独自VTR規格VHSの開発と、他社供与による世界標準化

凋落か再起かと評された音響の名門は、独自規格をどう世界標準へ押し上げたか——仲間を増やして標準を獲るという賭け

更新:

時期 1976年9月
意思決定者 高野鎮雄 ビデオ事業部長
論点 家庭用VTR規格の開発と標準化戦略
概要
1976年9月、日本ビクターが高野鎮雄ビデオ事業部長を中心に独自の家庭用VTR規格VHSを商品化し、親会社・松下電器の採用を得たうえで、日立製作所・シャープ・三菱電機など他社へも規格を供与した経営判断。オーディオ専業から映像記録への転身を決めた一手にあたる。
背景
オーディオ市場の頭打ちで、1975年に日経ビジネスから「凋落か再起か」と評された苦境にあった。伝統のステレオでパイオニア・テクニクスに抜かれて業界3位に転落し、次の主力として家庭用VTRという未成熟な新市場に社運を賭けた。
内容
高野鎮雄氏率いるビデオ事業部が独自のVHS方式を開発し、親会社・松下電器のVHS採用を勝ち取って量産力と販売網を取り込んだ。規格を囲い込まず他社へ供与するファミリー化のオープン戦略で、先行するソニーのベータマックスと規格を競った。
含意
松下電器の量産力とファミリー各社の販売網により事実上の標準化が進み、1980年代半ばにベータマックスを制圧、売上高は7000億円規模へ急成長した。ロイヤリティ収入が業績を下支えする一方、勝ちすぎた成功体験が後の低迷の一因になった。
筆者の見解

開いて標準を獲るという賭けの、強さと弱さ

この判断の核心は、独自に開発した技術を自社で抱え込まず、競合を含む他社へ開いたところにある。ソニーがベータマックスを自前の陣営で守ろうとしたのに対し、日本ビクターは親会社・松下電器を含む各社に規格を供与し、量産と販売の力を一つの標準へ束ねた。技術そのものの優劣以上に、仲間をどれだけ集められるかが標準を決めるという読みがあり、それを可能にしたのが、高野鎮雄氏の開発力と各社を束ねる調整力であった。後発でありながら市場を制した背景には、この開放の戦略があったとみることができる。

もっとも、標準を握った成功そのものが、次の時代への転換を鈍らせた面は見落とせない。仲間を増やして市場を広げた戦略は、普及が飽和に近づき価格が下がると、料率の低下とともに収益の土台を細らせた。VHSで得た自信がVTRへの偏りを生み、デジタル化への対応が遅れたことは、後の赤字と経営統合が示している。一つの技術で世界を制した企業が、その勝利ゆえに身動きを取りにくくなる——規格を開いて標準を獲る戦略の強さと弱さが、日本ビクターの後半生に交錯していたとみられる。今日のプラットフォーム競争にも通じる問いが、この判断には残されている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「凋落か再起か」と評された音響の名門

1976年の判断の前提には、名門の深い苦境があった。1975年当時、日本ビクターは「凋落か再起か、剣が峰に立つ名門」と呼ばれるほど追い込まれていた。蓄音器で出発した音響の名門でありながら、売上高は前年にようやく1970年の水準を回復した程度にとどまり、税引き利益は往時の4分の1まで落ち込んでいた。伝統のステレオでもパイオニアに抜かれ、テクニクスにも抜かれて業界3位に転落していた。1965年に売上の4割以上を占めたステレオは、1972年3月期には2割まで比重を下げ、主流がセパレート型・コンポーネント型へ移るなかで専門メーカーに市場を明け渡していた[1][2][3]

低収益の根は、人員と経営の体質にあった。日経ビジネスの試算では、売上がほぼ同額のパイオニアと比べて従業員が2980人多く、その過剰は当時の人員のおよそ3割にあたると見積もられた。カラーテレビは1960年にソニーより早く発売し、各種調査で品質首位の評価を得ながら、生産台数では桁違いの差をつけられていた。財務内容は健全で2割配当を続けながらも、増資も冒険も避ける安全経営に安住し、生産・技術・販売で親会社と競合しながら歴代社長を松下電器から迎える関係が、社員の士気と自立の気風を鈍らせていた[4][5][6]

