ベネッセコーポレーション:BenesseのCI導入と米ベルリッツの買収
進研ゼミ266万人の膨張からベネッセの多角化へ
1986年〜創業者の急逝と会員の急増が露わにした処理能力の限界
経営トップが会社の向きを変えようと号令をかけても、現場の仕事量との間にはこの段階で大きな開きがあった。創業者の福武哲彦社長が1986年に急死すると福武總一郎氏が2代目社長を継ぎ、就任早々、21世紀を見越して新しい商品・サービスを生む企画を本業の柱に据えるという長期目標を掲げた。だが社員は日々の仕事に手一杯で企画に割く余力はなく、夜ごと深夜まで残業が続いて灯りの消えない社内を、皮肉まじりに不夜城と呼んだ時期もある。1987年4月には、株式の額面を変える目的でタバイサイエンスを合併した。
- 日経ビジネス 1991年3月11日号
- [1]1986年に創業者社長が急死し、福武總一郎氏が2代目社長に就任
- [2]就任直後に「21世紀をにらみ、新しい商品やサービスの創造、企画を業務の中心とする会社になろう」という長期目標を掲げた
- [3]現場の状態は企画どころではなく、日々の作業に追われていた
- [4]毎日の残業が夜中まで及び明かりが消えないことを皮肉って「不夜城」と呼んでいた時期がある
- ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [5]1987年4月 株式額面変更のためタバイサイエンスと合併
当時の福武書店で売上高の86%を占めていたのは通信教育部門であり、作業量が膨らんだ最大の原因もその会員数の増加にあった。進研ゼミの総会員数は100万人を1987年に上回ってから急速に増え、1988年にはすでに1989年度中に200万人へ届く見通しがほぼ立っていた。添削スタッフの手配も対応もこの勢いに追いつけず、入会者が増え続ける裏で、会員の継続率は少しずつ落ちていった。集めるほど処理が遅れ、遅れるほど継続しない会員が増える悪循環に、この時期の同社ははまり込んでいた。それでも会員数は伸び続け、1993年4月には266万人に達した。
- 日経ビジネス 1991年3月11日号
- [6]通信教育部門が売上高の86%を占めていた
- [7]進研ゼミの総会員数は1987年に100万人を突破し、1988年時点で1989年度に200万人到達がほぼ確実になった
- [8]会員の急増により添削スタッフの手配も対応もパンク状態となった
- [9]新規会員は増え続けたが、継続する会員の割合は徐々に下がり始めていた
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- [10]進研ゼミの総会員数は1993年4月時点で266万人
当時、売上高の約9割と利益の大半は進研ゼミが稼ぎ出していた。現場の異変を社長に伝えたのは、全社員がその1日の業務内容と所感を"私の記録"としてB5判の用紙に毎日書き、岡山市の本社へ送る日報で、社長は一通残らず目を通していた。その中で、業務が多すぎる、仕事の質が下がったという訴えが増えていった。これを受けて福武總一郎社長は、入社3年目から部長までの社員100人を全社から選んでワーキンググループとし、岡山本社で月1回の議論を重ねさせて社内の課題を洗い出し、解決させた。会員数や売上高の増加は規模が膨らんだにすぎず成長とはいえない、という結論に討議は達し、社長は1989年の年頭あいさつで膨張から成長へを主題とした。
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- [11]売上高の約9割、利益の大部分を進研ゼミが稼ぐ依存構造にあった
- 日経ビジネス 1991年3月11日号
- [12]全社員が「私の記録」と称する1日の仕事の報告と感想を毎日B5判の紙にまとめ、岡山市の本社へ送り社長がすべてに目を通していた
- [13]日報の中に仕事量の増大・質の低下を嘆くものが増えた
- [14]入社3年目の若手から部長まで全社100人のワーキンググループをつくり、毎月1回岡山本社で討議した
- [15]ワーキンググループの結論は「会員数や売上高は伸びたが、これは単なる膨張であり成長ではない」
- [16]「膨張から成長へ」を1989年の年頭あいさつのテーマに掲げ、全社で効率化に取り組んだ
参考文献[1]-[16]
- 日経ビジネス 1991年3月11日号
- [1]1986年に創業者社長が急死し、福武總一郎氏が2代目社長に就任
- [2]就任直後に「21世紀をにらみ、新しい商品やサービスの創造、企画を業務の中心とする会社になろう」という長期目標を掲げた
- [3]現場の状態は企画どころではなく、日々の作業に追われていた
- [4]毎日の残業が夜中まで及び明かりが消えないことを皮肉って「不夜城」と呼んでいた時期がある
