第2章 年〜年

ホクト:ぶなしめじホクト5号菌の開発と東証一部上場

1989年〜資材の販売先が細ると見て回った自社量産

1989年4月、ホクト産業は長野市に柳原きのこセンターを開設し、エノキタケの自社生産に踏み切った。背景にあったのは国内農業の縮小である。農地の宅地化が全国で進み、野菜の作付面積は60万ヘクタールを下回る手前まで縮んでいたうえ、農業の担い手不足も深刻さを増していた。農林水産省は、2000年には作付けが56万3000ヘクタールに減り、野菜が176万トン足りなくなると見込んでいた。こうした中で水野正幸社長は、零細な農家の生産に頼っていては栽培資材の売上を着実に伸ばせないと考えた。天候に関係なく大量に作れるきのこなら、農家の経営を安定させる点でも将来のある事業だとみて、同社は量産へ踏み出した。

  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [1]1989年4月に長野市に柳原きのこセンター(エノキタケ)を開設した
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1989年4月に長野県長野市に柳原きのこセンターを設置した
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [3]国内農業の生産力は低下する一方である
    • [4]全国的に農地の宅地化が進んで野菜の作付面積は年々減少しており、60万ヘクタール割れ寸前まできている
    • [5]農業の人手不足は一段と深刻化している
    • [6]農水省の見通しでは2000年には野菜の作付面積が56万3000ヘクタールまで減り、176万トンの野菜が不足する
    • [7]農家の小規模な栽培をあてにしていたのでは栽培用資材の売り上げを安定的に伸ばせない
    • [8]キノコは天候とは無関係に大量生産が可能で、農家の経営安定の手助けをすることができ将来性の高い事業になると判断してキノコの量産に踏み切った

国内最大級のきのこ工場に数えられる新潟の拠点は約2万平方メートルの敷地を持つが、これも柳原のあとに相次いだ拡張の一つである。最初は1989年5月で、福岡県広川町の営業所にエノキタケを作る工場が設けられた。滑り出しにつまずきはなく、翌年には第2工場が加わった。1990年4月には、長野県の更埴きのこセンターが抱えていたブナシメジの栽培部門を引き取っている。ブナシメジを主力とする拠点はその後も増え、1991年4月に新潟県紫雲寺町で一つが立ち上がった。同年6月には富山県八尾町がこれに続いた。全工場がフル稼働すれば長野県の生産量の1割近い年間7000トンの生産能力になる計算で、1993年4月には福岡県八女市にも八女きのこセンターを設けた。工場を全国へ広げたのは、消費者へより新鮮なきのこを届けるためだった。

  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [9]新潟の工場は敷地が約2万平方メートルの国内最大級のキノコ工場である
    • [11]1989年に福岡県広川町の営業所にエノキダケ工場を開設した
    • [12]広川きのこセンターは順調に事業化できたので翌年には第2工場を増設した
    • [15]1991年に新潟県紫雲寺町と富山県八尾町にそれぞれホンシメジを中心とした工場を開設した
    • [16]全部の工場がフル稼働すれば長野県の生産量の1割近い年間7000トンの生産能力を持つ
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [10]1989年5月に福岡県に広川きのこセンター(エノキタケ、その後ブナシメジに移行)を開設した
    • [14]1991年4月に新潟県に新潟きのこセンター(ブナシメジ)を、同年6月に富山県に富山きのこセンター(ブナシメジ)を開設した
    • [17]1993年4月に福岡県八女市に八女きのこセンターを開設した
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1990年4月に更埴キノコセンターからきのこ栽培部門を譲り受けた
  • 証券 2000年1月号
    • [18]消費者によりフレッシュなきのこを届けるため全国10か所に工場を建設した

変則決算だった1990年9月期と1991年3月期を合わせて年度換算すると、ホクト産業の売上高は85億8400万円だった。うちきのこが稼いだのは2割弱の16億円である。水野正幸社長は、次の期にきのこを前期比2.5倍の40億円、売上高全体の4割まで増やす見通しを語った。1992年3月期の売上高見込みは100億円、従業員は220人、資本金は5億5750万円だった。当面はきのこ、栽培用資材、包装材を経営の3本柱とし、新設工場がフル稼働する2年から3年後にはきのこが主力になると見ていた。資材を売るために始めた栽培が、3年で売上の柱そのものへ変わろうとしていた。

