リッカー:会社更生下のミシン製造撤退と訪問販売への集中
1985年〜就任7カ月で辞任した事業家管財人と粉飾が残した資金
1985年2月19日、東京地方裁判所で会社更生手続の開始が決まった。同じ2月、財界四天王の一人とされた今里広記氏らに推され、ダイニッカの横地治男氏が事業家管財人に就任した。横地氏を担ぎ出したのは東邦生命保険の太田新太郎社長で、1984年7月23日の和議申請の直後にはツガミの大山梅雄社長を再建に引き出そうと動いていた。東邦生命は幹部として15人ほどをリッカーへ出向させ、横地氏がつぎ込んだ10億円も同社元顧問の河野通広氏が経営する東門企画から出た。横地氏は支店を統廃合し、1985年7月には前払い式割賦販売を再開した。
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [1]1985年2月19日に会社更生手続の開始が決まった
- [2]1985年2月、今里広記氏らに推されたダイニッカの横地治男社長が管財人に就任した
- 日経ビジネス 1985年10月28日号
- [3]太田新太郎東邦生命保険社長は横地氏を管財人にかつぎ出した立役者で、1984年7月23日の和議申請直後には大山梅雄ツガミ社長を再建に引っ張り出そうとした
- [4]東邦生命は15人ばかり社員をリッカーに幹部として出向させ、横地氏がつぎ込んだ10億円の資金は東邦生命元顧問の河野通広氏が経営する東門企画から出ている
- [5]支店の統廃合、従業員の意識改革、7月からの前払い式割賦販売の再開など、再建の地ならしは終わった
社内でも取引先でも、支出を極限まで削り込むおしん経営への反発が広がった。立川工場では部品業者との摩擦が管理職にまで及び、工場長を含む大半が会社を去った。本社で空席となった役職には、東邦生命からダイニッカを経由してきた人員が就いている。4月分の部品代の支払いがこじれると、立川工場に部品を納める業者でつくる債権者委員会は、横地氏の不信任を求める上申書を東京地裁に出した。社内では、決裁を得るには朝7時30分から管財人室の前に列をつくらねばならず、販促ビラ一枚の押印にも時間がかかると不満が募った。
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [6]出費を徹底的に切り詰める「おしん経営」が社員や取引先の反発を招いた
- 日経ビジネス 1985年10月28日号
- [7]立川工場では部品業者との問題を巡る対立をきっかけに工場長以下ほとんどの管理職が辞め、本社も似た事情で東邦生命からダイニッカを経由して人材が送り込まれた
- [8]立川工場に部品を納入する業者を中心に組織している債権者委員会は、4月の部品代金の決済を巡るトラブルから横地氏不信任の上申書を地裁に出している
- [9]朝7時30分に管財人室の前に並んでいないと決裁がもらえず、販促用のビラ一つ作るにもなかなか判子がもらえなかったという不満が社内にあった
1985年8月31日、太田氏はホテルニューオータニで横地氏に勇退を促した。横地氏は9月2日に東京地裁へ意見書を出して裁判官と対立し、9日に辞意を正式に伝え、10日に辞表を出した。就任からわずか7カ月だった。残った法律家管財人の阿部昭吾弁護士は、スポンサーを置かない自主再建に動いた。資金繰りそのものは詰まっていない。旧経営陣が約330億円の利益を水増ししていたため簿外の在庫が積み上がっており、その販売と回収で1〜2年はしのげる状態にあった。払い過ぎた税金の還付として国税庁へ請求した額は58億円にのぼった。
- 日経ビジネス 1985年10月28日号
- [10]8月31日にホテルニューオータニで太田氏が横地氏に円満な勇退を勧めた
- [11]横地氏は9月2日に東京地方裁判所へ意見書を出して裁判官と激論し、9日に辞意を正式に伝え、10日に辞表を出して記者発表となった
- [13]阿部昭吾弁護士が一人管財人に残り、リッカーはスポンサーなしで自主再建に動いている
- [14]横地氏辞任の直後は再建に暗雲との論調が広がったが、リッカーは資金繰りに苦しんでいない
- [15]利益の水増し約330億円という粉飾決算により簿外在庫の販売と資金回収で1〜2年は資金要らずで行ける
- [16]粉飾決算で払いすぎた税金の還付として国税庁に請求している金額は58億円
