Umios二百カイリ規制を受けた遠洋漁業からの主力転換と、加工食品・養殖事業への移行

公海の漁場を断たれた水産最大手は、獲る会社から作り売る会社へどう体質を組み替えたか

時期 1977年
意思決定者(推定) 天辰祐之郎(社長)・中部慶次郎 社長
論点 遠洋漁業依存からの脱却と事業構造の転換
概要
二百カイリ漁業水域の設定で公海の漁場を失った水産最大手の大洋漁業が、1977年以降、陸上の加工・養殖・外食へ資本を移し、獲る会社から作り売る会社への転換を進めた。1987年にマグロの養殖研究へ着手し、1993年には社名を大洋漁業からマルハへ改めて「脱漁業」を鮮明にした、十数年におよぶ事業構造の組み替えである。
背景
南氷洋捕鯨や北洋漁業など公海の漁場に依存した事業構造は、1977年の二百カイリ規制で最大の利益源を断たれた。遠洋漁業の漁獲高は半減し、入漁料の負担も膨らみ、大洋漁業は1982年決算で経常赤字に転じて無配が続いた。
内容
宇都宮の練り製品・調味料工場やつくばの中央研究所など陸上設備へ投資し、マグロの成長ホルモン抽出やクロマグロ種苗の研究に着手した。外食事業にも進み、1993年の社名変更で「脱漁業」を対外的に掲げた。
含意
転換後も水産商事の相場依存で経常赤字を繰り返し、収益の安定には時間を要した。1987年に始めた完全養殖は2010年に民間初の実現をみて、冷凍食品と養殖で稼ぐ総合食品会社への道を開いた。
筆者の見解

漁場を失うことと、稼ぎ方を組み替えること

獲る会社から作り売る会社への転換を、二百カイリ規制に追われた受け身の縮小とだけ読むのは、この判断の射程を狭くする。大洋漁業は漁場を失うのと同じ時期に、陸上の加工・研究へ資本を移し替え、量産のめども立たないマグロの養殖へ研究チームを置いた。経常赤字と無配のさなかに中央研究所へ資金を割き、外食という新しい売り場まで自ら開いた点に、規制への防御を超えて稼ぎ方そのものを組み替える意思がうかがえる。天辰祐之郎社長の「自らつくる漁業」という言葉は、その意思を映していた。

もっとも、その転換が稼ぐ体として実を結ぶまでには、長い時間がかかった。マルハへの改称の後も水産商事の相場依存で経常赤字を繰り返し、同社は「アナリスト泣かせ」と呼ばれ続けた。1987年に着手したクロマグロの完全養殖が民間初の実現をみるのは2010年、二百カイリ規制からおよそ30年の後であった。獲る会社の看板を一度の改称で下ろすことはできても、作り売る会社として安定して稼ぐ体になるには数十年を要した。規制や不振をどう畳むかに加えて、仕込んだ種が育つまで手を離さずにいられるかどうかに、転換の成否が表れるとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

公海の漁場で規模を追った「獲る会社」

戦後の大洋漁業は、南氷洋の捕鯨や北洋のサケ・マス漁など、公海の漁場に漁船と資本を集めて規模を追う経営を続けた。魚を早く大量に獲って全国へ配る力が水産最大手の地歩を支え、輸入や国内買い付けよりも自社の漁労が高い利益を生んだ。同社の常務は、輸入魚介類の利益率が1%程度なのに対し、省力化を進めた自社漁労の利益率はその4〜5倍にのぼると語っている。獲る事業こそが金の卵であった[1]

もっとも、公海の漁場に依存する事業構造は、資源や漁場が国際的に制約されれば、強みがそのまま弱みに変わる不安定さを抱えていた。漁獲量の拡大で規模を追うほど、漁場を断たれたときの反動は大きくなる。高収益を生んだ自社漁労という金の卵は、その卵を産む海が他国の管理下に入ればたちまち細る性質のものであった。次の時代に到来した二百カイリ規制が、この弱点を正面から突いた[2]

二百カイリ規制が断った漁場

1977年、各国が相次いで設定した二百カイリ漁業水域は、大洋漁業を最大の利益の源泉であった北洋海域など世界の漁場から締め出した。二百カイリ以前の1973年に400万トンあった日本の遠洋漁業の漁獲高は、その後200万トンへと半減する。とりわけ依存度の高かった米国水域のスケソウタラ漁は、漁獲割当枠が1983年以降減り、1986年には50万トンを割り、1987年分は5万トン強にまで落ち込んだ[3]