- [6]通信教育部門が売上高の86%を占めていた
- [7]進研ゼミの総会員数は1987年に100万人を突破し、1988年時点で1989年度に200万人到達がほぼ確実になった
- [8]会員の急増により添削スタッフの手配も対応もパンク状態となった
- [9]新規会員は増え続けたが、継続する会員の割合は徐々に下がり始めていた
- [12]全社員が「私の記録」と称する1日の仕事の報告と感想を毎日B5判の紙にまとめ、岡山市の本社へ送り社長がすべてに目を通していた
- [13]日報の中に仕事量の増大・質の低下を嘆くものが増えた
- [14]入社3年目の若手から部長まで全社100人のワーキンググループをつくり、毎月1回岡山本社で討議した
- [15]ワーキンググループの結論は「会員数や売上高は伸びたが、これは単なる膨張であり成長ではない」
- [16]「膨張から成長へ」を1989年の年頭あいさつのテーマに掲げ、全社で効率化に取り組んだ
- ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [5]1987年4月 株式額面変更のためタバイサイエンスと合併
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- [10]進研ゼミの総会員数は1993年4月時点で266万人
- [11]売上高の約9割、利益の大部分を進研ゼミが稼ぐ依存構造にあった
1988年〜制作工程の外注化と年俸制による評価軸の入れ替え
1980年代半ばまで、福武書店は添削を別にすればほぼ全工程を社内で抱えており、解答・解説をワープロで打ってレイアウト用紙に貼り付ける仕上げまで社員が自らこなし、問題冊子・答案用紙・解答冊子の編集や、返送された答案を添削スタッフへ配って回収する仕事まで、1人の社員に集まっていた。作業量を減らすために同社が選んだのは社内の工程を外に出すことで、膨大な印刷物のワープロ入力とレイアウトを段階的に外部委託へ移していった。電話相談と入会申し込みを受け付けてきた進研ゼミの部門も別会社として切り離し、組織を一段と絞り込んだ。その結果、1990年度の平均残業時間は月33時間となり、前年度の40時間より7時間少なくなった。
- 日経ビジネス 1991年3月11日号
- [17]4、5年前は添削以外の作業をほとんど社内で片付け、解答と解説をワープロ入力しレイアウト用紙に糊で貼るところまで社員が行っていた
- [18]問題・答案用紙・解答冊子の編集から答案を添削スタッフへ分配・回収する仕事まで1人の社員が担っていた
- [19]大量の印刷物のワープロ入力とレイアウトを順次外注に切り替えた
- [21]1990年度の平均残業時間は1989年度の月40時間から7時間減って33時間となった
- 日経ビジネス 1994年12月5日号
- [20]進研ゼミの電話相談・入会申し込みを担当してきた部門を別会社化して組織をスリム化した
社員を測る基準も入れ替わった。1955年に創業して以来、福武書店は成果を出した社員を、年の若さや在籍の短さを問わず昇進させ、賞与を厚くしてきた。賞与の多寡は、その社員が進研ゼミの会員をいくら増やしたかで直に決まり、年間賞与は平均で給与10カ月分に達し、個人間の開きは管理職で給与4カ月分、一般社員でも2カ月分あった。こうして、社員の大半が半期ごとの数字の上積みだけを追うようになった。福武總一郎社長は1990年4月、部長資格の管理職21人を年俸制に移し、会員数・売上高の伸びではなく、利益をいかに効率的に生んだかで評価する形にした。年俸の最低額は最高額のおよそ7割で、両者の差は100万円単位に及んだ。人員の削減も進み、社員数は1990年度に1957人だったものが1994年3月には1546人となった。
- 日経ビジネス 1991年3月11日号
- [22]1955年の創業時から業績を上げた社員に年齢や勤続年数に関係なく昇進や賞与で報いてきた
- [23]進研ゼミの会員数をどれだけ伸ばしたかがそのまま賞与の額に跳ね返っていた
- [24]年間賞与の平均は給与の10カ月分、個人差は管理職で給与の4カ月分、一般社員で2カ月分
- [25]半期の数字を伸ばすことばかり追求する社員が大多数になった
- [26]1990年4月 部長資格を持つ管理職21人に年俸制を導入し、評価基準を会員数・売上高の伸びから利益効率へ変更
- [27]年俸が最も少なかった人は最も多かった人の7割程度で、100万円単位の差がある
- 日経ビジネス 1994年12月5日号
- [28]社員数は1990年度の1957人から1994年3月の1546人まで減った