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [12]横地治男管財人はわずか7カ月で辞任に追い込まれた
参考文献[1]-[16]
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [1]1985年2月19日に会社更生手続の開始が決まった
- [2]1985年2月、今里広記氏らに推されたダイニッカの横地治男社長が管財人に就任した
- [6]出費を徹底的に切り詰める「おしん経営」が社員や取引先の反発を招いた
- [12]横地治男管財人はわずか7カ月で辞任に追い込まれた
- 日経ビジネス 1985年10月28日号
- [3]太田新太郎東邦生命保険社長は横地氏を管財人にかつぎ出した立役者で、1984年7月23日の和議申請直後には大山梅雄ツガミ社長を再建に引っ張り出そうとした
- [4]東邦生命は15人ばかり社員をリッカーに幹部として出向させ、横地氏がつぎ込んだ10億円の資金は東邦生命元顧問の河野通広氏が経営する東門企画から出ている
- [5]支店の統廃合、従業員の意識改革、7月からの前払い式割賦販売の再開など、再建の地ならしは終わった
- [7]立川工場では部品業者との問題を巡る対立をきっかけに工場長以下ほとんどの管理職が辞め、本社も似た事情で東邦生命からダイニッカを経由して人材が送り込まれた
- [8]立川工場に部品を納入する業者を中心に組織している債権者委員会は、4月の部品代金の決済を巡るトラブルから横地氏不信任の上申書を地裁に出している
- [9]朝7時30分に管財人室の前に並んでいないと決裁がもらえず、販促用のビラ一つ作るにもなかなか判子がもらえなかったという不満が社内にあった
- [10]8月31日にホテルニューオータニで太田氏が横地氏に円満な勇退を勧めた
- [11]横地氏は9月2日に東京地方裁判所へ意見書を出して裁判官と激論し、9日に辞意を正式に伝え、10日に辞表を出して記者発表となった
- [13]阿部昭吾弁護士が一人管財人に残り、リッカーはスポンサーなしで自主再建に動いている
- [14]横地氏辞任の直後は再建に暗雲との論調が広がったが、リッカーは資金繰りに苦しんでいない
- [15]利益の水増し約330億円という粉飾決算により簿外在庫の販売と資金回収で1〜2年は資金要らずで行ける
- [16]粉飾決算で払いすぎた税金の還付として国税庁に請求している金額は58億円
1987年〜通産省の要請で支援に入ったダイエーと製造業復活の断念
1987年2月、ダイエーは通商産業省の強い要請に応じ、リッカーを全面的に支えることを決めた。本業のミシンは衰退産業とみられ、不動産を売れば債務は返せても事業の立て直しまでは見込めないという見方が一般的で、しかも倒産から2年半が過ぎて有能な人材の多くはもう社にいなかった。中内功会長兼社長にとって倒産企業の再建を引き受けるのはこれが初めてで、自社にない訪問販売という業態を取り込めば、新しい顧客の獲得と品ぞろえの充実の両面で効果があると見込んだ。1987年9月に管財人代理としてリッカーに乗り込み再建を指揮したのは、ヤマハの元社長でダイエー副社長の河島博氏だった。
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [17]ダイエーが通産省の強い要請を受けて全面支援に乗り出したのは1987年2月
- [18]主力のミシンの製造販売は斜陽産業で、不動産売却などによる債務の弁済だけならともかく事業の再建は難しいとの見方がほとんどだった
- [19]1987年2月までに優秀な人材がかなり流出しており、再建を疑問視する見方が強かった
- [20]中内功氏にとってリッカーは倒産企業の再建を請け負う初めての経験で、訪問販売を手掛けるリッカーを傘下に入れ顧客開拓や品ぞろえの相乗効果を期待した
- [21]ヤマハの社長を務めた経験がありダイエー副社長だった河島博氏がリッカー再建の表舞台に立ったのは1987年9月、管財人代理に就任した
国内ミシン生産で大きなシェアを握っていた生産部門は当時すでに解体に近く、中心となる技術者も多くが去り、設備の面でも他社に勝るところはなかった。そうした状況で河島氏は、人と資金が限られるなかで何ができるかを部長級の検討委員会に洗い出させ、顧客情報の活用、商品の企画開発、販売体制の構築、販売手法の開発、経営管理制度の構築の五つを柱に掲げて、本業であるミシンづくりから本当に手を引くのか、引くなら何を新たな軸にするのかを幹部に迫った。最後に河島氏はメーカーとしての立て直しを断念し、訪問販売の支店網の生かし方に再建の的を絞った。
