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1960年〜1990年 プレハブから住宅産業のリーダーへの道筋
沈没寸前の船を引き受けた田鍋健社長の高級化路線
1960年8月、積水化学工業のハウス事業部を母体として積水ハウス産業が資本金1億円で発足した[1][2][3]。プレハブ住宅の事業化を目的としたが、当時のプレハブは在来工法より高価で品質面でも劣るとみなされ、売れ行きは低迷した。発足3年で累積赤字9000万円、不良資産を含めれば実質2億円近い赤字を抱え、社員も意欲を失っていたと田鍋健社長は後に振り返っている(日経新聞「私の履歴書・田鍋健」)[4][5]。1963年6月、積水化学工業専務から転じた田鍋氏は社長就任にあたり「この会社は沈没寸前の船と同じや。しかし私は船長としてこの船と運命を共にする覚悟だ」(田鍋健、日経新聞「私の履歴書」)と宣言し、出向社員に積水化学への帰任か退職金を受け取っての移籍かの選択を迫って従業員の結束を固めた[6][7]。
田鍋社長は1963年10月に社名を「自社」へ改め、販売・施工を自社社員が担う直接販売・責任施工方式を導入した[8][9]。代理店の兼業では商品の消化が進まず、自社の建築技術への理解も乏しいという認識からの判断で、業界他社が販売コスト増を理由に敬遠した方式である(証券アナリストジャーナル 1972/10、実業の世界 1972/10)。同時にエコノミータイプの「E型」と高級タイプの「F型」を並行投入し、F型でプレハブ=安物の認識に挑んだ。改革の効果はすぐ数字に表れた。1964年に単年度黒字化、翌65年に累積赤字を一掃して初配当に踏み切り、10年弱で赤字子会社から上場企業へと転換し、1970年に東証・大証二部、翌71年には一部への指定替えを果たした[10][11][12]。
成長を支えたのは、セールスマンを地域に固定して人的関係を深める営業体制と、工場を全国に集約した大量生産・大量仕入れのコスト競争力だった。田鍋社長は「私は何も営業戦略的に直販があたるやろうと思ってやったワケではないんや。ただ、住宅という大事な商品を売るのに人まかせにはできん、という私の哲学に従って直販にしたんや」(田鍋健、オール大衆 1976/06)と語っており、競合の動向ではなく顧客との直接接点を判断軸に据えた。高品質の住宅を自社で販売し自社で施工する垂直統合モデルは、以後60年にわたり積水ハウスの事業構造として継続し、他社との差別化の源泉となった。
需要は待つな、創れ ── 自社ローンと売り建て方式
1973年の石油ショックで住宅需要は急減し、後発メーカーの撤退が相次いだ。しかし積水ハウスは、市場後退期こそシェアを拡大する機会と位置づけて攻勢に出た。金融引き締めで住宅ローンが縮小すると、業界初の自社ローンを創設し、資金調達のパイプを地方銀行から信用金庫まで広げて顧客の購買力を支える体制を整えた。資材価格の暴騰に対しても値上げ幅を同業平均30%の半分の15%に抑え込んだ。「資材価格はすぐに落ち着くから、今の価格で十分もうかるんや」(田鍋健、日経ビジネス 1979/3/19)という判断が価格競争力の差を生み、市場後退期にもかかわらず積水ハウスのシェアを押し上げた。
1970年代後半、土地不足が住宅販売のボトルネックとなると、デベロッパーから造成地を一括購入して顧客へ安く提供し、住宅は積水ハウスで建てさせる「売り建て方式」を考案した[13]。「ウチはデベロッパーはやらん。あんなリスクはよう負わん」「全国のデベロッパーから買っとる。彼らが造成した宅地の上にウチの住宅を建てて売るわけや。土地は転売してるだけやから儲けはないが、どうせウチは住宅を売るのが目的やから、土地で儲けんでもかまわんのです」(田鍋健、オール大衆 1976/06)と田鍋社長は説明し、土地での赤字を本業の住宅で取り返す割り切りで臨んだ。1976年には中古住宅仲介の積和不動産を大阪に設立し、住み替え需要を新築受注へつなげる仕組みも用意した[14]。