名門の苦境の裏で、同社は次の主力を探しあぐねていた。1966年の時点で、経営陣はステレオとレコードを「古くからのお家芸」と自負しつつ、これだけに頼っていては次の成長は望めないと語り、カラーテレビやVTR、楽器などを育成段階の製品に挙げていた。品質で勝負し高級品中心の需要層を相手にするという路線は明確でも、家庭用ビデオテープレコーダーはどの大手とも同じスタートラインに立つ未知の市場であった。オーディオの失地を埋める柱として、同社は家庭用VTRの開発に経営資源を傾けていく[7][8]

蓄音機以来の記録技術と、家庭用VTRという賭け

日本ビクターの武器は、1927年の創業以来積み上げた記録技術にあった。米ビクタートーキングマシンの日本法人としてレコードと蓄音器の製造で出発した同社は、「音に生きるビクター」を掲げ、音を刻み再生する機構の技術を半世紀にわたって蓄えてきた。四度にわたる親会社の変遷を経て1954年に松下電器の資本参加を受けた後も、研究開発と製品企画の面では一定の自由度を保ち、親会社の量産品とは異なる独自の製品を世に問う余地を残していた。この独立した開発の場が、家庭用ビデオの規格開発を支える組織的な下地になった[9][10]

参入を狙う家庭用ビデオテープレコーダーは、家電業界が「ポスト・カラーの本命」「将来の5000億円産業」と呼ぶ先端市場であった。ただ普及は容易でなく、当時の予測では10年後の普及率は2〜3割、20年後でも3〜5割と見込まれ、月額20万円以上の高所得層が中心の段階から順に広がると見られていた。技術面ではソニーがおよそ1年先んじてベータマックス方式を開発しており、後発の同社にとって独自方式の確立と市場づくりは険しい道であった。名門の再起は、この未成熟な新市場をどう切り開くかにかかっていた[11][12][13]

決断

独自VHS方式の開発と、親会社・松下の採用

独自方式の開発を担ったのは、後に「ミスターVHS」と呼ばれる高野鎮雄ビデオ事業部長を中心とするビデオ事業部であった。家庭用に最適化した記録方式の実現へ研究を重ね、1976年9月にVHS方式の家庭用VTRを商品化した。ビデオ事業は当時、累積赤字9億円、設備投資などの借入金15億円という重荷を抱え、開発は逆境のなかで進んだ。後年の社史は、この成功をもたらしたものを、高野鎮雄事業部長を中心とする事業部員の「ビデオに賭けたロマンと不屈の闘魂」と記している[14][15][16]

開発した規格を市場に広げるうえで決定的だったのは、親会社・松下電器にVHSを採用させたことであった。当時の松下は自社のホームビデオVX-2000を持ち、ソニーのベータマックス、三洋・東芝のVコードⅡと三つどもえの販売合戦の渦中にあった。歴代社長を松下から迎え、生産・技術・販売で親会社と競合しながらも独立を保つという微妙な関係のなかで、同社は親会社の量産力と全国の販売網をVHS陣営に取り込んだ。子会社の規格を親会社が採るというこの一手が、規格競争の力学を一変させた[17][18][19]

他社への規格供与=ファミリー化のオープン戦略

高野鎮雄氏の戦略は、規格を自社で囲い込まず、競合を含む他社へ開くところにあった。松下電器に続いて日立製作所、シャープ、三菱電機などへVHS方式を供与し、「VHSファミリー」と呼ばれる陣営を築いていった。家庭用VTRの規格統一をめぐっては、低価格・画質・録画時間のどれを優先するかでメーカーの主張が噛み合わず、1年余りにわたって紛糾していた。そのなかで同社は、単独の性能競争ではなく、仲間の数で事実上の標準を押さえる道を選んだ[20][21]