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [22]国内のミシン生産で高いシェアを握っていたリッカーの生産部門はほぼ解体されていた
- [23]中核となる技術者がほとんど流出し、製造設備でも他社を上回るものがなかった
- [24]河島氏は管財人代理に就任後、リッカーの限られた経営資源で何ができるかの検討を始め、部長を中心に構成する検討委員会を設置した
- [25]顧客情報活用委員会・商品企画開発委員会・販売体制構築委員会・販売手法開発委員会・経営管理制度構築委員会の五つを設け、ミシン製造という本業を捨てて良いのか、何を核となる事業にするのかなど幹部社員の生の声を吸い上げた
- [26]製造業としての復活は不可能とみて、再建の方向を訪問販売のための支店をどのように利用するかに絞った
1987年11月に認可された更生計画は、5年後の1992年1〜12月に売上高199億円を掲げた。更生開始が決まった1985年2月19日から1987年6月末までの平均年間売上高は145億円で、5年間で4割近い増収を見込んだ計算になる。同時に、売上高の69%に達していた販売管理費を初年度に67%、1992年に59%まで引き下げる目標を置いた。手元に残っていたのは、最盛期に全国400カ所あった支店のうちの270カ所以上と、ミシンの販売を委託する契約販売員1800人だった。架空売上の陰で売れ残った家庭用ミシンを処分して換金した金が、販売網に乗せる商品の購入と給与の支払いを支えた。
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [27]1987年11月に認可された更生計画には5年後の1992年1〜12月に199億円の売上高を目指すとある
- [28]更生開始が決まった1985年2月19日から1987年6月末までの平均年間売上高は145億円で、5年間で4割近い増収を見込んでいた
- [29]売上高の69%に達していた販売管理費を初年度に67%、5年後の1992年には59%に引き下げる方針を打ち出した
- [30]最盛期には全国400カ所に展開していた支店はまだ270カ所以上が残り、ミシンの販売を委託していた契約販売員も1800人が在籍していた
- [31]会社ぐるみの架空売り上げ計上事件の陰で売れ残った家庭用ミシンの不良在庫を処分し換金することが貴重な資金源となり、この資金がなければ販売網に乗せる商品の購入や従業員への給与の支払いも滞りかねなかった
参考文献[17]-[31]
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [17]ダイエーが通産省の強い要請を受けて全面支援に乗り出したのは1987年2月
- [18]主力のミシンの製造販売は斜陽産業で、不動産売却などによる債務の弁済だけならともかく事業の再建は難しいとの見方がほとんどだった
- [19]1987年2月までに優秀な人材がかなり流出しており、再建を疑問視する見方が強かった
- [20]中内功氏にとってリッカーは倒産企業の再建を請け負う初めての経験で、訪問販売を手掛けるリッカーを傘下に入れ顧客開拓や品ぞろえの相乗効果を期待した
- [21]ヤマハの社長を務めた経験がありダイエー副社長だった河島博氏がリッカー再建の表舞台に立ったのは1987年9月、管財人代理に就任した
- [22]国内のミシン生産で高いシェアを握っていたリッカーの生産部門はほぼ解体されていた
- [23]中核となる技術者がほとんど流出し、製造設備でも他社を上回るものがなかった
- [24]河島氏は管財人代理に就任後、リッカーの限られた経営資源で何ができるかの検討を始め、部長を中心に構成する検討委員会を設置した
- [25]顧客情報活用委員会・商品企画開発委員会・販売体制構築委員会・販売手法開発委員会・経営管理制度構築委員会の五つを設け、ミシン製造という本業を捨てて良いのか、何を核となる事業にするのかなど幹部社員の生の声を吸い上げた
- [26]製造業としての復活は不可能とみて、再建の方向を訪問販売のための支店をどのように利用するかに絞った
