擬試験を実施
    • [25]1971年8月 本社を岡山市番町一丁目10番23号に移転
    • [26]1972年12月 中学生のための通信添削講座「通信教育セミナ・ジュニア」を開講
    • [27]1973年4月 通信添削講座の名称を「進研ゼミ」に変更
    • [28]1980年9月 進研ゼミ「小学講座」を開講
    • [34]1969年3月 東京支社を設置し東日本地区で「進研模試」の名称で模擬試験を実施
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
    • [29]模擬試験と通信添削は受験戦争の激化で急成長し、福武哲彦氏に運が向き始めたのは1975年以降
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
    • [30]営業では不特定多数の人々を特定化し、固定化し、継続化する継続型の事業を組み立てている
  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
    • [31]各県の一流校に参加を頼むのが大変で、福武書店と名乗っても「どこの古本屋だ」という反応だった
    • [32]名門校の教師による研究会をつくり、模擬試験の運営方法を任せた
    • [33]教師側の信頼を得る方法で模擬試験の定着を図った
    • [35]1982年時点の進研模試の受験者は中学・高校生合計280万人、進研ゼミは小学5年生から高校3年生まで全国60万人が参加

1972年〜在宅の添削者と前受金が支えた無借金経営

答案を読んで朱を入れる仕事は、会員が増えた分だけ人手が要る。福武書店はこの工程を社内に抱えず、外へ出した。高校生向けの"進研・高ゼミ"では、毎月15万枚の答案を2,500人の指導員が赤ペンによる手書きで添削し、5,000通を超える相談・質問には別の500人の回答員が応じていた。指導員は社員ではなく、大学を出た在宅の女性が多かった。添削は誤答の解説にとどまらず、正解にも所見を付け、相談と質問を自由に受けた。福武哲彦氏はこれをツー・ウェイ・コミュニケーションと呼んでいる。会員数と社員数を切り離したこの形は、後年、人的付加価値とネットワーク力という言葉で自社の事業スタイルとして説明された。

  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
    • [36]進研・高ゼミでは毎月15万枚の答案を2,500人の指導員が赤ペンによる手書きで添削
    • [37]5,000通を超える相談・質問文書には別の500人の回答員が対応
    • [38]添削指導員は社員ではなく大学卒の在宅女性が多い
    • [39]進研ゼミの添削は誤答の解説だけでなく正解にもコメントを付け、相談・質問も自由とした
    • [40]福武哲彦氏は進研ゼミの添削をツー・ウェイ・コミュニケーションを念頭に置いたものと説明
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
    • [41]独自の事業スタイルを継続ビジネス、人的付加価値、ネットワーク力と説明している

通信添削は、代金が先に入る商いでもあった。1982年3月期の貸借対照表には59億円の前受金が載り、自己資本60億円とほぼ同額に達していた。借入金はゼロで、総資産155億円に対する自己資本比率は39%である。福武哲彦氏は料金を後払いにもできる仕組みがあり前納を強制してはいないと述べたが、実際には前納が多く、その資金の運用益も収益に寄与していた。教材の制作と郵送が費用の中心で大規模な設備を要しないため、先に入った代金がそのまま運転資金になった。1979年3月期に97億円だった売上高は1982年3月期に269億円へと3年で約3倍になり、法人所得は全国525位、岡山県下では中国銀行に次ぐ2位につけた。1984年の未上場企業株価ランキングでは、試算株価5,165円で第8位に入っている。

  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
    • [42]1982年3月期の前受金は59億円で、自己資本60億円とほぼ同額
    • [43]1982年3月期は借入金ゼロ、総資産155億円、自己資本比率39%
    • [44]福武哲彦氏は料金を後払いにできる仕組みがあり前納を強制してはいないと説明
    • [45]実際には前納が多く、前納による手元資金の運用益も大きかった
    • [46]1979年3月期の売上高97億円が1982年3月期に269億円となり3年間で約3倍
    • [47]1982年版の法人所得ランキングで全国525位、岡山県下では中国銀行に次ぐ第2位
  • 日経ビジネス 1984年11月19日冬季増刊号
    • [48]1984年の未上場企業株価ランキングで福武書店は試算株価5,165円の第8位

模擬試験と通信添削が生んだ利益は、単体では採算の合わない出版へ回された。1972年に学術出版図書部を設けて「大原總一郎随想全集」全4巻などを刊行し、1979年に設けた東京書籍出版部では「オックスフォード・カラー英和大辞典」全8巻を手がけた。1981年7月には文芸部を発足させ、文芸雑誌「海燕」を創刊している。福武哲彦氏はこれらの部門が黒字ではないと認めたうえで、書店としては不可欠だと述べた。教育と文化を合わせたエデュカルチュアを前面に出す方針を掲げ、1980年には最初のCIを実施した。良心的な出版を続けるには、それを支える収益部門が要る。福武哲彦氏にとって模擬試験と通信添削はその収益部門だった。