1986年4月、福武書店は育児休職制度を導入した。仕事に慣れた女性社員が出産や育児を機に辞めていくのを惜しんでのことだったが、1986年度の利用者は6人にとどまった。休職できるのは一度きりで残業も多く、復帰しても子育てとの両立はできないと、女性社員の多くが受け止めていたのが理由である。1988年に勤務時間が短くなると休職する人は増えた。1990年4月には休職期間を1子につき3年以内へ延長し、夫の転勤など出産・育児以外の理由でも休めるようにした。同社の人員構成を見ると、1991年の時点で女性正社員は700人近く、年間契約社員も含めれば全社員の3分の2を上回っており、働き手の多くは女性だった。1991年時点で休職中の女性社員は100人を数えた。出産・育児情報誌の創刊準備では、社員の半数以上を占める女性社員の人脈が調査対象を探す手がかりになっている。
- 日経ビジネス 1991年3月11日号
- [29]1986年4月に育児休職制度を導入したが1986年度中の取得者は6人にとどまった
- [30]休職は一度限りで、残業が多く復職しても仕事と子育てを両立できないとほとんどの女性社員が判断していた
- [31]1988年から勤務時間の削減が始まり、休職する人が増え始めた
- [32]1990年4月 育児休職を1子につき3年以内に拡充し、夫の転勤など出産・育児以外の理由も認めた
- [33]女性の正社員は700人近く、年間契約社員を含めると全社員の3分の2以上が女性
- [34]休職中の女性社員は100人を数えた
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- [35]出産・育児情報誌の創刊準備では進研ゼミの会員名簿と社員の半数以上を占める女性社員の人脈で調査対象を探した
参考文献[17]-[35]
- 日経ビジネス 1991年3月11日号
- [17]4、5年前は添削以外の作業をほとんど社内で片付け、解答と解説をワープロ入力しレイアウト用紙に糊で貼るところまで社員が行っていた
- [18]問題・答案用紙・解答冊子の編集から答案を添削スタッフへ分配・回収する仕事まで1人の社員が担っていた
- [19]大量の印刷物のワープロ入力とレイアウトを順次外注に切り替えた
- [21]1990年度の平均残業時間は1989年度の月40時間から7時間減って33時間となった
- [22]1955年の創業時から業績を上げた社員に年齢や勤続年数に関係なく昇進や賞与で報いてきた
- [23]進研ゼミの会員数をどれだけ伸ばしたかがそのまま賞与の額に跳ね返っていた
- [24]年間賞与の平均は給与の10カ月分、個人差は管理職で給与の4カ月分、一般社員で2カ月分
- [25]半期の数字を伸ばすことばかり追求する社員が大多数になった
- [26]1990年4月 部長資格を持つ管理職21人に年俸制を導入し、評価基準を会員数・売上高の伸びから利益効率へ変更
- [27]年俸が最も少なかった人は最も多かった人の7割程度で、100万円単位の差がある
- [29]1986年4月に育児休職制度を導入したが1986年度中の取得者は6人にとどまった
- [30]休職は一度限りで、残業が多く復職しても仕事と子育てを両立できないとほとんどの女性社員が判断していた
- [31]1988年から勤務時間の削減が始まり、休職する人が増え始めた
- [32]1990年4月 育児休職を1子につき3年以内に拡充し、夫の転勤など出産・育児以外の理由も認めた
- [33]女性の正社員は700人近く、年間契約社員を含めると全社員の3分の2以上が女性
- [34]休職中の女性社員は100人を数えた
- 日経ビジネス 1994年12月5日号
- [20]進研ゼミの電話相談・入会申し込みを担当してきた部門を別会社化して組織をスリム化した
- [28]社員数は1990年度の1957人から1994年3月の1546人まで減った
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- [35]出産・育児情報誌の創刊準備では進研ゼミの会員名簿と社員の半数以上を占める女性社員の人脈で調査対象を探した
1988年〜Benesseへの改称とベルリッツ買収、郵便料金の値上げ
事業の拡大に踏み出した背景には、顧客が先細るという読みがあった。国内の児童・生徒の数は1993年以降減り続けると見込まれ、子供一人に投じられる教育費が膨らんでいたとしても、放っておいて会員が急増する展開はもはや期待できなかった。福武書店は柱として海外展開、生涯学習社会、ニューメディア事業の3つを掲げ、通信教育の品ぞろえを広げた。海外では台湾と米国で子供を対象にし、国内では小学生にファミコンで学ぶ英語や自由研究を、大人には英語検定や宅地建物取引主任といった資格試験の対策講座を用意した。1988年4月には進研ゼミ幼児講座を始めて年齢の下の層にも手を伸ばし、1990年9月に新たなCIとしてBenesseを採り入れた。福武總一郎社長はのちに、社名の変更と株式の上場は、バブルが頂点にあった1990年の第2次CIから導かれた決定だったと振り返っている。