- [27]1987年11月に認可された更生計画には5年後の1992年1〜12月に199億円の売上高を目指すとある
- [28]更生開始が決まった1985年2月19日から1987年6月末までの平均年間売上高は145億円で、5年間で4割近い増収を見込んでいた
- [29]売上高の69%に達していた販売管理費を初年度に67%、5年後の1992年には59%に引き下げる方針を打ち出した
- [30]最盛期には全国400カ所に展開していた支店はまだ270カ所以上が残り、ミシンの販売を委託していた契約販売員も1800人が在籍していた
- [31]会社ぐるみの架空売り上げ計上事件の陰で売れ残った家庭用ミシンの不良在庫を処分し換金することが貴重な資金源となり、この資金がなければ販売網に乗せる商品の購入や従業員への給与の支払いも滞りかねなかった
1988年〜支店271店を91店に縮小した5年と更生手続の終了
従業員は1987年11月には727人まで減っていた。20代後半から30代の中堅層の大半が転職し、平均年齢は47〜48歳に達していた。リッカーには体系的な管理の仕組みがなく、支店の朝礼では販売員が儀礼的に挨拶したうえでノルマの数字をなんとなく申告するだけだった。利益も支店単位で大ざっぱに捉えられていたにすぎない。この訪問販売部門の管理を引き受けたのは内野喬氏で、横地氏が管財人を務めていた1985年7月にダイエーから出向してきていた。内野氏は目標を商品別・個人別に定めて達成度を本社で管理する方式を入れ、支店の在庫と損益の管理にも手を加えた。
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [32]従業員数は1987年11月段階で727人に減少し、20代後半から30代の社員はほとんど転職して平均年齢は47〜48歳と高齢化が進んでいた
- [33]リッカーには当時、体系的な管理システムがなく、各支店の朝礼で販売員は形ばかりのあいさつをして適当にノルマを申告し、利益は支店ごとにおおざっぱにつかんでいるだけだった
- [34]訪販部門の管理は、横地管財人時代の1985年7月にダイエーからリッカーに出向していた内野喬氏が担当した
- [35]内野氏は商品別・個人別のきめ細かい管理を導入し、個々の販売員の目標設定と達成状況の本社管理、支店ごとの在庫管理や損益管理に力を入れた
ミシンはすでに大半の家庭にあって先々の伸びは期待しにくいとして、販売の主軸は家電や浴槽などへ移されたが、販売員が心得ていたのはミシンの売り方だけで、成績はかえって振るわなかった。赤字から抜け出せない店は統廃合し、1987年11月に271店だった支店は91店まで減った。訪問販売の中心には得意の家庭用ミシンを据え直し、製品は台湾メーカーからのOEM調達に改めた。支店の社員は504人から271人へ、契約販売員は1800人から436人へ減ったが、不正を働いた社員を除いて解雇による人員削減はせず、肩たたきもしなかった。更生計画の認可の翌年、1988年12月期から利益が黒字に転じた。
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [36]ほとんどの家庭に普及したミシンでは将来性が乏しいと判断し、家電製品や浴槽など他の商品の販売に重点を移そうとした
- [37]販売員は昔から手掛けてきたミシンの売り方なら熟知しているが他の商品の販売ノウハウがないため、営業成績は思うように伸びなかった
- [38]計数管理を厳しくしても黒字化しない不採算店は統廃合を進め、1987年11月に271店あった支店は91店に絞り込まれた
- [39]訪販の主力商品を得意分野の家庭用ミシンに戻し、製品は台湾メーカーからOEMで供給してもらうよう事業方針を手直しした
- [40]支店の社員数は504人から271人へほぼ半減し、契約販売員は1800人から436人へ減ったが、不正を働いた社員を別として解雇による人員削減はせず、肩たたきもしていない
- [41]更生計画が裁判所に認可された翌年の1988年12月期から利益の面で黒字化した
