第一銀行と日本勧業銀行の合併による第一勧業銀行の成立

1971年

なぜ戦後初の都市銀行対等合併が国内首位行を生み、その後の「たすき掛け人事」の源流となったのか?

更新:

概要
1971年、第一銀行と日本勧業銀行が対等合併し、預金量で国内首位となる第一勧業銀行が発足した。都市銀行同士の合併は第二次世界大戦後初であった。
背景
1968年の合併転換法に象徴される金融効率化行政のもと、都銀再編の機運が高まっていた。第一銀行は1969年に三菱銀行との合併構想を進めたが、財閥系への吸収を嫌う行内の反対で白紙還元しており、その「課題」が次の合併への助走となった。
内容
旧第一(D)・旧勧銀(K)の対等合併として発足し、非財閥系・全国網という特徴を併せ持つ「国民的」な大手行が生まれた。みずほ銀行の主要な源流の一つにあたる。
含意
対等合併ゆえに頭取の交互選出や両行併存の人事が温存され、後年「たすき掛け人事・縦割り組織」として問題化する素地となったと指摘されている。
筆者の見解

「対等」の理念と融合の現実

この合併は、規模の利を求める政策的後押しのもとで、非財閥系の二行が対等の立場で結びついた成立案件であった。戦後初の都銀対等合併として国内首位行を生んだ意義は大きい一方、対等合併が抱える固有の難しさも示している。双方の自尊を立てる「対等」という理念は、頭取の交互選出や両行併存の人事という形で制度化され、それが結果として組織の縦割りと旧行意識を温存する力学につながったと読むことができる。

成立それ自体は成功とみてよいだろうが、合併の真価は調印や発足の瞬間ではなく、その後の長い融合の過程で決まる。その意味で、一見すれば美しい「対等」の精神は、見方を変えれば諸刃の剣でもあった。旧第一・旧勧銀を併存させたまま走り出すことは、人事の火種をあらかじめ抱え込み、本当に難しい一体化を先の世代へ先送りにすることでもあったからである。後年、そしてみずほに至るまで旧行対立を引きずったことを思えば、対等合併とは、痛みを伴う融合をいつか誰かに託す「問題の先送り」に過ぎなかったのかもしれない。

Yutaka Sugiura

統合の背景

マクロ環境——金融効率化行政と都銀再編の機運

1960年代後半の日本では、資本自由化や国際化の進展を前に、銀行の体力強化が政策課題となっていた。海外の巨大金融機関と伍するには国内勢の規模が小さいとの危機感が広がり、当局は金融機関の集約を促す方向へ舵を切る。政府は金融効率化を掲げ、1968年には金融機関の合併及び転換に関する法律(合併転換法、昭和43年法律第86号)を制定する[1]。同法は異種の金融機関相互間の合併や転換の制度を設け、金融機関が相互に適正な競争を行える環境を整備して金融の効率化を図ることを目的に掲げていた[2]。規模の経済を重んじる風潮のなか、都市銀行の大型合併が現実味を帯びる土壌が整っていったとみられる。こうした政策環境が、第一銀行と日本勧業銀行を結びつける外的な推進力となった。

ミクロ環境——両行それぞれの来歴

合併に臨んだ二行は、いずれも長い歴史を持つ大手行であった。第一銀行は、1873年に渋沢栄一らが設立した第一国立銀行を前身とする日本最古の近代的銀行の系譜にあり、戦前の五大銀行の一角を占めた都市銀行であった。明治期に「第一国立銀行」と名乗ったことに由来する行名は、後年まで「ナンバー銀行」の代表格として記憶された。一方の日本勧業銀行は、1897年に設立された特殊銀行で、戦前は不動産金融や勧業債券の発行を担う独自の存在であったが、戦後に普通銀行へと転換し都市銀行の道を歩んでいた。いわゆる「ナンバー銀行」として知られた第一銀行[3]と、旧特殊銀行の勧銀という、出自を異にする二行の組み合わせは、商業銀行の伝統と勧業金融の系譜を一つに束ねる試みでもあった。

統合の発端

第一銀行

第一銀行の事情——三菱との「幻の合併劇」

第一勧業銀行の成立を理解するには、その二年前に第一銀行が経験した、もう一つの「幻の合併」までさかのぼる必要がある。1960年代後半、第一銀行頭取の長谷川重三郎は、盟友である三菱銀行頭取の田実渉と、三年がかりで両行の合併構想を温めていた。長谷川は中位行に甘んじる自行の先細りを憂い、合併で生まれる巨大銀行に国際化時代の活路を見いだそうとしたとされる。彼が範としたのは、合併で世界有数の規模を得たチェース・マンハッタン銀行であった。新銀行名は「三菱第一銀行」、合併比率は一対一、田実会長・長谷川頭取という骨格まで内々に固められ、合併契約書も交換のうえ、1969年1月7日の発表が予定されていた[4][5]