- 日経ビジネス 1991年3月11日号
- [36]1993年以降に国内の児童・生徒数が減少の一途をたどり、黙っていても会員数が急増するパターンは望めなくなる
- [37]海外展開、生涯学習社会、ニューメディア事業の3つの柱を立てて事業領域の拡大に取り組んだ
- [38]台湾と米国では子供向け、国内では小学生向けにファミコンを使った英語や自由研究、成人向けに英語検定や宅地建物取引主任などの資格試験対策を用意した
- ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [39]1988年4月 進研ゼミ「幼児講座」を開講
- [40]1990年9月 新CI「Benesse」を導入
- 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
- [41]1980年とバブル絶頂期の1990年の2回にわたりCIを実施し、第2次CIの結果として社名変更と株式上場を決めた
1993年2月、福武書店は米国に本社を置く語学学校のベルリッツ・インターナショナルを364億円で買収した。買収資金のうち210億円強を手元の現預金で支払い、銀行からの借り入れは150億円弱にとどめている。売上高の85%を占める通信教育は受講料が前払い方式のため、1994年3月末時点で293億円の安定した現金収入が確保されていた。通信教育の分野では大規模な設備投資が少なく、資金調達は銀行借り入れ中心で間に合っていた。1994年3月期の売上高は前年比12%増の1492億円、経常利益は1991年度以降の増加が続いて156億円に達した。福武總一郎社長は、いつでも上場できる健全な財務体質の経営を目標にしてきたと語っている。教材を刷って送るだけの事業が、海外の語学学校を現金で買える規模の資金を先に集めていた。
- ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [42]1993年2月 米ベルリッツ・インターナショナルを買収
- 日経ビジネス 1994年12月5日号
- [43]ベルリッツの買収額は364億円で、うち210億円強を手元の現預金で支払い、銀行借入は150億円弱にとどめた
- [44]売上高の85%を占める通信教育は受講料が前払い方式のため、1994年3月末で293億円の安定した現金収入を確保
- [45]通信教育の分野では大規模な設備投資が少なく、資金調達は銀行借り入れ中心で間に合っていた
- [46]1994年3月期の売上高は前年比12%増の1492億円、経常利益は1991年度以降の増加が続き156億円
- [47]福武總一郎社長は「いつでも上場できるような健全な財務体質の経営を目標にしてきている」と説明
第三種郵便料金が1994年から引き上げられた。通信添削を主力とする福武書店では、経常利益の3分の1ほどがこれで失われかねないとの試算が出た。利益を押し下げたのは、この郵便料金である。1994年度の減益要因は、値上げ分だけでも70億円近くに達するとみられた。対策として福武書店は、取引先に印刷費の値下げを求め、ダイレクトメールの発送も絞った。会員集めの手段が、そのまま費用を膨らませる側に回ったことになる。1993年10月には出産情報誌"たまごクラブ"と育児情報誌"ひよこクラブ"を創刊し、20代の既婚女性2万人へのアンケートを経て、読者から募った3000人のママ記者が誌面をつくる形にした。福武總一郎社長は、急いで売り上げを増やそうとは思わず、長く付き合ってもらえる顧客をじっくり開拓していくと述べた。
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- [48]1994年から第三種郵便料金の値上げが実施され、通信添削事業が主体の福武書店は経常利益の3分の1が吹き飛ぶ見込みだった
- [50]1993年10月 出産情報誌「たまごクラブ」と育児情報誌「ひよこクラブ」を創刊
- [51]進研ゼミの会員名簿と全国支店のネットワークで20代既婚女性2万人へアンケート、1000人へヒアリングを実施し、読者から募集した3000人のママ記者が誌面をつくる形にした
- 日経ビジネス 1994年12月5日号
- [49]郵便料金の値上げは1994年度だけで70億円弱の減益要因となり、印刷費の引き下げ要請やダイレクトメールの削減で対応した
- [52]福武總一郎社長は「急いで売り上げを増やそうとは思わない。福武書店の良さを分かって長く付き合ってもらえるお客をじっくり開拓していく」と述べた
