明治ホールディングス不採算菓子工場の閉鎖と退職者不補充による菓子部門の縮小、薬品部門への経営資源の集中

祖業を畳むか、縮めて残すか——菓子▲30億円と薬品61億円が並んだ1980年3月期の配分

時期 1980年3月
意思決定者(推定) 中川赳 明治製菓社長
論点 事業構成と経営資源の配分
概要
1980年3月期に菓子を中心とする食料部門が30億円の経常欠損を出し、薬品部門の61億円の黒字がこれを埋めた。中川赳社長は食料60・薬品40という売上構成を3年で半々にする目標を掲げ、菓子部門を退職者不補充と工場閉鎖で縮め、研究開発費の8割を薬品へ振り向けた。
背景
菓子の需要は7年連続で減り、農業保護政策のもとで砂糖・乳製品・小麦粉の国産価格は国際価格の2〜2.5倍に高止まりしていた。一方の薬品部門は製薬大手14社の売上順位で7位相当まで上がっていたが、1975年のパニマイシン以降は大型新薬が出ていなかった。
内容
食料部門は退職者を補充せず、薬品部門の欠員は食料部門から配転する。函館工場と上山分工場を1980年9月末で廃止し関東工場へ集約した。研究開発費の約80%を薬品へ投じ、医療機器・農薬・日研化学への出資で総合医薬企業への転換を図った。
含意
売上構成を半々にする目標は1984年時点でも薬品40%・菓子50%にとどまり、期限内には届かなかった。それでも1982年3月期に売上高1,895億円・経常利益119億円と過去最高を記録し、経常利益の構成比では薬品60%・食料40%へ逆転した。
筆者の見解

順序が入れ替わった年に、何を残したか

菓子部門の▲30億円と薬品部門の61億円は、65年かけて築いた暖簾と、その下で育った事業の順序が入れ替わった数字であった。中川赳社長が掲げた「3年後に半々」は、4年後の1984年になっても薬品40%・菓子50%のままで、期限内には届いていない。それでも1982年3月期に過去最高益へ戻せたのは、構成比の達成よりも、研究開発費の8割を薬品へ回し続けた配分の一貫性が効いたためだとみられる。

ただ、この配分は菓子部門の従業員に痛みを寄せて成り立っていた。函館工場と上山分工場の従業員は大半が地元の中高年で、埼玉の関東工場へ移るのは難しく、労使交渉は長く不調のまま推移した。中川氏が「切り捨ては今は考えていません」と繰り返したのは、祖業への愛着だけでなく、この現実を抱えていたからだとみられる。祖業を残して収益の構造だけを入れ替える道は、時間をかける分だけ組織の摩擦を引き受ける道でもあったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

7年連続で減った菓子需要と、国際価格の2倍を超える国産原料

1980年3月期、明治製菓の菓子を中心とする食料部門は経常損益で30億円の欠損を出した。伝統ある菓子部門が大幅な欠損を計上したのは初めてであった。全社の経常利益も1978年3月期の97億円、1979年3月期の90億円から、この期は32億円へ落ちた。中川赳社長は「菓子の需要はね、毎年わずかずつですが、今年で7年連続して減少しているんです」と語っている[1][2][3]

需要側だけの問題ではなかった。中川社長は「国は農業保護政策をとっています。このため国産農産品はおおむね国際価格より大幅に高い。菓子原料の砂糖、乳製品、小麦粉も国産価格は国際価格に比べて2〜2.5倍高いんです。しかも、商品としての菓子は自由化されている」と述べている。菓子部門の売上高は1979年3月期に前年より34億円減り、1980年3月期にはさらに150億円減った。在庫の山を抱えたうえでの欠損であった[4][5]

暖簾の下で育った薬品部門と、5年出なかった新薬

一方、薬品部門は61億円の黒字を計上した。過去3年間の売上の伸びは26.2%、売上高経常利益率は9.3%で、業界首位の武田薬品工業の38.4%・11.6%には及ばないものの、高い成長を保っていた。製薬大手14社の売上高順位でも1970年の10位相当から1979年には7位相当へ上がっている。抗生物質の培養タンク総容量4,500トンは国内最大で、世界でも5指に入る規模であった[6][7]