女性の就労が進んで昼間に人のいない家庭が増え、販売員の新規採用も難しくなっていた。そのため河島氏は、訪問販売に依存し続けても大きく伸びる見込みはないとみた。河島氏は中内氏に直接交渉し、ダイエーが手がけていた折込チラシの通信販売をリッカーへ移させた。1988年7月、尾崎正氏らダイエーの社員20人がまず関連会社へ出向し、1989年4月にリッカーへ移籍して、カタログ雑誌による住宅関連雑貨などの通信販売を始めた。債務の5割強は切り捨てられたが、弁済は当初の計画のとおり5年間でやり遂げ、東京地裁の更生手続は1993年3月1日に終結した。1993年3月期の売上高は330億円だった。従業員は倒産時の1,987人から465人に減り、一人当たり売上高は2倍を超える7,000万円に増えた。
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [42]河島氏は女性の就労率が増加して昼間は留守の家庭が多くなってきたことや販売員の新規採用が難しい点などから、既存の訪販事業に頼っていては大きな成長を望めないと判断した
- [43]河島氏は中内氏に直談判し、ダイエーが当時手掛けていた折り込みチラシによる通信販売事業をリッカーで引き受けることを認めさせた
- [44]1988年7月に尾崎正氏など20人のダイエー社員がリッカーの関連会社に出向し、翌年4月には正式にリッカーに移籍してカタログ雑誌による住宅関連雑貨などの通販事業を開始した
- [45]5割強カットされたとはいえ当初予定した通り5年間で債務を完済した
- [46]1993年3月1日にリッカーの更生手続きが終了し、東京・銀座のリッカー本社で更生終了を祝うパーティーが開かれた
- [47]1993年3月期の売上高は330億円、従業員数は倒産当時の1,987人から465人に減り、一人当たり売上高は7,000万円と2倍以上に増えている
参考文献[32]-[47]
- 日経ビジネス 1993年5月17日号
- [32]従業員数は1987年11月段階で727人に減少し、20代後半から30代の社員はほとんど転職して平均年齢は47〜48歳と高齢化が進んでいた
- [33]リッカーには当時、体系的な管理システムがなく、各支店の朝礼で販売員は形ばかりのあいさつをして適当にノルマを申告し、利益は支店ごとにおおざっぱにつかんでいるだけだった
- [34]訪販部門の管理は、横地管財人時代の1985年7月にダイエーからリッカーに出向していた内野喬氏が担当した
- [35]内野氏は商品別・個人別のきめ細かい管理を導入し、個々の販売員の目標設定と達成状況の本社管理、支店ごとの在庫管理や損益管理に力を入れた
- [36]ほとんどの家庭に普及したミシンでは将来性が乏しいと判断し、家電製品や浴槽など他の商品の販売に重点を移そうとした
- [37]販売員は昔から手掛けてきたミシンの売り方なら熟知しているが他の商品の販売ノウハウがないため、営業成績は思うように伸びなかった
- [38]計数管理を厳しくしても黒字化しない不採算店は統廃合を進め、1987年11月に271店あった支店は91店に絞り込まれた
- [39]訪販の主力商品を得意分野の家庭用ミシンに戻し、製品は台湾メーカーからOEMで供給してもらうよう事業方針を手直しした
- [40]支店の社員数は504人から271人へほぼ半減し、契約販売員は1800人から436人へ減ったが、不正を働いた社員を別として解雇による人員削減はせず、肩たたきもしていない
- [41]更生計画が裁判所に認可された翌年の1988年12月期から利益の面で黒字化した
- [42]河島氏は女性の就労率が増加して昼間は留守の家庭が多くなってきたことや販売員の新規採用が難しい点などから、既存の訪販事業に頼っていては大きな成長を望めないと判断した
- [43]河島氏は中内氏に直談判し、ダイエーが当時手掛けていた折り込みチラシによる通信販売事業をリッカーで引き受けることを認めさせた
- [44]1988年7月に尾崎正氏など20人のダイエー社員がリッカーの関連会社に出向し、翌年4月には正式にリッカーに移籍してカタログ雑誌による住宅関連雑貨などの通販事業を開始した
- [45]5割強カットされたとはいえ当初予定した通り5年間で債務を完済した
- [46]1993年3月1日にリッカーの更生手続きが終了し、東京・銀座のリッカー本社で更生終了を祝うパーティーが開かれた
- [47]1993年3月期の売上高は330億円、従業員数は倒産当時の1,987人から465人に減り、一人当たり売上高は7,000万円と2倍以上に増えている
出典・参考
2件
- 日経ビジネス 1985年10月28日号
- 日経ビジネス 1993年5月17日号