  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [19]変則決算だった1990年9月期と91年3月期を合わせて年度換算した前期の売上高は85億8400万円である
    • [20]年度換算した前期の売上高85億8400万円のうち2割弱の16億円をキノコで稼ぎ出した
    • [21]水野正幸社長は今期のキノコを前期比2.5倍の40億円、売上高全体の4割まで増加すると見通した
    • [22]1992年3月期の売上高見込みは100億円、従業員は220人、資本金は5億5750万円である
    • [23]当面はキノコ、栽培用資材、包装材を経営の3本柱とするが、新設工場がフル稼働する2〜3年後にはキノコが主力になる見通しである
参考文献[1]-[23]
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [1]1989年4月に長野市に柳原きのこセンター(エノキタケ)を開設した
    • [10]1989年5月に福岡県に広川きのこセンター(エノキタケ、その後ブナシメジに移行)を開設した
    • [14]1991年4月に新潟県に新潟きのこセンター(ブナシメジ)を、同年6月に富山県に富山きのこセンター(ブナシメジ)を開設した
    • [17]1993年4月に福岡県八女市に八女きのこセンターを開設した
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1989年4月に長野県長野市に柳原きのこセンターを設置した
    • [13]1990年4月に更埴キノコセンターからきのこ栽培部門を譲り受けた
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [3]国内農業の生産力は低下する一方である
    • [4]全国的に農地の宅地化が進んで野菜の作付面積は年々減少しており、60万ヘクタール割れ寸前まできている
    • [5]農業の人手不足は一段と深刻化している
    • [6]農水省の見通しでは2000年には野菜の作付面積が56万3000ヘクタールまで減り、176万トンの野菜が不足する
    • [7]農家の小規模な栽培をあてにしていたのでは栽培用資材の売り上げを安定的に伸ばせない
    • [8]キノコは天候とは無関係に大量生産が可能で、農家の経営安定の手助けをすることができ将来性の高い事業になると判断してキノコの量産に踏み切った
    • [9]新潟の工場は敷地が約2万平方メートルの国内最大級のキノコ工場である
    • [11]1989年に福岡県広川町の営業所にエノキダケ工場を開設した
    • [12]広川きのこセンターは順調に事業化できたので翌年には第2工場を増設した
    • [15]1991年に新潟県紫雲寺町と富山県八尾町にそれぞれホンシメジを中心とした工場を開設した
    • [16]全部の工場がフル稼働すれば長野県の生産量の1割近い年間7000トンの生産能力を持つ
    • [19]変則決算だった1990年9月期と91年3月期を合わせて年度換算した前期の売上高は85億8400万円である
    • [20]年度換算した前期の売上高85億8400万円のうち2割弱の16億円をキノコで稼ぎ出した
    • [21]水野正幸社長は今期のキノコを前期比2.5倍の40億円、売上高全体の4割まで増加すると見通した
    • [22]1992年3月期の売上高見込みは100億円、従業員は220人、資本金は5億5750万円である
    • [23]当面はキノコ、栽培用資材、包装材を経営の3本柱とするが、新設工場がフル稼働する2〜3年後にはキノコが主力になる見通しである
  • 証券 2000年1月号
    • [18]消費者によりフレッシュなきのこを届けるため全国10か所に工場を建設した

1991年〜品種を自前で持つための研究所と、種苗登録を徹底させた仮処分

1991年3月、ホクト産業は日本のきのこ栽培研究で五指に入るといわれた山中勝次農学博士を奈良県林業試験場から迎え、きのこ総合研究所の所長とした。山中氏は、設備が整い人員もそろったこの研究所を、研究のしやすい場だとみた。研究所の規模は年を追って大きくなり、用地代を除く投資総額は6億5000万円にのぼった。研究開発・生産・販売を自社で完結させる点が同社の特色で、種苗開発から自社生産、販売までを独自に担っていた。量産を自社で始めたことで、研究所の菌は農家を通さずに自社工場で試され、その結果を次の品種開発に生かす流れができた。

  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [24]1991年3月に日本のキノコ栽培研究では五指に入るといわれる山中勝次農学博士を奈良県林業試験場からスカウトし所長に就任させた
    • [25]山中勝次所長は設備がよくスタッフも多いので研究を進めやすいと研究所を評価した
    • [26]きのこ総合研究所を年々拡張しており、用地代を除いた総投資額は6億5000万円にのぼる
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [27]各種きのこ類の研究開発も生産もすべて自前でできることが当社の特徴のひとつである
    • [28]種苗を自ら開発して当社で生産し、販売も独自に行っている