注文を待つのではなく需要を自ら創り出すこの方針により、1979年1月期に15年連続増収増益を記録し、売上高3,040億円・経常利益207億円に達した[15][16][17]。経常利益では大成建設を抜き、最大手の鹿島建設に迫る水準まで肉薄した(日経ビジネス 1979/3/19)。田鍋社長は「うちはプレハブ会社から脱け出し、大手の建設会社に仲間入りした」(田鍋健、日経ビジネス 1979/3/19)と語り、プレハブ専業から住宅業界の主役へと自社の位置を読み替えた。1970年代の積極策は自己資本比率や金利負担率を一時悪化させたが、需要創造に成功し、シェアでも大和ハウス工業以下の他社に水をあけた。全住宅産業に占めるシェアは2%程度にとどまるなか、田鍋社長は「7〜8%のシェアを取りたい」(田鍋健、日経ビジネス 1979/3/19)と次の目標を掲げ、未開拓の北海道・東北への直販網拡大と関連業界への進出を視野に入れた。
「家のデパート」── 高級化路線の完成と事業領域の拡大
1970年代後半から商品ラインナップを短期間で拡充し、鉄骨系に加えて木質系、コンクリート系、ツーバイフォー工法へ広げた。積水ハウスはプレハブの枠を越えて「家のデパート」と呼ばれるまでに業態を拡張し、消費者の嗜好の多様化に応える品揃えが新たな需要を掘り起こした。1984年には高級住宅「イズシリーズ」を発売した[18]。プレハブ住宅のイメージを塗り替えるヒット商品となり、田鍋社長が掲げた高級化路線を商品として体現した。高級化と多様化の二路線を同時に走らせた1970〜80年代の商品戦略によって、積水ハウスは業界内で独自のポジションを獲得し、新築市場の縮小期にも耐える事業基盤を備えた。
事業領域も住宅の周辺に広がった。1977年、大阪市西区でマンション「グランドメゾン長堀」を分譲して都市開発事業に参入した[19]。後に神戸市の六甲アイランドCITY第1期開発では事業費3,000億円のプロジェクトを手がけた。海外では1971年にオランダのシステム・バウ社の株式51.9%を取得して欧州へ進出し、1987年には米国ワシントン州に米国積水ハウスを設立して木材加工品の供給を始めた[20][21]。戸建住宅の請負から出発した会社が、都市開発と海外まで事業を広げ、収益源を多層化した。1970〜80年代にまいた多角化の種は、国内住宅市場が縮小した時期の業績下支えと、2010年代以降の海外戦略の下地として後に効いた。
1991年〜2016年 1兆円企業からの構造改革とストック型事業への軸足
住宅業界初の売上高1兆円と累計100万戸
1991年1月期、積水ハウスは住宅業界で初めて売上高1兆円を達成した[22]。田鍋社長の改革以来の高級化路線・直販体制・都市開発の拡大を30年積み上げた結果である。1993年には累積住宅販売戸数が業界初の100万戸に到達し、日本を代表する住宅メーカーとなった[23]。同年、大阪駅北の梅田スカイビル完成に伴い本社を移転・集約し、全国の営業所網と5工場を統括する中枢拠点を構えた[24][25]。売上高1兆円と累計100万戸の到達は、創業から30年で築いた事業規模を示す数字であり、業界における積水ハウスの位置を確定させた。同時に、新設住宅着工戸数のピークアウトという次の課題が経営の前面に出始めた。
バブル崩壊後、住宅市場は長期低迷に入り、新設住宅着工戸数はピーク時の170万戸超から100万戸を割り込む水準まで縮んだ。積水ハウスは1995年に系列の積水ハウス木造を吸収合併して木造住宅事業を取り込み、2000年代には積和不動産グループの商号統一や地域子会社4社の合併を実施して経営効率を改善した[26][27]。2005年にリフォーム事業を分社化し、住宅のライフサイクル全体をカバーする事業構造へ転じた[28]。1996年時点で奥井功社長は「日本はまだ住宅後進国だ。住宅の寿命が短く、20〜25年ぐらいで建て替える人が最も多い」(奥井功、日経ビジネス 1996/3/18)と語り、新築依存の継続を見込んでいたが、実際の需要は予想を下回って推移し、フロー型からストック型へのシフトが1990年代後半から動き出した[29]。
リーマンショック ── 45年間の無赤字記録が途切れた日
