明治ホールディングス戦災を受けた川崎工場でのペニシリン製造の開始と、抗生物質の原末一貫生産体制の構築

菓子屋がなぜ薬をつくるのか——原料を断たれた製菓会社が、手元の発酵技術の向きを変えた

時期 1946年11月
意思決定者(推定) 明治製菓 経営陣
論点 事業の柱の組み替えと技術の転用
概要
空襲で主力の川崎工場を焼失し、砂糖も小麦粉も統制下に置かれた1946年、明治製菓は戦時中から研究していたペニシリンの製造を川崎工場で始めた。菓子素材の培養に使ってきた発酵技術を抗生物質へ向け、のちに原末から製剤まで一貫して作る体制へ進んだ。
背景
戦時統制で乳製品6工場と食品4工場を手放し、乳業部門は明治乳業へ譲渡していた。終戦で台湾・朝鮮の2工場も失い、残る工場は菓子4・食品2と休止1のみ。菓子の原料である砂糖と小麦粉の統制解除は1952年まで待たねばならなかった。
内容
抗生物質はカビの産物であり、その製造の主体は発酵技術で菓子や食品と近い。この理屈のもとで焼け残った設備の用途を替えた。米テキサス大学のフォスター博士から技術公開と種菌の分与を受け、原末を輸入せず菌の培養から一貫して作る道を選んだ。
含意
ペニシリンには70社ほどが参入し、多くが脱落して5〜6社に絞られた。明治製菓は1963年に足柄工場へ原末生産を集約し、抗生物質で国内首位・世界5指の規模に達する。1980年3月期には薬品部門の黒字が菓子部門の欠損を埋めるまでになった。
筆者の見解

買ってきた技術ではなく、向きを変えた技術

「よくわれわれ菓子屋が薬をやるのはおかしいといわれます」と細井徳次郎社長が言うとき、その反論は事業の系譜ではなく製造技術に置かれていた。抗生物質はカビの産物であり、培養と発酵の技術は菓子や食品と地続きである。この理屈があったからこそ、砂糖も小麦粉も統制下にあった1946年に、焼け残った設備の用途だけを替えるという判断が成り立ったとみられる。新しい技術を外から買ったのではなく、既にある技術の向きを変えた。

ただし、この転用が自力だけで完結したわけではない。1946年11月にテキサス大学のフォスター博士から技術の全面公開と種菌の分与を受け、ストレプトマイシンでは1951年に米メルク社と技術援助契約を結んでいる。同じ着想でペニシリンに参入した会社は70社ほどあり、その多くが5〜6社に絞られる過程で消えた。明治製菓が残ったのは、足柄工場への集約やカナマイシンの約2億円の先行投資のように、原末を自前で作る設備へ資金を入れ続けたからで、着想の巧みさより投じた年数のほうが効いたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

原料も工場も失った製菓会社

明治製菓は1916年に東京菓子として設立され、翌年に大正製菓を合併して明治製糖系に入り、1924年に社名を明治製菓と改めた。菓子と乳製品で伸びたが、日華事変の長期化で食糧品工業は制約を受ける。1941年に北海道の乳製品6工場を北海道興農公社へ、1942年から翌年にかけて食品部門の4工場を各府県の合同食品会社へ現物出資で手放し、1943年9月には乳業部門の全事業所を明治乳業へ譲渡した[1]

終戦とともに台湾と朝鮮の2工場も失った。残る工場は菓子部門4、食品部門2、ほかに休止中の1を数えるのみとなり、主力の川崎工場は1945年1月の空襲で焼失していた。経済界の混乱と物資の不足が重なり、菓子の原料である水飴の統制解除は1949年11月、キャラメルの自由販売は1950年1月、砂糖と小麦粉の統制解除に至っては1952年まで待たねばならなかった[2][3]

菓子と薬をつなぐ発酵技術

明治製菓は戦争末期から川崎工場の一部でペニシリンを研究していた。菓子会社が薬を手がけることの説明は、事業の系譜ではなく製造技術に置かれている。細井徳次郎社長は1965年に「よくわれわれ菓子屋が薬をやるのはおかしいといわれますが、これは関連性があるわけなんです」と述べ、抗生物質はカビから出る物質を利用した薬であり、その製造の主体となるのは発酵技術だと説明した[4]

同じ判断を、明治系の各社がほぼ同時に下している。親会社の明治製糖は1946年9月に再開転換事業として製薬業と倉庫業の許可を得て、川崎の製薬工場で転化糖注射薬などの製造を始めた。兄弟会社の明治乳業も1946年10月に大阪工場へペニシリン製造設備を新設し、各種ペニシリンの製造を開始している。発酵の設備と技術を持つ食品会社が、同じ年に揃って薬へ向かった[5][6]