ホクト産業はこの品種の開発時、長野県経済連の要請で県内の農家や農協に種菌を無償で配っていた。水谷俊大取締役の説明では、試験的に育ててもらうことで、農家が品種改良に意欲を持つよう促すのが目的だった。配布から程なく、ある農協が純白の株が突然変異で生まれたと公表して独自に栽培を始め、その品種はやがて各地に広がった。同社は勝手に使われたとみて協議したが、話はまとまらなかった。1991年8月には、ホクトM-50の生産と販売の差し止めを求め、その農協を相手取った仮処分を長野地方裁判所に申し立てている。この件を契機に、新品種はすべて種苗登録にかけるのが同社の方針となった。

  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [29]ホクトM-50の開発にあたって長野県経済連の要請で種菌を県下の農家や農協に無償提供した
    • [30]水谷俊大取締役は無償提供の目的を試験栽培を通じて品種改良の意欲を高めてもらうことだと述べた
    • [31]無償提供の直後にある農協が純白系のエノキダケが突然変異によって発生したと発表し独自に育て始めた
    • [32]その品種はやがて全国に広がった
    • [33]ホクト産業はホクトM-50の無断使用ではないかとみて話し合いをしたが折り合いがつかなかった
    • [34]1991年8月にホクト産業はある農協を相手取り生産・販売差し止めの仮処分を長野地裁に申請した
    • [35]この一件を機に新品種は必ず種苗登録するようにした

自生するきのこを採取して育て、有望な系統かどうか見極めるまでには、通常3年から4年を要した。ホクト産業はこれを独自技術によって半年ほどに縮めた。鍵は菌糸の段階で優劣を見分けるスクリーニング技術にあり、これが新品種の早い投入を可能にした。ブナシメジでは、1990年10月にホクト5号菌が生まれ、1991年11月には苦味がなく栽培サイクルの短いホクト6号菌が続いた。1993年6月のホクト8号菌は苦味がなく、傘の黒褐色が淡く丸みを帯び、生産にかかる日数も少なかった。同年8月に出たホクト7号菌は、傘のそろいと弾力に優れた。農林水産省への種苗登録を見ると、ブナシメジ6品種中4つがホクト産業の菌だった。

  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [36]野生のきのこを栽培して優れたものか見分けるには普通3〜4年かかるが、独自の技術により半年ぐらいで見分けられる
    • [37]菌糸の段階で優秀なものであるかどうかを判断できるスクリーニング技術を有している
    • [39]1991年11月にブナシメジの新品種「ホクト6号菌」を開発し、従来の品種より栽培サイクルが短縮されて苦味がないと好評を得た
    • [40]1993年6月に開発したブナシメジ「ホクト8号菌」は苦味がないのに加えて傘の色の黒褐色が薄くて丸みがあり、生産日数も短縮した
    • [41]1993年8月に開発したブナシメジ「ホクト7号菌」は傘のそろいもよく、苦味がなくて弾力性がある
    • [42]ブナシメジで農水省に種苗登録している品種は6つあり、そのうち4つがホクト産業の菌である
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1990年10月にぶなしめじ新品種「ホクト5号菌」を開発した
参考文献[24]-[42]
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [24]1991年3月に日本のキノコ栽培研究では五指に入るといわれる山中勝次農学博士を奈良県林業試験場からスカウトし所長に就任させた
    • [25]山中勝次所長は設備がよくスタッフも多いので研究を進めやすいと研究所を評価した
    • [26]きのこ総合研究所を年々拡張しており、用地代を除いた総投資額は6億5000万円にのぼる
    • [29]ホクトM-50の開発にあたって長野県経済連の要請で種菌を県下の農家や農協に無償提供した
    • [30]水谷俊大取締役は無償提供の目的を試験栽培を通じて品種改良の意欲を高めてもらうことだと述べた
    • [31]無償提供の直後にある農協が純白系のエノキダケが突然変異によって発生したと発表し独自に育て始めた
    • [32]その品種はやがて全国に広がった
    • [33]ホクト産業はホクトM-50の無断使用ではないかとみて話し合いをしたが折り合いがつかなかった
    • [34]1991年8月にホクト産業はある農協を相手取り生産・販売差し止めの仮処分を長野地裁に申請した
    • [35]この一件を機に新品種は必ず種苗登録するようにした
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [27]各種きのこ類の研究開発も生産もすべて自前でできることが当社の特徴のひとつである
    • [28]種苗を自ら開発して当社で生産し、販売も独自に行っている
    • [36]野生のきのこを栽培して優れたものか見分けるには普通3〜4年かかるが、独自の技術により半年ぐらいで見分けられる
    • [37]菌糸の段階で優秀なものであるかどうかを判断できるスクリーニング技術を有している
    • [39]1991年11月にブナシメジの新品種「ホクト6号菌」を開発し、従来の品種より栽培サイクルが短縮されて苦味がないと好評を得た
    • [40]1993年6月に開発したブナシメジ「ホクト8号菌」は苦味がないのに加えて傘の色の黒褐色が薄くて丸みがあり、生産日数も短縮した
    • [41]1993年8月に開発したブナシメジ「ホクト7号菌」は傘のそろいもよく、苦味がなくて弾力性がある
    • [42]ブナシメジで農水省に種苗登録している品種は6つあり、そのうち4つがホクト産業の菌である
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1990年10月にぶなしめじ新品種「ホクト5号菌」を開発した

