靴のマルトミ:靴流通センターとBANBANによる全国展開
1982年〜1350万円で建てて年商1億円を取る店を量産する
1979年の実験店から3年、マルトミは靴流通センターの量産に踏み切った。1982年と1983年にそれぞれ40店、1984年に160店、1985年には207店を出している。1986年度もこの速度を保てば250店になる見込みで、年内に総店舗数は750店へ達する計算だった。売上高は1985年2月期の270億円から1986年2月期の421億円へ伸び、1987年2月期は620億円に達すると富永光行氏は見ていた。当面の目標は1988年度の1000店・1000億円体制に置かれている。実際に1987年2月までの1年間の出店数は253店とピークに達し、総店舗数は798店になった。
- ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
- [1]1979年の実験店から3年間実験を重ねてノウハウを蓄えた
- [2]1982年と1983年にそれぞれ40店、1984年に160店、1985年に207店を出店した
- [3]1986年度も同じ出店ペースを維持すれば250店になる予定で、年内に総店舗数は750店になる見込みだった
- [4]売上高は1985年2月期270億円、1986年2月期421億円で、1987年2月期は620億円に達する見込みだった
- [5]当面の目標である1000店・1000億円体制は1988年度に達成されると見ていた
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [6]1987年2月までの1年間の出店数が253店とピークに達し、総店舗数は798店になった
靴流通センターの最大の特徴は、1店を開設するのに要する金額の小ささにあった。300坪の土地を借りて100坪の売場と200坪の駐車場を置き、保証金が約1000万円、店舗什器と造作・看板などで約350万円、合わせて1350万円程度で1店が開く。郊外店の1店当たりの年間売上高は1億円前後で、この投資額ならディスカウント方式でも十分に採算が取れた。都心のファッションビルは坪当たり200万円前後が相場で、20坪を借りれば4000万円、造作を入れれば6000万円に達する。大量仕入れと大規模なチェーン展開による低価格という売り物は、郊外の地価が安く低いコストで店を建てられることに支えられていた。都心の1店を見送れば郊外に4店が開く勘定であり、資金の制約が立地の選択をあらかじめ決めていた。
- ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
- [7]靴流通センターの最大の特徴はローコスト出店が可能な点だった
- [8]300坪の土地に100坪の売場と200坪の駐車場を併設して賃借し、保証金約1000万円、店舗什器・造作・看板等で約350万円、合計1350万円程度で出店できた
- [9]郊外店の1店当たり売上高は年間1億円前後で投資効率がよく、ディスカウント方式でも十分にやれた
- [10]都心のファッションビルは坪200万円前後が相場で、20坪を借りると4000万円、造作等を入れると6000万円になった
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [11]大量仕入れと大規模なチェーン展開による低価格と品ぞろえの豊富さを売り物にした
- 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
- [12]郊外は地価が安く低コストで店舗を建てられた
富永光行氏は小売業を時代対応業と呼び、時流を先取りする商人の才覚を欠けば生き残れないと考えた。店舗が800に迫っても、1店の運営は2〜3人の社員に任されていた。店ごとに見れば零細企業と変わらず、サラリーマンのような社員では務まらないというのが同氏の見方である。社員教育で真っ先に求めたのは現状を否定することだった。昨日と同じなら明日も同じだと決めてかかる固定観念が、企業の成長を止めると考えたからである。事業部体制のもとで権限と責任を各部に任せ、給料を払うのは社長ではなく客であり、自分の生活は自分で勝ち取れと説いて、独立独歩の気風を根づかせた。店を任せられる人間を社内で作るこの方針は、1987年3月に始まる独算制オーナーシステムへそのままつながった。
- ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
- [13]小売業を時代対応業と呼び、常に先取りする商人としての才覚がなければ生き残れないとした
- [14]売上を生み出す店舗はわずか2〜3人の社員で切り回していた
- [15]店舗単位でみれば零細企業並みであり、サラリーマン的な社員では困ると考えた