参考文献[36]-[52]
- 日経ビジネス 1991年3月11日号
- [36]1993年以降に国内の児童・生徒数が減少の一途をたどり、黙っていても会員数が急増するパターンは望めなくなる
- [37]海外展開、生涯学習社会、ニューメディア事業の3つの柱を立てて事業領域の拡大に取り組んだ
- [38]台湾と米国では子供向け、国内では小学生向けにファミコンを使った英語や自由研究、成人向けに英語検定や宅地建物取引主任などの資格試験対策を用意した
- ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [39]1988年4月 進研ゼミ「幼児講座」を開講
- [40]1990年9月 新CI「Benesse」を導入
- [42]1993年2月 米ベルリッツ・インターナショナルを買収
- 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎
- [41]1980年とバブル絶頂期の1990年の2回にわたりCIを実施し、第2次CIの結果として社名変更と株式上場を決めた
- 日経ビジネス 1994年12月5日号
- [43]ベルリッツの買収額は364億円で、うち210億円強を手元の現預金で支払い、銀行借入は150億円弱にとどめた
- [44]売上高の85%を占める通信教育は受講料が前払い方式のため、1994年3月末で293億円の安定した現金収入を確保
- [45]通信教育の分野では大規模な設備投資が少なく、資金調達は銀行借り入れ中心で間に合っていた
- [46]1994年3月期の売上高は前年比12%増の1492億円、経常利益は1991年度以降の増加が続き156億円
- [47]福武總一郎社長は「いつでも上場できるような健全な財務体質の経営を目標にしてきている」と説明
- [49]郵便料金の値上げは1994年度だけで70億円弱の減益要因となり、印刷費の引き下げ要請やダイレクトメールの削減で対応した
- [52]福武總一郎社長は「急いで売り上げを増やそうとは思わない。福武書店の良さを分かって長く付き合ってもらえるお客をじっくり開拓していく」と述べた
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- [48]1994年から第三種郵便料金の値上げが実施され、通信添削事業が主体の福武書店は経常利益の3分の1が吹き飛ぶ見込みだった
- [50]1993年10月 出産情報誌「たまごクラブ」と育児情報誌「ひよこクラブ」を創刊
- [51]進研ゼミの会員名簿と全国支店のネットワークで20代既婚女性2万人へアンケート、1000人へヒアリングを実施し、読者から募集した3000人のママ記者が誌面をつくる形にした
筆者考察
福武總一郎氏が1986年に継いだのは、会員の増加が自社の処理能力を超えつつある会社だった。進研ゼミの会員は1987年に100万人を超え、1989年度には200万人へ達する勢いで増えたが、添削スタッフの手配は追いつかず、継続する会員の割合は下がり始めていた。会員数がそのまま賞与に跳ね返る仕組みは、半期の数字を追う社員を大多数にしていた。全社から集めた100人の討議が出した答えは、会員数と売上高の伸びは膨張であって成長ではない、というものである。続けてもらうことで成り立つ事業で集めることだけが目的になれば、集めた会員から先に離れていく。
1989年からの数年で福武書店が変えたのは、事業ではなく測り方だった。ワープロ入力とレイアウトを外注へ出して残業を月40時間から33時間へ下げ、部長21人の年俸制では評価の基準を会員数から利益効率へ移し、社員数は1957人から1546人へ減らした。効率化で積み増した手元資金の使い道が1993年のベルリッツ買収で、364億円のうち210億円強を現預金で払っている。前払いの受講料を溜めた通信教育が、海外の語学学校を借入にほとんど頼らず買える規模に届いていた。ただし教材を運ぶ同じ郵便が、1994年の第三種郵便料金値上げで70億円弱の減益要因へ変わる。
- 1990年3月期は日経ビジネス 1991年3月11日号、1993年3月期は日経ビジネス 1994年2月28日号、1994年3月期は日経ビジネス 1994年12月5日号。いずれも単体。
出典・参考
5件
- ベネッセホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1991年3月11日号
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- 日経ビジネス 1994年12月5日号
- 証券アナリストジャーナル 1996年34巻6号 福武總一郎