1994年〜店頭公開から東証一部へ、きのこが売上の7割を占めるまで

1994年3月期、ホクト産業はエノキタケ、ブナシメジ、ナメコなどを8178トン生産し、全国一の生産量を記録した。1994年5月には新潟きのこセンターの第二工場が完成し、生産能力は日産35トンに達した。競争の激化に備えて設備と人員を一層充実させる必要があり、そのための資金調達と知名度の向上を狙って、1994年末までに株式を公開する意向を早くから示していた。同年11月22日、ホクト産業は日本証券業協会に株式を店頭登録した。資材と包装材で積んだ売上に自社生産のきのこが重なり、1995年3月期の売上高は113億5700万円になった。

  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [43]1994年3月期にエノキタケ、ブナシメジ、ナメコ等を8178トン生産し全国一の生産量を記録した
    • [44]1994年5月に新潟きのこセンター第二工場の建設が完了し、生産能力は日産35トンに達した
    • [46]1994年11月22日に株式を店頭公開した
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [45]競争激化に備えて設備・人員を一層充実させる必要があり、その資金調達と知名度向上を狙って1994年末までに株式公開する意向である
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1994年11月に日本証券業協会に株式を店頭登録した
  • 証券 2000年1月号
    • [48]1995年3月期の売上高は113億5700万円である

1991年春、油揚げ最大手のオーケー食品工業がエノキダケの量産を始め、油揚げの副産物であるオカラに米ぬかとトウモロコシの芯を合わせた培地で収量を上げる技術を築いた。扱うのはエノキダケだけだったが、1992年3月期の売上高は60億円近くに達する見通しで、ホクト産業をしのぐ勢いだった。ハタケシメジでは宝酒造が大量栽培法を開発して栽培・販売を長野県経済連に任せ、王子製紙も同じシメジの人工栽培に成功し、合同酒精はニオウシメジの生産工場建設を決めた。有力企業がこうして次々ときのこ市場に参入したものの、大手の参入はいずれも長続きしなかった。1994年の時点までに、日本たばこや新日鉄など十数社の大企業がきのこ市場に参入したが、いずれも撤退している。きのこは生き物で1年365日の管理を欠かせず、それが大手にとっての参入障壁になっていると水野正幸社長は見ていた。

  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [49]油揚げ最大手のオーケー食品工業は1991年春からエノキダケの量産に着手し、培地に油揚げの副産物のオカラと米ぬか、トウモロコシの芯を使い高収量化を実現した
    • [50]オーケー食品工業はエノキダケのみとはいえ1992年3月期に60億円近い売り上げを見込み、ホクト産業を一歩リードしつつある
    • [51]宝酒造がハタケシメジの大量栽培法を開発し、提携関係にある長野県経済連に栽培・販売を委託する
    • [52]王子製紙も同種のシメジの人工栽培に成功した
    • [53]合同酒精もニオウシメジの生産工場を翌年完成させる
    • [54]有力企業もキノコビジネスに続々参入し始めた
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [55]きのこ市場に参入した大企業はいずれも撤退した
    • [56]きのこ市場にはかつて日本たばこや新日鉄などの大企業が十数社ほど参入したが、いずれも撤退した
    • [57]水野正幸社長はきのこが生き物で1年365日管理しなければならないことなどから大手の参入は今後もなかなか難しいと述べた

1999年11月29日、ホクト産業は東京証券取引所市場第一部に上場した。店頭登録から5年、創立35周年の年である。1999年3月期の売上構成を見ると、きのこ生産が152億2000万円と全体の68.2%を占め、その次に包装資材の43億3000万円、農業資材の25億2300万円が並んだ。売上高はこの間、1995年3月期の113億5700万円から1999年3月期には223億1200万円と倍になった。経常利益も12億6700万円から39億2300万円へ伸びた。シェアはエリンギが70%、ぶなしめじが30%に達し、全国10か所の工場で426人が働いていた。1964年に農家向けにビンを売っていた会社は、そのビンを誰よりも多く使う側に回った。

