明治ホールディングス明治乳業による米ボーデンの事業運営移管提案の拒否と、20年にわたる提携の解消

借りたブランドで売り続けるか、自社ブランドを一から育てるか——年間250億円と家庭用高級アイス6割のシェアを賭けた交渉

時期 1990年5月
意思決定者(推定) 中山悠 明治乳業社長
論点 外資との提携とブランドの自立
概要
1990年4月、ニューヨークのボーデン本社での2日間の交渉を経て、明治乳業の中山悠社長は同社の最終提案を退け、5月末に正式に断った。20年続いたアイスクリーム・チーズ・マーガリンの提携は順次解消され、レディボーデンなど年間250億円のブランド事業を手放した。
背景
合弁の明治ボーデンは実質的に明治乳業の子会社で、日本の事業は日本を知る明治に任せるという提携当初のボーデン側の考えの上にあった。1986年に最高経営責任者となったロメオ・ベントレス会長のもとでボーデンは買収と売却を重ね、乳製品からパスタ・スナックへ変わっていた。
内容
ベントレス会長の最終提案は、ボーデンが中心になって作る拠点で生産販売を行い、日本の商慣習で難しい部分や保冷輸送を明治に任せるというもの。中山社長はこれを断り、明治ボーデンの株式と長野県の工場・土地の売却要求にも応じなかった。
含意
家庭用高級アイスの約6割を占めるレディボーデンを失い、出荷額シェア15.3%で森永と並ぶ首位からの転落は避けられないとみられた。一方で提携中は出せなかった競合品の開発が解禁され、1991年に「ブルージェ」、1992年に「明治十勝」シリーズが続いた。
筆者の見解

断ったのは金額ではなく、誰が決めるかであった

中山悠社長が退けたのは、金額よりも事業運営の主導権であった。ボーデンブランドの年間売上高250億円は、明治乳業の総売上高3,921億円の6%にすぎない。それでも家庭用高級アイスで6割を占めるレディボーデンを失えば、出荷額シェア15.3%で並んでいた森永に首位を譲ることになる。ベントレス会長の最終提案を「明治が下請けになる」と受け止めた時点で、失う数字より、誰が事業を決めるかを優先したとみることができる。

ただ、この選択が正しかったと言えるのは、その後の自社ブランドが伸びたことを知っているからにすぎない。1990年9月に出した「彩」はレディボーデンの穴を埋める商品ではなく、明治ブランドのチーズも弱かった。20年にわたり競合品を開発できない契約の下にいた組織が、すぐ代わりを用意できるはずもない。福田耕作専務の言う「意欲と熱気」が「ブルージェ」や「明治十勝」という商品になるまでには、なお1年から2年を要している。提携で得た20年と、それを畳んで商品が出るまでの2年——その差が、他社のブランドを借りて事業を築くことの費用であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

20年間、預かってきた250億円のブランド

1970年から20年、明治乳業はアイスクリーム・チーズ・マーガリンの3事業で米ボーデンと組んできた。マーガリンとアイスクリームは明治乳業が生産と販売を担い、ボーデンに技術使用料を払う。チーズは折半出資の合弁である明治ボーデンが明治乳業の設備を借りて生産し、明治乳業が販売した。ボーデンブランドの年間売上高は250億円で、1990年3月期の総売上高3,921億円の6%にあたった[1][2]

合弁の明治ボーデンは実質的に明治乳業の子会社であった。チーズを生産する工場は明治乳業の持ち物で、2年前までは明治乳業が送る社長だけが代表権を持っていた。「日本での事業は日本をよく知っている明治に任せた方がいい」という提携当初のボーデン側の考えに基づく体制で、明治乳業も「経営を任された以上、赤字配当はできない」と犠牲を払って黒字化してきたと、明治ボーデン社長を兼務する福田耕作専務は語っている[3][4]

相手の戦略が変わった

1986年に最高経営責任者に就いたロメオ・ベントレス会長のもとで、ボーデンは乳製品のトップメーカーから、買収と売却を重ねて米国有数のパスタ・スナックメーカーへ変わった。本国での変化を日本市場にも持ち込もうとしたのがこの時期である。明治乳業との提携からボーデンに入るのは数%の技術料と明治ボーデンの配当で、年間売上高76億ドル(9,900億円、1989年12月期)からみればわずかであった[5][6]