ただし薬品側にも弱点があった。1975年に発売したパニマイシン以降、5年にわたって大型の新薬が出ていない。過去5年間の新製品が売上に占める比率は、中外製薬の90%超、三共の70%に対し、明治製菓の薬品部門は「数字にならないような水準」にとどまっていた。研究開発費は1976年3月期の38億円から1980年3月期の60億円へ増え、そのうち薬品向けは29億円から48億円になっていた[8][9]

決断

「食料60・薬品40を3年で半々に」

中川赳社長は1980年、経営資源の配分を薬品へ寄せる方針を掲げた。「収益力のある企業体質にするには、食料部門の合理化ももちろんですが、薬品部門の強化がどうしても必要です。現在、売上高の60%が食料、40%が薬品という構成になっていますが、これを3年後に半々にもっていくのが当面の目標です」。1975年3月期に食料70・薬品30であった構成を、5年で60対40まで動かしたうえでの目標であった[10][11]

人員は菓子部門から抜いた。食料部門で退職者が出ても補充せず、薬品部門で退職者が出た場合は食料部門から配転する。これを基本に従業員数は毎年100人以上減っており、さらに3年間で500人を減らす計画であった。函館工場(従業員56人)と山形県の上山分工場(同33人)は不採算工場として閉鎖が決まったが、従業員の大半が地元の中高年で労使交渉は不調が続き、1980年9月末にようやく廃止された[12][13]

祖業は畳まない、という留保

縮小の一方で、中川社長は撤退を否定した。「菓子を中心とした食料部門の切り捨ては今は考えていません。たとえ利益が少なくとも社会的に意義のある仕事だけにやり抜かなければならないと思っています」。菓子部門に求めたのも「利益の絶対額を追い求めるのではなく、標準的な利益を上げればいい」という水準であった。分離独立についても、外部から要請されれば別だが今のところ考えていない、と述べている[14][15]

資金は薬品へ回した。研究開発費の約80%を薬品部門に投じ、薬品売上高に対する研究開発費の比率は1976年3月期の6.5%から1980年3月期の7.3%へ高めている。1978年7月にはフランスのシー・エム・インダストリー社から点滴用の電子式輸液制御装置の製造技術を導入して医療機器へ入り、同時に安宅産業系列だった富士アミド・ケミカルを買収して農薬原体を増産、1980年7月には日研化学の第三者割当増資を引き受けて筆頭株主の地位を固めた[16][17]

結果

ホスミシンと、過去最高益への回復

中川社長は1980年8月の時点で「この10月には抗生物質の新薬、『ホスホマイシン』の発売が見込めます」と語っていたが、同年10月にはまだ薬価収載を待つ段階にあり、経口剤ホスミシンと注射剤ホスミシンSの同時発売は1981年1月にずれ込んだ。緑膿菌や耐性菌に効き、他の抗生物質と併用すると抗菌力が増すという特徴を持つ薬であった[18][19][20]

1981年6月の薬価基準引き下げは一般に18.6%とされたが、抗生物質の比重が高い明治製菓では影響が20%に達した。それでもホスミシンが業績に寄与し、1982年3月期は売上高1,895億円、経常利益119億円、税引利益45億円といずれも過去最高となった。部門別の内訳は菓子946億円、食品172億円、薬品756億円、その他21億円で、経常利益の構成比は薬品60%・食料40%と逆転している[21][22][23]

半々には届かなかった売上構成

一方、売上構成を半々にする目標には届かなかった。1984年10月の時点でも中川社長は「実際には売り上げの40%は薬品なんです。菓子は50%、残りは健康食品などですね」と語っており、1980年に掲げた1983年3月期の期限から1年半を過ぎても構成は動いていない。食品部門は商品数を絞り、支店・営業所を縮小して売上を落としたうえで、1982年3月期に収益で初めて黒字を出した[24][25]

中川社長は1982年に「経営10年ビジョン」を定め、10年後の1991年度に売上高6,100億円、部門別では菓子2,000億円・食品700億円・薬品2,500億円という姿を描いた。研究開発費は10年で1,500億円を投じる方針であった。菓子を残したまま薬品を伸ばすという1980年の選択は、この長期構想にそのまま引き継がれている[26]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」
  • 日経ビジネス 1984年10月15日号「編集長インタビュー 中川赳氏(明治製菓社長)が語る"10年ビジョン"経営」
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」(中川赳・明治製菓社長)
  • 証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」(安田春太郎・明治製菓専務取締役)
  • 証券アナリストジャーナル 1982年6月号「明治製菓 総合ライフ・インダストリーを目指す」(葛上宗一郎・明治製菓常務取締役)

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