- [16]社員にまず現状否定を求め、昨日がこうだから明日もそうだという既成概念が企業の伸びを止めると考えた
- [17]事業部体制を採り、権限も責任も任せるところは全面的に任せた
- [18]自分の生活は自分で勝ちとれ、給料は社長でなく客から出るという言い方で独立独歩の精神を植えつけた
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [19]1987年3月から直営店を独算制オーナーシステムへ切り替えた
参考文献[1]-[19]
- ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
- [1]1979年の実験店から3年間実験を重ねてノウハウを蓄えた
- [2]1982年と1983年にそれぞれ40店、1984年に160店、1985年に207店を出店した
- [3]1986年度も同じ出店ペースを維持すれば250店になる予定で、年内に総店舗数は750店になる見込みだった
- [4]売上高は1985年2月期270億円、1986年2月期421億円で、1987年2月期は620億円に達する見込みだった
- [5]当面の目標である1000店・1000億円体制は1988年度に達成されると見ていた
- [7]靴流通センターの最大の特徴はローコスト出店が可能な点だった
- [8]300坪の土地に100坪の売場と200坪の駐車場を併設して賃借し、保証金約1000万円、店舗什器・造作・看板等で約350万円、合計1350万円程度で出店できた
- [9]郊外店の1店当たり売上高は年間1億円前後で投資効率がよく、ディスカウント方式でも十分にやれた
- [10]都心のファッションビルは坪200万円前後が相場で、20坪を借りると4000万円、造作等を入れると6000万円になった
- [13]小売業を時代対応業と呼び、常に先取りする商人としての才覚がなければ生き残れないとした
- [14]売上を生み出す店舗はわずか2〜3人の社員で切り回していた
- [15]店舗単位でみれば零細企業並みであり、サラリーマン的な社員では困ると考えた
- [16]社員にまず現状否定を求め、昨日がこうだから明日もそうだという既成概念が企業の伸びを止めると考えた
- [17]事業部体制を採り、権限も責任も任せるところは全面的に任せた
- [18]自分の生活は自分で勝ちとれ、給料は社長でなく客から出るという言い方で独立独歩の精神を植えつけた
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [6]1987年2月までの1年間の出店数が253店とピークに達し、総店舗数は798店になった
- [11]大量仕入れと大規模なチェーン展開による低価格と品ぞろえの豊富さを売り物にした
- [19]1987年3月から直営店を独算制オーナーシステムへ切り替えた
- 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
- [12]郊外は地価が安く低コストで店舗を建てられた
1987年〜人口10万人を1店の商圏と読み、飽和に突き当たる
"靴流通センター"は出店した地域の名前を冠した店名で、郊外の幹線道路沿いに次々と並んだ。売りにしたのは、大規模なチェーン展開と大量仕入れによって実現した価格の安さ、そして品ぞろえの豊富さである。出店の勢いは1987年2月までの1年間で253店に達してピークを迎え、総店舗数は798店になった。1989年4月20日の時点では、靴流通センター564店を中心に、玩具や新興工業経済群からの輸入品を扱う郊外型店舗を合わせて883店を数えている。競合はチヨダ靴店で、1989年1月期に949店を展開している。郊外型の靴小売チェーンはこの2社だけで1200店を超えていた。専門店のシェアは小売業200社調査で1978年度の6.1%から1989年度の12.9%へ倍増し、同じ期間にスーパーは51.2%から48%へ、百貨店は38.4%から32.8%へ低下している。
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [20]地名を冠した「靴流通センター」を郊外幹線道路沿いに出店し、大量仕入れと大規模チェーン展開による低価格と品ぞろえを売り物にした
- [21]1987年2月までの1年間の出店数が253店とピークに達し、総店舗数は798店になった
- [22]1989年4月20日時点で靴流通センター564店を主力に合計883店を展開していた
- [23]競合のチヨダ靴店は1989年1月期に949店を展開していた
- [24]郊外型の靴小売チェーンはマルトミとチヨダの2社だけで1200店を超えた
- 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