ボーデンは1987年12月、明治ボーデンに代表権を持つ副社長として松山和夫氏を送り込んだ。松山氏はもともと明治乳業に勤め、その後明治ボーデンへ転じた人物で、1990年7月にボーデンが日本法人ボーデン・ジャパンを設立した際に社長へ就いた。「この時から意見がことごとく対立して、意思決定が非常に難しくなった」と福田専務は振り返る。乳製品の輸入自由化という追い風も、ボーデン側の積極策を後押しした[7][8]

決断

ニューヨーク40階の応酬

1990年4月のよく晴れた日、マンハッタンのボーデン本社。提携関係の見直しをめぐる2日間の交渉のあと、イーストリバーを見下ろす高層ビル40階のロメオ・ベントレス会長の執務室で、明治乳業の中山悠社長はこう言った。「私はホテルの窓からニューヨークの街を見て、なんて汚い街だろうと思いました。でもこのオフィスから見ると、こんなに素晴らしい景色もあるのだと気がつきました。あなたも一つの窓からしか日本を見ていないのでは」[9]

ベントレス会長は静かに答えた。「風がどちらから吹いているかを見極めるのが重要です。今、日本には国際化という追い風が吹いています。世界にネットワークを持つボーデンと組んだ方が良いのではないですか」。最終提案は、ボーデンが中心になって作る拠点で生産販売を行い、日本の商慣習で難しい部分や保冷輸送などを明治に任せるという内容であった。業界関係者は「明治が下請けになると受け止められてもしかたない提案」と語っている[10][11]

5月末のノーと、失うと分かっていたもの

明治乳業は5月末に正式にノーと返事をした。中山悠社長は1989年6月、常務の末席から8人を飛び越えて社長に就いたばかりで、この交渉は就任から10か月後にあたる。就任時には「若いからといって突然、何か新しいことをやっていくわけではない。前社長の敷いた路線の上を走っていく」と語っていた人物が、20年続いた提携の側を降りた[12][13]

失うものははっきりしていた。家庭用の高級アイスクリーム市場はこの10年ほど年率10%程度で伸びており、そのなかでレディボーデンは約6割のシェアを占める。アイスクリーム全体でも明治は出荷額シェア15.3%で森永と並ぶ首位にあり、提携解消でこの座から落ちるのは避けられないとみられた。ボーデンは明治ボーデンの株式と長野県の工場・土地の売却も求めたが、明治乳業に応じる考えはなかった[14][15][16]

結果

契約が切れるまでの2年と、こじれた関係

契約は順次切れた。マーガリンの技術提携契約は1990年10月にすでに終わり、アイスクリームは1991年8月、チーズは1992年4月にそれぞれ期限を迎えて提携は全面解消となった。その間、関係はこじれる。明治乳業がマーガリンの提携解消後にボーデンのマーガリンを明治ブランドへ変えて発売すると、ボーデンはニューヨーク連邦地裁に発売差し止めの仮処分を申請し、却下されたのち上級審に再申請してこれも却下された[17][18]

提携解消が両社にとってマイナスになるという点で、関係者の見方は一致していた。より大きかったのは、提携中は競合する製品を新たに開発できなかったツケである。1990年9月に発売した高級アイス「彩」はレディボーデンより高級な市場に向けた商品で、穴を埋めるものではない。ボーデンからは「提携中は競合商品を出さないという契約に違反する」と書面で抗議が届いていた。明治ブランドのチーズも弱く、伸びが期待されるナチュラルチーズも弱かった[19][20]

制約が外れたあとの自社ブランド

それでも中山社長は「提携解消は2〜3年の短期でみれば打撃だが、長期的にみればプラスに転じられる」と述べた。競合品を出せないという制約が外れ、自社ブランドで開発する道が開いたためである。福田耕作専務も「開発力のない会社に未来はない。ボーデンブランド依存から脱却して自分たちのブランドをつくっていくのだという意欲と熱気が社内に感じられるようになった」と語っている[21]

実際の商品は数年をかけて出てきた。明治乳業はアイスクリームの輸入自由化を受けて1990年に自社の技術と国産原料による超高級アイス「彩」を出し、1991年には高級アイス「ブルージェ」、1992年にはプロセスチーズの「明治十勝」シリーズを発売する。日本人の嗜好に合わせるという志向はそのまま残り、大型の新商品が続いた[22]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1990年12月31日号「リストラ戦略 明治乳業 ボーデンとの離婚——教訓生かし開発力強化」
  • 日経ビジネス 1990年1月1日号「新社長登場 中山悠氏(明治乳業)」
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)「明治乳業」の項

免責事項およびポリシー