2008年のリーマンショックは、国内外の住宅産業を直撃した。2010年1月期(FY09)の売上高は前期比11%減の1兆3,531億円に落ち込み、営業損益は▲387億円の赤字に転落した[30][31]。純損失▲292億円を計上し、1964年の黒字転換以来45年間続いた無赤字記録が途切れた[32][33]。赤字の主因は、住宅着工戸数の急減に加え、分譲マンションや都市開発事業の資産評価損が重なったことにある。売上総利益率は前期の19.2%から11.6%へ急落し、膨らんだ固定費を吸収できないことが赤字転落の引き金となった。和田勇社長は1998年の就任以降、海外戦略と都市開発の拡大で売上高を1兆円台後半まで引き上げてきたが、その積極投資が一転して固定費負担として跳ね返った[34]。45年間続いた無赤字記録を途切れさせた経験は、経営陣に事業構造の見直しを迫った。
翌FY10に売上高1兆4,883億円、営業利益563億円を計上して赤字は単年で収束した[35][36]。回復を牽引したのは賃貸住宅事業とリフォーム事業の安定収益である。景気変動の影響を受けやすい戸建・分譲事業に対し、賃貸管理フィーやリフォーム工事はストック型の収益基盤として業績を下支えした。1996年に奥井功社長は「日本はまだ住宅後進国だ。住宅の寿命が短く、20〜25年ぐらいで建て替える人が最も多い」(奥井功、日経ビジネス 1996/3/18)と語り、新築フローの長期持続を見込んでいたが、新築着工はバブル後ピークから半減し、想定は外れた。請負型ビジネスへの過度な依存を見直し、ストック型・フィー型事業の比重を高める方針が、以後のポートフォリオ組み替えの基本線となり、10年以上にわたるストック型強化の出発点となった。
ストック型事業と国際事業が変えた収益構造
リーマンショック後、積水ハウスは事業ポートフォリオの組み替えを加速した。FY12からFY16にかけて不動産フィー事業の売上高は3,939億円から4,691億円へ、セグメント利益は170億円から312億円へ拡大した[37][38]。賃貸住宅事業の利益も275億円から608億円へ倍増し、戸建住宅の変動を補った[39]。2010年には積水ハウス・SIアセットマネジメントを子会社化して不動産ファンド運営に参入し、開発から管理・運用までの一貫体制を整えた[40]。住宅を建てて売るフロー型ビジネスに加えて、賃貸管理や資産運用という長期収益源を自社グループ内に取り込み、収益の安定性を高めた。グループの業態は、田鍋健社長が築いた直販・自社施工の枠を越え、住宅を所有し続ける顧客から長期にわたって対価を受け取るフィービジネスへ広がった。
国際事業も並行して拡大した。2008年に豪州事業統括会社を設立してシドニー・メルボルンで分譲住宅を開始した[41]。続く2010年にNorth America Sekisui House, LLCを設立して北米にも拠点を置き、2010年前後に海外事業の土台を整えた[42]。FY12に548億円だった国際事業の売上高は、FY16に1,821億円へ3倍以上に伸び、セグメント利益251億円を計上した[43]。連結営業利益はFY16に1,841億円と過去最高を更新し、ストック型事業の拡大と並んで海外展開の効果が決算に表れた[44]。1971年のオランダ進出が物流コストで撤退に終わったのに対し、豪州・北米では現地分譲を起点として事業を続けられた点が違う[45]。ストック型への転換と海外展開の二軸が、国内市場の成熟を補う成長ドライバーとして動き出し、積水ハウスの事業構造は請負中心モデルから転換した。
2017年〜2023年 米国7,200億円の賭けと国内事業構造の再編
Woodside Homes買収から始まったテクノロジー・トランスファー
2017年3月、積水ハウスは米国ユタ州の戸建住宅ビルダー、Woodside Homesを完全子会社化した[46]。国内の新設住宅着工戸数が90万戸台に低迷する一方、米国は人口増と慢性的な住宅不足により年間130万戸超の需要が見込めた。加えて、米国の戸建住宅は工業化が進んでおらず、日本で培った施工品質管理・高耐久部材・設計技術を移植する余地があった。積水ハウスはこの「テクノロジー・トランスファー」を成長戦略の核に据え、まずWoodside Homesで実証した。田鍋健社長が1960年代に国内で実行したプレハブ高級化の手法を海外市場に応用する戦略であり、買収後の経営統合の成否が長期的な企業価値を左右する位置づけになった。