- [25]専門店のシェアは1978年度6.1%から1989年度12.9%へ倍増し、スーパーは51.2%から48%、百貨店は38.4%から32.8%へ低下した
売上も利益も伸びが鈍ってきたという実感が、富永光行社長に打開策を探させた。人件費がかさみ競争も過熱して利益が伸びにくくなったと感じた同社長は、いずれの株式上場も視野に入れつつ、増収増益への道を探った。店舗網の面では、マルトミは靴流通センター1店の商圏を人口10万人とみており、日本の人口から割り出すと店舗数は飽和に近づいていたうえ、1店舗当たりの売上高も1987年2月期まで7900万円前後にとどまっていた。発想の底にあったのは、家内と二人で商いをしていたころは面白いほど儲かったという創業期の記憶である。
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [26]売り上げ・利益ともに思うように上がらなくなってきたという実感が打開策を求めさせた
- [27]人件費増と過当競争で儲からなくなり、将来の株式上場もにらんで増収増益を図る方策を考えた
- [28]人口10万人を靴流通センター1店の商圏と読み、日本の人口から算出すると店舗数はほぼ飽和状態だった
- [29]1店舗当たりの売上高は1987年2月期まで7900万円程度で沈滞していた
- [30]創業期に家内と二人でやっていた頃は儲かって仕方がなかったという記憶が発想の出発点にあった
参考文献[20]-[30]
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [20]地名を冠した「靴流通センター」を郊外幹線道路沿いに出店し、大量仕入れと大規模チェーン展開による低価格と品ぞろえを売り物にした
- [21]1987年2月までの1年間の出店数が253店とピークに達し、総店舗数は798店になった
- [22]1989年4月20日時点で靴流通センター564店を主力に合計883店を展開していた
- [23]競合のチヨダ靴店は1989年1月期に949店を展開していた
- [24]郊外型の靴小売チェーンはマルトミとチヨダの2社だけで1200店を超えた
- [26]売り上げ・利益ともに思うように上がらなくなってきたという実感が打開策を求めさせた
- [27]人件費増と過当競争で儲からなくなり、将来の株式上場もにらんで増収増益を図る方策を考えた
- [28]人口10万人を靴流通センター1店の商圏と読み、日本の人口から算出すると店舗数はほぼ飽和状態だった
- [29]1店舗当たりの売上高は1987年2月期まで7900万円程度で沈滞していた
- [30]創業期に家内と二人でやっていた頃は儲かって仕方がなかったという記憶が発想の出発点にあった
- 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
- [25]専門店のシェアは1978年度6.1%から1989年度12.9%へ倍増し、スーパーは51.2%から48%、百貨店は38.4%から32.8%へ低下した
1989年〜粗利の75%を店長に渡し、玩具にも参入する
直営店の運営を店長に委ねるオーナーシステムは、店舗・什器・商品をマルトミが所有したまま、オーナーの肩書を持つ経営者に販売を任せる形をとり、直営店ともフランチャイズ店とも違っていた。一般のフランチャイズと比べると、オーナーが土地や建物を用意しなくてよい点が異なる。マルトミがこの独立採算制への切り替えに着手したのは1987年3月である。富永光行社長の考えでは、店を丸ごと貸して店長に任せれば、店員は自社の社員ではなくなり、週休二日や勤務時間の制約を会社が抱える必要もなくなる。末端の店を経営から切り離すことがその目的だった。各店舗の粗利益の75%が販売手数料として毎月オーナーに支払われ、そこから家賃・光熱費・人件費を引いた残りがオーナーの収入になる。価格の決定権は本部が持ち、値札を付けた商品を各店舗へ配送した。本部が受け取るのは粗利の25%にノウハウ料を加えた売上の約1割で、本部の管理費を売上の5%と見込めば差の5%が確実に利益になる勘定だった。
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [31]店舗・什器・商品はマルトミの所有のまま、オーナーが販売を請け負う販売委託店で、直営店でもフランチャイズ店でもない
- [33]1987年3月から直営店を独算制オーナーシステムへ切り替えた
- [34]末端を切り離して店ぐるみ貸せば、店員が自社の従業員でなくなり週休2日制や労働時間の問題からも解放されると考えた
- [35]粗利益の75%が販売手数料として毎月オーナーに支払われ、家賃・光熱費・人件費を差し引いた残りがオーナーの収入になる