  • 証券 2000年1月号
    • [58]1999年11月29日に東京証券取引所市場第一部へ上場した
    • [60]1999年に創立35周年を迎えた
    • [61]1999年3月期の販売実績はきのこ生産152億2000万円(68.2%)、包装資材43億3000万円(19.4%)、農業資材25億2300万円(11.3%)である
    • [62]売上高は1995年3月期の113億5700万円から1999年3月期には223億1200万円になった
    • [63]経常利益は1995年3月期の12億6700万円から1999年3月期には39億2300万円になった
    • [64]ぶなしめじで30%、エリンギで70%のシェアを持つトップメーカーであり、全国10か所に工場を建設した
    • [65]1999年3月31日現在の従業員数は426人である
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1999年11月に東京証券取引所市場第一部に上場した
参考文献[43]-[65]
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [43]1994年3月期にエノキタケ、ブナシメジ、ナメコ等を8178トン生産し全国一の生産量を記録した
    • [44]1994年5月に新潟きのこセンター第二工場の建設が完了し、生産能力は日産35トンに達した
    • [46]1994年11月22日に株式を店頭公開した
    • [55]きのこ市場に参入した大企業はいずれも撤退した
    • [56]きのこ市場にはかつて日本たばこや新日鉄などの大企業が十数社ほど参入したが、いずれも撤退した
    • [57]水野正幸社長はきのこが生き物で1年365日管理しなければならないことなどから大手の参入は今後もなかなか難しいと述べた
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [45]競争激化に備えて設備・人員を一層充実させる必要があり、その資金調達と知名度向上を狙って1994年末までに株式公開する意向である
    • [49]油揚げ最大手のオーケー食品工業は1991年春からエノキダケの量産に着手し、培地に油揚げの副産物のオカラと米ぬか、トウモロコシの芯を使い高収量化を実現した
    • [50]オーケー食品工業はエノキダケのみとはいえ1992年3月期に60億円近い売り上げを見込み、ホクト産業を一歩リードしつつある
    • [51]宝酒造がハタケシメジの大量栽培法を開発し、提携関係にある長野県経済連に栽培・販売を委託する
    • [52]王子製紙も同種のシメジの人工栽培に成功した
    • [53]合同酒精もニオウシメジの生産工場を翌年完成させる
    • [54]有力企業もキノコビジネスに続々参入し始めた
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1994年11月に日本証券業協会に株式を店頭登録した
    • [59]1999年11月に東京証券取引所市場第一部に上場した
  • 証券 2000年1月号
    • [48]1995年3月期の売上高は113億5700万円である
    • [58]1999年11月29日に東京証券取引所市場第一部へ上場した
    • [60]1999年に創立35周年を迎えた
    • [61]1999年3月期の販売実績はきのこ生産152億2000万円(68.2%)、包装資材43億3000万円(19.4%)、農業資材25億2300万円(11.3%)である
    • [62]売上高は1995年3月期の113億5700万円から1999年3月期には223億1200万円になった
    • [63]経常利益は1995年3月期の12億6700万円から1999年3月期には39億2300万円になった
    • [64]ぶなしめじで30%、エリンギで70%のシェアを持つトップメーカーであり、全国10か所に工場を建設した
    • [65]1999年3月31日現在の従業員数は426人である

筆者考察

1989年の量産参入は、きのこの将来性に賭けた決断というより、資材の売り先が細ることへの備えだった。全国で農地の宅地化が進み、野菜の作付面積は60万ヘクタールを割ろうとしていた。農林水産省は2000年に56万3000ヘクタールまで減り、176万トンの野菜が不足すると見通す。農家の高齢化と後継者不足も重なり、小規模な栽培農家を相手に資材を売る商いには需要の上限が見えていた。天候に左右されず工場で作れるきのこは、その上限を自分で外せる数少ない商材だった。

工場を消費地の近くへ置いたことが、この参入を単なる増産と分けた。長野の柳原に始まり、福岡の広川、新潟の紫雲寺、富山の八尾、福岡の八女と、ホクト産業は産地ではなく売り場のそばへ生産を並べた。鮮度が値段を決める商材で、輸送の距離は品質の差に直結する。1994年3月期の生産量8178トンは全国一となり、1999年3月期には売上高223億1200万円の68.2%をきのこ生産が占めた。資材を売っていた側が、資材を最も多く使う側へ回った。1964年に農家へ渡したビンは、自社の工場で回るようになった。

売上高 1995年3月期から1999年3月期(百万円)

11,357 95/3期 14,067 96/3期 18,223 97/3期 20,775 98/3期 22,312 99/3期

出典・参考

4件
出典・参考
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
  • 証券 2000年1月号

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