これに猛然と抗ったのが、前頭取で当時会長の井上薫であった。井上は「財閥系の三菱と一緒になれば、第一は吸収されて消えてなくなる」と説いた。その念頭には、戦時下の1943年に三井銀行と合併して帝国銀行となり、人事の逆転や融和の難しさに苦杯をなめた記憶があった。代表権を持たぬ身ながら、井上は朝日生命など大株主や、古河・川崎系の取引先を回って反対をまとめていく。元旦の新聞スクープを契機に行内の反対は一気に燃え広がり、1969年1月10日の臨時全国支店長会議で反対派が大勢を制した。長谷川は同月13日、三菱に「白紙還元」を申し入れ、戦後初の大型銀行合併は、調印目前で幻と消えた。実現していれば、預金量およそ三兆四千億円、世界第五位の巨大銀行が出現するはずであった[6][7][8]

「頑迷固陋」——白紙還元が残した課題

この白紙還元は、勝者であるはずの井上自身にも深い課題を残した。合併を後押ししていた大蔵省銀行局長の澄田智は、構想が潰えた記者会見で「頑迷固陋(がんめいころう)な一老人が金融効率化行政をだめにしてしまった」と異例の不快感を示したと伝えられる。頑迷固陋とは、古い考えに凝り固まって融通がきかないさまをいう。その「一老人」とは、ほかならぬ井上を指していた。金融効率化を旗印とする時代に、合併そのものを葬った男という世評は、井上に「本当に再編が必要と思うなら事実で示せ」という無言の圧力としてのしかかる。井上は後年まで、この一言が自分を大合併へと走らせた契機だったのかもしれない、と振り返っている。第一銀行にとって三菱との一件は、単なる失敗ではなく、次の合併への助走でもあった[9]

日本勧業銀行の事情——横田頭取の相手探し

一方の日本勧業銀行も、中位行ゆえの危機感から合併相手を探していた。1969年2月、病身の武田満作に代わって頭取に就いた横田郁は、常務時代から銀行合併の必要を感じ、1968年ごろから都市銀行の下位行に精力的に接触していた。三菱・第一の合併が破談となった直後の1969年初めには、武田とともに大蔵省の澄田を訪ね、適当な合併相手のあっせんを依頼したとも伝えられる。当初の横田の念頭にあったのは協和・大和・埼玉・太陽といった下位行であり、三菱との騒動のさなかにあった第一銀行は、むしろ視野の外にあった。皮肉にも、出自も志向も異なる二行が互いを意識し始めるには、第三者の介在を待たねばならなかった[10]

縁を結んだ「黒子」——記者の仲介と「見合い」

二人を引き合わせたのは、意外にも一人の新聞記者だった。日銀記者クラブに詰めていた日本経済新聞の池内正人は、井上が繰り返す「合併必要論」を社交辞令と聞き流さず、本気と見抜いた。池内は井上邸と横田邸を五、六回も往復し、井上からは「勧銀が有力候補だ」との心証を、横田からは「第一は似合いの相手だ」との感触を引き出しては、それを相手に伝えるという「キャッチボール取材」を重ねた。井上は後年、「ああされると相手が親しいものに見えてくるから不思議だ」と述懐している。当事者が表立って動けない縁談を、黒子の記者が手繰り寄せた格好である[11]

正式な「見合い」の仲人を務めたのは、両者と縁の深い八十島親義(当時 渋沢倉庫社長)だった。1969年10月、井上・横田・八十島の三者は東京・六本木の小さな旅館「明石」で初めて会し、以後ほぼ月一回の三者会談を重ねて、新銀行名・本店・人事といった合併の骨格を詰めていった。もっとも、道のりは一直線ではない。横田はしばらく下位行への未練を見せ、井上は一時、第一に近い神戸銀行を加えた三行合併に傾いたとされる。互いに「浮気心」を抱えながら、両頭取はゴルフや会食で人物を見極め、信頼を確かめ合った末に、ようやく対等合併という結論へとたどり着いた[12][13]

対等合併という選択

最終的に第一銀行が選んだのは、日本勧業銀行との対等合併であった[14]。1970年9月末で第一銀行は預金量17,395億円の都銀6位、日本勧業銀行は15,786億円の同8位と、いずれも単独で首位を狙える規模ではなかった。両行の結合は、財閥系大手に対抗しうる規模を一気に獲得する手段であり、非財閥系という共通項を持つ二行が組むことで、特定の企業集団に偏らない「中立的」な大手行を志向しうる組み合わせでもあった。対等合併という形式は、双方の自尊と独立性を立てる選択であったとみられるが、後述するように、それは融合の難しさという代償も伴うこととなる[15]

統合の経過

大蔵省の祝福と発表前夜

1970年末までに新銀行名・本店所在地・人事の骨格が固まると、金融効率化を掲げる大蔵省はこの縁談を全面的に祝福した。重複店舗の配置転換を早々に認めたうえ、勧業銀行本店(東京・内幸町)に隣接する国有地の払い下げまで認可している。これは勧銀が十年越しで求めながら容易に通らなかったいわくつきの土地で、合併を機にあっさり認められたところに、当局の期待の大きさがにじむ。新本店を内幸町に置くという両行の念書も、この払い下げが一因になったとみられる[16]