  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
    • [49]1972年に学術出版図書部を設立し「大原總一郎随想全集」全4巻などを刊行
    • [50]1979年に設立した東京書籍出版部が「オックスフォード・カラー英和大辞典」全8巻を刊行
    • [51]1981年7月 文芸雑誌「海燕」発行のため文芸部を発足
    • [52]新規部門は黒字ではないが書店としては不可欠と説明
    • [53]エデュケーションとカルチュアの合成語エデュカルチュアを前面に押し出す方針
    • [55]模擬試験「進研模試」と通信添削「進研ゼミ」が売上高の大半を占め、高収益・高成長の源泉となっていた
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
    • [54]日本経済の大発展期だった1980年に第1次CIを実施
参考文献[36]-[55]
  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
    • [36]進研・高ゼミでは毎月15万枚の答案を2,500人の指導員が赤ペンによる手書きで添削
    • [37]5,000通を超える相談・質問文書には別の500人の回答員が対応
    • [38]添削指導員は社員ではなく大学卒の在宅女性が多い
    • [39]進研ゼミの添削は誤答の解説だけでなく正解にもコメントを付け、相談・質問も自由とした
    • [40]福武哲彦氏は進研ゼミの添削をツー・ウェイ・コミュニケーションを念頭に置いたものと説明
    • [42]1982年3月期の前受金は59億円で、自己資本60億円とほぼ同額
    • [43]1982年3月期は借入金ゼロ、総資産155億円、自己資本比率39%
    • [44]福武哲彦氏は料金を後払いにできる仕組みがあり前納を強制してはいないと説明
    • [45]実際には前納が多く、前納による手元資金の運用益も大きかった
    • [46]1979年3月期の売上高97億円が1982年3月期に269億円となり3年間で約3倍
    • [47]1982年版の法人所得ランキングで全国525位、岡山県下では中国銀行に次ぐ第2位
    • [49]1972年に学術出版図書部を設立し「大原總一郎随想全集」全4巻などを刊行
    • [50]1979年に設立した東京書籍出版部が「オックスフォード・カラー英和大辞典」全8巻を刊行
    • [51]1981年7月 文芸雑誌「海燕」発行のため文芸部を発足
    • [52]新規部門は黒字ではないが書店としては不可欠と説明
    • [53]エデュケーションとカルチュアの合成語エデュカルチュアを前面に押し出す方針
    • [55]模擬試験「進研模試」と通信添削「進研ゼミ」が売上高の大半を占め、高収益・高成長の源泉となっていた
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
    • [41]独自の事業スタイルを継続ビジネス、人的付加価値、ネットワーク力と説明している
    • [54]日本経済の大発展期だった1980年に第1次CIを実施
  • 日経ビジネス 1984年11月19日冬季増刊号
    • [48]1984年の未上場企業株価ランキングで福武書店は試算株価5,165円の第8位

筆者考察

福武書店の商いは、売った相手ともう一度会えるかどうかで分かれた。福武哲彦氏が富士出版で潰れたのは、学習参考書を全国へ拡販して代金を回収できなかったためである。学校へ納める図書や生徒手帳も、納めた時点で取引が終わる点は変わらない。1962年の関西模試と1969年の通信教育セミナで福武書店が手にしたのは、同じ生徒のもとへ何度も戻ってくる商いだった。小学5年生で会員になれば、講座を替えながら高校3年まで10年近く教材を届けられる。模擬試験の運営を名門校の教師の研究会に任せたのも、信用のない会社が学校の年中行事へ入り込むための手である。福武書店は売り先を学校から家庭へ移し、一件ごとの取引ではなく続く関係から収入を得るようになった。

長く付き合う形は、福武書店の貸借対照表に前受金として現れた。1982年3月期の福武書店は、自己資本60億円に対してほぼ同額の59億円を前受金として抱え、借入金はゼロだった。受講料を先に受け取り、教材の制作と郵送以外に大きな設備を要さず、最も人手のかかる添削は在宅の指導員2,500人が引き受けた。会員が増えても社員を増やさずに済む形が、3年で売上高を97億円から269億円へ押し上げている。福武哲彦氏はその利益を、単体では黒字にならない学術書と文芸誌へ回した。倒産で失った出版社としての名を、模擬試験と通信添削の収益で買い戻そうとしたのである。

売上高 1979年3月期から1982年3月期まで(単体)(億円)

97 1979/3期 169 1980/3期 269 1982/3期
  • 1979年3月期と1982年3月期は日経ビジネス 1982年11月15日号、1980年3月期は日経ビジネス 1991年3月11日号。いずれも単体。

出典・参考

5件
出典・参考
  • ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1982年11月15日号
  • 日経ビジネス 1984年11月19日冬季増刊号
  • 日経ビジネス 1985年6月24日号
  • 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎

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