阿部俊則社長は2016年時点で、新設住宅着工が今後60万戸を割る可能性が高いとの見方を示しつつ、県庁所在地は人口流入と世帯数増が続き、住まい方の多様化により賃貸住宅は当面腰折れしないと判断しており、海外への転換はこの認識と整合した[47]。2021年にオレゴン州のHolt Homes、2022年にテキサス州のChesmar Homesを取得し、米国西部から南部へ事業エリアを広げた[48][49]。連続買収の狙いは、地域分散によるリスク低減と、複数ビルダーを通じた技術移植ノウハウの蓄積・検証である。Woodsideでは日本の設計技術を商品に取り入れた結果、利益率の改善が確認できた。
FY23の国際事業売上高は5,110億円、連結売上高3兆1,072億円の16%を占めるまで伸びた[50]。米国市場への進出は国内住宅市場の成熟を補う柱に育ち、のちのMDC Holdings買収という過去最大級のM&Aへ接続した。Woodside・Holt・Chesmarの3ビルダー連続買収で、米国西部から南部へ展開地域を広げた効果は、地域分散と現地経営層の取り込みの双方で表れた。買収の連鎖は技術移植戦略の検証段階を超え、米国事業を本業の柱へ位置づける段階に入った。Woodside買収から6年でグループ売上の16%を海外で稼ぐ構造に変わったことが、次のMDC買収を経営判断として可能にした。創業期の田鍋健社長が国内で実証した自社施工モデルを、買収先の現地ビルダーへ移植する手順が積水ハウスの海外戦略の核となった。
ゼネコンを買った住宅メーカー ── 鴻池組子会社化と国内再構築
2017年6月、東京・五反田の旧旅館跡地をめぐる取引で地主になりすました偽の売主グループに約63億円を支払い、所有権移転登記の却下で詐欺が発覚した[51]。FY17で約55.5億円の特別損失を計上したが、同期の営業利益1,955億円に対する特損比率は3%に満たず、決算インパクト自体は限定的にとどまった[52][53]。後にNetflixドラマ『地面師たち』のモチーフとなるほど社会的注目を集めた一方、本件対応を発端とする役員人事の対立は翌2018年に和田勇会長退任劇へ発展し、業績以上にガバナンス上の爪痕を残した[54]。
海外展開と並行して、国内でも事業構造を変えた。2019年10月、総合建設会社・鴻池組の持株会社を連結子会社化した[55]。住宅メーカーが準大手ゼネコンを傘下に収めるのは業界初で、鴻池組の建築・土木事業は年間売上高2,500億円超の安定収益源としてグループに加わった。住宅請負事業が景気変動の影響を受けやすいのに対し、公共工事を含む建設事業は異なる需要サイクルを持ち、収益の安定化に寄与した。1961年のプラスチック材料読本では大和ハウスと永大産業がプレハブ業界の急成長企業として並び称されたが、60年後の積水ハウスは住宅メーカーから建設・不動産を含む総合事業会社へ業態を移した。住宅とゼネコン機能の統合は、大和ハウスによるフジタ買収と並ぶ住宅メーカーの戦略類型で、住宅市場の縮小を建設受注で補う動きが業界に広がった。
国内では2020年に積和不動産グループを「積水ハウス不動産」ブランドに統一し、若年層向けの積水ハウスノイエを発足させて顧客層を広げた[56][57]。戸建住宅事業は富裕層中心の高価格帯に軸足を置き、FY23の戸建売上は4,707億円・セグメント利益410億円となった[58]。賃貸・事業用建物事業と賃貸住宅管理事業を合わせたストック関連の利益は1,281億円に達し、連結営業利益の半分近くを占めるグループ収益の柱に定着した。田鍋健社長の垂直統合モデルを現代版へ更新するかたちで、積水ハウスは請負中心の住宅メーカーからストックとフローの両輪で収益を上げる企業グループへ転じ、国内事業の収益構造を組み替えた。