仲間を増やす戦略には代償もあった。後年、同社の関係者は「仲間をもっと限定してやったらどうかという声もあった。われわれもファミリーが増えすぎたと思ったが、政治問題などいろいろ圧力とあって技術を与えないわけにはいかなかった」と振り返っている。それでも、ビデオに関係する特許451件を土台に他社へ規格を供与するやり方は、各社の量産と販売を一つの規格へ束ねる力を持った。囲い込みではなく開放によって標準を握るという判断が、後発の同社に勝機をもたらした[22][23]

結果

ベータマックス制圧と、7000億円規模への急成長

松下電器の量産力とファミリー各社の販売網を得て、VHSの事実上の標準化が進んだ。先行したソニーのベータマックスとの規格競争は、1980年代半ばにVHS側の勝利で決着した。業績の伸びは急だった。商品化前の1976年3月期に約1,104億円だった単体売上高は、連結ベースで1985年3月期には約7,653億円へ達し、成長期のピークで7000億円規模に乗せた。オーディオの失地に苦しんだ名門が、10年足らずで映像記録の主役へと立ち位置を変えた[24][25][26]

急増する需要に応えるため、1981年3月には藤枝工場を新設してVHS関連製品の大増産へ動いた。1987年には高画質規格のS-VHSを投入し、標準化後に進む価格下落へ手を打った。蓄音器の製造で1927年に出発した会社が、半世紀を経て家庭用映像記録の規格提唱者として世界市場を制した。オーディオ専業という性格は、この10年で映像記録を主力とする事業構成へと書き換えられた[27][28]

ロイヤリティが支えた収益構造と、その後

VHSの標準化は、同社に機器の販売益だけでなく、規格の提唱者としての収入をもたらした。VHS方式を採る各社からロイヤリティが入り、ライセンス事業が業績を下支えする構造ができた。ファミリーを広げるほど普及は進む一方で、各社が量産に加わればビデオデッキの価格下落は速まり、供与するライセンスの料率にも引き下げの圧力がかかった。標準を握ったことが収入を生み、同時にその収入の土台を細らせていくという二面性を、この収益構造は抱えていた[29]

成功の大きさは、そのまま次の重荷になった。VHSの開発で急成長した経験は、VTRに偏り開発技術を優先する体質を社内に固め、生産技術や部品事業の立ち遅れを招いた。1993年、日経ビジネスは「VHSの成功で袋小路に」と題し、この成功体験を「ビクター不振の病根」と指摘した。同じ1993年3月期に同社は約430億円の最終赤字を計上し、以後はVHSに代わる主力を築けないまま、2007年のデジタル化への出遅れを経て、2008年に松下電器の傘下を離れてケンウッドとの経営統合へ向かう。世界標準を制した判断は、勝ちすぎた成功の代償という長い後日談を伴った[30][31][32]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1975年5月26日号「凋落か再起か、剣が峰に立つ名門」
  • ダイヤモンド臨時増刊 1966年2月25日「売上高1000億円を目ざす日本ビクター」
  • 週刊東洋経済 1972年5月20日「カラー依存から"音"の失地回復へ」
  • 読売新聞 1975年9月11日「ビデオ普及20年後でも50%」
  • 読売新聞 1976年9月10日「"ビデオ戦争"白熱化」
  • 日経産業新聞 1983年6月18日「『ミスターVHS』高野鎮雄常務が専務昇格」
  • 日経ビジネス 1988年12月5日号「VTR再生に賭ける『盟主』」
  • 日経ビジネス 1993年6月14日号「再起なるか日本ビクター VHSの成功で袋小路に」
  • 日本経済新聞 2007年7月25日「電機の再編本格化」
  • 日本ビクター60年史(1987)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2008年3月期)【沿革】
  • 日本ビクター 会社四季報・会社年鑑(各期業績)