決断

焼け跡の発酵設備を、菓子素材ではなく抗生物質へ

1946年、明治製菓は川崎工場でペニシリンの製造を始めた。会社銀行八十年史は、これを明治製菓復興の端緒と記している。菓子の原料が統制下で手に入らない時期に、手元に残っていた発酵の技術と設備で作れる高付加価値品へ用途を振り向けた選択であった。菓子と缶詰・壜詰が統制経済下で不振に陥るなか、松前・八日市の2工場と大野製塩場を新設して農水産加工品や塩の製造も始めている[7][8][9]

独力で立ち上げたわけではない。1946年11月に来日した米テキサス大学のフォスター博士から、米国技術の全面的な公開、種菌の分与、個別の生産指導を受け、品質の改良とタンク培養による量産化で質・量とも急上昇した。1947年10月から研究試作していたストレプトマイシンは1950年7月に製造販売へこぎつけ、1951年には米メルク社と技術援助契約を結んで収率を高めている[10][11]

原末から一貫して作るという重い道

明治製菓は、原末を輸入して製剤化するという同業の多くが採った道を選ばなかった。中川赳専務は1970年の講演で、原末を購入して錠剤や注射液にするだけの会社を「製薬会社ではなく、製剤会社である」と呼び、原体を作るにはそれなりの自主技術と多額の設備資金が要ると述べている。そのうえで、一貫生産を乗り切ることでコストが下がり、資本自由化を控えた競争力になると説明した[12]

設備投資も続いた。1958年には国立予防衛生研究所の梅沢浜夫博士が見出した抗生物質を工業化してカナマイシンを発売する。川崎工場の薬品部長と工場長が1955年秋から3年がかりで動物実験から量産工程の設計までを担い、約2億円を先行投資して原末から製剤までを内製化した。1963年には貿易自由化に備え、川崎・淀川両工場に分散していた原末工場を足柄工場へ集約し、1969年には世界初の300トン超大型発酵槽を設置している[13][14]

結果

70社が5〜6社に絞られたあと

細井徳次郎社長は1965年、ペニシリンを始めた当時は本来の薬品会社のほか食品会社や醸造会社も含めて70社ほどが手がけたが、脱落が続いて5〜6社程度になったと語っている。明治製菓はペニシリンからストレプトマイシン、カナマイシンへと、菌を培養してその物質を利用する範囲に絞って作り続けた。抗生物質の輸出は薬品の売上の1割以上を占めるまでになっていた[15][16]

事業の比重も動いた。1967年度に薬品は総売上459億円のうち112億円で24.4%を占め、1969年度には607億円のうち196億円で32.3%へ上がる。抗生物質は薬品売上の75%を占め、合成ペニシリンのビクシリンだけで80億円を見込む主力商品に育った。原末から一貫して作る会社は当時ほかになく、武田薬品はワイス、藤沢薬品はビーチャムから原末を輸入していた[17][18]

菓子が稼ぎ、薬に投じる構造の反転

1975年3月期の売上構成はなお食料70・薬品30であった。それが1980年3月期には食料60・薬品40まで動き、同期の決算では菓子を中心とする食料部門が30億円の経常欠損を出し、薬品部門の61億円の黒字がこれを埋めた。菓子で稼いで薬に投じるという戦後の構造は、ペニシリン開始から34年で反転した[19][20]

抗生物質の生産規模も伸びた。1970年に足柄工場の培養タンク総容量は2,500トンで国内首位・世界5指、そこへ岐阜工場を加えて3,500トン体制へ進む計画が語られている。1980年には総容量4,500トン、年間生産能力2,000トン以上に達し、兼業メーカーでありながら国内薬品業界の上位10社に入った[21][22]

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「明治製菓」「明治製糖」「明治乳業」の各項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
  • 経済時代 1965年12月号(30巻12号)細井徳次郎 明治製菓社長インタビュー
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)「明治製菓」の項
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号「明治製菓の現状と将来」(中川赳・明治製菓専務取締役)
  • 証券アナリストジャーナル 1975年11月号「明治製菓 豊かな社会づくりの担い手として」(中川赳・明治製菓社長)
  • 証券アナリストジャーナル 1980年11月号「明治製菓 食料品と薬品を両輪に発展」(安田春太郎・明治製菓専務取締役)
  • 明治製菓の歩み : 創立から50年(明治製菓)
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号「ケーススタディ 明治製菓 菓子撤退、薬品侵攻の二面作戦展開」

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