漁場に残るための負担も膨らんだ。二百カイリ以後は入漁料が課せられ、日本の支払額は1977年度の16億円が1985年度には80億円へ急増し、大洋漁業単独でも1986年度に21億円を負担した。同社は1982年の決算で円安の為替差損などから経常赤字に転じ、以後は無配が続き、自社ビルの4分の3を売却して借入金の返済にあてる再建を進めた。獲る事業の高い収益は、規制とともに細っていった[4]

決断

「つくる漁業」への投資と養殖・バイオ研究

漁場を失った大洋漁業は、かつて漁船に投じた資本を陸上の加工と研究へ振り向けた。1983年に宇都宮市で練り製品工場、1985年には同市で調味料・薬品・健康食品の工場が相次いで完成し、1990年にはつくば市へ中央研究所を開いて食品開発と養殖研究の基盤を整えた。海の上の漁船から陸の生産・研究設備へ投資の対象を移すこの組み替えが、遠洋漁業会社から食品会社への体質の転換を進めた[5]

転換のもう一つの柱が、海の資源を自ら育てる養殖であった。1987年、大洋漁業はマグロの成長ホルモンの抽出に成功し、バイオ技術による量産へのめどをつけたと日本水産学会で発表する。同じ年にクロマグロの種苗開発チームを発足させ、養殖による安定供給の研究に着手した。天辰祐之郎社長は、種苗の販売にとどまらず「自らつくる漁業、つまりマグロの自社養殖事業化」という遠大な計画を掲げた[6][7]

「脱漁業」の旗印とマルハへの改称

相場と為替に振り回される「水産商社」的な体質からの脱却も課題であった。中部慶次郎社長は、魚を大量に仕入れる川上には人材が育つ一方、売りの現場である川下を知らない偏りを認めていた。同社は1990年に外食事業のプロジェクトチームを設け、タイ料理店などを消費の現場に近い事業として開いた。獲って売るだけでなく、作って消費者へ届ける経路を自ら持つ試みであった[8]

こうした転換を、大洋漁業は社名の変更で対外的に鮮明にした。1993年9月、同社は社名を大洋漁業からマルハへと改め、社名から「漁業」の文字を外して「脱漁業」の旗印を掲げた。創業以来の「まるは」の社標も新しいものに刷新した。獲る会社から作り売る会社への転換を、屋号そのもので宣言した改称であった[9][10]

結果

改称後も残った相場依存

看板を替えても、収益はすぐには安定しなかった。1991年3月期は相場低迷のなかで抱えたイカ在庫の処分が響いて61億円の経常赤字に転落し、1992年3月期も36億円の経常赤字を計上した。1991年度は総売上高5259億円のうち魚介類が2846億円と半分を超え、相場に左右される水産商事への依存が色濃く残っていた[11]

ニチロと統合する2007年より前のマルハの時代も、不採算事業をめぐる巨額の特別損失を毎年のように計上し、業績と株価の予想を狂わせる「アナリスト泣かせ」と呼ばれた。トレーディングのさや取りを主体とする収益は読みにくく、統合の後には同社を担当する証券アナリストが相次いで離れた。獲る会社の看板を下ろしても、相場に揺れる体質を改めるには長い時間を要した[12]

数十年越しに実った「育てる漁業」

一方、1987年に始めた養殖の研究は、数十年をかけて実を結んだ。クロマグロの完全養殖は難路の連続で、卵から6センチの稚魚に育つまでの生存率が低く、1996年にいったん中断された。担当者は、100万個の卵から1万5000匹の稚魚を得るのに20年かかったと振り返る。2006年に再開した種苗が育ち、2010年に同社は民間で初めての完全養殖クロマグロを実現した[13]

加工の分野でも、マルハニチロはニチレイと並ぶ国内冷凍食品の最大手として拡大する市場を取り込んだ。特別損失が減って業績に安定感が出た2018年には、株価が上場来高値をつけ、いったん離れた証券アナリストのカバレッジも再び付き始めた。獲る会社として出発した水産最大手は、食品と養殖で稼ぐ会社へと姿を変え、2025年3月期には売上高1兆786億円で過去最高を更新した[14][15]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1987年6月8日号「大洋漁業、バイオに挑む 高級マグロ『つくる漁業』で量産」
  • 日経ビジネス 1993年4月26日号「大洋漁業 ケチに徹したタイ料理店『脱漁業』の有力な武器に」
  • 週刊東洋経済 2018年6月9日号「株高マルハニチロの“変身”」
  • 週刊東洋経済 2024年6月1日号「マルハニチロのクロマグロは人工ふ化から育った完全養殖だった」
  • マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
  • マルハニチロ 有価証券報告書(2025年3月期・連結)

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