発表は大安の1971年3月18日に予定されていたが、合併を最初から追っていた日本経済新聞が3月10日深夜、他社の動きを警戒して「書く」と通告し、翌11日朝刊が合併を報じた。両頭取は急きょ同日、東京・内幸町の帝国ホテルで記者会見に臨み、井上薫と横田郁は満面の笑みで握手を交わした。資金量で抜かれる側となった富士銀行では、岩佐実頭取が「資金量は当行より多くなるが、三年で追い抜く」と行内放送で士気を鼓舞したが、その後に富士が資金量で第一勧銀を抜いたという話は聞かれない[17][18]

1971年10月、戦後初の都銀合併が始動

1971年10月1日、第一銀行と日本勧業銀行の合併により第一勧業銀行が発足した。発足を伝える当時の新聞は「第一勧業銀行、きょうスタート」と報じている[19]。都市銀行同士の合併は第二次世界大戦後初であり、新銀行は発足時点で預金量において国内首位の都市銀行となった[20]。長く首位の座にあった富士銀行を抜く形で、総資産規模で最大の都銀が誕生したことになる。非財閥系で全国の主要都市に店舗網を持つという特徴から、特定の企業集団に属さない大手行としての性格を帯びていた。合併のインパクトは発足を待たず市場に広がり、日本石油・日立製作所・東京瓦斯・神戸製鋼・旭化成といった大企業では融資首位行が新銀行に入れ替わるなど、メーンバンクの勢力図を塗り替える動きが早くも注目された[21]

旧第一・旧勧銀——対等合併が残した二重構造

対等合併ゆえに、新銀行の内部には旧第一(D)と旧勧銀(K)という二つの出身母体が併存することとなった。頭取は両行から交互に選ぶ「順送り」とされ、人事や組織の運営にも旧行のバランスへの配慮が持ち込まれた。両行の対等性を尊重する仕組みは、合併直後の摩擦を和らげる効果を持つ一方で、出身ごとに役職や人脈を割り振る「たすき掛け人事」と、部門が縦に分断される「縦割り組織」の温床にもなったと後年指摘されている[22]。組織の真の融合には長い時間を要したとされ、この構図はのちのみずほ銀行にまで影を落とすことになる[23]

この二重構造は、後年の回顧ではなく、合併当初から同時代の観察者が見抜いていた。日経ビジネスが合併三年後(1974年)に伝えるところでは、第一勧銀は「人の和」を最優先して性急な一体化を避け、融資方針も人事も旧第一・旧勧銀の「併存主義」を敷いていた。日銀の融資枠は毎四半期ほぼ二分して各々の流儀で運用し、部長や支店長の後任は同じ出身行から充てる原則が守られた。井上は「三十年もたてば一〇〇%片づく問題だ」と意に介さなかったが、合併十年の1981年になっても、量では国内首位(預金13兆円超)でありながら収益力は中位行並みという「双頭銀行(DKB)」の姿が指摘され、人事の二元管理が経営効率を押し下げていると評された。たすき掛けと縦割りは、当初から見えていた構造的な宿痾だったのである[24][25][26]

統合の帰結

国民的銀行とみずほへの源流

合併後の第一勧業銀行は、非財閥系で全国に店舗網を広げる大手行として、幅広い取引基盤を築いていった。特定の財閥や企業集団に偏らない中立的な立場は、多様な業種・地域の取引先を取り込むうえで強みとなり、個人取引でも厚みのある顧客層を抱えるに至った。一方で、旧行対立に由来する組織運営の難しさは収益力にも影を落とし、融合の遅れが長く課題として残ったとされる[27]。それでも同行は都銀首位級の地位を保ち、企業集団「第一勧銀グループ」の中核を担う存在となった。戦後初の都銀対等合併という成立そのものは、その後の大型再編の先例となった面がある。

もっとも、経営陣はこの遅い融合を失敗ではなく必要なコストと捉えていた。合併を主導した井上薫は晩年(1991年)、「最高の道、最上のパートナーを選んだ」と振り返り、合併が成功したのは人事に配慮し行員の気持ちを重んじたからだと総括している。その確信の根には、戦時下の帝国銀行で人事の不公平が融和を妨げた苦い記憶があった。性急な一体化を避け、旧両行の均衡を保つという選択は、短期の収益効率を犠牲にする一方で、合併に付きものの内部崩壊を防ぐ知恵でもあった。第一勧業銀行の歩みは、合併の真価が調印ではなくその後の長い「人の和」の経営に懸かることを、身をもって示している[28]

第一勧業銀行は、その後の金融再編のなかで新たな統合へと向かう。2000年9月、第一勧業銀行は富士銀行・日本興業銀行とともに株式移転によりみずほホールディングスを設立し[29]、2002年には第一勧業銀行を存続行とする再編を経てみずほ銀行が誕生した。1971年に第一銀行と日本勧業銀行が築いた基盤は、現在のみずほ銀行の主要な源流の一つとして引き継がれている。

井上薫 第一勧業銀行名誉会長
1991年ごろの当事者の証言
最高の道、最上のパートナーを選んだと思っています
出典・参考

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