- [36]価格決定権は本部が持ち、値札を付けた商品を各店舗に配送した
- [37]本部が得るのは粗利25%とノウハウ料を合わせた売上の約10%で、管理費を売上の5%と見込めば5%が本部の利益になる
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- [32]土地や建物をオーナーが供給しなくてよい点が通常のフランチャイズと異なる
1987年初頭に構想を社員へ示すと300人近くが手を挙げ、全部は無理なので少し待てと止めたほどだった。1989年4月20日時点で全883店のうち546店、全体の62%がこの制度で動き、オーナーの約5分の4を当時の社員が占めている。1店舗当たりの売上高は1989年2月期に8830万円へ増え、1店舗当たりの経常利益は131万円から282万円へ115%増えた。同業のチヨダ靴店は人材の柔軟な活用を理由に9割以上を直営に保ち、オーナーシステムには売上や利益を伸ばす即効性はあると思う、という言い方でマルトミを評した。
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [38]1987年初頭に構想を社員へ示すと300人近くが手を挙げた
- [39]1989年4月20日時点で全883店のうち546店(62%)がオーナーシステムで運営され、オーナーの約5分の4を当時の社員が占めた
- [40]1店舗当たり売上高は1989年2月期に8830万円、1店舗当たり経常利益は131万円から282万円へ115%増えた
- [41]チヨダ靴店は人材の柔軟な活用を理由に9割以上を直営とし、オーナーシステムには即効性はあると評した
1985年、マルトミは靴に次ぐ軸として郊外型のがん具店チェーン"BANBAN"を始めた。ロードサイドへの出店と多店舗管理のやり方を持ち込んだ業態で、玩具のほかに新興工業経済群からの輸入商品も扱っている。1990年1月には名古屋証券取引所第2部へ株式を上場した。ところが1991年11月、世界最大のがん具専門店チェーンである米トイザラスが日本に第1号店を開店し、1993年12月までの2年間で16店を出す。売り場面積3000〜4000平方メートルと低価格の破壊力は大きく、中小のがん具店から転廃業する店が続出した。チヨダ靴店とマルトミという大手安売りがん具チェーンも値引き幅の拡大で対抗し、1993年の年末には定価を守っていた百貨店まで玩具の値引き販売に追い込まれている。
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- [42]1985年にがん具店チェーンを開店した
- [44]1990年に名古屋証券取引所第2部へ上場した
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [43]玩具や新興工業経済群からの輸入商品を販売する郊外型店舗を展開した
- 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
- [45]米トイザラスが1991年11月に日本第1号店を開き、1993年12月までの2年間で16店を出店した
- [46]売り場面積3000〜4000平方メートルと低価格で中小がん具店から転廃業が続出した
- [47]チヨダとマルトミが値引き幅を拡大して対抗し、1993年末には百貨店まで玩具の値引き販売に追い込まれた
参考文献[31]-[47]
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [31]店舗・什器・商品はマルトミの所有のまま、オーナーが販売を請け負う販売委託店で、直営店でもフランチャイズ店でもない
- [33]1987年3月から直営店を独算制オーナーシステムへ切り替えた
- [34]末端を切り離して店ぐるみ貸せば、店員が自社の従業員でなくなり週休2日制や労働時間の問題からも解放されると考えた
- [35]粗利益の75%が販売手数料として毎月オーナーに支払われ、家賃・光熱費・人件費を差し引いた残りがオーナーの収入になる
- [36]価格決定権は本部が持ち、値札を付けた商品を各店舗に配送した
- [37]本部が得るのは粗利25%とノウハウ料を合わせた売上の約10%で、管理費を売上の5%と見込めば5%が本部の利益になる
- [38]1987年初頭に構想を社員へ示すと300人近くが手を挙げた
- [39]1989年4月20日時点で全883店のうち546店(62%)がオーナーシステムで運営され、オーナーの約5分の4を当時の社員が占めた
- [40]1店舗当たり売上高は1989年2月期に8830万円、1店舗当たり経常利益は131万円から282万円へ115%増えた
- [41]チヨダ靴店は人材の柔軟な活用を理由に9割以上を直営とし、オーナーシステムには即効性はあると評した
- [43]玩具や新興工業経済群からの輸入商品を販売する郊外型店舗を展開した
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- [32]土地や建物をオーナーが供給しなくてよい点が通常のフランチャイズと異なる
- [42]1985年にがん具店チェーンを開店した
- [44]1990年に名古屋証券取引所第2部へ上場した
- 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
- [45]米トイザラスが1991年11月に日本第1号店を開き、1993年12月までの2年間で16店を出店した
- [46]売り場面積3000〜4000平方メートルと低価格で中小がん具店から転廃業が続出した
- [47]チヨダとマルトミが値引き幅を拡大して対抗し、1993年末には百貨店まで玩具の値引き販売に追い込まれた
筆者考察
靴流通センターが年に200店という速度で増えたのは、1店を建てるのに1350万円しか要らなかったからである。300坪の土地を借りて100坪の売場と200坪の駐車場を置き、保証金1000万円と造作350万円で開く店は、年間1億円前後を売った。同じ時期の都心のファッションビルは坪当たり200万円が相場で、20坪の店に造作まで入れれば6000万円に達する。マルトミは都心に1店を構える資金で郊外に4店を開設し、その差をそのまま出店数へ替えた。1982年に40店、1984年に160店、1985年に207店という数字は、営業力でも商品力でもなく、1店当たりの投資額が小さいことの結果である。
速度で増やした店舗網は、速度では解けない天井に当たる。富永光行氏は人口10万人を靴流通センター1店の商圏と読んでおり、日本の人口から逆算すれば全国で1200店が上限だった。同業のチヨダ靴店と合わせて1200店を超えた1980年代後半、1店当たりの売上高は7900万円で沈滞している。店を増やせなくなったとき、富永氏が動かしたのは店の数ではなく店の持ち主だった。1987年3月に始めた独算制オーナーシステムは、粗利益の75%を店の経営者となったオーナーへ渡し、本部の取り分を売上の約1割に固定する仕組みである。1店当たりの経常利益は131万円から282万円へ増えた。増やせないなら1店の効率を上げるという順序だった。
- 単体。1983年2月期から1987年2月期はショッピングセンター 1986年8月号、1989年2月期以降は会社四季報による。
1981年〜1993年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1981年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1982年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1983年02月期 | n/a | 121 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1984年02月期 | n/a | 160 | +32.2% | n/a | n/a | n/a |
| 1985年02月期 | n/a | 270 | +68.8% | n/a | n/a | n/a |
| 1986年02月期 | n/a | 440 | +63.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1987年02月期 | n/a | 650 | +47.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1988年02月期 | n/a | 820 | +26.2% | n/a | n/a | n/a |
| 1989年02月期 | n/a | 767 | ▲6.5% | 8 | 1.2% | n/a |
| 1990年02月期 | n/a | 889 | +15.9% | 11 | 1.3% | n/a |
| 1991年02月期 | n/a | 1,064 | +19.7% | 12 | 1.2% | n/a |
| 1992年02月期 | n/a | 1,300 | +22.2% | 20 | 1.6% | n/a |
| 1993年02月期 | n/a | 1,547 | +19.0% | 28 | 1.8% | n/a |
出所:ショッピングセンター、会社四季報
出典・参考
4件
- 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
- ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- 日経ビジネス 1994年3月14日号